11.

 病院から帰って3日が過ぎた。
 もう夜もいい時間で、美希はニット帽を目深にかぶって電車に揺られている。眠い、ような気もする。
それほど混んでいる訳でもない電車の中にはすっかり出来上がっているサラリーマンと今から出勤するであろう水商売の女性以外は美希しかおらず、美希は「お譲りください」と書かれた優先席からほど近い隅の方に座ってぼんやりと窓の外を眺めている。
 本当に疲れた。
 今日も朝から3件も仕事があった。ラジオと雑誌のインタビューとテレビの収録だ。ラジオも雑誌のインタビューも時間通りに終わったが、厄介な事にテレビはいつだって長引く。
特に最近は時節柄か特番の仕事が多かったから、昨日もあまり眠れていない。
 各停の電車が、もう幾つ目か分からない次の駅に滑り込んだ。
 いつも思う事だが、事務所から自宅までの電車が一本で本当に良かったと思う。元気な時ならまあいいが、最近のように連日仕事が入っているときに乗り換えなどしようものならきっと乗り換え口でぶっ倒れるに違いない。
そう言えばホームレスと思しき男が乗車した駅の隅でぐーすか寝ていた。今まで一度としてホームレスが羨ましいと思ったことはなかったし1月の寒空の下で眠れるものかと思ったが、あれはあれでどうやらコツがあるらしい。
 滑り込んだ駅に車内の誰かが立ちあがり、入れ替わるように何人かが電車に吸い込まれた。
 髪を切ったことを怒られるかと思ったが、律子は意外にも『いいんじゃない?』と言った。
あれほどイメージを大切にと言われていたからにはきっと何か罰則のようなものがあるに違いないと思ってはいたが、律子は美希の顔を見るなり『まあ気分転換になるならいいわ。それより変だと思われるかもしれないから、ドラマの撮影用とでも言っておきなさいね』と言ったに留めている。
てっきりタコ部屋に連れ込まれて5時間くらい連続で禅宗のビデオか何かを見せられて出てくるときには『何もかもみんな私が悪かったんです』というような強烈なシバキがあるに違いないと思っていたから、最初に律子からそう言われた時は拍子抜け過ぎて逆に驚いたくらいだ。
 しかし―――美希は思う。
おそらく律子は律子なりに美希の事を慮ってくれているのだろう。気分転換という言葉を使ったのが何よりの証拠だ。
 律子だけではない。スタッフたちもみんな『似合うね』と言ってくれている。
そう言われるのが何だか逆にくすぐったくて、美希は律子をせかして早々に今朝のラジオに向かっている。
 美希の横に、誰かが座った。
 美希の視界に真っ白いコートが目に入る。毛羽立っていないところを見ると相当の値段だろう。まったくどんな仕事をすればこんな夜更けに真っ白いコートを着れるような根性が育つのだろうか。
大体派手すぎる。美希も派手なのは嫌いではないがコートの白さは常軌を逸している。まさに驚きの白さ

「髪、切ったんだな。もったいねえ。前の方が似合ってた」

 小声で話せ、と美希は思う。声の質からして男だ。多分40歳くらい。仕事がら美希よりも年上の上役との挨拶は欠かせないから、そのくらいなら分かる。
大方横に女でもいるのだろう。真っ白いコートに女である。美希は行ったことなどないし美希の身の回りの大人も行かない連中揃いだから完全にドラマのイメージでしかないのだが、このコートはどこだかのキャバクラにでも行ってアフターで女を引っ掛けているのだろうか。
ふと、もしプロデューサーがそうだったら、と思う。とたんに言いようのないどす黒い感情が美希の腹に溜まっていく。
「…お前、星井美希だろ?」
 シカトを決め込む。はいそうですと言ってしまうほど頭はまだ緩くない。
以前に街中でそうだと言ったところとたんにサインを求める人だかりができてしまったこともある。飲んだくれと水商売にサインを求められることはない気がしたが、それでも用心には越したことはない。
それでなくてもこのご時世である。ラリパッパがお前たちの事誘拐して身代金なんてこともないわけじゃないんだからな、というプロデューサーの教えにしたがい、美希は大海原に沈む貝を想像する。
「高木の親父さんは、元気かい? まだくたばってねえのかあのジジイ」

 ―――。

疲れていたし、眠かった。よって、沸点も相当低かった。
「社長の事、悪く言わないで」
「お、やっとこっち向いたか。なんだ、怒った顔もいいじゃねえか」
 40にしては若いと思った。男はにやにや笑いながら怒った美希の顔を観察する。
誰だこいつ。物覚えはいい方だと自負してはいたが、美希の記憶の中には男と合致する顔はない。
「―――あなた、誰? テレビの人?」
「まあ近いな。961って知ってるか?」
 きゅうろくいち。聞いた事はある。というか見たことがある。確かランクアップオーディションの時に数字だらけのプロデュース会社があった。
数字だけの会社は765とそこしかなかったから間違いないと思う。
「プロデュース会社の?」
 男は話が早いとばかりに懐をあさり、名刺を一枚美希に向けた。
向けられた真っ黒な名刺には「961プロデュース株式会社代表 黒井」と書かれていて、美希は名刺を受取る気も起きない。
「何だガード固えな。モテねえぞそんなんじゃ」
 大きなお世話だ。最近は忙しくて学校にもあまり顔を出せてはいないが、下駄箱あたりは次の登校の時に雪崩を起こす気がする。
 次の駅に着いた。
「…961プロの人が、ミキに何の用?」
 扉が閉まり、電車が走り出す。黒井は電車が完全に動き出すまで何のアクションも起さず、ただ黙って美希の顔を見ている。
 ややあって、黒井が口を開く。

「お前を、961に迎えに来た」

 何を言っているのか。真面目に応対する気も起らず、美希は乗客には見えないが黒井にははっきりと見える微妙な溜息をついた。
「そんな顔するな。お前だってわかってるだろ? 765にお前を完全に生かすスペックなんてない。高木のジジイのところにいたんじゃ飼い殺しだ。うちに来れば、お前は―――」
 それ以上の言葉を、黒井は続けられなかった。

 美希の瞳に、恐ろしいまでの熱量が籠っている。触れれば如何なる物も融けそうな熱さの熱を瞳に秘めて美希は黒井の事を見ている。

 黒井はにやりと笑う。
「―――それだよそれ。やっぱり、お前に765は狭すぎる。うちに来い。961なら、お前のいるべきステージを準備してやれる。最高の同僚、最高のプロデュース、そして最高の環境。文句なんかないだろ」

 美希の眼が、うっすらと引かれた。
 黒井が熱っぽく何かを語っている。腹の奥底に熱が溜っていく。この半年で相当我慢強くなったとは自分でも思う。
 こいつは一体、何を言っているのか。

「その最高の環境に、ミキのプロデューサーはいるの?」
「いるさ。まだ961は無名だがな、メリケンから第一線で活躍している奴らを呼ぶ計画もスタートしてる。事務所だって豪華さ。765での生活がかすむほどのインパクトなら保証してやるよ」

―――大丈夫だよ、保証する。

 プロデューサーと同じ言葉を、黒井にだけは言って欲しくなかった。
「…961にミキのプロデューサーはいない。絶対いない。ミキにとっての最高のプロデューサーは、765にしかいないよ」
「敏腕だったがな。惜しいヤツを亡くした」
 そこで黒井は美希の顔を見た。美希は黒井の顔を見ている。

 美希の瞳にあった熱が一度に収縮した。収縮した熱は腹の中に落ち、恐ろしいまでの冷氷が瞳を占める。

「…すまん、失言だったか」
 怒る気も起きない。電車の抜けたアナウンスが家の最寄駅の名前を言って、美希はすっと座席を立った。
「プロデューサーはまだ死んじゃったわけじゃない。それに、765の事を悪く言う人のところになんてミキは絶対行かない。
次に961の人とやりあう事があったら、」
 電車の窓から見える景色がにわかに活気付いてきた。もう間もなく電車はホームに入る。美希にとってこれ以上ないほどの不快な時間が間もなく終わりを告げる。

「―――叩き潰してやる」

―――――――。
「なあ、本当にうちに来る気はないのか?」
 扉が開いた。
 美希は黒井に一瞥すらくれずにホームに降りる。



 次の駅で、黒井は電車を降りた。
冬だと言うのに降りたとたんに汗が背中を這っていく感覚がある。にやりと笑って黒井は真っ白い携帯電話を取り出すと、いつぞやのように指先で携帯を操作してリダイアルする。
 1コールで繋がった。
「俺だ。765ってのは、頭の固いやつらばっかりだな」
 電話の向こうからそうですかと聞こえた。次いで僅かな時間の後、黒井は口の中で笑う。
「ああ。やっぱり、あいつは欲しい。961の発展に星井美希は不可欠だ」
 ホーム天井の蛍光灯が明滅した。黒井はゆっくりと歩を進める。
改札にはICカードを磁気切符挿入口に入れてしまった大馬鹿者がいて、駅員が右往左往しているのが分かる。
「そうだ。回収は動いてるんだろ? 回収したら言ったとおり動け。それで多分落ちる。―――ああ、問題ない」
 それだけを言って、黒井は電話を切った。とたんに耐えがたいまでの寒気が襲い、黒井はぶるりと体を震わせる。
 あの目を、思い出す。

 ―――叩き潰してやる。

 心臓すら止まるかと思った。ジジイの時には何も思わなかったのに、娘の方は恐ろしいほどの力を秘めていた。意識しただけで額から脂汗が流れてきた。我ながらよく耐えたものだと思う。
「―――それでこそ」
 そうだ。それでこそだ。
 それでこそデビュー当時から目をかけてきた逸材だ。やはり765に眠らせるには惜しい。
 慌てた様子の駅員の横をすり抜けるように改札を抜けると、駅前の駐車場には真っ白な車が止めてあった。
 

 
「…メカちゃんが、961のスパイ?」
 社長を目の前にして、小鳥は訝しげに社長の言葉を反芻した。社長はうむと重々しく頷くと、肘をついて組んだ掌に隈ができた頭を乗せる。
律子はやはりという顔をしていたが、小鳥の表情からは驚き以外の何物も見出せない。
「だって、証拠はあるんですか?」
 小鳥の問いかけに、社長は実に苦々しい溜息をつくと、
「物証はないがね。だが、おそらく間違いない」
「根拠は?」
 律子の問いに、これまた社長はため息をついた。961の代表に聞いたと言ってしまえば簡単だが、言ったら言ったでしこたま怒られそうな気もする。
が、目の前の律子が先月に大活躍させたハリセンを懐から取り出してきたのを横目で見て、社長はもはやこれまでと腹を決めた。
「961プロデュースの代表が10月の会合に出てきた。先日も会ったんだが、そこで言われたよ」
 小鳥の眼がつり上がり、律子がハリセンを片手に頭を抱えた。
「社長、何でそんな危ないことするんですか!? ほんとにスパイを送ってくるようなところだったら社長だって何されるか分からないんですよ!?」
「済まない! 軽率だった謝る!! 謝るからプロレスはどうかと思痛たたたた!!」
 小鳥は流れるような動作で社長の後ろに回り込むと、社長を立たせてタイトスカートを何のハンデともせず綺麗なコブラツイストを決める。
余りに芸術的なその造形に律子は助けようという気も起らず、ひたすらに哀れな目をして律子を見遣る社長のつぶらな瞳を完全にシカトする。

 おかしい。メカ千早が仮に黒星だとしても、961側がわざわざ「メカ千早はスパイです」と言うメリットは何もない。
本当にメカ千早が産業スパイなら、961側に有利な情報をつかんだ時点で何も言わずにメカ千早を回収すればいい。律子ならそうする。
メカ千早の回収がその際の問題点となるが、まだまだ弱小ともいえる765プロデュースは営業部隊が完全に外に出てしまうと結構ながらんどうになる。仮にもロボットを作れるほどの所がそういったチャンスを逃すとは律子には思えない。
 そもそもどうやってメカ千早は961側に情報を送っているのだろうか。つい先週メカ千早は美希と一緒に病院に行っているが、それ以外の外出はライブの時だけのはずだ。確かだ。
社長と小鳥と一緒になってここ一月ほどの入出社記録を兼ねる防犯ビデオは見ているが、メカ千早はそこに1回しか映っていない。
つまり、という事はメカ千早が黒星だとしても物証は何もない。スタッフが書類をなくしたというポカも聞いていない。
 だが、物証はないとしても状況証拠は確かにある。
 961が765のプロデュース活動を模倣する理由はないが、真似をしない理由もない。
確かに律子をしてポカと言わしめるプロデュースでもそれなりの効果は上がる。美希のAランク到達がその根拠になる。
「こうすれば必ずAランクに上がれる」という王道などあっては堪ったものではないが、「星井美希はこうしてAランクに上がった」と言う事は出来る。961に経験を積んだプロデューサーがいないとしたら、目の前にマニュアルをぶら下げられたら飛びつくのではないだろうか。
考えてみれば、あの3週間からこちらメカ千早には随分とスケジュール管理を手伝ってもらっていた。Bランクの営業活動が最初からプロモーションに役立つとは考えにくいが、一定の到達点として設定することは可能だろうと律子は思う。

 コブラツイストが変形を経て腕拉ぎ卍固めに変わった。ヒギイィという声が聞こえる。
 シカトを決め込む。

 と言う事は、961側が「メカ千早がスパイだ」と漏らした理由は何か。
 考えられる線は威嚇だと思う。961の狙いはいまだ分からないが、ああまで露骨に765のプロモーションを真似している以上こちらには絶対にバレる。
961がメカ千早を使って765をモニターしているように、765もまた同業他社の動向には一定以上の注意を払っている。と言う事は、961側からすれば765にばれるのを承知でプロモーションを模倣したのなら「765の内部情報など何でも掴んでいるぞ」という格好のアピールになる。
しかし、と言う事は961には765の内部情報以外に何か別の要求があることにもなる。威嚇は「ああしてくれないとこうするぞ」という幼稚な心理戦に過ぎないのだ。
無言の圧力という線もなくはないのだろうが、だとしたらメカ千早がスパイと暴露するメリットは何もない。

 もうタップだという焦りに焦った声と、スチール製のデスクをバンバン叩く音が聞こえた。小鳥はそれを全く気にする事なく、卍を解くと社長をうつ伏せに転がして腰回りに座り、哀れなる子羊の両膝を抱え込んだ。逆エビだ。
「小鳥さん、それ以上すると社長も入院しちゃうわよ」
「先月っ!! あずささんがっ!! 社長が胸ばかり見るってっ!! 言ってましたっ!! よっ!!」
 問題がすり替わっている気がするがまあいい。コミュニティの苦情受付係は小鳥だ。鬱憤も相当溜まっているのだろう。
「分かったわよ止めない。うんもう本当に止めない。止めないからちょっとだけ社長と話させて」
「とっ、止めてくれんのかね律子君!!」
 自業自得だろうに。
律子は冷ややかな視線を社長に投げた後、おもむろに腰をかがめて社長の涙目と向き合った。今日はジーンズだから下着を見られる心配はない。
「ねえ社長、他にも961側から何かなかった? 連合したいとかスタッフを引き抜きたいとかそう言うの」
 そこで社長の顔に痛みと焦り以外の色が浮かんだ。やっぱりか、と律子は思う。
「なんて言われたの」
「しっ、しかしだね律子君! き、君たちを巻き込むわけにはっ!!」
「小鳥さん」
 元気な返事が聞こえ、社長の表情が苦痛に歪む。ひねりも加えた逆エビはさぞかし痛かろう。話の聞き方としては大きく間違っている気がするが、しかし、
「私たちのこと家族だって言ってましたよね社長。家族に隠し事するのってよくないと思うけどなー」
「分かった!! 分かった話す!! 話すから足っ! 足と腰っ!!」
 腰と言えば小鳥が座っている部分だ。また罪状作っちゃってもう、と律子は冷ややかに笑う。
律子の目の前で苦痛以外の何物でもなかった社長の表情がほんの少しだけ緩み、次いで体ではなく心の痛みを吐露するかのようにゆっくりと口を開いた。

「…美希君を、961に引き抜きたいと言っていた。もちろん突っぱねたがメカ君のこともある。おそらく何がしかの方法で961は美希君と接触するのでは」

 やはり狙いはそれか。
いかにプロデュース会社が有能ではあっても、光るアイドルがいなければプロデュース業は成り立たない。箱が豪華なだけで中身を伴わないものなど消費者は興味を示さない。
そこへ行くと確かに美希は有力株だ。千早も条件としては当てはまるのだろうが、浮き沈みの激しいこの業界で海外に行ってしまっている千早に交渉を持ちかけるだけの時間は持てなかったに違いない。
メカ千早の容姿を設定したのが千早の出国前か後かは律子には判断しかねるところではあるが、961にとってタイミングが良かったのも間違いはないだろう。
「…それで、社長は何て答えたの」
 回答など分かり切っているくせに、律子は表情を殺して社長に尋ねる。
逆エビの呪縛がだいぶ弱まっているのか、社長は全く心外だという表情を隠そうともしなかった。
「765は961には乗らん。あんな若造にいいようにやられてはかなわんからね。―――だが、最終的には美希君の意思を尊重しようとは思っとる」
 顔が歪むのを止めるのは、律子にも難しかった。
 おそらく社長の言うとおり、美希のプロモーション活動が一応の終わりを迎える3月までの間に961側は何としても美希との交渉を持つに違いない。
社長の言いぶりからするにおそらくこの親父は先方にも「美希の意思を尊重する」と言っているに違いない。
ならば961側の取る行動は一つしかない。美希に向って直接「うちに来るか来ないか」と問いかけ

 まさか。

 律子の表情が止まった。顎に手を当てて斜め上を向いた律子の表情がどんどん曇っていく。
「―――君も、そう思うかね」
「―――やっぱり、社長もそう思う?」
 こうなると取り残されたのは小鳥だ。小鳥は何が「そう思う」のか全く分からず、抗議の意味で哀れなエビの体を反った。
「痛たたたた!! 小鳥君! それは痛い!」
「…だって、律子さんと社長だけで話が進んでるんですもん。私だって知りたいですよ。私たち、家族なんでしょ?」
 振り返った小鳥の瞳には不安の色がある。不安にも色々な色があって、小鳥のそれは家族の身を案じる色だった。
こうなると律子も社長も分が悪い。溜息をついて説明するからと言うと、小鳥は渋々とエビの尾を下ろした。
「…美希の自由意思を尊重するって社長が言ったとしますよ」
「言ったとすると言うか言ったんだがね。あの時はまだ、961側に美希君に提示できる魅力的な提案はなかろうと思っていたからね」
 クソ親父め余計な事を。
 律子の溜息につられてか、社長もまた溜息を漏らした。
「今までの考えで行くと、仮にもしメカ千早が産業スパイだったとしたら、メカ千早は私たちの想像できない手段で961側に情報を流してるってことになるわよね」
 頭だけ振り返っている小鳥が、ふんふんと頷く。
「どんな手段かは今のところ分からないけど、多分メカ千早が見たり聞いたりしていないことは向こうも知らないのよ。ある程度の推測はできるだろうけど、今のところ961がプロモーションをまねする以外の事をしてないのは多分そう言う事。美希の事が欲しいなら、もっと手っ取り早い方法だって」
「765の経営情報をある程度虚偽を交えて流出させれば、株価の下落を引き起こす程度なら訳はあるまい。向こうは弱ったわが社を買収すれば、美希君だけではなく他のアイドル達も―――スタッフたちも例外なく961側に組み入れることが可能になる。と言う事はおそらく、961側は765の経営情報をまだつかんでいないか、興味がないかのどちらかだろう」
 社長の捕捉に律子は頷く。補足の内容を鑑みるに、おそらく律子の想像は社長のそれと同じなのだろう。
「―――それで?」
「話を戻すわね。メカ千早が見たり聞いたりした事を961が知っているとするなら、メカ千早と美希の関係だってもうとっくに961側は気付いているはず」
 そこでようやく気付いたのか、小鳥の瞳に驚愕が現れる。社長はそこで悔しそうな表情を浮かべた。
「…メカちゃんをダシにして、美希ちゃんに交渉する?」
「美希が千早に憧れ以上の思い入れがあったことなんて多分961側も知ってるはずだわ。メカ千早と美希の間でもそんな会話してたみたいだし、それより前にも美希は随分千早にくっついて歩いてたみたいだから」
 参入する市場のライバル会社の調査くらいするはずだから、と律子は繋げる。
「―――それを見越してメカ君を千早君に似せたとしたら、恐ろしい話だ」
 とんでもない話だと小鳥も思う。
確かにメカ千早が765に来てからの美希は明るくなったし、美希がメカ千早にベッタリだったのも小鳥だけでなくスタッフも粗方知っている。
 しかし、それでは何だか、
「…でも、もし美希ちゃんが欲しくて961側がそんな事をしたとしますよ? なんだかそれって話が大きすぎません?」
 話が大きすぎる。メカ千早の製造に幾ら掛かったかは小鳥の預かり知らないところではあるが、律子の頭を一発でやらかしてしまうような物がまさか車1台分の値段と言う事はないはずだ。
大体美希を取り込むためならもう少しやり方があるような気がする。もっと安上がりで、もっとインパクトの

「―――あ」

「あの親不孝者が何と答えたかはわからんがね。だが恐らくあいつは首を縦には振らなかったんだろう。入院したのは、向こうにとっては僥倖だったのかもしれん」
 美希を961側に引き入れるために障害となるものは何か。
考えるまでもなくプロデューサーと千早の存在である。あの二人がいる限り、美希は決して961側の交渉に頷くことはないだろう。
しかし現状としてプロデューサーは再起不能であり、もう一つの柱である千早は現在海外に居を移している。

 2本の柱を失った美希の前に、柱の一つであった千早の代わりがふらりと現われる。
プロデューサーと千早という柱をなくした美希の依存する先がメカ千早だけになったところで、メカ千早を回収する。
「メカ千早と一緒にいられる」という餌を釣り下げられた時、果たして美希はどうするだろうか。

「―――でも、なんだかそれって寂しい考えじゃないですか…?」
 とうに逆エビの呪縛は解けていたはずなのに、社長は立ち上がることもせず俯いた。律子もまた顔を伏せる。
「私は―――私は、765で働く全ての者の、親だと思って今までやってきた」
 その思いが、美希に伝わっているかどうか。
 もし小鳥が共有できた社長と律子の考えが当たっているとすれば、美希が765に依っている理由はプロデューサーと千早がいたからという点に尽きる。と言う事は、美希のここで言う『家族』とはプロデューサーと千早だけという事になる。
 おそらく小鳥だけではない、律子も社長もスタッフたちも全員が美希の事を家族と思っているが、美希はそう思っていないという事になりはしないか。
 それは、あまりにも寂しいのではないだろうか。
「…で、社長。これからどうするの?」
 時計を見る。もう間もなく律子は美希を連れて今日の収録に行かなければならないし、社長はともかくとして小鳥にはこのあとに大事なオシゴトが控えているのだろう。
「…メカ君が完全に黒星である証拠があるわけではないからね。今のところは現状を維持しよう。…ただまあ、しばらくメカ君に仕事を手伝ってもらうのは控えた方がいいかもしれんな」
「賛成。じゃあ、私は美希のところに行きますね。小鳥さん、後はよろしく」
「―――何かねアトって」

 返事を返さず、律子は社長室の扉を潜る。
 扉を閉める前に、こんな声が聞こえる。
「…さて社長、現状の確認も終わったことですし、」
「―――小鳥君、ところでだね、足が非常に痛いんだが」
「コミュニティからの苦情も結構な数になってますからね。おまけに社長、さっき腰が重いって言ってましたねえ」
「―――済まない。済まなかった謝る。もうスタッフに色目は使わない。使わ」
 がったんごっとんという音。
「昨日テレビで初心者でも出来るプロレス技講座ってやってたんですよ。とってもおもしろそうだったんです」
「分かった。理解した。要求は何だね、私に出来る事なら何でもしよう」
「―――そうですか、分かりました。ではですね、」
 溜息をついて、律子は社長室の扉を閉めた。後ろを向く気はこれっぽっちも起きなかった。
「ちょっと、痛い目に遭いましょうか?」

 ぎゃああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーっ。



 見事なまでに夜だった。今日の収録は昼からだったが、2件目の収録が長引いた。
 車通りの少ない道は街灯にぽつぽつと照らされていて、美希と律子は歩道の端を事務所に向かって歩いている。
眠いのか美希はさっきからあふぅと欠伸をしていて、律子は美希に見えないように溜息をついた。
「何よ美希、眠いの?」
「…眠いって言うか、ちょっと疲れちゃったの。今日ってこの後事務所でミーティングして終わり?」
 驚いた。『疲れた』と言う単語は久しく美希から聞いていない。髪を切ってからか、美希はずいぶん前から漏らさなかったあの特徴ある欠伸もするようになっている。
「気分転換ならまあいいけど。…でも美希、そういうのこれっきりにしてね。根回し大変だったんだから」
「…ん、ごめんなの。でも何かすっきりしたでしょ?」
 引っ叩いてやろうかと思ったが止めた。
美希は律子の気配の変化を機敏に察知し、いつぞやのようにやーと笑いながら律子と距離をとる。
苦笑を洩らして手を下げると、美希はそのまま踊るように律子に先行した。
「全く…そんなに急いだって事務所は逃げないわよ。足元気を付けて歩きなさいね」
「分かってるのーっ!」
 この一週間は劇的な変化だった。今まで感じ取れていた内面の暗さが微塵も感じ取れない。
律子は歩を進めて美希に追いつくと、ためらいがちに口を開いた。
「メカ千早が、音響部屋で待ってる?」
「うん。この間『蒼い鳥』を歌ったから、今日こそ『朝ごはん』に挑戦するんだって言ってた」
「―――そう」
 昼の会話がよみがえる。やはり、美希はその根幹に至るまでメカ千早に依存している。これでメカ千早が「961のスパイでした」などと言ったら美希はどうするだろうか。
ほんの一瞬だけ表情が変わった律子の顔を見て、美希がおやと表情を変えた。
「律子さん?」
「ん? …そうね、ねえ美希。メカ千早がもし―――」

 律子は、そこで美希の顔を見た。
 美希が、笑っている。

―――961のスパイだったら、どうする?

「―――今以上に歌が上手くなったら、どうする?」
 美希は一も二もなく、
「嬉しいっ!」
「そうね。私も嬉しい」
 律子さんも? と美希は顔を綻ばせる。理解者が得られたとでも思ったのか、美希はそこでくるくると体を躍らせる。
ちょっと前までは靡いたであろう金髪の長い髪は、今は靡くことなくふわりと首にかかるのみだ。
「きっとメカさん、ミキよりずっと上手くなるの! そしたら、メカさんとユニット作れないかなあ」
「―――そうね。社長に掛け合ってみたら?」
 無理だと思う。もし本当にそんな事態になったとしたらメカ千早の存在を公にしなければならないし、限りなく961側の存在であるメカ千早と美希を社長が組ませるとは到底思えない。
―――私も甘いのかなあ。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、美希の表情が膨らんでいるのに気が付いた。
「むー。そういうのは律子さんの仕事じゃないの?」
「私はもう手一杯よ。もうお腹一杯。これ以上仕事増やされて堪るもんですか」
 冗談のつもりでそう言ったが、美希はそれを冗談と感じなかったらしい。
ころころと変わっていた表情を一変して消すと、美希はそこで立ち止った。
「美希?」
「うん。…そうだね」
 呟くと、美希は真正面から律子に向かい合った。街灯に照らされた二人の間には何もなく、横の道路には車の一つも走っていない。

 言うなら、今だと思う。

「ありがとなの、律子さん。ずっとずっとミキの事支えてくれて」
「―――…」
「感謝してるの。ホントだよ? プロデューサーが入院しちゃって、千早さんが海外に行っちゃって、ミキ一人ぼっちだったら今頃どうなってたか分かんない。ホントに、ホントにありがとなの」
 そう言って、美希は頭を下げた。
「―――今は、一人じゃない?」
 顔を上げると、律子の微妙な表情が目に入る。何と答えたのものか美希には分からず、正直に言おうと思った。
「うん。スタッフのみんなもいるし、お姉ちゃんみたいな律子さんもいるし小鳥さんも、お父さんみたいな社長もいるし。それに、」
 メカさんもいるから、と美希は繋げた。何となく照れ臭くなる。頬を掻いて下を向き、見上げた先に美希は律子の表情を見た。

―――でも、なんだかそれって寂しい考えじゃないですか…?
 律子もそう思っていた。寂しい考えだと素直に思う。世の中に人の心ほど難しいものはないとも思う。
―――私は、765で働く全ての者の、親だと思って今までやってきた。
 律子もそう思っていた。親とまでは言わないが、せめて姉代わりにはなろうと思っていた。プロデューサーを失い、千早も失った美希のせめてもの支えになろうとは思ってきた。

 思いは伝わっている。社長の、小鳥の、律子の、大勢の765のスタッフの気持ちは、美希に確かに伝わっている。
 それが素直に、律子は嬉しい。
「―――何言ってんだか。ほら、早く帰るわよ。社長にただいまって伝えてミーティングしちゃうわよ。メカ千早が待ってるんでしょ?」
「…うん!」
 考えすぎだったのだろうか。美希がメカ千早と765を天秤に掛けることなどないのだろうか。律子は家路を急ぐ。美希もまたじゃれつくように律子に話しかけながら、街灯に照らされた歩道を二人は並んで歩いていく。



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