BST-072 (11)

9.

 テレビで『船橋のサラリーマン100人に聞いた!! 正月の過ごし方』という特番をやっていた。チャンネルを変える気力もなく、律子は昼休みの特番をだらだらと眺めている。
 まさかここまで忙しくなるとは思っていなかった、と律子は半ばやけっぱちになった頭の中で考えている。
 日取りが悪かったと言えばそこまでだと思う。しかし、この機を逃したら次のランクアップオーディションがいつになるかは分からなかったし、おそらくあれ以上は律子以上に美希が持たなかっただろう。
結果はさておくにしてもAランクに上がれたのは自分にとっても美希にとっても良かった事だとカップ麺をずるずる啜りながら律子は思う。
 幸か不幸か正月前にAランクに上がった美希の仕事はBランクに輪をかけて慌ただしくなった。正月といえば生番組が目白押しで、今をときめくAランクアイドルと言えば声のかからない番組などなく、それでなくとも正月以降放送される番組のスタジオ録画も溜まっている上でのオファーを美希は精力的にこなしていった。
まったく5カ月間からは想像できないほどの仕事ぶりだ。美希が休まない以上は律子も休みなど取れるはずもなく、元日を事務室で迎えてもうじき一週間になろうというのに律子は今だに家の敷居を跨げていない。
これで何かあったら本気で労災申請してやろう、とマイナス思考の今年の目標を律子は固く心に決めている。
 テレビの画面が、酔っぱらったリーマンの涙を誘う痴態から正月からきっちり決めたスーツのキャスターに移り変わった。
 律子が休んでいないという事は、美希もまた休んでいないという事だ。
 今は、それでいいと思う。
 幸いにも美希はAランクに上がった。これで『星井美希』のプロデュースは一つの山を越えたことになる。
 信じられないほどに膨らんだ美希への仕事の量はBの時とは比較にならないし、律子以上に実際にテレビに出て歌い踊り笑い話す美希へのプレッシャーは想像もできない程だろうと思う。
仕事に忙殺されていれば、余計な事を考えずに済むというのはあながち間違いではなかろう。

 『星井美希』のプロデュース活動については、順調の一言に尽きた。では、星井美希の希望は叶っていたかどうか。

 今日は収録が午後からで、明日は美希も律子も休みという待望の日だ。
まだ美希の学校は冬休みだというが、このペースでは実際に学校が始まっても美希は登校できるかどうか。茶の間に放映される1時間のために半日スタジオに拘束されるのも珍しいことではないし、そうなったらいくら美希が出来るとしても学校の勉強に遅れることは間違いないからそのあたりのフォローはどうしようか―――そう思っていたら、美希から大量のプリントを手渡されたのが昨日だった。
今すぐ高校を中退して留学でもしてこいと思った内容の採点が終わったのはつい今朝の話で、律子は一眠りする前に腹ごしらえをと思ってカップ麺にお湯を注いでいる。
 そう言えば昨日も久しぶりの休みだった。とても1日で終わるような量ではなかったと思ったが、最後の方の字の崩れ具合を見るにアホ毛はあの量を1日で終えたようだった。巻き込まれる身にもなって欲しい。
 律子の悲惨な机の上を見た小鳥が「手伝いましょうか?」と言ってくれたのはありがたかった。
が、渡した英語のプリントの1枚目で固まってしまった小鳥にそれ以上を押し付けるわけにもいかず、律子が小鳥に頼んだ仕事は向こう1週間の美希のスケジュールの確認と抜け漏れの確認である。
そう言えば小鳥は「Chart in US」にも丸っこい字で和訳を書き込んでいた。確かに英語は辛かろうと思わなくもない。
しかし、頼んだ立場で言えることではないが美希の向こう1週間の仕事の確認と一言で言い表せるその仕事も楽なものでは決してない。その証拠に律子が採点を終えた後も小鳥は半泣きでパソコンに向かっていたし、呟いていたのはドナドナだった。
触らぬ神になんとやらで、律子がそろりそろりと給湯室に向ってからもう30分は経っている。
 麺がなくなった。濃い味付けのスープなどとても飲む気にならず、律子はソファーにごろりと横になる。
 ソファーである。
 765の現在の事務所にソファーがあるのは社長室しかない。社長は朝から音信不通になってしまっていて、律子はこれ幸いと社長室で狼藉の限りを尽くしている。
さっきちらりと見たが、社長の机の上にはあの馬鹿が入院している病院の住所が書かれた紙っぺらが置いてあった。見舞いにでも行ったのだろうか。
そう言えば最近見舞いにも行けてないなと思い、横を見た律子の視界に壁掛けのカレンダーが入る。
 昨日の日付で更新が止まっている。
 混迷する経済情勢を正月気分で語っている政治家に嫌気がさしたのか、テレビを消して背もたれに顔を向けた。
―――そんな事、分かってたことじゃない。
 祭りの後はどことなく寂しいものである。怒涛の3週間が過ぎ去った後、事務所にはある種の停滞ともいえる空気が流れていた。
もっとも寂しいはずの美希はいつもに増して表面上は元気に振る舞っていたし、今も確かメカ千早相手に音楽の講義をしているはずだ。
トシなのー、と笑う美希の顔が頭に浮かび、律子は実年齢からは考えられないような諦めの笑いを漏らす。確かにこれでは歳と言われても仕方がない。

 そんな事は分かっていたのだ。
 誰だって、そんな事はないと思っていたはずなのだ。そんな都合のいい話はオハナシの中だけだったはずなのだ。
 「次こそはきっと」という淡い心持ちで次の努力に進んだのだ。希望というヤツだった。
 誰しもが心の奥底に仕舞っていて、本当にキツくて本当に辛い事があった時に一瞬だけ取り出してくる人間の最後の砦だった。
 叶わないと知っていて、報われないと知っていて、最後の最後まで信じることしかできない人間の原動力だった。
 希望が叶うなどと本気で信じている甘ったれなど765の中には一人としていなかったはずなのだ。

 いなかったはずなのに、何だこのザマは。

 まったく自分もその甘ったれの一人だったのだろうと思う。これでは美希の事を心の片隅ですら笑えないと思う。
早く眠りたいのに、一向に睡魔は訪れてくれない。
―――あーあ、何やってるんだろ私。
 実際に言ったことなどないが、これ以上美希に向って「プロデューサーは絶対起きてくる。だから今は目の前の仕事に全力で当たろう」とは口が裂けても言えない。
 言えないし、そんな事を思う気力すらもう律子にはない。
 結局あのバカは美希がAになろうとスタッフがどれほど美希を売り込もうと起きてはこなかったのだ。下手に今の美希に希望を吹き込もうという気は毛ほども起きない。
 睡魔が訪れてくれない。
 やる事がないと余計な事を考える。
 あのバカは一体何をしたら起きるのだろうか。ランクアップオーディションは不必要なまでの点を取って合格したし、その後のライブの成功は尋常なからざる様子だった。これ以上何を求めるというのか。
 千早も千早だ、早く帰ってくればいいのにあの洗濯板は昨日の夜の電話では契約がどうのと言って帰れないの一点張りだった。到底美希に言える内容ではなく、律子はそれだけを聞き出して昨日の電話を切っている。
まったくもう、8か月契約だか何だか知らないがさっさと見切りをつけてこっちに帰ってくればいいのに、今の美希と海外でも売れた千早が再びユニットを組めば売れないわけがないのに、何を思いつめているのか千早は頑としてこっちに帰ってこないと言う。洗濯板め、どこまでくそ真面目なんだか。
 律子の瞼が自然と下がる。ああやっと睡魔が来てくれた。律子は睡魔のもたらすまどろみに身を任せ、今まさに全てを忘れられる夢の国に

 バンっ、という大きな音で、青い鳥は違う止まり木に向かって飛び立ってしまった。

 驚いて扉を見ると、小鳥が青い顔で社長室に入ってきたところだった。
「こ、小鳥さん? どうしたの?」
「あ―――ああ、律子さん! ここにいたんですか良かった探したんですよ!!」
 全く要領を得ない。やれやれやっと眠れると思ったのにと思いながら律子はソファーから未練がましく立ち上がり、小鳥の手に握られたプリントに気がついた。
端から見るとどうやら頼んでいた仕事のようだ。震えながら差し出してきたプリントの右肩には「社外秘」の判子が押されていて、何事かと思う律子の目がプリントの裏に隠れていたもう一枚を捉える。

 眠気が吹っ飛んだ。

 何だこれ、と思った。
「―――何よ、これ」
 2枚目のプリントには、「961プロデュースのプロデュース業務推移」と書かれている。



 昼休みは簡単な発声だけで済ませた。
 メカ千早の歌唱力は美希のAランクアップから目を見張るほどの成長を見せていて、教えていると自負している美希も鼻が高くなる一方だった。
午後の収録を終えたのは6時も回ろうかというところだったが、美希は直帰してもいいよという律子に首を振ると、
「きっとメカさん音響部屋でミキの事待ってるの。帰ったらいよいよ歌に挑戦するんだよ」
「…まあ、メカ千早は事務所が家みたいなものだからね。でも美希、明日が休みだからってあんまり遅くまで事務所にいるんじゃないわよ。休みの日は」
「体を休めるのも立派な仕事のうち、でしょ? もう覚えちゃったの」
 グーを振りかぶると美希はやーと言って律子から距離をとる。苦笑しながら腕をおろすと、美希はにっこり笑ってスキップでもしそうな勢いで帰社の道のりを歩いていく。
煌々と光をともす765プロの仮事務所はまだまだ遠くにあるが、律子はこの道を歩いて帰社することももうないのかな、とぼんやり思う。
 2人目のAランクを輩出するにあたり、765にも芸能記者やテレビ局の重役を事務所に迎えることが珍しくなくなってきた。
まだあの奇天烈怪奇な存在についてはバレていないだろうが、そろそろ隠し通せるのも限界に近い気はする。
 何より―――律子は思う。昼に小鳥から見せられた資料が気になって仕方がない。
 プロデュースの業務推移が似通う事も別段珍しくはないし、765より後発の961が765の後をなぞる様なプロデュース活動をしていても何の問題もないとは思う。
 しかし―――
「…律子さん、難しい顔してるの。ミキ、今日はあんまり良くなかった?」
「ううん、そんな事ないわ。でもそうね、もう少しトーク用に知識付けてもいいかもね」
 えー勉強嫌いーと美希は萎れる。馬鹿言ってるんじゃないわよ、今は大卒のアイドルなんてごまんといるんだからねと言い、律子は美希を追い抜いて顔を見られないようにした。

 しかし、である。似過ぎている。律子の懸案はそこに尽きる。

 あの馬鹿からプロデュース業を引き継いでから律子も気合いを入れて美希のプロデュースをしているにはしているが、そのあたりはまだまだ新米という事もあって馬鹿に見られたらアホといわれるようなプロモーションも確かにしてしまっている。
プロモーション活動は美希を大衆に知らしむべく行うものであり、基本的には「同一地域でのプロモーションは一定期間中一ヶ所のみ」がセオリーである。
が、律子も人の子でありポカをすることもあって、この3カ月で何度かセオリーに当てはまらない事をしてはいる。スタッフとの連携のミスで同じ地域で2度もプロモーションをしてしまったり、まだまだ弱小の765という蔑視もあったのかスポンサーに同じ場所でのプロモーションを強制されたり。
およそセオリー通りではなく、その度に律子は何くそと精力的に仕事を取ってきたし美希もまた律子以上に仕事に取り組んでくれてはいたが、今一度考えてみれば「あれはやらなくても良かった」と思うものも幾らかある。
要するに一言でいえば失敗なのだが、昼に見せられた961のプロモーションも似たようなポカをしている。
 これは、常識的に考えればかなりおかしい。
 961が殊勝にも先達たる765のプロモーションを模倣するというのは分からなくはない。
分からなくはないが、何も律子をして失敗と言わしめるプロモーションをまねする必要など全くない。
961のプロデューサーがどの程度の腕を持っているかは謎だが、ある程度場数を踏んだプロデューサーがもしいるならばこの5か月のプロモーションをなぞることなどあるはずがないと律子は思う。
上には上がいるという事をこの5か月で骨身に染みて知る羽目になった律子は、それくらいには自らの力量を考えてはいる。

―――ひょっとして、

 電撃的に、律子の頭にひらめくものがあった。
 ひょっとして、961にはまだあまり経験を積んだプロデューサーはいないのかもしれない。あるいは、まだアイドルをトップに導くためのノウハウがないのかもしれない。
それならば一応961の謎の行動についても理解はできる。961がスター業界にカチ込んできたのはつい2ヶ月ほど前の話だから、その予想はあながち外れてはいないのかもしれない。
もっとも2か月前の美希は見てくれだけは乗りに乗っていたし、ぽっと出の新興プロデュース会社などあて馬にもならんと判断したのは律子自身だ。これを失敗と言うならまあそうだろう。

 情報が流出している可能性はある。
 あるが、どこから漏れ出たかが分からない。

 社屋に部外者を入れたがらない社長ではあったが、社長が元々電気屋だったりファイヤーマンだったりという話は聞いたことがない。
 律子の記憶しているところ事務所のパソコンが火を吹いたり消火器の販売が来たことは何度かあった。
後者は大抵が押し売りだから掌で追い返していたようだが、パソコンの故障については素人の判別しかねることではある。修理屋に961の関係者が紛れ込んでいて、どさくさにまぎれて盗聴器や盗撮機を仕込まれた可能性だってなくはない。
もし仮にそうだとしたら、社長が社屋を移すという決断をするのはそう遠くない気がする。

 流出経路のもう一つの可能性について、律子は疑わしいが現在のところシロと判断している。

 765に入社するに当たっては背後関係を徹底的に洗われる。765プロデュース株式会社をヤクザや街金や政治屋との関係から潔白に留めるためだ。
アイドルはイメージこそが活動において守るべき第一であり、765に入社しようという猛者の電話はある一時期必ず電話が繋がりにくくなる。
今のところ765で息をしている者はただ一人の例外を除いてそれらのチェックを受けた裏も表も真っ白な連中のみであり、残ったただ一人も外出は著しく制限されている。
 律子の知っている限り、ただ一人が外出したのは美希のライブの時だけだ。頭から電波でも出しているなら話は別だが、メカ千早に外部から接触した者は今のところいないはずである。
 大体―――律子は思う。
 大体にしてもし本当に961側に情報が漏れ出ているのだとしたら、765は明日にでも潰れてしかるべきなのだ。
765も弱小とはいえ株式会社の体裁を取っている以上株価の上下は死活問題であり、株主配当の時期が近付くと頭を抱える社長は正直滑稽ではある。
765を潰すことが盗聴器や盗撮機をしかけたかもしれない961関係者の狙いなのだとしたら、さっさとネットでも何でも経営情報を流して株価の下落を狙えばいいだけの話なのである。先だっての古株買収と似たような手段を狙っているのであれば株式下落はなお効果的だ。
 そう思って美希が撮影している最中に自社株の値段を確かめては見たが、大した乱高下はしていなかった。

 不届き者が765を潰す、あるいは買収するというその線で行くと、考えられる現状は2つある。

 ひとつ。まだ会社を傾けるだけの情報が集まっていない。
 株式どうこうという話をする時は大抵が社長室で行われており、その手の話を知っているのは社長以下一部の人間だけだ。
一部の人間に律子は含まれてはいないが、これは突発的に美希のプロデュースをしなければならなくなった律子を慮った結果であることは律子も薄々感じてはいる。
その手の話をする一部の人間になるためには口が堅い事が条件なので、そういう連中が事務室でぶっちゃけトークをする事はあまりない。
盗聴器だか盗撮機だか知らないがもし本当にそれらが仕掛けられているとして、という事は社長室にはその手の違法なブツは設置されておらず、結果765を傾けられるほどの情報がまだ集まっていないために具体的なアクションを起こせずにいる。
 ふたつ。情報は集まっているがすぐに行動する気がない。
 先ほどの律子の考察では「まだ961には場数を踏んだプロデューサーがいないか、あるいはアイドルを要請するノウハウがない」。
という事は、961は765のプロデュースあるいはそれに準ずる営利活動のノウハウを収集し、十分に資料が集まった後に攻勢を掛けるつもりという事になる。
十分なノウハウが蓄積された後に買収なり何なりをすれば、心情は別にして経営的にはスムーズな合併作業が可能になる。
その後は経営の悪化等の理由をつけて765の従業員を解雇すれば、961は労せずして765のノウハウを吸収することができる。

 律子はそこで溜息をついた。
 しかしいずれにしろ、情報流出の黒星がまだ961と断定されているわけではない。
961のプロデュースは不合理極まりないが、向こうも新米のプロデューサーがワタワタした結果なのかもしれない。
真相はいまだ闇の中であり、そろそろ帰社しているはずの社長が小鳥から昼の件を聞いて何らかのアクションを起こすは

「律子さん!!」

 ハッとして後ろを振り返ると、美希が妙に真剣な目で律子の事を見ていた。
全身に言いようのない緊張感を漲らせた美希は律子が振り返ったことにほっとしたのか、大仰なしぐさで胸に手を当てて溜息まで吐いた。
「律子さん、ボーっとしながら歩いてたら危ないよ。さっきからミキ、何回も律子さんの事呼んでるのに律子さんちっともこっち見てくれなくて」
 美希の眦にはうっすら光るものが浮かんでいる。あれ、私なんかすごい悪い事しちゃったみたい。
「ああごめんごめん、…で、どうしたの美希?」
 膝蹴りされた。とっさに鞄で防いだものの結構な威力だった。文句の一つも言おうとして律子は美希に強い視線を送り、そこで美希の泣きそうな顔を見た。

「…ね、律子さんは、どこにも行かないよね?」

 しまった、と本気で思う。

 律子は正面から美希に向き合うと、深い深い溜息をついて見せた。
「どこに行くにしたって、あなたみたいな危なっかしいの放っておけないわよ。安心しなさい、私は美希のプロデュース終わるまではちゃんといてあげるから」
「ミキのプロデュースが終わったら?」
 役者が板に着いてきたとは自分でも思う。
「765に在籍している限りは近くにいるわね」
 それを聞いて安心したのか、美希の顔に笑顔が戻る。
 本物の溜息をついて見上げると、そこはもう765の事務所の目の前だった。



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