BST-072 (13)

「―――キ、ミキ、大丈夫ですか?」
 いきなり耳元で声をかけられ、美希ははっと周りを見回した。
 いつの間にか曲は終わっており、目の間には心配そうな表情をしたメカ千早がいた。
 ああそうだ、今は確かメカ千早さんの歌を聴いていて、聴いていてそれで、
「ミキ、どこか痛いのですか? 何かあったのですか?」
 何でもないのと言おうとして、妙に頭が重いことに気がついた。疲れが出たのだろうか。頭をふって瞬きをして、美希はメカ千早に目の前の表情をもたらした存在を知った。
「…あれ、」
 何で泣いているんだろう、と思う。美希は掌で目を覆う。
 別に悲しくなんてない、どこも痛くない、ただあの時の事が突然思い出されただけなのに、涙が勝手に出てきてしまう。
あれおかしいな、どうしてだろう。これ以上メカ千早に心配そうな顔をされるのが嫌で、美希は乱暴に眦を擦った。
「ごめん、何でもないの。メカさん、お疲れさま」
「本当に、何もないのですか?」
「だいじょぶだよ。元気元気」
 それならばいいのですが、とメカ千早は少しだけ後ろに下がった。とたんにメカ千早はそわそわし出す。なんだろうと思う美希の目の前で、メカ千早は恥ずかしそうにこう言った。
「―――私の歌は、いかがでしたか?」
 果たして美希は実に微妙な表情を浮かべた。それを見たメカ千早の表情が徐々に曇っていく。
「…やはり、歌とは困難なものなのですね」
 呟きが聞こえたのか美希は表情を一瞬だけ慌てたものに変え、次いで再び微妙な表情を浮かべた。
「ううん、そんな事ない! メカさん、やっぱり凄く上手だよ。あんまり上手だったから、ちょっと前の事思い出しちゃっただけ。―――でも、」
 メカ千早のプロセッサが、美希の表情の解釈を試みる。
 ヒットが1件あった。

 諦めに近い表情だった。

「―――でも、やっぱりメカさんは千早さんと違うんだね。千早さんの聞いた時とは全然印象が違ってた」
「オリジナルとは、違いましたか」
「…うん。でも、それはメカさんのバージョンの『蒼い鳥』なんだよね。やっぱり歌っている人が違うと、ぜんぜん違うんだって思うな」
「―――? 理解不能です」
 何と言ったらいいものか。説明が難しい。美希は少しだけ頭をかしげ、ついでミキにも難しいんだけど、と言った。
「あのね、歌う人によって詩の意味の解釈って違うの。千早さんが考えて歌ったのは千早さんのバージョンの『蒼い鳥』だし、ミキのはミキバージョンの『蒼い鳥』なの。どっちがいいとかどっちが悪いとかそういうんじゃなくて、それはその人の解釈を聴いてくれる人が選ぶものなの。だからメカさんの『蒼い鳥』はメカさんしか歌えない『蒼い鳥』なの」
 プロデューサーはそう言ってたんだけど、と美希は繋げ、
「私しか歌えない、『蒼い鳥』、」
「うん。さっきのはメカさんだけの『蒼い鳥』だと思うの。千早さんのじゃない、ミキのでもない、メカさんオリジナルの『蒼い鳥』なんだよ」

 プロセッサが勝手にメモリを参照した。あの時の声が聞こえた。
―――別に千早みたいにならなくたっていいじゃない。何にでもなれるってことでしょ。
 あれは、こういう事を言っていたのか。

「…なんとなく、分かった気がします」
 今までにないほど曖昧な返答をしたメカ千早を見て、美希はもう一度瞼を拭った。
それを見たメカ千早が実に興味深そうな顔をして美希の顔を覗き込む。
「…ミキは、本当にどこも痛くないのですか?」
「うん。大丈夫だよ」
「しかし、涙が出ています。どこか悪いのではないですか?」
 こういうところは本当に本家に似ていると美希は思う。まったく頑固一徹なところは千早にそっくりだ。さっきから質問に答えることしかしていないが、しかしメカ千早の表情には興味以外にもどこか心配そうな色が付いている。
「…うん。涙って、色んなところで流れるんだよ。辛かったり悲しかったり痛かったりしても流れるけど、反対に幸せだったり嬉しかったりしても流れちゃうの」
「それも、ココロの働きなのですか?」
 たぶんね、と答えた。14年近く生きてはきたが何故涙が流れるかなどといった哲学をやったことはない。
するとメカ千早は美希から離れ、散らかしたCDを片づけにかかる。
「データには、涙は眼球を保全するための反射運動とあります。しかし、それだけではなかったのですね」
 発見です、と呟くメカ千早が何だかおかしかった。コンソールからCDを抜き取ってメカ千早に手渡す。時計を見ればそろそろ退社しなければならない時間だった。
 手伝うよ、と言おうとして、美希より先にメカ千早がその足音に気がついた。誰かが近づいてくる。早く帰るように言ったのにいまだ帰った様子を見せない美希に業を煮やした律子が怒りにきたのだろうか。身構えた目の前で音響部屋のドアが開き、美希はそこで見知った顔を見た。

「ああ美希君、まだ帰ってなかったのかね。間に合ったか」

 何が間に合ったのだろうか。いい加減帰って寝ろと言われても仕方のないような時間ではあったが、社長は美希の姿を見つけて安堵したかのように息を吐いた。
次いでそこでようやくメカ千早の姿も目に入ったのか、社長の表情がわずか一瞬だけ固まる。が、次の瞬間にはもう顔の筋肉の緊張をほぐし、美希に向ってコードレスの電話機を差し出した。
「? ミキに?」
「うむ。―――千早君からだよ」

 ひったくるように電話をつかむと、美希は受話器を耳に押し付けた。咳払いのような声が聞こえ、美希の全身が鋭い緊張に包まれる。
「あの、ミキなの。…千早さん?」
 電話口に一瞬の沈黙が訪れた。次いで恥ずかしそうな声で、

『久しぶりね、美希。…元気だった?』

「元気、だよ。千早さんは?」
 ぼちぼちってところ、と千早は言葉少なに語った。
何を話していいか分からない。もう千早の声を最後に聞いたのは3ヶ月も前になる。この3ヶ月は本当に怒涛のようだった。メカ千早が来たし、仕事はアホのように忙しくなったし、それに何より、
『社長から聞いたの。美希、Aランクになれたのね』
「…うん。ミキ、頑張ったよ。律子さんにもスタッフのみんなにも迷惑かけたけど、頑張ってAランクになれたの」
 受話器の向こうから、おめでとう、と聞こえた。
『遅くなっちゃったけど、お祝いをしなきゃいけないと思って。美希、本当におめでとう』
「…ありがとなの。それでさ、千早さんは―――」
 いつ帰ってくるの、と問おうとして、千早が息を飲んだのが分かった。ミキは口を閉じて千早の次の言葉を待つ。
何秒かの逡巡の後に、諦めに似た現実が美希を襲った。
『ごめんなさい。まだ帰れないの』
 なんで、
『こちらのレコード会社との契約が8か月なの。そちらに帰るのは早くても3月くらいよ。―――その、ごめ』
「謝らなくていいよ。千早さんも頑張ってるんだし、3月なんてすぐだもん」
 声の震えが向こうに伝わらないでほしいと切に願った。
これ以上その事を考えてたら千早に動悸がばれる気がして、美希は会話の矛先を強引に変えにかかる。
「あのね千早さん、3ヶ月くらい前に千早さんそっくりのロボットさんが事務所に来たの。もうホントそっくりで最初はミキもビックリしたんだよ。今はスタッフさんたちと一緒にいろいろな仕事をしてくれてて、ずっと歌も練習してるの」
『―――美希、』
「あのねあのね、最初は全然千早さんみたいに歌も歌えなくて、でもミキと一緒に練習したらすっごくすっごく上手になったの。さっきもずっと一緒に練習してたんだけど、もうメカさんの歌ってホントに上手になって」
『―――ごめんなさい』
 そこで、美希は口を噤んだ。千早の突然の謝罪に瞠目する。謝らなくていいと思っていたのは美希の本音だ。
別に美希だってもう物の道理が分からない歳ではない。仕事が忙しくて帰れないくらいわかる、千早も向こうで懸命に頑張っていて、逆輸入のCDチャートも結構な順番に

『…私ね、美希に謝らなきゃいけないことがあるの』

 絞り出すような声が聞こえた。美希は口を閉じ、受話器から漏れ出るように聞こえる千早の次の言葉を待った。
『美希がAランクに上がったって聞いた時、すごく嬉しかった。…だから、謝らなきゃいけないって思って、』
「いいってば。千早さんが忙しいのミキ知ってるもん。3月なんてすぐだよ、今は1月なんだし。あと2ヶ月くらいだもん」
 嫌みには聞こえなかっただろうか。
『そっちじゃなくて、―――』
「だって、ミキ何もされてないよ。何にもされてないのに、」
 その次の言葉を、美希はどこか遠くで聞いた。

『―――そうね、私は何もしなかったの』



 音響部屋は手狭だが、生意気な事にガラスに隔たれた防音室もあるにはある。
電話の邪魔になってはいけないと社長はそちらに移り、メカ千早も社長に続いて防音室の扉を潜る。こうなるとガラス越しに美希が電話をしているのは丸見えで、メカ千早は防音室に入った後もガラス越しに美希の事をじっと見ている。
 聞いたものかどうかと社長は思う。
 ロボットが961の手によって製造されたことはもはや疑いがない。という事は、メカ千早には盗用の何がしかの機械が埋め込まれているという事になる。
厄介な事にメカ千早は961の製造目的を認識していないようだったが、あそこから虚偽を言っていた可能性もなくはない。
 しかし―――社長は思う。
嘘偽りで、あそこまで美希のために仕事をしてくれるかどうか。
 あの3週間にしろ、この3カ月にしろ、メカ千早は確かに多くの仕事をこなしてくれている。メカ千早のおかげでだいぶ残業が減ったのも事実である。
あれが虚偽にまみれた産業スパイの行為とはとても社長は思えない。
「―――ミキは、オリジナルと電話をしているのですか」
 ロボットが口を開いた。何と答えたものか測りかねる社長の脳裏に、出会って1ヶ月目のメカ千早の言葉が蘇った。

―――もしオリジナルに近づくことができたら、私はオリジナル…キサラギチハヤとして活動できるのではないかと考えます。

「まだ、君は千早君に近づきたいのかね」
 口をついて出た疑問に、メカ千早は初めて社長の方を振り返る。その表情はやはり無表情ではあったが、次いで聞いたメカ千早の言葉は社長の予想を裏切るものだった。

「―――…今は、あまりそうは考えません」

 美希の姿が、ガラスの外へと出て行った。
「何故かね? 君は今まで千早君に近づこうとしていたのだろう?」
 この2カ月というもの、メカ千早は昼休みに必ず千早のCDを聴いている。
それくらいなら社長も知っていて、何度か音響室でメカ千早を見つけて声を掛けずにいたこともある。後ろ姿はまるで千早本人のように真剣味を帯びていて、声をかけるのが憚られたからだった。
 問いかけにメカ千早は首を振ると、
「歌は、歌い手によって解釈が異なるそうです」
 何を言っているのか分からずに、社長は曖昧に頷いた。プロセッサがその行為を続行の許可と判断し、メカ千早は言葉を繋げる。
「ミキは、私の歌った『蒼い鳥』を私だけのものと言ってくれました。オリジナルのものではなく、ミキのものでもなく、私だけの『蒼い鳥』という歌だと。そこに優劣はなく、後は聞き手が何が良いかを判断すると言われました」
「美希君が、そう言ったのかね」
 頷くと、メカ千早は横目でちらりと美希の様子をうかがう。すぐに視線を社長に戻し、メカ千早は口を開く。
「ミキのランクアップ前に、リツコさんに私は何になればよいかと質問をしたところ、何だっていいと言われました。あの時は理解ができませんでしたが、今は、」
 何となくわかった気がします、とメカ千早は結んだ。

 社長は目を瞑る。恐らく本当に目の前のロボットは自らの製造目的を知らない。
知らないがゆえに、メカ千早はただひたすら友達のためだけに仕事をしていたのだろう。そういう義理堅さは本当に千早そっくりだと思う。
そっくりだとは思うが、もはや目の前の存在は自らを『如月千早』に近づけようとはしていない。
 思い出す、あの時の言葉。

―――私はロボットです。しかし、私の製造目的はありません。

 あの時、社長はロボットに思いを馳せた。何のために生きているか分からない、そう思っていたメカ千早がオリジナルに近づくことで自らの存在意義を与えられたいのだろうと社長は思っていた。

―――…タカギ社長、スキ、とは何ですか?

 あの時、メカ千早はそう言っていた。社長は驚くとともに目の前のロボットについて考えている。
ほんの2か月前、人間ならば当たり前に持っている感情を目の前のロボットは持っていなかった。
 では、今は。
「―――君は、君の考える製造目的を見つけたのかね」

 目を開いて、社長は少女の表情を見た。
 少女は、くすぐったそうに笑っていた。

「目的にかなうかどうかは分かりません。しかし、スキな事は分かった気がします」
 やっとここまでたどり着いた、という顔をしていた。

「―――私は、歌を歌いたい。オリジナルではない、ミキでもない、私がメカ千早として歌える歌を歌いたいのです」

 それを何と呼べばいいのか、社長には見当がつかなかった。
 少女は大切な宝物を見つけたかのような顔をしていた。これ以上はあり得ないほどの幸せそうな顔で、少女は両手で胸を覆っていた。

「―――君は、本当に、」
 そこで突然、防音室の扉が開いた。



『―――そうね、私は何もしなかったの』

 その言葉を、美希はどこか遠くで聞いた。何を言っているのか全く分からなかった。
なんとなく、ここから先の話を聞いてはいけない気がした。
「ね、ねえ千早さん、そのお話って今じゃなきゃ駄目なの?」
『―――ええ。今話しておかないと、もうずっと機会がない気がするの』
 どことなくせっぱつまっているような口調の千早の言葉に、美希は頭から足の先まで痺れに似た感覚が走ったような気がした。
本当にこれ以上は聞いてはいけない気がする。いけない気がするのに、美希の口は勝手に「うん」と続きを促す相槌を打った。
『ずっと、ずっと考えてたの。はじめはね、自分ではそんな事ないってずっと言い聞かせてた。でも、美希がBランクからAランクに上がったって聞いて、やっぱりそうだったのかもしれないって思うようになったのよ』
 何のことか心の底から分からなかった。心ではもう聞きたくもないその話を、体はまるで金縛りにでもあったかのように硬直して受話器から垂れ流させている。

『―――私は、目の前の現実から逃げたんじゃないかって』

 心が悲鳴を上げた。
もうやめて、千早さんもう何も言わないで。
それ以上を言われたらもう立ち直れない気がする。もう頑張れない気がする。しかし口が開いてくれない。声はどこかで詰まったように出てくれず、ただただ息だけが鼻から抜けていく。
 沈黙を続きへの促しととらえたのか、千早が溜息すらついた。
『プロデューサーが入院したとき、またなのかって思ったの。また居場所をなくしてしまったのかって思った。海外に出て歌の勉強をするのは夢だったから、丁度いい機会だとも思ったわ。
―――だから、私は海外への留学を希望した』
 背中に冷たい汗が流れたとなかなか気がつかなかった。ひやりとした手で背中を触られたような気がする。首筋にも何かがまとわりついたような気もした。
どっかりとした重しが両肩に乗せられたような気がして立っていられず、美希は椅子によろけるように座る。
『美希がCランクに上がってBランクに到達したとき、私も負けないように頑張ろうって思った。でも、その頃からずっと心に霞が掛かってた。
本当は―――本当はずっと、日本で歌を歌い続けるべきだったのかもしれないって。美希みたいに、ずっと頑張って居場所を守っているべきだったんじゃないかって』
 千早の声が震えている。
 風景が回る。座っているはずなのに、美希の体はぐらぐらと揺らめいている。
心が叫び声を上げている。
それ以上を聞いてしまったら、もう一切の望みがなくなるような気がした。
『美希がAランクになったって聞いて、私は羨ましかった。あなたの心の強さが羨ましかったの。美希みたいに何かを信じてずっと頑張ることが、私にはできなかった』

 もうやめて千早さん、それ以上言わないで、

『―――私は、逃げたのよ。あなたの信じる心から、プロデューサーの事故から。…嫌な事をなかった事にして外国に逃げたの』

 お願いだから、

『―――あなたを置いて、私だけ遠くに逃げてしまった。―――本当に、ごめんなさい』

 どこかで、何かが折れる音を聞いた。
何か途方もなく大切なものが、ボキリと砕ける音が聞こえた。

『…謝ってすむ問題じゃないと思うけど、どうしても美希には謝っておきたかったの』
 何と返したか全く分からない。何も考えられず、心を無視して口が勝手に疑問を言った。
頭が真っ白に染まっている。
『美希の、ラストライブには帰れると思う。本当に、―――本当にごめんなさい』
 それだけを言って、千早からの電話は切れた。



 防音壁のドアを開けると、社長とメカ千早が揃って驚いた顔をして美希を見た。
美希は社長に受話器を渡すと、メカ千早の方を向いた。
「―――ねえ、メカさん。明日、一緒に行ってほしいところがあるの」


 いいかな、と尋ねた美希は、何かが抜け落ちたような透明な表情をしていた。



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