CDは腐るほど聞いた。聞いたのに、何故か歌えないとプロセッサが判断した。
5番メモリにはとっくの昔に歌詞をインプットしていて、もう何度聞いたか分からない音源との照らし合わせと歌詞カードの記載事項とメモリの内容には何の違いもなかった。
しかし、何かが足りないとプロセッサは判断している。何が足りないのか自問自答はしているものの、プロセッサもサブメモリもそれについてはさっきからちっとも有益な回答を返してくれない。
美希と病院の屋上に行ったときには確かに歌えたはずの歌が、メインへの通電が途絶えてこの方一向に歌える気配がない。やはりメインメモリに格納していたはずの何かがネックになっているのだろうか。
 そんなはずはないのだ。メインメモリのバックアップは主記憶にログとして残っているし、メインと同等の容量を持つサブメモリは屋上での再起動の時に完璧にログを飲み込んだはずだ。
しかし事実として飲み込んだはずなのに、メインメモリと全く同じ中身のはずのサブメモリを参照しても歌の一つも歌えない。
万が一の可能性としてメインメモリにバックアップミスがあった事が考えられるため、先ほどから何とかメインにアクセスできないかと随意デバイスパスをごにょごにょしているのにメインはうんともすんとも言ってこない。完全にショートしてしまっている。
―――困りました。
 困ってしまった。このままでは歌も満足に歌えない。
時計を見ればもうすぐ美希が帰ってきてもおかしくはない時間で、昼休みに「今度こそ『朝ごはん』に挑戦します」と言ってしまった時の美希の顔を思い出すと「やっぱり歌えませんでした」は相当がっかりされる気がする。友達にがっかりされるのは本意ではない。
―――ユーザーなら、修復して下さるのでしょうか。
 メカ千早の見る限り、メカ千早が感じているメモリの不具合を修正できるのはユーザーだけだ。が、ユーザー情報については何度かアクセスしたものの、主記憶はもとより随意パスで応対ができる8つのスロットメモリも揃って「No data」と言ってきた。
 誰に作られたのか、何のために作られたのか、それ以上にどこから来たのかもメカ千早は分からない。データがないためだ。
 そもそも―――プロセッサとサブメモリにやり取りをさせ、メカ千早は自分の事を考える。
なぜ、私は製造されたのだろうか。
何の目的があって影も形も分からないユーザーは「BST-072」を製造したのだろうか。
何か目的があったはずだとプロセッサが判断はしている。判断はしているが、その目的がいまだに分からない。
―――なぜ、私は製造されたのでしょうか。
 厄介な事に、メカ千早は自分がロボットだと言う事を知っている。
データにしかないからそうとしか言えないが、人間はメカ千早のように随意デバイスを使って複数のメモリを参照することはできないらしい。
さらに言うなれば目も夜間用にサーモに設定変更できないし、デジベル波で音源を特定することも出来ないらしい。
この5カ月と言うものずっとメカ千早は生まれ持った自らの機能に疑問を持たずに来たが、メインメモリが破損してからこの1週間ずっとそんな事を考えている。この疑問はどうしたら解消されるのだろうか。
―――そうだ、
 ミキに相談すればいいのかもしれない。ミキは何も分からない私の事を友達と言ってくれた。
ミキならば何か回答を与えてくれるはずだ。そういえばもう私はオリジナルに近づこうとは考えていない。
なぜだろう、そうだ歌だ、歌を歌ったんだ。あの時は歌えたのだ。なぜ今は歌えないんだろう、何か大切なものが足りないような、あの時ミキは何かを言っていたはずだ、そう何か、なんだっけ、何かとてもタイセツな、

―――   のない歌は棒読みと同じだって、千早さん言ってた。

 参照できない。いつの話かももう正確に思い出せない。メインメモリの依存率が高かったから、日時はメインメモリにしか格納していなかったのだろうか。
確か歌を歌うきっかけになった出来事があった時だ、会話の前後もあの時の『朝ごはん』も記録してあるのに、美希が言った言葉の頭だけにノイズが掛かったように参照できない部分がある。
あの部分がおそらくは歌うために絶対に必要な部分だったはずだ。参照できない、何かとても大切なものを私も手に入れることが出来た筈なのに、

 なんだっけ

「ああ、メカ君。ここにいたのかね」
 呼びかけに振り向くと、音響部屋の入り口に社長が立っていた。
手には2枚の紙が握られている。メカ千早のアイカメラが自律反射でそれをとらえ、メカ千早の意思とは無関係にカメラが望遠モードに切り替わった。何か文字が書いてある。
「すみません、タカギ社長。音響室を使われますか?」
「いや、あー…、使わないよ。それより、君にこれを見て欲しくてね」
 手渡された紙を見ようとして勝手にアイカメラがノーマルモードに切り替わった。渡されたプリントはどうやら美希のスケジュールのようだ。それくらいわかる。スケジュールはメカ千早が律子と協力して組んだものだったし、そこかしこに「美希」と言う名前が書き込んである。
問題は2枚目の方で、驚くほどにそっくりなそのスケジュールにはメカ千早と律子が苦心して作ったスケジュールと瓜二つだった。違いと言えば「美希」の名前が書かれていたところに全く知らない人物の名前と思しき書き込みがある事くらいだった。
「…非常に似ています。しかし、2枚目の方の名前は認識していません」
 社長の顔が歪んだ。何事かと見遣るメカ千早の前で社長はひどく難しい顔をして、次いで言い辛そうに、
「あー…、その、何だ。えーとだね、これは、…961プロの、プロモーション資料を分かる範囲で纏めた物なのだがね」

 きゅうろくいちという単語が、ひどく懐かしい気がした。

「961プロ…ですか」
 そこで社長はおもむろに首を回した。ごきりという音すら立てて回った首にメカ千早は驚いた表情を浮かべて、
「―――タカギ社長、どこか悪いのですか?」
 次いで心配そうな顔をしたメカ千早に、社長は苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「心配してくれるのかね」
「社長は、私の事を家族と言ってくれました」
 なんとまあ。
 社長は目をつぶる。1か月も前の話がつい昨日の事のように感じて、社長の決意がわずかに揺らぐ。
 それでも、765のために、目の前の家族のために、社長は言わなければならないと思う。

「そうだ。君は765の一員で、私の家族だ。私も君に助けてもらっているし、君さえよければこれからも765のために働いてほしいと思っている。これは今でも揺るがない。―――だからこそ、だからこそ私は、君に言わねばならない」 

 社長の表情はあまりにも苦しそうだった。メカ千早はその様子を黙って見ている。
その表情に勇気を貰ったのか、社長はついにその口を開いた。

「―――君の、ユーザーが分かったのだよ」

―――――――――。

「…誰、だったのですか?」
 メカ千早の静かな問いかけに、社長は苦しそうに眉根を寄せ、上を向いて首を振り、擦れたような声を漏らした。

「…君は、利用されていたんだ。どんな方法か分からないが、おそらく君の見た物や聞いた事は間違いなく向こうに漏れているはずだ」

「…何を、仰っている、のか、」
 分かりかねますと言おうとしたところで、社長はやっとメカ千早に視線を下ろした。
 恐ろしいまでの決意が伝わってきた。
「君は、自分の製造目的が分からないと言っていた。これは、事実だね?」
 疑問ではなく、確認のための問いかけだった。律儀にもメカ千早は随意パスを使って主記憶とサブメモリ、8つのスロットメモリに至るまですべてに同じ質問をし、帰ってきた返答がまったく変わりがないことを確認して社長に頷く。
 社長は、泣きそうな顔をしていた。

「961の、黒井という名前に、覚えがあるかね」

 961の、黒井。
「ありません。ありませんが―――」

 確かにない。黒井という単語はメカ千早が現在稼働を自認している合計10の記憶デバイスの中に存在しない。存在しないが、

「とても、懐かしい気がします」

「―――そうか」
 傍から見えるほどの落胆だった。社長はがっくりと肩を落とし、メカ千早は何と言葉をかけていいか分からない。高木社長に掛ける言葉をサブメモリに退避させ、
 メカ千早は遂に、その言葉を言った。

「―――私のユーザーは、961の、黒井という人なのですね」

 最早言葉を作る気力すらなくなったのか、社長はゆっくりと頷いた。
961と言えば新興のプロデュース会社だ。律子とともに美希の営業スケジュールを組んでいるときに何度か見た名前だ。そこの親玉が自分のユーザーだという。
 先ほどの社長の言葉が、メカ千早のサブメモリから蘇ってくる。

―――どんな方法か分からないが、おそらく君の見た物や聞いた事は間違いなく向こうに漏れているはずだ。

 では、私の製造目的とは、

 単語検索を開始。検索エリアはすべてのスロット及び主記憶。
検索の要綱:企業内部に侵入し、その情報を所属企業に伝えるもの及びその行動。
僅かののちに、主記憶の奥底から単語が1件ヒット。一度サブメモリに退避されたその単語がプロセッサによってデコードされ、オペランドされる間の一瞬の時間が恐ろしいほど長く感じる。
結果を解釈。そんなはずはない。
もう一度の検索開始。やはりヒットは1件のみ。類義語も検索、ヒットが何件か。
優先ヒットの結果を信じたくない。類義語を一気に洗う。結果を解釈。そんなはずがない。
ルーチンが悲鳴を上げる。これ以上の検索は無意味とプロセッサの要求を拒む。プロセッサがルーチンを尊重。検索終了。優先ヒットを再解釈。
 
 再解釈の結果は変わらなかった。

 足もとに穴が開いたような気がした。
今立っているのは音響部屋の床の上ではなくて、奈落の穴に掛けられた細い細い紐の上のような気がした。
紐が切れてしまったが最後、もう底からは上がってこれないような気がした。

 何故なのか、やっと分かった。
人間にはついていないサーモ兼用のアイカメラも、人間には到底真似できないデジベル波の音源測定機能も、すべてはそのために付けられていたのだ。
 何のために製造されたのか、自分が何のためにどんな役割を演じていたのか、やっと分かった。

 分かってしまった。

 社長の目の前で、メカ千早の表情が絶望に彩られていく。そんな筈はないと思っていたことが、目の前に現れたかのような表情をしている。
 いつかの美希の言葉が勝手にメモリから呼び出される。
 もし涙が流れるならば、今流れて欲しいと願う。

「―――私は、…961の、産業スパイなのですね」



 社長室に社長はいなかった。どこに行ってしまったのか、社長は忽然と社長室から姿を消していた。
まったくどこに行ったんだろうと呟く律子を尻目に美希はそわそわと落ち着かない様子で事務所内を見回した。ひょっとしたらメカ千早が事務作業を手伝っているかもしれないからだ。
 と、美希の視界に妙にすっきりとした表情の小鳥が映った。
「小鳥さん、ただいまなのー」
「あ、美希ちゃんに律子さん。お帰りなさい」
「ただいま。ねえ小鳥さん、社長どこ行ったか知ってる?」
 すると小鳥は邪気満載な笑みを浮かべ、「接骨院じゃないですかね?」と世にも恐ろしい事を言った。悪魔が笑ったらこういう顔をするのではないかという気さえする。
「…小鳥さん、何やったの?」
 白々しく聞いてくる律子に子供が見たら裸足で逃げ出す恐ろしい笑顔を浮かべた小鳥は、
「えーと、昨日のテレビでやってた『サブミッション48手・仏壇編』っていうのやってみました!」
 マスメディアの影響は恐ろしい。具体的にその何とか仏壇編を想像したくなくて、律子はフルフルと首を振った。今日はいいにしても明日以降社長は立って歩けないかもしれない。
 小鳥から今日分の業務日報を受け取った後、美希はついに耐えきれなくなったのか律子に向ってこう言った。

「ねえねえ律子さん。ミキ、音響部室に行っていい?」

「駄目に決まってるじゃない。ミーティング終わってからよ」
 と言ってもミーティングしなければならない事はあまりない。
せいぜいが明日以降も収録が続くからくれぐれも体調には気をつけるように程度のもので、それを知っているからか美希の表情は不満たらたらだった。
 じー。
「…何よ。そんな顔で見たって駄目よ」
 じいい。
「…ダメだって言ってるでしょしつこいわね。早く始めればその分早く終わるんだから、ほら座って座って」
 じいいいい。
「美希」
 じいいいいいいいい。
「…分かった。分かったわよ分かりました。私の負け。明日も収録あるんだから、早く帰るのよ」
「やったっ! 律子さん、ありがとなの!」
 言うが早いか美希は駆け出してしまった。転ばないようにと注意しようとして止める。美希はあれで運動神経の良い子だ。
 ふと視線を感じて小鳥の方を見ると、小鳥が妙ににやにやとした目つきで律子の方を見ていた。
「律子さん、優しいですねえ」
「…そんな事ないです。小鳥さんまでそんな事言わないで」
 恥ずかしくなって目を逸らしたが、逃げた視界の隅にも小鳥の笑いが映っている。どうせ甘いですよ、と諦めたように目を閉じて、

「まあ、姉貴分としては、妹分の希望くらい叶えてあげないとね」

「―――? 何ですかそれ」
 余計な事を言ってしまったような気がしたが、こうなるともう小鳥の探究心は止まらない。
まったくこの業界にいるくせに小鳥には随分ミーハーなところがあって、気になったら首を突っ込んでも止まらない小鳥の勢いに押される形で律子は口を開いた。
「さっきね、美希が言ってたの。765は家族みたいなものだって。私や小鳥さんは姉代わりだって言ってたわ」
「ホントですか?」
 小鳥の顔が輝いている。まったくさっきは子供が見たら失禁しそうな顔をしていたくせに。
うんと頷き、律子はペン立てに無造作に突っ込まれていたボールペンを引っこ抜いて業務日報に今日の日付を書き込む。
「ありがとうだって。全く、どこまで考えなしなんだか」
 口調とは裏腹に律子の顔には照れ笑いがある。小鳥もまたその様子を優しそうに見つめ、
「…私たち、考えすぎだったのかもしれませんね」
「そうかも。今の美希なら、ちゃんと帰ってこれる場所があるって分かってる美希なら、大丈夫なのかもね」
 何があっても、と律子は言葉を結んだ。



 事務所は4階にあるが、音響室は5階にある。防音施設が5階にしかないためだ。
律子に礼を言って事務所を出た美希がスキップするように階段を上っていく。
何となく気分が良かった。律子に今までの礼を言えたという事もあるし、とうとうメカ千早が一日千秋の思いで待ち焦がれた『朝ごはん』にリベンジするからかもしれない。
この一週間というもの朝と夕方くらいしかメカ千早に会えていないが、メカ千早はいつも美希が夕方765に帰ってくると音響室で揺れている。おそらくは今日もだろうと思うと、美希の足は自然と速まる。
 最近メカ千早の歌を聴けていないが、大丈夫だろうか。
 最後に聞いた『蒼い鳥』は贔屓を除いても素晴らしい出来だったと美希は思う。このままCDにして売ってしまってもいいんじゃないかとすら考えている。
 最近メカ千早が美希の前で歌を歌わないのは『蒼い鳥』の時に泣いてしまったからではないか、と美希はほんの少しだけ思う。
 階段を上がり切り、美希はつま先を右に向ける。
 音響部屋は5階の突き当りにあり、しかしビルそのものの横幅があまりないために階段から右手に折れればすぐに音響部屋が目に入る。
美希はそこで、不思議なものを見た。

 音響部室のライトが付いているはずなのに、扉が開いている。

 音響部室は読んで字のごとくCDや発声といった音の出る行為を行うための防音ばっちりの部屋であり、高木社長がわざわざ高めの賃料を支払ってまでこのビルに事務所を移した理由もそこにある。
目下のところ音響部室はアイドル達が発声や新曲の音合わせのために使っているのだが、その際に担当のプロデューサーから口を酸っぱくして言われることがいくつかある。
 その代表的なものが、「扉をきちんと閉めるように」だ。
 音響部屋の4辺を覆う壁紙は音を外に漏らさないために反響させる素材を使っている。天井の素材は柔軟性と吸収性に富んだものを採用していて、そこで音を吸収する仕組みだ。
という事は、半端に扉を開けていると反響した音が狭い扉に殺到するように集まり、予想以上に大きな音が外に漏れ出てしまうのである。「扉をきちんと閉めるように」というのは初歩にして絶対に守らねばならない音響部屋の掟なのである。
 が、何故か今日に限って扉が少しだけ開いている。
 メカ千早が締め忘れたのかと思ったが、そんな事は絶対にないと美希はすぐに頭を振った。メカ千早は今までずっと昼休みに音響部屋を使っているが、今まで扉を閉め忘れたことなど一度たりとてない。
おかしいな、と思いながら音響部屋に近づき、美希はその声を聞いた。

「―――君の、ユーザーが分かったのだよ」

 高木社長の苦しそうな声だった。今までの楽しい気分が一遍に霧散した。ユーザーとは何だろうか。
 確かメカさんがメカさんを作った人の事をユーザーって呼んでいたような。という事は今音響部屋にいるのは社長とメカさんで、

「…誰、だったのですか?」

 メカ千早の声が聞こえる。メカ千早の声には緊張以外の何物もない。

 美希の心臓が、一度大きく跳ねた。
 ここから先は、聞いてはいけないような気がした。

「…君は、利用されていたんだ。どんな方法か分からないが、おそらく君の見た物や聞いた事は間違いなく向こうに漏れているはずだ」
「…何を、仰っている、のか、」
 社長が何を言っているのか全く分からない。利用されていた、とはどういう事か。見た物や聞いた事が向こうに漏れている、とはどういう事なのか、全く頭が理解してくれない。
「君は、自分の製造目的が分からないと言っていた。これは、事実だね?」

 そうだよ、メカさんは嘘なんかつかないもん。最初にそう言ってたもん、間違いないもん。
 嘘じゃないもん。

「961の、黒井という名前に、覚えがあるかね」

 心臓が止まった。
 4日前の電車の中で見せられた名刺には、確かに「961プロデュース株式会社代表 黒井」と書かれていた。あのいけ好かない男の顔が美希の脳裏に蘇る。

 あの男の名前が、なぜ今出てくるのか。

「ありません。ありませんが―――」

 ほらやっぱり。何でメカさんが961の人の名前を知ってるって思うの?
 メカさんはあんな人と何の関係もないんだから。
 メカさんは765の人なんだから。

 メカさんは、ミキの友達なんだから。

 そして、次に聞こえたメカ千早の言葉は、美希の心の容量にはあまりにも大きすぎた。

「とても、懐かしい気がします」

 そんな筈はないと思う。思っている。聞き間違いだと思う。
 美希の足がふらふらと前に進む。
 もうすぐ音響部屋に着く。
 着いたらそうだ、『朝ごはん』を歌ってもらうんだ。きっと今度こそ上手く歌えるはずだ。
2か月前のメカさんと今のメカさんはもう全然違うんだから。メカさんの歌ってすっごく上手いんだから。
きっと疲れているんだろう。今日の録画も長引いたし、最近も夜あんまり眠れてないし、きっとメカさんは今だってソケットを首に刺して揺れているはず、そうだそしてミキが音響部屋に入ってメカさんって呼べば、きっとメカさんはプラグを抜いてこっちを見てにっこり笑って、

「―――私のユーザーは、961の、黒井という人なのですね」

 考えが蒸発した。ただ一歩一歩を引きずるように歩く。あれほど近かった音響部屋はもはやあまりにも遠く、それでも美希は震える足を引きずって音響部屋の扉に手をかけ、
 それを、聞いた。

「―――私は、…961の、産業スパイなのですね」

 扉の隙間から見えたメカ千早の顔が、泣きそうに見えた。



「―――嘘なの」



 最も聞きたくなかった声が聞こえた。社長は驚いて音響室の扉の前から離れ、次いでそこにいる人物を見た。
ついこの間まで長い金髪だったはずなのに、そこにいる人物は栗色の髪のセミロングに変わっていた。
彼女はもう一度嘘なのと言うと、まるで無表情を絵に描いたようなおぼつかない足取りでメカ千早の腕を掴んだ。
「ねえ、メカさん。嘘だよね。そんな事あるわけないよね。メカさんって嘘上手いなあ。ミキ信じちゃうよ。社長も何か言ってよ。ねえ、そんな事ないって言ってよ。今日はメカさん『朝ごはん』に挑戦するんだよ。この間のはちょっとあれだったけど、今日の『朝ごはん』はきっとすごいんだよ。だからね、ねえ、メカさん、」
 メカ千早の腕ががくがくと揺らされる。メカ千早は虚ろな瞳をしている。何も見ていないかのように見える。社長が顔を伏せる。表情に苦渋が満ちている。美希が必死の表情で社長を振り返る。顔を伏せた社長を見て、美希がメカ千早を振り返る。
 メカ千早が、口を開く、

「―――私は…」

 その表情が、能面のように無表情になった。

「っ!」

 メカ千早の腕を放して美希は走る。締まり切っていなかった音響部屋の扉に体当たりをするように体全体でぶつかり、ふらりと崩れかかる体を足を踏ん張ってとどめる。
メカ千早の視界から美希の姿が消える。同時に足で床を踏みつける音。走っている。直ぐに階段を降りる音が聞こえてくる。

 走り去る美希の瞳から落ちた光を、メカ千早は見た。

「美希君!!」
 我に返ったかのような社長の大声が聞こえてくる。足音が次第に遠ざかる。
社長が慌てたように音響室の扉の取っ手をつかみ、メカ千早はそこでようやく口を開いた。
「―――…ミキを、追いかけないと」
「行けるのかね?」
 振り返った社長の顔は必死の形相をしていた。感覚器もおぼつかなくなったせいでまっすぐ歩けない足を動かし、メカ千早は社長を追い抜くように音響室を出る。
「分かり―――ません。でも、私は、…私が、もしスパイであっても、私は、」
 果たして、今の自分にその資格はあるのだろうか。美希を泣かせてしまった自分が、そう言う資格はあるのだろうか。
今は分からない。分からないが、美希を追いかけないといけない。サブルーチンが『状況不明のため待機』の指示を出す。プロセッサ指示に盲目的に従う脚部セルモーターが反抗する。足が引きずられるように前に出る。
「ワタ、シ、ハ…」
「私は事務所に残っているスタッフに声をかけてくる。あとから必ず探しに行く。だからメカ君、」
 廊下に出たメカ千早を追い抜くように社長が先行する。社長は一度だけ振り返り、メカ千早の顔を正面から見た。

「美希君を、頼む」

 それだけを言って、社長は階段を下りていく。



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