8.

 冬の夜は寒かった。おまけに風まで吹いていた。
 もうじき今年も終わるからか、どこの飲み屋も場違いなクリスマスの飾りつけを外している真っ最中だった。気の早すぎる飲み屋はすでに「新年会場に是非当店を!!」と書かれたのぼりを掲げていて、社長は口の中で含み笑いを漏らす。忘年会でもまだ十分客は取れるだろうに。
 昨日はまさしく祭りの勢いだった。律子とメカ千早の逆算によって提示されたそれまでのファンクラブの人数と新規獲得のファンの数は蛍光灯のライトの青白い光にさらされ、集まった765スタッフの両目に焼き付けられたファンの人数はまさしくAランクアイドルの名に遜色のないものだった。
普段は酒気厳禁な事務室もその日ばかりはアルコールが解禁され、3度目まで真面目に録画を見ていたスタッフたちは4度目以降無意味な胴上げを始めた。
律子や美希も最初のうちは笑顔でそれに応じていたが、事務所のあちこちで大道芸が始まるに至って律子は両手にハリセンを持ち出した。
ちらりと見たハリセンの両側が金属製の光沢を放っていたところを見ると、あれで叩かれたらさぞかし痛かろうと思う。
 もっとも、酒盛りが始まってから美希とメカ千早は音響室に行ってしまったし、あれだけ騒いでいたスタッフたちの心情の裏側には飲まなければやっていられないという感情もあったのだろう。
社長も混ざりたかったのだが、酒気に頬を赤く染めているくせに眼だけは全く笑っていない小鳥の表情とその手に握られたバリカンを見て止めた。経営者は楽ではない。
 北風に「新年会場に是非当店を!!」ののぼりが揺らめいた。
 なるほどこの近辺に暮らすサラリーマンたちが帰宅途中に通るであろう街中には目の前の店以外にも飲み屋は割拠していて、今から先の予約を確保しなければならないというのも分からなくはない。物事に先んじれば戦に勝す―――そう言っていたのは誰だったか。
 何も飲み屋だけではない、と社長は思う。765もシノギを削るスター業界もご多分に漏れず先んじた者が勝つという法則は当てはまらないものではないし、物事に先んじるだけではなく情報の流出や漏洩は経営者として最も警戒すべきものの一つである。
適切に先端の流行を取り入れ、適切に現行のものを保全する―――多くの経営者と同様に、高木社長もまたそのバランスの綱渡りをいつもヒヤヒヤのところで行っている。
 すぐ隣の飲み屋が「7時までにご来店の方にビール1本サービス」を主張している。
 そして、バランスをとりつつも他者を出し抜き、自らの陣地に勝利を呼び込むこともまた経営者の務めではある。
隣が先の客を確保するのに必死なら、横はビールを1本付けることで新規の顧客を囲い込もうとする。
どちらも本質的には「飲み屋に来る流動客を一人でも多く確保する」ことが狙いだろうが、こうもアプローチが違うものかと社長は思う。
 きっと目覚ましいまでの努力はあるに違いない。きっと新年会の方は駅から流れ出てくる飲兵衛の数を固定させて確実な利益をモノにするために早すぎる新年会ののぼりを立てたのだろうし、ビール1本の方は近場の駅から流れ出てくる客の数がピークを迎えた少し後という事で7時という飲むには少し早い時間を設定したに違いない。どこの業界でも情報はキモだ。
 3軒目を通り越そうとしたとき、後ろのほうで「社長さん、いかがですかあ!?」と言われた。
 振り返らずに手を振っていらないと伝えると、社長は北風に押されるように歩みを速める。
 どちらも確かに本質的には違いないと思う。いかに固定客を確保し、流動客を囲い込むかという点については銀幕も飲み屋も変わらないと思う。そして、そのために許されるならばどんな手法でも許されるのが市場社会の常である。
きっと両店舗とも素知らぬ顔をしてお互いの店に息のかかった従業員に客のふりをさせて潜り込ませて価格の高低を比較しているに違いない。
お互いにどちらも譲れない第一線までビールの値段を下げに下げ、行き着くところは遂にどちらかが競争に敗れて駅前を去るかひきつった笑いを洩らして手を握るかのどちらかだ。
 競争相手が1件だけならそれもありうる。
 では、競争相手が無数に存在するとしたら。
 先月の会合ではスター業界の大物が続々と集まっていた。近年のアイドルの傾向の確認と増殖する楽曲のダウンロード販売についてレコード会社から言われた文句に業界総出で舌を出すためである。
なるほどCDそのものの売り上げが落ちるのはレコード会社としては面白くないことこの上なかろうが、こればかりは企業努力してもらうしかないと社長は思う。
レコード会社とて1社2社の小さな市場ではない。複数存在する企業は弱いものから徹底的につぶしにかかる。
飲み屋のように駅前を去ることで解決する問題もあるにはあるのだろうが、残された会社が魅力的であればあるほど上位の企業による買収の憂き目にあう。
 それは、何もレコード会社だけの話ではない。
 先月の議会に初めて現れた新興の会社が古株を買収したという話は社長も耳にしていたが、初めて会合に出てきたハイエナの顔を見た時は社長も目を疑った。
何しろ若い。聞けばもともとは重工系のコンツェルンらしいが、経営に並ぶものなしとまで言われた如月重工を買収したあとにコンツェルンは瞬く間に銀幕業界でアイドルを躍らせるための準備を整えたという。
鉄鋼屋が何をトチ狂ってこの業界に殴りこんできたかは謎だが、豊富な資金力にものを言わせたその会社は同業者が見ても感嘆の声しか漏れないような経営手腕で古株を買収したらしい。単純にして強大な脅威の登場である。
向こうの代表は若いと言ってもすでに壮年の入り口には達していたようだったが、にこやかな笑顔で握手を交わしているその表情には空寒ささえ覚えた。

―――高木、順一郎社長ですか? 765プロのお噂はかねがね耳にしておりました。

 考え事をしながら歩いていると、目的の飲み屋の看板が目に入った。相変わらずあの時から一つも変わりのしない赤提灯に社長は安堵のため息をつく。

―――本日はご挨拶に伺う事ができて、光栄に存じます。

 赤提灯のすぐ下にはホッピーの看板があった。思い出す、やよいが「ホッピーって何ですか?」と聞いてきたのがつい昨日のような気がして、社長の頬が緩んだ。
その時は確かあずさが年長の度量を発揮して「ホッピーっていうのはね、お酒の名前よ〜」とあずさらしい抜けた返事を返していたはずで、その時確か美希とプロデューサーが「ねえねえプロデューサー、ホッピーっておいしいの?」「俺飲めねえんだよ」という会話をしていた。
 つい昨日のように思い出せる、まだ765がこの飲み屋の上で活動していたあの時。
 まだプロデューサーがまとわりついてくる美希に顔だけは辟易していた頃、まだ千早が黙々と階段を上っていた頃、まだあんなに大所帯ではなくて、しかし前に進む意志と騒がしい毎日がただひたすらに楽しかったあの頃、美希はかまってくれないプロデューサーに飽きたのか、社長のところまで走り寄ってきてこう尋ねたのだ。
 ねえねえ社長、社長はホッピーって好き?

「高木さんは、ホッピーがお好きなんですか?」

 目を瞑り、過去から今へと意識を戻した。
「…気心の知れた顔と飲むのは好きだがね、今日はホッピーという気分ではないな」

―――申し遅れました。私の名前は、

 男だった。派手好きなのか白いコートを着ていた。真っ黒いコートの高木社長と真っ白いコートのその男はお互いを見合って笑った。
今日初めて会うようにも見えるし、旧来からの友人のようにも見えるその寒々しい笑顔の男は、作り物の笑顔を顔に貼り付けたままで「外は寒いですし、中に入りましょう」と言った。

―――961プロデュース株式会社代表、黒井と申します。

 白と黒のコントラストに彩られた二人がたるき亭の暖簾を潜る。
 潜った瞬間、「へいらっしゃい!」と元気に言われた。



 あらかじめ予約されていた座敷に入り、頼んだ酒が出てくるのは早かった。
 社長の目の前には日本酒が、黒井の前には焼酎が置かれ、お互いの間にはつまみ代わりの焼き鳥が置かれている。
あの手狭だった事務所の1階に構えるたるき亭に個室と聞いた時はどんなマジックを使っているのかと思ったが何のことはない、地下に個室を設けているだけだった。
どんなマジックにも種は必ずあると改めて社長は思う。
 コートを脱いで座布団に胡坐をかくと、目の前に瀬戸物が浮かんでいるのが目に入った。
ピントをずらすとやはり寒々しい笑顔の黒井の顔が目に入る。乾杯のつもりだろうか。
 社長はそれに頷いて手前の瀬戸物を持ち上げると、のったりとした動作でキンという音を立てた。
「再会に」
 妙に演技がかった男だと思う。
社長の瀬戸物に入っている日本酒は熱燗で向こうの瀬戸物には氷が浮かんでいるはずなのに、何のためらいもなく焼酎をひっこめると男は半分ほど飲んでカップを置いた。
「いやあおいしいですね。そちらの前の事務所のすぐ下だからきっと酒もうまいだろうと思っていましたが、正解でした」
 言外に「飲まないのか」と言われている気がして、社長もまた日本酒を少しだけ飲んだ。味は感じない。
「―――しかし、昨日のオーディションは見事でしたね。961からもアイドルは出していたんですが、到底勝ち目のない戦いでした」
 悔しそうなそぶりは微塵もなかった。見れば今まで薄氷のようだったその顔に熱を帯びたかのような色がある。
「…美希君も頑張ってくれたからね。しかし、まだまだとでも言っておこうか」
「ご謙遜を」
 黒井は鷹揚に拍手をする。
「…しかし、それでこそ星井美希の価値も上がる。素晴らしい手腕ですね」
「前にも言ったがね、あの要求は飲めん」
 拍手を止めた黒井の表情を再び薄氷が覆った。気にしないふりをして社長は熱燗を煽る。黒井もまたロックを飲むと、目の前に置かれた焼き鳥に手を伸ばした。
いくら地下の個室といってもそこは飲み屋である。上からはどんどんという足音が聞こえてくるし、横では忘年会でもやっているのか歓声も聞こえてくる。
社長もまた並べられた焼き鳥に手を伸ばし、濃めに味付けされたタレに顔をしかめた。
 老いた、とは自分でも思う。
「―――何故です。交換の条件としては悪くないでしょう」
「交換も何もない。そもそも交渉をする気もない。いい加減察したまえ、私は君の口車に乗る気はないよ」
「これはまた手厳しい」
 薄ら寒い笑顔で黒井は笑う。
 先月の会合の時に初めて会った黒井は、初めて会ったとは到底思えないような取引を高木社長に持ちかけている。
何を馬鹿な事をとその時は冗談のような口調で突っぱねたものの、わざわざたるき亭の予約までして交渉を始めようとするくらいなのだから割と本気なのかもしれない。
「星井美希一人と我が961プロデュースの新進気鋭のアイドルを2人です。これ以上の条件はないはずだ」

―――765の星井美希を、わが社に迎えたいのです。

 あの時、黒井はそう言って笑っていた。
 馬鹿も休み休み言って欲しい。社長は溜息を隠す気にもならず、黒井の前で盛大に息を吐いた。
「何度も言うが、条件が気に食わんと言っているのではない。美希君は765の一員だ。どんな条件を積まれてもそちらに渡すつもりなどない。…本人がどうしてもと言うなら別だがね」
「―――高木さんの噂はかねがね聞き及んでいましたが、実際に目の当たりにするとやはり違いますね。従業員を大切になさっている」
「理解できないかね?」
「理想的ではありましょうね」
 全くまだ歳もそれほどではないと言うのに―――2度目はばれないように社長は溜め息をつく。
 社長の見たところ黒井の年のころは社長より10は下だがプロデューサーより20は上だ。これでもしも黒井の年齢が社長とそう大差ないのだとすれば今すぐDHCあたりからオファーが来そうなものだが、そう思えなくもない腹の探り合いができる程度には向こうも修羅場を潜っているらしい。
 見てくれで年齢を判断するのは失礼にあたると思わなくもないが、もし社長の見た通りの年齢ならばたいしたタマではある。
「だからこそのあの病室ですか。あんなに設備の整った病院の個室を半年も借りるなんて、一体どんな事をしたんです?」
「何もしていないよ。君は自分の息子が入院したらどうするのかね」
「生憎とまだ独り身でして。…彼はまだ退院されないんですか?」
 答えずに社長は酒を煽った。失礼という声も聞こえたが、カップを置いて見た黒井の表情には失言を恥じた様子は微塵もない。
自分もそうだが向こうもなかなかのタヌキっぷりだと思う。
「申し遅れましたが―――この度はご愁傷様です」
 クソガキめ、と社長は思う。
 もうすぐあの親不孝が入院して5カ月にはなる。プロデューサーがアイドルを庇って入院した、というニュースはあの時のスポーツ新聞で小さく取り上げられたに終わった。
確かに退院が記事になることなど滅多にないが、5カ月近くになって今更ご愁傷様も何もない。
 大体にして、
「まだ彼は亡くなってはいない。私は彼が必ず起きてくると信じているがね」
「―――従業員は家族ですか。なるほど、噂以上だ」
「君は、そう思わないのかね」
 そこで黒井はさも意外な事を言われた、という顔をして、
「従業員は労働を通して社に利益をもたらすものです。お互いに支えあうという点では、確かに家族と言えなくもないでしょうね」
 ただ、半年以上も治療費を支払うかどうかは別ですが、と黒井は結んだ。
「―――スタッフは、君にとっては営利をもたらす駒かね」
「そうは言いません。ですが、わが961プロデュースには労組をはじめとした各種の厚生は揃っている。私が何かをしなければならない事はないんですよ。…少なくとも、代休の制度くらいなら765より整ってはいるでしょうね」
――――――――こいつ、
「…経営方針の違いとでも言っておこうかね。君は君の営業指針に従いたまえ。私は私で765を取り仕切るだけだ」
「ええ。後は星井君がわが社と御社のどちらを取るかでしょうね」
「…君に大事な家族を渡すわけにはいかんよ。何度でも言う。美希君の意思を尊重はするが、765はそちらに乗ることはない」
「残念です」
 そこまで言って、どす黒い緊張に包まれたたるき亭の個室にほんの少しのデタントが訪れた。
 黒井は再び焼酎を煽ると2本目の焼き鳥に手を付け、社長は個室の外でびくびくしていたフロアーから通しの枝豆を受け取る。

 枝豆をかじりながら、社長は目の前の男に思いを馳せる。

 先ほど黒井は不思議な発言をしている。代休については765も事業拡大に伴って何度かスタッフ募集の広告を出しているから調べがつかないわけではない。
つかない訳ではないが、そもそも代休制度は全国の労働組合の基準に則って会合で定められた基準を満たしたものを適用している。
という事は961も同じような制度を採用しているという事で、ならば先ほどの発言の真意が見えてこない。
思い当たる節もない訳ではない、確かに765のスタッフはワーカホリックと呼んでも差し支えない働きをつい3週間前から行ってはいた。あの3週間について言っていると考えるのは考えすぎだろうか。
 プロデューサーの入院についてもそうだ。確かにプロデューサーの入院は小さいながら記事にもなったし、当時から懇意にしていた同業者から見舞いと称した花束や果物の詰め合わせや見舞金が送られたことはあったが、そのどれもが一つとしてプロデューサーがどこの病院のどんな病室で横になっているか示唆したものはなかった。
 765がそんなものを公表したところで何の得になるわけでもないし、公表するにも金は掛かる。必然的に企業からの見舞いの品は765の高木社長の机の上に置かれることになったし、この5カ月というもの週に一度送られた見舞いの品を持って病院に行くのは社長の週間行事のようになっている。
が、黒井は先ほど「あの病院のあの病室」と言っている。という事は、黒井は少なくともプロデューサーがどこの病院のどの病室に寝ているか知っているという事になる。
「あんなに設備の整った病院の」と言っている以上は入院にかかる費用すら黒井は知っている可能性もある。
 それら全てをひっくるめてハッタリという線もあるにはあるのだろうが、そこにカマをかけたところでお互いに不快な思いしかしない、社長はそう思っている。

 黒井が焼酎を飲み干し、行きがかった不運なフロアーにお代りを頼んだ。

「高木さんもいかがですか」
「結構だ。歳のせいか酒が足に来てね、このままでは小と――うちのスタッフに何を言われるか分からん」
「―――ああ、彼女は大分社長の事を心配してらっしゃるようで」
――――――――。
「音無君の事を知っているのかね」
「大変やり手の従業員だと聞いていますよ」
 フロアーがお代りの焼酎を持ってきた。黒井はためらうことなくそれを一息で飲み干すと、妙に自信のある目つきで社長を見遣る。
「…新興のわが961プロが業界で生き残るためには、使えるものは何でも使います。ためらう事などない」
 あなただってかつてはそうだったでしょう、と黒井が繋げる。
「―――スタッフも、という事かね」
「そう捉えて頂いて構いません。アイドルも、従業員も全ては同じ。私たちも生き残るのに必死なんですよ」
「―――とても半年前に古株を買収したとは思えん話だな」
 デタントが終わる。社長は残っていた日本酒を空けると、わざとらしく腕時計に視線を投げた。
「すまないが、そろそろ事務所に戻らねばならない時間でね」
「ええ。私もそろそろお暇します。…お見送りは」
 結構だと言い、社長は立ちあがってコートを羽織った。
 夜もふけているし、どこに入ったか分からない酒が体を温めてくれることはない気がする。
「…しかし、この時間にもまだ仕事ですか。従業員が代休を申請しないのも頷けますね」
 幾つになっても腹の探り合いは疲れるものだと社長は思う。
 まったく961の情報網は侮れない。この分だと今日の下着の柄すら見透かされているかもしれない。
「まだ家族が何人か残っているからね。私も家長として示しはつけねばなるまいよ」
「従業員が家族だと何かと大変ですね。――――ああそうだ、高木さん、」
まだ何かあるのか、と振り返った社長の視界に、薄氷の笑顔を貼り付けた黒井の表情が映る。
 その瞬間、今まであれほどうるさかった音が一瞬にして掻き消えたように感じた。

「―――家族ごっこも結構ですが、ロボットにも給料というのはやり過ぎではないですか?」

 失敗した。
 顔に出てしまった。
 社長の表情の変化を目視して、黒井は薄氷の上にしてやったりな笑顔を浮かべる。

「若輩の分際ですが、忠告をさせていただきます。あなたは経営者として余りにも甘い」
―――こいつは一体、何をどこまで知っているのか。
「如月重工が得手としていたものを知らない訳ではないでしょう。私も昔のあなたと同じです。使えるものは何でも使う」
「…あいにくと鉄鋼屋には強くなくてね。教えていただけるならご教授願おうか」
 白々しい嘘をつき、社長は振り返ることなく黒井の言葉を待った。後ろから隠す気もない溜息が聞こえ、社長は黒井の一言を確かに聞いた。
「ネットワークと、モーターやマニュピレータといった先端技術ですよ」

 あの笑顔を、社長は脳裏に描いた。
 彼女は、あの時心の底から笑っていた。
 それが嘘とは、思いたくなかった。

「最後にもう一度だけ伺います。星井美希を、961に頂けませんか」
「…何度でも言おう。765は、961には乗らん。961が何を知っていてもかまわん。765は765のやり方を貫く」
「後悔は」
 社長は後ろを向く。まったく気分が悪い時間だった。早くここから出てしまいたくて、社長は革靴に足を入れる。
「全て最後に取っておく。引退した後の、老いぼれの人生最後の楽しみだ」
「私も、そうありたいものです」
 振り返ろうとして止めた。今振り返ってしまったら目の前の若造を殴ってしまうかもしれない。
 たった一つの目的を遂行するために取れる手段はいくらでもある。社長はそう思う。
 何だってそうだ、それが居酒屋であろうが銀幕であろうが、社の発展と利益の追求はどこに行っても至上命題なのだ。
 違うのは、アプローチの仕方だけだ。
 どこの業界でも、情報はキモなのだ。
 どんなマジックにも、種は必ずあるものなのだ。



 高木社長がいなくなった後、黒井は目の前の焼き鳥に再び手を出した。
 串から肉をこそぎ取ると、黒井は思い出したかのように真っ白いコートの懐を漁ってこれまた真っ白な携帯電話を開いた。左手で少し操作をし、961の事務所にリダイアルする。
 わずか1コールの後、電話は繋がった。
「―――俺だ。決裂した」
 タイミングよくフロアーが再び横を通った。右手を上げてフロアーを呼び止める。
 視線だけを這わせてアルコールの種類を確かめると、黒井はフロアーに指で次の注文をする。
「ああそうだ、決裂だ。まったくあのジジイ、頭が固いって噂はホントだったみてえだな」
 電話の向こうで相手が笑った。黒井も含み笑いを漏らす。追加の注文を受けたフロアーが転げるように座敷から逃げて行く。
「そうだ。計画を始める。事務所の連中にも伝えとけ」
 一単語分ののち、黒井は携帯を閉じた。まったく愉快にも程がある。黒井は相手のいなくなった目の前の座布団に向かって耐えきれないように笑いだす。
「さあて、どんな味がするのかね」

 テーブルの上には、「ホッピー」と書かれたパウチが置かれている。



SS置き場に戻る     BST-072に戻る                 その9へ      その11へ

BST-072 (10)

inserted by FC2 system