BST-072 (21)

『よう、久しぶりだな』
 黒井の声がモニターの真下から聞こえた。驚いて視線を這わせると、モニターの下にはこれまた大きいスピーカーが付いている。
美希は挨拶すらせずにモニター越しに見える黒井を睨みつける。
 黒井は美希の視線に全く怯まずに冷やかに美希を見つめ返した後、何の感情もない瞳で美希に隠れるように横たわっているメカ千早を見つめた。
『お前を庇ったんだってな。また派手に壊れたもんだ』
 聞こえてくる声には何の感情もない。
挨拶すら返さない美希に黒井は一つ溜息をつき、次いで歪んだ笑みを作った。
『そう睨むなよ。そこにいる連中はその道じゃあプロだからな、もし直せなくても新しい“メカ千早”を作ってくれるかもしれないぞ?』
 本当にこいつは何を言っているのか。何が新しい“メカ千早”だ。メカさんは一人しかいない。
美希の瞳に怒りの色すら宿り、黒井はそれを見て笑みの濃度をさらに濃くする。
『だからそう睨むなって。そのメカ千早が駄目になったとしても、新しいメカ千早を作って記憶を乗せ換えちまえばいいだけの話だろ?』
 美希の視界の隅で、三河の頭が僅かに動いた。弾かれたように所長を見ると、所長は全くの無表情で頷いた。
本当にそんな事が出来るのだろうか。
「だって、でも、メカさんは一人しか、」

『もちろんそのメカ千早が直れば万万歳だよな。もし駄目でも新しいの作りゃあいい。お前はメカ千早と一緒に居たいんだろ? なに、そこにいる連中はプロだ。直すくらい造作もないし、そうすりゃお前はメカ千早と一緒にいられる』

 起きてしまった事をなかった事にできたら、と美希は思う。
プロデューサーが入院し、千早は海外に行ってしまった。その上メカ千早を失ってしまうかもしれない。
そうなった時、自分は耐えられるだろうか。
 美希の瞳が揺れる。立っていられないほどによろけ、美希は左腕をメカ千早が横たわるベッドに置いた。
体を支えていなければ到底立っていられない。

『お前が961に来るんなら、そいつらにメカ千早を直させる。お前が961に来るなら、お前は友達と一緒にいられる』

 そこで黒井は喜色ばんだ笑顔を浮かべ、瞳揺れる美希をまっすぐに見つめた。

『…うちに来い。最高の環境、最高のスタッフ、最高の同僚、そして最高の友達。悩むことなんかねえだろ』

 目の前がチカチカした。
一緒にいるのは当たり前だ。だって友達なんだから。そうだよ、ミキはメカさんの友達だもん。ずっと一緒にいるんだもん。
頭の中が混乱している。一日に起きたことが多すぎてまともにモノが考えられない。
ずっと一緒にいるんだ。誰と。メカさんと一緒にいるんだ。なぜ。友達だから。
思い出が溢れかえる。
メカさんはずっと一緒にいてくれた。プロデューサーがいなくなっても、千早さんがいなくなっても一緒にいてくれたんだ。
頭が真っ白に染まっていく。一緒にCDを聞いたんだ。一緒に歌を練習したんだ。
何も考えられない。ただひたすらに思い出だけが溢れてくる。
そうだよ、メカさんは友達だもん。一緒にいたっていいでしょ。思い出が止まらない。
メカさんは友達で、ミキは、蘇る765の思い出、社長の困ったような顔、律子の怒った顔、小鳥の微笑み、メカ千早の笑顔、千早の苦笑、スタッフの獰猛な笑み、

「―――ミキは…」


 俺ら、…家族みてえな、もんじゃねえか


 突然、左腕に電気が走ったような感覚を得た。驚いて振り返ると、メカ千早が美希の手首を掴んでいる。
 メカ千早が口を開く。
「…ずっと、言えなかった事があったんです」

 三河のモニターがエラー警告を出した。驚いてモニターを見た三河の前で、モニターの中で信じられない変容が起き始める。
 外部大容量デバイスの容量を食らったメインメモリが、恐ろしいまでのスピードでプロセッサに参照されていく。
スピードが速いならまだいい。参照している範囲が常軌を逸している。
「…何だ、これ…」
 068は蓄積情報のあまりの多さにダウンした。その時、三河は自分で「068に感情が生まれた」と叫んでいる。
今、三河のモニターの中では夥しい量の情報がメカ千早に参照されている。
 そんな事はあり得ない、と思う。
068の開発失敗から、のちのBSTシリーズは喜怒哀楽の4系統に限定して開発が進められており、当然BSTシリーズの最新モデルである072にもその傾向は踏襲されている。
 三河は対面コミュニケーションチームの主任であり、喜怒哀楽の4系統のメモリの変容パターンは暗記できる程度には覚えている。
 今、三河のモニターの中で起きているメインメモリの変容に、三河は覚えがない。

「…あの時、病院でミキが髪を切った時、」
 メカ千早が美希の腕を掴んでいる。決して離すまいとしているように見える。
「ミキは、もう、やめると言っていました。オリジナルに追いつこうとすることも、プロデューサーが帰ってくるのを待つことも」
 腕を掴まれながら、美希は自分の言葉を思い出す。

―――だからね、美希ももうやめようって思ったの。千早さんを追いかけるのも、プロデューサーを待つのももうやめようって。

 現実を受け入れようと思っていた。希望を追いかけるのも、理想を追い求めるのにも疲れてしまった。
だから髪を切った。髪を切り、誰かにもうやめると言えば、それでいいような気がしていた。
 メカ千早の左手が、美希の腕を強く握った。
「でも、私は―――それが、どうしても、寂しかった」
 どうして、こんなに大切な事を今まで忘れてしまっていたのだろう。
メカ千早は思う。美希が変わってしまう気がしていた。メカ千早の事を友達と言ってくれた美希が、まるで違う人になってしまう気がした。
「―――ミキ、お願いが、あるのです」
 美希は、泣きやんでいた。腫れて赤くなった瞼をしっかりと開き、メカ千早の顔を見ていた。
「諦めないで、下さい」
 奥歯を噛みしめる音が聞こえる。美希の眉根が寄せられる。泣きたいのに我慢しているように見える。
「私の事を、もう友達と、呼んでくれなくてもいい。もう絶交だって言ってくれてもいい。だから―――」
 思い出が溢れる。
 初めて会ったとき、ミキは私の事を友達と呼んでくれた。
 歌を教えてくれた。
 喜びを教えてくれた。
 だから、

「今まで頑張ってきたミキを、諦めないでください」

 そして、メカ千早は美希の顔を見た。

『―――どうする』
 静かな問いかけに、美希はメカ千早を見つめた。
メカ千早の左手の中で、美希の左腕の筋肉が動いた。力強く手を握っている。まっすぐにメカ千早を見つめている。
「ねえ、メカさん」
 静かに口を開いた。
「帰って来て、くれるかな」
 美希の静かな問いかけに、メカ千早もまた強く美希の腕を握った。頭を垂れて少し笑う。
全く度し難い。5ヶ月間頑張ってきたのに、Aランクにもなったのに、あの人は帰って来てはくれなかった。

―――…なあ、美希、……、美希は、

 腕が強く握られている。信じられないくらいの仕事をして、信じられないくらいのプロモーションをして、それでもまだあの人は帰って来てはくれなかった。
 頭を上げる。美希の瞳に強い意志が宿る。
 やっと思い出せた。あの時のプロデューサーの言葉。
美希ならやれると、保証すると言ってくれたあの人の言葉が、今ようやく思い出せた。
細部は違うかもしれない。一言一句を思い出せたわけでもない。
それでもきっと、美希の事を信じ続けたあの人は、あの時最後にこう言った。

―――美希のままで、いてくれよ。

 そして美希は、意志の宿る瞳を真っ直ぐに黒井に向けた。



 黒井は美希の瞳を見て、勝ちを確信していたような笑顔を一瞬で消した。
まるで無表情のままモニターの中で上を向き、次いで右と左を交互に見て、次に美希を見た黒井の顔には冷ややかな笑みがあった。
『―――残念だよ。とても、残念だ』
 残念そうには全く聞こえなかった。
『友達って言ってたのにな。見捨てちまうのか。お前結構薄情な奴だったんだな』
 そう言って、黒井はひとしきり笑う。さもおかしそうに笑う黒井に向けて、美希は静かに口を開いた。
「…違うの」
『どう違う? お前が見捨てたようなもんじゃねえか。俺は、961に来ればメカ千早を助けてやるって言ったんだぞ?』
 確かにそう言われたのだろうと思う。961に行けば、きっと美希はこの先もきっとメカ千早と一緒にいられるのだろう。
しかし、それをメカ千早が望むだろうか。
「…起きちゃったことを、なかった事にできたらって、ずっとそう思ってた。ずっとずっと嫌な事に蓋ができたらって思ってた」
『なかった事に出来るじゃねえか。メカ千早は直す。もしだめでも、新しいハードを作る。そうすりゃお前は友達と一緒にいられるんだぞ?』
 ここで961に行くと言ってしまったら、美希は思う、きっと美希はメカ千早の知らない美希になってしまうのだろう。
 そして、それはきっとプロデューサーとメカ千早が庇ってくれた美希ではないのだろう。
「でもそしたら、ミキがミキじゃなくなっちゃう。なかった事にしちゃったら、プロデューサーとメカさんが助けてくれたミキじゃなくなっちゃう」

 悔やむべき事が起きた。なかった事にしたい事が起きた。
何故あの時プロデューサーが助けてくれたのか、美希は今までずっと考えてこなかった。
考えるのが怖かったのかもしれない。ただ遮二無二仕事をすれば、ライブを成功させれば、Aランクに到達しさえすればプロデューサーが帰ってくると子供のように信じていた。
 だから髪を切った。待ちくたびれて、もう待つのをやめようと思って、美希はケジメのつもりで髪を切った。
『なぜ助けてくれたのか』という事を考えようとすることも止めようとしていた。
「メカさんはね、ミキの友達なの。友達って言ってくれたの。メカさんだけじゃない、スタッフのみんなも、律子さんも、小鳥さんも社長も、プロデューサーも今までずっとミキの事を助けてくれたの。だから、」
 今なら分かる、なぜプロデューサーが身を呈して美希を助けてくれたのか。
なぜ今までずっと765のスタッフたちが美希を助けてくれていたのか、なぜメカ千早が庇ってくれたのか。

「だから、ミキはミキのままでいるの。起きたことをなかった事にするんじゃなくて、ミキがミキでいることを諦めるんじゃなくて、何をしたらミキを助けてくれた人たちに応えられるか、ずっと考えるの」

 プロデューサーだけではない。
千早も律子も小鳥も社長もメカ千早も、美希にとっては家族なのだ。
 横道にそれるかもしれない。死にたくなるかもしれない。
それでもプロデューサーやメカ千早の心に向き合わなければならないと、美希は思う。
『―――過去に囚われて諦観を生きるか。アホくせえ』
 黒井の顔からは笑みが消えていた。芯から冷えた言葉が聞こえた。
「違うよ、そうじゃない。囚われるかもしれないし、もうやめたってミキも思った。だけど、それは違うの。何でって考えるのはきっと間違ってない。でも、」
 そこで、美希はまっすぐに黒井を見つめた。

「ミキはもう、なかった事には、したくないの」

 今までで一番大きな溜息が聞こえた。
美希の言葉からたっぷり5秒ほどの時間をおいて、黒井は冷めた目つきで美希を見つめた。
『―――お前、意外につまらん奴だったな』
 それだけを言って、モニターから黒井の顔が消える。
映像を切り替える一瞬の間ののち、モニターには再び数字と英字の羅列が表示された。
ふと気がつくと左腕にかかっていた圧力が消えていた。振り返る、メカ千早が穏やかに笑っている。真っ赤に充血した瞳を向けて美希も笑い返す。

やっと分かった、と思う。



 突然、歓声が周囲から起きた。
誰かが拍手までしている。美希の目の前で、驚くことに所長がさも面白そうに腹を抱えていた。
そう言えば―――美希は思う、そう言えばここは敵陣のド真ん中だ。いつかプロデューサーに身代金云々と言われていた事を思い出す。敵陣のド真ん中で親玉の要求を蹴ってしまったが大丈夫だろうか。
しかし、黒井に言ったのは紛れもない美希の本心ではある。これで責められるなら致し方ないと思っていたら、腹を抱えた所長が予想もつかなかった事を言った。
「―――美希ちゃん、だっけ。ありがとな、お陰で踏ん切りがついたよ」
 眼をぱちくりさせて所長を見ると、所長は一度だけ穏やかに目を瞑り、頭をふって大きな声を上げた。
「須藤っ!! 三河のサポートに回れ! 他は加持と一緒にハード! いいか、何としても死なすな!!」
 所長の発破に今まで騒いでいたスタッフたちが一言も発せずに目まぐるしく動き始めた。
何が何だか全く分からない。困惑した美希の表情を見て、所長もまたメカ千早の傍に歩み寄った。
「…お前は、俺たちの娘みたいなもんだ。キツかったろ。…悪かった」
 突然の謝罪にメカ千早もまた驚いた表情を浮かべ、ついで外部ユニットの助けを借りて磁気ディスクの記憶野を検索した。ヒットが一件あった。
―――やあ、気分はどうだい?
「あな、たも、私のユーザー、なのですね」
「お前に、とんでもないものを背負わせちまった。謝って済むとは、思ってない」
 所長の言葉には後悔が滲み出ている。起きたことをなかった事にしたいと思っているように見える。
所長は改めて美希に向き直り、頭を下げた。
「さっき、美希ちゃんがなかった事にはしたくないって言った時な、俺もそう思ったんだ。お陰で踏ん切りがついた。ありがとな」
 一体何のことなのだろう。美希の表情一杯の疑問符を見て、所長はくたびれた様に笑った。
いよいよ全部を話す時が来たと思う。
「俺らな、美希ちゃんが黒井の話を蹴ったらリストラ決まってたんだ」
 話が見えない。
「…どういう事?」
 美希もメカ千早も何のことか分からないという顔をしている。
所長は心の底から疲れた表情を見せ、手近のキーボードを叩いて壁掛け式モニターのコントロールを奪う。
ラインをネットワークに繋いでモニターに取得画像を表示させ、美希に見えるようにモニターを指さした。

 言われるがままに顔をあげて、美希はそこにモノクロで映された自分の顎を見た。

 モニターに映された自分の顔が驚いているのが酷く滑稽に見えた。
 次いで所長はメカ千早の頭を動かし、メカ千早にもモニターが見えるようにする。
美希の視界の中でモニターに映される景色がどんどん動いていき、遂にはモニターにモニターが表示された。
まるで鏡映しのような映像に、美希は驚いた声を出す。
「これって…」
「メカ千早の視界だ。メカ千早が見た物が表示される。モノクロだけどな。961は、メカ千早のこの機能を使って765をトレースしてた。マイクを繋げば音も出る」
 一息でそこまで言い、所長はメカ千早の顔を見た。
 見なければ良かったと思った。
 メカ千早の顔に、深い諦めの色があった。
 「…では、私は本当に、―――スパイ、だったのですね」
 所長は深い後悔に呑まれるように目を閉じ、全部を話す、と言った。



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