BST-072

0.

 危ないって言う声が、まだ頭の中に響いてる。
 猫だったと思う。確かまだらのブチ猫で、ふらふらと車道に出て行った猫を追いかけたはず。
あの時はDランクへのランクアップオーディションの前で、毎日毎日トレーニングと営業とオーディションで、何でアイドルなんかになっちゃったんだろう、とか思ってた気がする。
 猫って自由じゃない。だから、その時のミキはその自由な猫に憧れたのかもね。
 その時一緒にいたプロデューサーに何を言われたかは覚えてない。多分あの衝撃の方が強くて、きっと忘れちゃったんだと思う。
でもプロデューサーのことだから、きっと仕事がらみの話だったに違いないの。
もっとちゃんと聞いておけばよかったって、今はほんとにそう思ってる。
 疲れてもいたんだと思うけど、猫ばっかり見てて近づいてくるトレーラーに全然気がつかなかった。
いきなりクラクションを鳴らされて、全然反応できなかった。
体が強張って、でも動く首だけを向けたら嫌に明るいライトが2つものすごい勢いで近づいてきた。
死んじゃう、なんて思っている余裕すらなかった。何も考えられなかった。頭が真っ白になるってああいう事を言うのかもね。
 プロデューサーがミキの手を引っ張った時のことは、まだ思い出せない。
思い出したくないのかもしれない。
 でも、その時の危ないって言う声が、まだ頭の中に響いてる。



1.

―――脳圧正常上昇。記憶野との連動完了。ニューロン回路初期化成功。調整液の脳内循環確認完了。
―――骨格の磁気化完了。電磁パルスオン。モーター動作確認。バッテリー充填完了、予測行動制限時間86時間。
―――鼓膜コイル動作終了、初期化。頭部システム起動成功。

 山間部にある961プロ傘下の秘密研究所では、現在世紀の起動実験が行われている。
 ロボットである。
が、ぱっと見にはそうは見えない。表面を覆う人工ゴムは医学的にも使用されている人工皮膚で、完璧な人工工学に基づいて配置された汗腺は外の温度を敏感に察知して、まるで本物の人間と変わらない発汗のメカニズムで適切に人工臓器をはじめとした体内の精密機器を過熱から保護して見せる設計だ。

―――体内循環液の最適化完了。PHバランス調整完了。循環システム起動成功、循環開始。
―――マニュピレートシステム起動確認、ブートシステムオールオン。人工脳起動。重心バランスジャイロ振動開始。

 横たわるロボットのそばにあるモニターが、ロボットのモーターから発せられる心音を拾う。
時折計器を振り切るほどに心拍が大きくなるが、これは体内に6つある副モーターが主モーターから送られてきた人工血液にケツを蹴られて起動する合図である。
 ロボットの横に立つ白衣姿の研究者たちは、固唾をのんで自らの設計が成功する瞬間を見つめている。

―――バランスジャイロ振動測定完了、現在の体位を測定完了。仰臥位と認識。
―――視覚との適合診断のため、眼球カメラ動作開始。人工筋肉の酸素充填確認、

 起動。

 うっすらと、本当にゆっくりとロボットは目を開ける。
あらかじめ入力されていたパイプだらけの研究所とアイカメラから得られた情報を照合し、矛盾がないことを確認してジャイロの確認を終了する。
今後の再起動時には、メインメモリに最後に格納された視覚情報とジャイロの測定を照らし合わせて初期化する設定だ。
 ロボットは素っ裸である。人工皮膚から得られる外気情報はセ氏23度であり、発汗や振動を行うことで臓器を守る必要がないことを確認すると、ロボットは緩慢な動きで右腕を天井に上げ、手を握ったり開いたりする。
右手の動作に遅延が見られたためだ。入力された初期値からは磁化神経の伝達速度が6ナノ秒遅れている。
周りから起きたどよめきなど意に介さず、数回のグーパー運動で右手を構成しているマニュピレータの初期化を完了させる。
「―――やあ、気分はどうだい?」
 右腕を下したことを確認すると、一人の研究者がロボットに声をかける。
ロボットはわずかなモーター音とともに首を動かし、声をかけてきた白衣をアイカメラに捕らえる。
にこやかに笑う研究者にまるで本物の人間のような笑顔を返し、ロボットは口を開いた。
「―――初期化、起動トモニ成功シマシタ、ユーザー」
「…言語システムにまだ難があったかな、まあそれは後で直そう。君の名前はわかるかい?」
 研究者の後ろで壮絶な擦りつけ合いが始まっている。
いや違うって俺じゃないって、言語のシステム担当してたの遠藤じゃん、お前ふざけんなよ、拡声器のシステム検証したの渡部じゃん、えーあたしにくるの、調音のスタビライザ調整してたの加持君でしょー!?
 どいつもこいつも浮かれ上がっている。何せここにいるメンツはそろってこの3日間ろくに寝ていない。
ロボットの調整は難航を極め、それでもなお起動したロボットに現場の全員が喜んでいる。
音声システムの調整はハード依存でなければすぐに終わるとはいえ、この調子だと彼らが久しぶりの睡眠をとるのはまだ先になりそうだ。
 性能のよい人工鼓膜が震えている。研究室にあふれ出す雑多な声の中から向けられた質問だけを正確に聞きとり、ロボットはついに自分の識別名証を口にする。
「私ノ、名前ハ―――」



 「律子さんっ、これお願いします!」
 美希がそう言って持ってきたのはプリントだ。
おそらく学校の宿題なのだろうが、またか、という顔をして受け取った律子の表情には若干の辟易が見て取れる。
どうせ全部当たってる癖に――という表情はプリントを受け取っても変わることなく、律子は自前の知識とパソコンのモニターの手助けを借りて採点を行う。
 ここ2カ月ほどで律子は美希の家庭教師のような役回りになってしまった。あの野郎起きたら絶対一発ぶん殴ってやる、という心情を押し殺し、律子はものの10分もせずに2枚のプリントの採点を終了した。
「完璧よ。100点。文句無し」
「ありがと、律子さん。じゃあ、今日のトレーニングは――」
「え、待ってよもう行くの? この書類上げなきゃいけないから、もうちょっと待っててもらっていい?」
「もうちょっとってどのくらい?」
「そうね、あと10分くらい――」
「ミキ、先行ってるの。律子さんもすぐに来てね!」
 言うが早いか、美希は返されたプリントをファイルにしまってさっさと事務所を出て行ってしまった。
ああもう、という呟きとともに小鳥を見ると、小鳥は苦笑しながら頷いた。
 待ちやがれとばかりに律子もまた席を立つ。プロデューサーがああなって社長から直々に美希のプロデューサーを任されて以来、律子は体を休める暇もない。
今日のトレーニングはダンスで、ダンストレーニングは社屋から少し離れた外部の施設を利用していて、ということは予約が必要で、そして律子が予約した時間は今から行ったら早すぎる。
しかし、社屋から出ても律子の視界に美希の姿はない。ちょうど止まっていたバスに飛び乗ってしまったのだろうか。
あの子はまったくもう、と愚痴をこぼし、律子は懐を漁って携帯電話を取り出し、履歴の一番上にあるタクシー会社に今日の足を要請しにかかる。



 さて、事務所に残されたのは小鳥である。
わずか数分の間に竜巻の直撃でも受けたような様相だった事務室にはもう小鳥しかおらず、やれやれと苦笑を洩らして小鳥は美希と律子の外出許可証を捏造する。
と言ってもプリントアウトしてあった外出許可申請に判を押すだけで、ついでにと給湯室によって出がらしの茶を2杯入れる。湯呑の一つはひよこのイラスト入りであり、もう一つには友禅で「たかぎ」と書いてある湯のみをトレイに乗せ、小鳥は器用に社長室の扉をノックする。
開いているよ、という返事に遠慮なく戸を開けると、カレンダーにバツ印を付けている高木社長の後ろ姿が小鳥の目に飛び込んでくる。
「律子さんと美希ちゃんが外出です。今日はダンスのトレーニングだそうですよ」
「そうかね。…全く、この間Bランクに上がったばかりだというのに、精の出ることだ」
 安い作りの「社長」というプレートの置かれた事務机を無視して応接用のテーブルに湯呑を置くと、小鳥は遠慮もなくソファーに腰を下ろした。
社長もそれに何を思う風でもなく小鳥の向かいに座ると、ありがとうと言って出がらしを少しだけ飲む。
「定時連絡は、どうでした?」
「バツ印が増えただけだ」
 半ば予想していた答えに、小鳥はそうですかと感情なく返すとひよこの湯呑を傾ける。
と、小鳥の視界にガラス戸つきの本棚と、その中に大事そうに仕舞われている木造りの箱に気がついた。箱は二つあり、どちらも小鳥が持ってきた湯呑が丁度入る大きさである。
「仕舞っちゃったんですか」
「帰ってきたとき、割れていたら彼らも悲しむだろう。念の為だよ」
「…もう、どのくらいになりますかね」
 問いに、社長はゆっくりとカレンダーを見た。
本当はそんな事をしなくても分かっているくせに、まるで起きてしまったことをなかったことにしたかったかのような動作に、小鳥もまたカレンダーに視線を投げる。
「もう2ヵ月か。早いものだ」
 本当だ、と小鳥も思う。
 あれからもう2ヵ月も経ってしまった。あの日以来机を散らかしたまま外出してしまう不届き者は一度も出社していない。
「千早ちゃんは海外ですもんね。向こうでも元気でやってるんですよね?」
「ああ、昨日も電話が来たよ。第一声がプロデューサーは大丈夫ですか、と言うのも相変わらずだね」
 
 2ヵ月前、プロデューサーは美希を庇い、大型のトレーラーと接触した。
幸い命に別条はなかったが、吹っ飛ばされたプロデューサーを襲ったアスファルトはプロデューサーの意識を奪い去った。
それから間もなく美希とユニットを組んでいた千早は海外への武者修行を希望し、美希は単身律子を新しいプロデューサーに迎え、この2か月でDランクからBランクへと躍進を遂げている。
もっとも、躍進を遂げたのは美希だけではなく、先月発売された海外CDチャートでは千早の名前も上位に見ることができる。
事務所内は美希と千早の2人の売り上げにてんてこ舞いで、誰もがこの2か月は本当にあっという間に過ぎ去ってしまったと思っている。
 だが、本当にそうか、と聞かれれば、多くが否定するだろう。
 765プロデュース株式会社の時間は、2か月前のあの夜から一秒たりとも動いていない。

「…千早ちゃんもですけど、美希ちゃん大丈夫ですかね」
 カレンダーに視線を投げたまま、呟くように小鳥が口を開いた。むぅ、と社長もうなり、行き場に困った視線を懐に投げて煙草を取り出す。
「アイドル活動としては、間違いなく成功している部類だろうね」
 分かっているくせに。
 小鳥は開きかけた口を閉じて批判を封じ込めた。分かっているくせに、社長はその話題になかなか触れようとしない。
じれったくなって、小鳥は一度は閉じた口をもう一度開ける。
「律子さんも大変ですよ。そりゃ昔からプロデューサーになりたいとは言ってましたけど」
「それについては責めて貰うしかないね。しかし、秋月君が頑張ってくれているおかげで、美希君のモチベーションは高いままだ。私は高く評価しているよ」
 これだ。
 小鳥は溜め息をつく。
もっとも、こんな言葉が聞きたくて小鳥も重い口を開いたわけではないし、かと言って望む言葉が聞こえたからと言って状況が好転するわけでもない。
 事務員の立場としてどうかと思うが、律子だけでなく社長もよくやってくれている、と小鳥は思う。プロデューサーが入院している病院の手配も何から何まですべて社長が取り仕切ってくれていたし、情けないことに自分はその時青くなってガタガタ震えていただけなのでそれについては何も言えない。
 が、それ以降の美希の活動については律子に一任して以後特に目立って何もしないというのは流石にどうかと思う。
あの事故から、もう2ヶ月も経っているのだ。いい加減このままでいくとなあなあになりそうで、小鳥は遂に言葉を選んだ。
「…美希ちゃん可哀そう。頑張りすぎですよ、この間Bランクに上がったばっかりなのに」
「美希君は、―――その、変わったかね」
「自分が頑張ったらプロデューサーさんが目を覚ますって思ってるんですよきっと。見てて痛々しいですもん。ぱっと見は凄い元気ですけど」
 そうかね、と言い、社長はエアコンに向かって紫煙を吐き出す。
エアコンは勝手に煙を感知して起動してくれる優れもので、わずかな起動音で吐き出された副流煙をフィルター越しに外へと垂れ流していく。
「…だが、私たちにできる事は何もない。出来たとしても祈るくらいしかできん。違うかね?」
 ぐ、と小鳥は言葉に詰まる。
 その通りだし、小鳥の言葉は互いの傷をなめあう行為でしかないことも社長は知っている。
そんな事は小鳥自身分かっていて、分かっていながらどうしようもないことが世の中にはいくらでもあることをこの歳になって再び思い知らされることになろうとは小鳥自身思っていなかった。
 俯いてしまった小鳥を見、社長は再び煙草を咥えると、
「…私は、彼が必ず目を覚ますと信じている」
「そんなの、誰だってそうです」
 だが、それを誰よりも強く願っている人は私たちではない、と小鳥も思う。
誰よりも強く願っているその人は、そろそろダンストレーニングルームに到着してウォームアップを開始したはずだ。
「外出許可を受け取ろう。まだ仕事はあるのだろう、君も戻りたまえ」
 社長に2人分の外出許可証を渡すと、小鳥はゆっくりソファーから立ちあがる。
 社長の言葉通り、まだ小鳥にはいくらか仕事が残っている。『星井美希』のプロデュースのランクが上がるにつれて、日増しに増えていく仕事は小鳥にだべっている時間を多分に与えてくれるわけではない。
それに、少し救われている気も、する。
きっと、美希ちゃんもそうなんだろうな。
 一礼して扉を閉める時、「お茶ありがとう」という声が聞こえた。



 きっかり3時間のトレーニングルーム使用時間を使い切り、先にくたくたになってしまったのは律子の方だった。トシなのー、と無邪気に笑う美希に牙を見せながら二人で事務所への道を急ぐ。
もうすっかり日も落ちてしまっていて、特に目立った注意点もなく今日のスケジュールを消化し終えた二人を待っているのは事務所でのミーティングだ。
と言ってもミーティングする内容などあまりない。せいぜいが今週末に行われるオーディションに向けて体調管理に気をつけるように程度のことで、最近の美希の動きならオーディションの合格は疑いないと律子は思っている。
 つい3カ月ほど前に事務所はタコ部屋から現在の借りビルに居を移していて、出迎えるように光っていたたるき亭の提灯も今ではもう見ることもない。
どうせ飲めない者が大半のくせに、大半のアイドル達はそれを少しだけ残念に思っていたりする。
「ね、ね、律子さん。次のオーディションに受かったら、Aランクに行けるの?」
 Cランクの間は『いつAランクに上がれるの』と聞かれた。Bランクオーディションを受ける前には『まだAランクに上がれないの』と聞かれた。
美希の過去を知る律子にしてみれば驚愕の話で、その頃の律子はまだ『ついにアイドルとしての自覚が芽生えたか』という感慨に近い印象しかなかった。
 それが違うと気付いたのは、ついこの間の話だ。
「あんた、Aランク舐めてるでしょ。この間Bに上がったばっかりなんだから、Aに上がれるのなんてまだまだ先よ」
「まだまだってどのくらい?」
「あんまり心配しなくていいわよ。美希のプロデュースクール終了まではまだ半年もあるんだから。今まで通りやってれば問題ないわ」
「でっ、でも、…でも…」
 しまった。
律子は腹の中で舌打ちする。この2カ月というもの、『今まで通り』や『美希らしく』と言う言葉は美希にとって禁句に等しい。
さっきまでの元気が嘘のように萎れてしまった美希を見て、律子はあわててフォローに回る。
「大丈夫よ、私を誰だと思ってんの。秋月律子さんのプロデュースをお舐めでないわよ」
「ホント?」
「信じてないわね…。いいわ見てなさい、次のオーディション私の指示通りにやればトップ間違いなしなんだから」
 そのためにもさっさと事務所に戻ってミーティングしないとね、と続けようとしたところで、律子はぴたりと歩みを止めた。美希も不審に思いながらそれに倣う。
なんだろう、と思う美希の視界に、奇妙なモノが映る。
 
 事務所の前に、人が立っている。

 かなり細身だ。女性のように思う。来ているのは白のタートルネックにブルーのジーンズ。長い黒髪は腰まであり、765プロの入っている雑居ビルの案内板を熱心に見ているようにみえる。
 その横顔に、二人とも見覚えがあった。
 美希の足が勝手に動く。あり得ない、と思う。だって海外に行ってるはず、だってこの間のCDチャートで上位にランクインしてまだ帰れないって言ってたはず。
足はいつの間にか駆け足になり、それが本気のダッシュになって、美希は持ち前の運動神経を生かして横顔にぐんぐん近づいていく。
横顔がどんどん近付いてくる、ぼやけた視界が急速に澄んでいく。あり得ないがだってを伴う理由付けに変わり、幾らかあった『彼女かここにいない理由』が目の前の現実に急速に吹っ飛ばされていく。
 そして、美希は横顔に名前を投げる。
「ちっ、千早さん!!」

 ユーザーによって入力された地図を参照しながらターゲットが入居している雑居ビルまで訪れて、ロボットはその歩みをぴたりと止める。
 先ほどからずっとここで待っているが、どうもターゲット所属の人物はいまだにビルから出てくる気配がない。
こちらから4階にある事務所まで訪ねて行ってもよかったが、事前に入力されたシミュレーションによってブレインは勝率が低いと提示した。
既に日は没していて、ロボットのブレインはモービリティを『訪問』から『待機』へ切り替えようとする。
 と、人工鼓膜が外部からの信号をキャッチした。
刺激レベル2、対象物からの距離50m。
 ブレインが瞬時に割り込み処理を掛け、アイカメラが鼓膜情報を頼りに眠りそうだったモーターを蹴っ飛ばす。
対象が急激に運動開始。鼓膜からの外部信号が急速に拡大していく。自分自身に近づいてくる音源を捜そうと、ケツを蹴られたモーターが首関節を動かして外部信号から得られた対象方向に首を動かす。
『星井美希』。アイカメラがとらえた映像が、瞬時にメインメモリに格納されていたターゲット所属の人物名を特定す
「ちっ、千早さん!!」
 呼びかけと同時に両腕を引っ張られ、『星井美希』にがくがくと本体を揺らされる。
プログラムが眼球近辺の人工筋肉にあらかじめインプットされていた信号を送り、ロボットの両目がまるで驚いたかのように見開かれる。
「何でっ!? 外国に行ってたんじゃなかったの!? この間電話したときまだ帰れないって」
 鼓膜の振動幅を下げ、同時に聴覚情報と視覚情報の照らし合わせを行う。
『星井美希』は両目を見開いている。眼にはうっすらと涙が浮かんでいて、まるで信じられないものでも見ているかのような表情を浮かべている。
 表情から推測される事象と聴覚から得られた情報を照合する、
『ナンデ』『ガイコクニイッテタンジャ』『マダカエレナイ』。
 推測率が80%を超え、ロボットは遂に口を開く。

「―――そうですか。ここには、オリジナルはいないのですね」

 何を言われたのか毛ほども分からなかった。
 いないはず、という理由が美希の頭の中で大きく膨らんでいる。
やっぱりそうだ千早さんは嘘なんかつかないもの―――という思考が頭の中の冷静な部分で目の前のそっくりさんに警鐘を鳴らす。オリジナル、という言葉に美希の頭が混乱している。
何言ってるのだってこの人千早さんにそっくりっていうかそのものっていうかじゃあオリジナルって何のことこの人千早さんじゃないの
「…あなた、千早さんじゃ、ない、の?」
 混乱する思考が訝しんだ疑問を発する。
疑問を受けた目の前のそっくりさんは、本当の千早ではありえないような満面の笑みを浮かべる。ちょっと美希、という律子の声が後ろから迫ってくる。太陽はすでに落ちていて、いまや美希とそっくりさんを照らしているのは雑居ビルの電飾のみで、美希の目の前の『何者か』がついに自分の名前を口に出す。



「私の名前は、識別コードBST-072、です。初めてお会いします、ホシイミキさん」
 千早の顔で、千早の声で、千早ではありえない満面の笑顔を浮かべて、ニセモノはそう言った。




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