BST-072  (18)

 12.

 「ななひゃくろくじゅうご」と読めた。

 メカ千早はぼんやりと周りを見回す。目を開いて最初に入ってきたものはガムテープで窓一面に貼られた数字で、メカ千早は思うさま首をかしげる。
 ここは、どこなのでしょうか。
 ちょっと前までは確か夜だったはずだ。確か飛び出した美希を追いかけて外に出て、美希を発見して安心した瞬間に美希がトラックに轢かれそうになったはずだ。
美希の肩に手をのばして後ろに転がしたところで記憶は途切れてしまっているが、目を開けられるという事は緊急用プログラムは作動していないという事になる。
が、何か妙だ。おかしなことに風景に色が付いていない。モノクロもいいところである。不思議に思って両手を見てみたが、やはり表皮の色は薄い灰色だった。
アイカメラに何か損傷があったのかとサーモに変更しようとしたが、これもなぜか上手くいかない。それではと望遠モードに切り替えようとしたがこちらもうまくいかなかった。
どうやらアイカメラはノーマルで固定されてしまっているようだ。
 変だ。
 これは妙だと思い、随意パスを起動してプロセッサとメモリにやり取りをさせようと試みる。が、なぜか随意パスが起動しない。
メカ千早の思考プログラムはプロセッサとメモリを随意パスで繋げてやり取りさせるものだから、随意パスが起動しない以上は思考もできないことになる。
 それなのに、自分は今「変だ」と思う事が出来る。
 妙な話ではある。自分はロボットのはずなのに、人工脳そのものが働いていないのに何かを考えることができてしまっている。
あり得ないことだ。やはり何か尋常なからざる衝撃を受けてどこかが致命的に故障してしまったのだろうか。
 意識した瞬間言いようのない恐怖が体の中を這いまわった。そういえばこの景色も不思議すぎる。
ちょっと前までは総天然色の世界が見えていたはずなのに、今見ているのは白黒の濃淡で表わされるモノクロの世界である。
助けを求めるようにメカ千早は視線をさまよわせ、あり得ないことに気が付いた。
 ガムテープの横の建物がぼやけている。
 メカ千早の視界に入っているガムテープがべったり付いた建物の両脇に建物らしきものはあったが、なぜか靄がかかったようにかすんでしまっている。
はじめはピントの誤作動かと思ったが、どれだけ目を凝らしても両脇の建物ははっきり見えない。
きっと「何とかビルディング」のようなビルの名称板のようなものもあるにはあるのだろうが、それすらも霞んでしまっていて見えない。
それどころか、メカ千早の見る所ちゃんと建物の体裁を整えているのはガムテープの建物だけで、右を見ても後ろを見ても左を見てもどの建物にも霞が掛かってしまっている。
 メカ千早が今立っているのは見上げれば「ななひゃくろくじゅうご」のガムテープがはっきり見える建物の前の道路だが、道路は道路である程度以上視線を投げるとこれまた虚空に消えてしまう。
 虚空に消えてしまう。
 そう言う表現がぴったり当てはまるような場所だった。まるで街全体が濃い霧に覆われてしまっているようだった。
そのくせに見上げた薄灰色の空では風もないくせにぽっこりと浮かんだ雲がゆっくりと東に流れていく。
 音すら何も聞こえない。
 道路があるくらいだから車の一台くらい走っていてもよさそうなものなのに、タイヤがアスファルトをすべる音すら全く聞こえてこない。
 当然人の姿もない。まるで灰色の街にたった一人で取り残されたような気がする。
 仕方なしに視線を上げると、「ななひゃくろくじゅうご」のガムテープが妙に鮮やかに目に入った。
 「ななひゃくろくじゅうご」とは、ひょっとして765の事でしょうか。
 765の看板と思しきガムテープから視線を下げると、提灯と「ホッピー」と書かれた看板が目に入った。
ようやくアイカメラの機能が復活したのかと思って周りを見回してみたが、やはり周りは霧に掛かったように霞んでいた。
仕方なしに「ホッピー」の看板に視線を投げると、すぐ上の灰色の提灯に「たるき亭」と書かれているのが目に入る。
 どこかで聞いた事のある名前だ。
 他の建物は全く建物の体裁を整えていないくせに、この「たるき亭」なる店だけは妙にはっきりと意識できる。居酒屋丸出しの店構えに溜息をつくと、「ホッピー」の看板のすぐ裏に上へと繋がる階段が目に入る。
 どうやら上がれそうだ。サーモは使えないし人工脳を構成しているプロセッサもメモリも随意デバイスさえも反応してくれないが、いつまでもここにいても仕方がないとは思う。
 上がってみよう。



 『765プロデュース株式会社』という自作を思わせる看板の付いた扉を開けると、嫌に雑然とした空間が姿を現した。
ブラインドカーテンから漏れ出る光に照らされた並んだスチール製のデスクの上にはおびただしい数の書類が山と積まれており、注意しなければ机に乗ったパソコンの類に気がつかなかった。
 本当にここはどこなのだろう。
 周りを見回すとデスクから少し離れた場所にデスクよりもはるかに綺麗な机があり、机にはそこそこの値段がしたであろう椅子が4つほど並んで置いてある。
交渉用の机だろうか。ふらふらと導かれるように机に近づき、メカ千早はそこに置かれた書面の文面を見た。
 「星井美希・如月千早の今後のプロモーションについて」と書かれていた。
 視線を下ろすと2ヶ月分の美希とオリジナルに関するプロモーションの方針が印刷されていて、ところどころに薄い黒字で注釈が入れてある。
もし天然色で見ることができたのなら、これらの注釈はおそらく赤ペンで書かれているのだろう。
 ふと、そこでメカ千早は音を聞いた。
音源を捜そうと首を回したメカ千早の目に「社長室・ノックしてね」とこれまた自作を疑わせるプレートが掛かっている扉が目に入る。
もしかしたら社長がいるのかもしれないと淡い期待を持って扉に近づくと、「あれーっかしいなー」という若い男の声が聞こえた。
 誰だろう。
 思い出せるあらゆる声色を思い出してみたが、どうもメカ千早の記憶にその声色はない。しかしこのモノクロの世界で初めての人の声だ。
導かれるように扉に向かって控え目なノックをすると、「トイレはこっちじゃないよ」という間抜け丸出しの声が聞こえる。



 尻に出迎えられた。
 真に残念な事に声の主は前屈するようにテレビの裏側を見ており、入室したメカ千早を一瞥すらせずにこう言った。
「トイレは事務室の突き当りを右。社長室とは反対の方向ね。紙は入って上の棚に入ってるから。使い終わったら流すの忘れないでくれよ」
 ケツの奥には窓があり、正面から見えた765のガムテープが裏返しになって貼ってあった。
手前にはテーブルを挟むようにぼろっちいソファーがあって、やはりこれも黒の濃淡にしか見えない。
男はデスクに置かれたテレビの背面を前屈して覗いており、「あれーやっぱり配線間違ってるわけじゃねーなー」とケツを揺らしながら呟いている。
 気になりすぎる。
「何をしているのですか?」
「何ってビデオデッキが壊れたから直そうとしてんだよ。道に迷ったんなら交番行ってくれ。出て右に折れて十字路を左。うちはしがないプロデュース会社だからな、アッシー君はいないぞ」
 そこまで言って、初めてケツが振り向いた。ケツの表情がとたんに驚いたものに変わる。
「…千早って妹とかいたのか?」
 驚いたのはこっちだ。さっきまで見えるものはすべてモノクロだったのに、振り向いた男の顔は見事に総天然色だった。
白いワイシャツに黒のスラックス、ネクタイは藍色の男はため息をついてメカ千早を凝視する。
「…ひょっとして腹違いの姉か妹とかか? 悪いな、千早は今いないぞ」
 おまけに、社長も小鳥も律子も美希でさえも最初はメカ千早の事を千早本人と言って疑わなかったのに、目の前のケツ男は一発でメカ千早を別人と理解したようだった。
「いえ、私は、その、」
 何と答えていいか分からずに口ごもると、男は一瞬だけ不思議な表情をしてソファーを指さした。座れと言う事らしい。
意義もなく黙って従うと、色付きケツ男は先ほどから構っていたテレビに苦々しい視線を投げてメカ千早の向かい側に座る。
「で、あんたどちらさん? 千早に似てるけど、千早の身内か?」
「身内―――では、ないのですが」
 要領を得ないメカ千早の言葉にふうんと漏らし、男はテーブルの上に置かれたモノクロのリモコンの電池パックをバチンと外した。
テーブルの上にはやはりモノクロの電池が何本か置かれている。何度か電池交換を試したあとらしい。
「私は、識別名証BST-072、です。ミキには、メカ千早と呼ばれています」
 美希の名前に反応したのか、
「美希って、星井美希? うちの?」
 そうですと答えると、男は疲れたように背もたれに体を預けて目を閉じた。
あれ、と思う。この顔をどこかで見たことがある。どこだっけ、
「もーまったく美希も千早もどこ行っちまったのかな。しばらく会ってねえけど、美希は元気か?」
 男の顔に一瞬にして心配そうな色が浮かんだ。ずいぶん親身になって心配しているようだ。
男の顔をどこで見たのかいまいち思い出せず、
「あなたは、ミキの家族の方なのですか?」

「いんや、美希と千早のプロデューサー。まあ家族みたいなもんだけど」

 思い出した。そう言えばこの男の顔は病院で寝ていたプロデューサーに瓜二つだ。
へらへらと笑う目の前の表情からはあまりそうは思えないが、さっき目を閉じたところは本当にそっくりだった。
「…って待て、あんたの名前…何だっけ、VHSの?」
 一文字も合っていない。メカ千早はため息をつき、「BST−072、です」ともう一度自分の識別名証を伝える。
「もっとも、ミキやスタッフの方からはメカ千早と呼ばれていますが」
 自称プロデューサーの顔に疑問が浮かぶ。
「メカ、千早? 何だそりゃ。いじめにでも遭ったのか?」
 どうやらプロデューサーは歯に衣着せぬ男らしい。メカ千早はため息をつき、私はロボットなのですと告げる。
するとプロデューサーの頭に何か光るものがあったのか、メカ千早を期待満面の笑みで見た。
「ロボットってことは機械強い?」
 そんな事を言われても。
765のスタッフに自分がロボットであると伝えた時には全員が驚いた顔をしていたが、どうもプロデューサーはそのあたりはどうでもいいらしい。
よほどビデオデッキの方が大事なのだろうか。一瞬いつかのように左手首を取り外してやろうかという誘惑に駆られる。
「強い…かどうかは、自分では分かりかねます」
 返答にがっかりした表情を浮かべ、プロデューサーは再びリモコンをいじり出した。
そう言えばさっきからプロデューサーはテレビの背面を覗き込んだりしている。
「いやな、ビデオが映んなくなっちまったんだよ。さっきまで映ってたんだけどなあ」
 メカ千早の目の前でプロデューサーはリモコンの電源スイッチを押した。
ぶつっ、という古いテレビ特有の音を立てて通電はするものの、モノクロのテレビには波画面が表示される。
さっきからこの調子なんだとプロデューサーは言い、諦めたようにリモコンを机に置いた。
「あーもう。誰も来ないし娯楽って言ったらこれくらいだったのに、ビデオまで壊れたら何すりゃいいんだ俺」
 配線も間違ってないし電源は入ってるはずなんだけどなあ、とプロデューサーは呟く。
「…何を、見ていたのですか?」
 メカ千早の質問にプロデューサーは疲れたように笑い、
「美希と千早のプロモーションだよ。あいつらももうすぐDランクだからな、弱点潰しとかないとこの先が辛いんだ」
 千早はカメラ映りなんか気にしないし、美希は歌がなあ、と呟かれた。
 そう言えば、さっき見た来客用と思しきテーブルの上にはびっちりト書きの書かれたプロモーション資料があった。あれもプロデューサーが書いたのだろうか。
 それにしてはプロデューサーは妙な事を言っている。メカ千早が知っている美希は1か月も前にAランクになっているはずなのに、プロデューサーはまだ美希はEランクだと言っているのだ。
「うちの星井美希」と言っている以上はプロデューサーの言う美希とメカ千早の知っている美希は同一人物のはずだが、この違いは一体何なのだろうか。
「…そうだそれだよ。美希は元気か? まだ千早にくっ付いてるのか?」
「答える前に、質問をしても?」
 さっきから質問ばっかりじゃねえか、とプロデューサーは苦笑いを漏らす。
いいよと言われ、メカ千早は最初から棚に上げていた質問をすることにした。
「ここは、どこなのですか?」
「どこって、」
 困惑気味なプロデューサーの視線が窓に注がれた。
つられるように窓を見たメカ千早の視界にモノクロのガムテープで貼られた「765」の文字が映る。

「高木順一郎率いる765プロデュースの社長室だよ。トイレはここ出て突き当りな」

 トイレに何か思い入れでもあるのだろうか。
そう思っていると、ぶつっ、という不思議な音が耳の後ろあたりから聞こえ、ついでふらりと頭が揺れた。
プロデューサーがその様子に「大丈夫か?」と声を掛けてくる。
「…大丈夫です。では、あなたはホシイミキのプロデューサーで間違いはないのですね?」
 さっきからそう言ってるじゃん、とプロデューサーの表情が雄弁に物語っていた。
「しかし、美希も千早もまだ無名なのによく知ってるなあいつらの事。ホントに千早の身内じゃないのか?」
 辟易した表情を一変させて嬉しそうな表情を作ったプロデューサーに、ええまあ、と曖昧な返事を返す。
プロデューサーはその様子を見て、
「サイン貰っとくなら今のうちだぞ。千早もそうだが美希は光るもの持ってるからな。絶対あいつらならAランクに行ける」

 その余りに嬉しそうな顔に、もうとっくに美希はAランクですとは言えなかった。
笑顔満開のプロデューサーの様子はまるで勝負事で勝ちを確信した子供のようだ。

「ええ。オリジナルもそうですがミキは凄いです。私はいつも美希から色々な事を教わってきました」
「美希からか?」
 意外そうな顔をしたプロデューサーに向かい、メカ千早もまたプロデューサーに笑顔を向けた。
「はい。この間は歌を教えていただきました。『朝ごはん』は全く太刀打ちできませんでしたが、『蒼い鳥』なら何とか」
 するとプロデューサーは子供のような笑顔から綻んだ大人の笑みを見せ、
「その様子じゃあいつらは元気そうだな」
 よかった、と呟くプロデューサーの表情はどことなく安心したようだった。しかし、と思う。

美希は本当に元気なのだろうか。

「オリジナルと直接会ったことはありませんが、ミキは―――あまり、元気では、」
 次の瞬間、プロデューサーの顔が机を乗り越えてきた。
驚いて後ずさるメカ千早の前で、プロデューサーの瞳に剣呑な色が混じる。
「どういう事だ」
 引いたら負けだと思った。

「ミキは、―――ひょっとしたら、諦めてしまったのかもしれません」

 こう言って伝わるかどうかは分からなかったが、プロデューサーはすとんとソファーに座りなおしてため息をついた。
「何を」
 やっぱり伝わってなかった。メカ千早は目を閉じて考えを巡らせる。
恐らく目の前の男は病院で寝ていたプロデューサーに間違いはない。
しかし現状プロデューサーは目の前で溜息をついているし、まさか「あなたが退院してくるのを諦めたんです」とは何となく言い辛い。
 思う、本当にこのモノクロの世界は一体どこなのだろう。
 しばしの逡巡ののち、メカ千早はため息をついてこう言った。
「ミキが、ミキである事を、ミキは諦めてしまったのかもしれません」
 なんだか哲学じみた話になってしまったが、確かに病院の屋上でメカ千早はそう思った。
確かにそう思っていた。あの時、美希は確かに「もうやめようと思う」と言っていた。
もうやめると言う事は、もう待つのをやめると言う事は、メカ千早が765に来てからの3カ月を、プロデューサーが眠りこんでからの5か月をなかった事にしてしまうという意味ではないだろうか。
あれだけ頑張ってきたのに、あれほど信じていたのに、美希はそれらに背を向けてしまうという意味ではないだろうか。

 あれだけ頑張ってきた「星井美希」を、美希はなかった事にしてしまうのではないだろうか。

 メカ千早はそれが嫌だった。
 こんなに大事な事を、なぜ今まで忘れていたのだろう。
 「…まあ、美希は理想が高いからな。そっちでも千早の後にくっ付いて歩いてんだろ?」
 残念ながらメカ千早はまだ一度も千早本人に会ったことはない。
曖昧に頷くと、プロデューサーはため息交じりに背もたれに体を倒した。

「あいつは、あいつのままでいいのになあ」

 耳の後ろあたりで音がした。
「美希に会って、それを伝えて頂けませんか?」
 ソファーの横に立つと、プロデューサーは驚いたようにメカ千早を見上げた。
何事かと見上げるプロデューサーの前で、メカ千早は静かに笑う。
「私も、ミキはミキでいて欲しい。だから、あなたからもそれを伝えてあげて下さい」
 プロデューサーの顔にそんな事を言われてもと書いてある。
遠くから誰かの声が聞こえてくる。必死にメカ千早の名前を呼んでいる声がする。
誰の声だろう。何かとても懐かしくて、とても大切な声が聞こえてくる。

「だから、美希はどこにいるんだよ? 迎えに行かなきゃ」

 そう言って、総天然色のプロデューサーは立ち上がる。
モノクロのメカ千早と天然色のプロデューサーが並んで立つ。
モノクロのテレビは消えている。
 何もかもが白黒の濃淡で輪郭を描く世界に、色の付いたプロデューサーがモノクロのメカ千早と並んで立っている。
「近くにいるんだろ?」
 問いかけにメカ千早は力強く頷く。
そうだ、これは美希の声だ。
いつだって美希は自分の近くにいてくれた。いつだって美希は自分に笑いかけてくれた。
 いつだって自分は、美希から数え切れないほどの喜びをもらってきたのだ。

「はい。私は―――」

 いつだって、私はミキの近くにいたんだ。

「ミキの、友達ですから」



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