BST-072 (24)

14.

 朝のミーティングをしようと思って事務所に行き、朝一発目で律子に言われた言葉に度肝を抜かれた。
「3日間お休み」らしい。大丈夫かと質問をしたら「何とかする」という心強い返答を貰った。
Aランクになってこの方まとまった休みは貰った事がないし、奇跡的に今まで貰えた休みも単発続きだったから単純に嬉しい。
3日もあれば色んな事が出来る。何をしようかな。3日のうち1日はプロデューサーの見舞いに充てるとしてもあと2日もある。
そう言えばメカさんに春物の服を買いに行こうと言っていたんだ。善は急げと律子に礼を言って社長室に足を向ける。
 社長室には社長しかいなかった。
社長室では社長がなぜか忙しげな電話をしていて、ブラインドカーテンから漏れ出る日の光が社長の顔に影を作っていた。
戸棚を見るとまだ桐製の箱が大事そうに鎮座していて、それを見ていたら社長から遂に日本時間の昨日で千早もAランクに上がったと言われた。
どうも向こうにも日本のようなアイドルランクがあるらしい。後で電話しなきゃと思う。
ざっと見まわしてみたが、どうも社長室にもメカ千早はいないようだ。社長に遊びに行くと言って社長室を後にする。
 再び事務室に戻り、今度は経理と営業のスタッフの机周りを見てみる。
前は確かこのあたりでメカ千早が仕事を手伝っていたはずだ。
ひょっこりと顔を出したら経理の一人がどんよりとした視線を向けてきた。近くには毛布まで置かれている。昨日は帰れなかったのだろうか。
大丈夫、と聞いたら茶菓子を出された。クッキーのようだが袋に入っていて中身は分からない。
まあいいや、袋に入っているなら好都合だ。もうひと袋失敬して礼を言い、経理と営業に背を向ける。
 そう言えば貰ったはいいがメカ千早はこの手のお菓子は好きだっただろうか。

 しかし、探せど探せどメカ千早の姿がない。まったくどこに行ってしまったんだろう。
4階をうろうろしているうちに頭に閃くものがあった。
そう言えばまだ音響部屋を見ていない。
仕事を何も手伝っていない時のメカ千早の行動パターンは限られている。社長室で寝ているか音響部屋で揺れているかだ。
そう言えばまだ音響部屋を見ていなかった。なぜ今まで気付かなかったんだろう。

 軽い足取りで階段を上る。入りくねった廊下を進んだ先の音響部屋の扉は完全に閉じられている。
当たり前だ、音響部屋を使うときは「扉をきちんと閉めるように」と言うのが鉄の掟なのだから。扉の前に立ち、ひとつ深呼吸をする。
 何て言って切り出そう。「律子さんからお休み貰えたの」では後に上手く繋がらないし、いきなり「服買いに行こう」では向こうもビックリしてしまう。
たかが扉一つを開けるのにどうにも決心がつかない。しかしメカ千早の事だから折り目正しくまずは「おはようございます」とか言うに決まっているし、そのまま何か話でもして流れに乗れば外に連れ出す口実ができるかもしれない。
 いいや行き当たりばったりでと大雑把に考え、意を決してドアノブに手を掛ける。

―――おはようございます、ミキ。

 窓が開いていた。
おそらく管理人が換気のために空けたであろう窓の両脇で、完全には閉じられていないカーテンが風にそよがれていた。
それ以外には何もなく、床に山と積まれていたはずのCDも、コンソールの上に無造作に置かれていたはずの練習曲の譜面も、ラックに置かれていたはずの『朝ごはん』の譜面も、すっかり片付けられていた。

 メカ千早はここにもいなかった。メカ千早はどこに行ったのだろう。

 そこで、美希は音響部屋の冷たい床にペタンと座り、開かれた窓の外に遥かに広がる空を見た。

 メカ千早がどこに行ったのか、本当は分かっていたのだと思う。
もうメカ千早がどこにもいない事が、きっと分かっていたのだと思う。
 冷たい床から体温を守ろうとして膝を抱え、ポケットからガサという音を立てて何かが落ちた。
 さっき貰った茶菓子だった。



 乗車率120%の電車を2本乗り継いで、美希は真っ白い病院のエントランスを潜った。
見舞いに来たとエントランスに伝えると、美希の歳を2乗したようなよぼよぼの看護婦は黙ってエレベーターホールを指さした。
前に応対していたセブンスターかマイルドセブンは今は休憩中なのだろうか。
 入院患者専用のフロアは前と全く変わっておらず、早い時間だったからか見舞いの家族の数も5本の指で収まるような数だった。
 扉を開けるとやはり目の前には白いカーテンがかかっていて、何の感慨もないかのような足取りで美希はカーテンの裏側に回り込んだ。

 プロデューサーが、出窓の棚の見舞いの品に見守られるように眠っていた。

 コートのポケットを漁って茶菓子を取り出す。
袋のままの茶菓子の一つをプロデューサーの頭の脇に置き、美希は残りの茶菓子の封を切る。
出てきたのはやはりクッキーだったが、電車に揺られている間に何かに当たりでもしたのか割れてしまっていた。
 ふと思い付くものがあり、ベッドの棚に供えられていたティッシュを一枚引っこ抜いて布団の上に乗せ、茶菓子の袋をひっくり返してみた。
 真っ白いティッシュの上に、元は円形と思しき4つに割れたクッキーが顔を出した。
 どんな当たり方をしたのか分からないが、クッキーは中心から4つに綺麗に分断されていた。
天文学的な確率だとは思うが、そう言えば2本目の電車に乗った時横にいたのはボタンだらけの奇抜な格好をした奴だったと思う。
美希は割れたクッキーの破片を一つ一つ丁寧に並べ、そこで静かな笑みを零した。

 ミキ達みたい。プロデューサーと、ミキと、千早さんと、―――――。

 丁寧に並べられたクッキーの破片を一つ指でつまむ。口に入れたクッキーはしっとりとした味わいだった。


 一人になってしまったと、やっと思った。


「ね、プロデューサー。ミキね、Aランクになったんだよ」
 出窓の見舞いの品を落とさないように注意しながら、美希は窓をそっと開けた。今日は風もないようだし、たまには換気してもいいだろうと思う。
音をたてないようにパイプ椅子に座り、美希はプロデューサーの顔を見た。
 もし起きてくれたら、プロデューサーは何て言うだろう。

―――マジか! やったじゃん。
「うん。みんなに支えられてたの。…やっと分かった」
―――何だ、えらくしおらしいじゃないか。何かあったのか?
「うん。…ねえ知ってる? 千早さん、向こうでAランクになったんだって」
―――ホントか! 流石は千早ってところだな。
「向こうにもアイドルランクってあるんだね。ミキ、知らなかった」
―――まあ、千早なら大丈夫だろうな。電話とかしたのか?
「まだ。…千早さんね、前にミキに電話くれたの。前にプロデューサーのお見舞いに来た時の前の日」
―――なんて言ってた?
「プロデューサーが事故に遭って、また居場所を無くしたと思って、外国に…逃げたって、言ってた」
―――…。
「何回も謝られたよ。ごめんなさいって。恨まなかったかって言われたらやっぱりちょっとヤだったけど、でもね、ミキ思うの」
―――何て。
「きっと、千早さんも逃げるのやめたんだろうなって。ミキに話して、勝負する前にすっきりしたかったんだろうなって。だからきっと千早さんもAランクに上がれたんだろうなって」
―――…それで?
「ミキもね、ずっとずっと考えなかったの。プロデューサーが何でミキの事庇ってくれたのかって、最後にプロデューサーがミキに言ったのは何だったかってこと、ミキもずっと考えてなかった。ずっとずっと、何でこんな事になったんだろうって考えてた」
―――そっか。
「考えても全然分かんなくてね、もうやめようって思ったの。考えるのやめようって。そしたら、友達に言われたの」
―――?
「諦めるなって、言われた。ミキがミキでいることを諦めるなって。今までの事をなかった事にするなって言われたの」
―――…いい友達じゃないか。何て名前だ?
「最初に見た時はびっくりしたの。千早さんにそっくりだったんだよ。ホントの名前はね、BST-072って言うんだって。でもそれじゃあんまりだし、…ミキもね、その人に千早さんになって欲しくって、」

―――私の名前は、メカ千早、です。

「メカ千早さんって、呼ぶことにしたの」
―――何だそりゃ。イジメか?
「違うもん。でもね、メカさんって最初はあんまり歌が上手じゃなかったの。でもね、頑張って練習してて、最後にはすっごく上手くなったの」
―――良かったじゃないか。

 美希はそこで、頭を下ろした。
残り3片になったクッキーが視界に入る。なくなったクッキー片はきっと自分なのだろうと思う。
 あの時、自分は何と答えるべきだったのだろうか。
黒井は「961に来ればメカ千早を助けてやる」と言った。自分は黒井の問いに否定を返した。
 そして、メカ千早はいなくなった。
 結果から見れば自分がメカ千早を見殺しにしたようなものではなかったか。
 あの時、研究所にいた白服たちはメカ千早を助けるための努力を惜しんでいなかったとは思う。
自分がどういう返答を返したとしてもメカ千早は結局いなくなったかもしれないとは思う。
それでももし自分があの時黒井の誘いに乗ってさえいれば、メカ千早がいなくなることはなかったのではないかと思う。
 あの時メカ千早はどう思ったのだろうか。裏切られたと感じただろうか。
今更の自問自答ではあるし、今更何を考えたところでメカ千早が帰ってくる事はもうない。
 それでも、メカ千早は最期に「ありがとう」と言った。
 あれは、どういう意味だったのだろうか。

「…うん。でも、ミキね、また置いて行かれちゃった。メカさんね、最期にありがとうって言ってくれたの。何でかな。ずっと考えてるんだけど、分からないの」
―――…大いに悩め若人よ。
「…プロデューサーってやっぱりイジワルなの」
 視界が滲んできた。美希は数回瞬きをし、眦に溜った涙を払い落そうと試みる。
が、何度瞬きをしても涙は後から後から溢れ、最後には美希もワイパーを止めた。
―――…まあ、美希なら分かるんじゃないか?
「?」
―――その、友達が何でありがとうって言ったのかが。きっと分かるさ。
「…ミキ、分かるかな」
―――実際は美希次第だけどな。大丈夫。
「…うん」
―――保証する。だから、

 頭の上に何かが落ちてきたと思った。窓を開けたから見舞いの品のどれかが落ちたのだろうか。
泣きっ面に蜂だと思う、煩わしそうに頭の上に落ちてきたはずの見舞いの品をどかそうと手を伸ばし、美希はそこで見舞いの品にあるまじき温度を感じた。

 あったかかった。

 変だと思う。見舞いの品が暖かいはずがない。
それはそうだ、この半年というもの見舞いの品は出窓の棚にずっと鎮座していたのだから。
 ゆっくりと頭の上の何物かに手を這わせる、ごつごつしているが暖かい、なぜだろう、
気になって仕方がない、視界が涙でふさがれているのが嫌で左手で目元を乱暴に拭い、
ティッシュの上に置いたはずのクッキーの位置が変っている、布ずれの音、
恐る恐る首を上げ、流れ出る涙をぬぐう事も忘れ、美希はそこに、

 布団から生え出る、プロデューサーの腕を見た。

「…泣くな、……、泣き虫」

 半年振りに聞いた声は、途方もなく擦れていた。
「…プロ、デュー、…サー?」
 信じられないという美希の声にプロデューサーは本当に薄く目を開け、涙でくしゃくしゃになった美希の顔を見た。
「…髪、…切った、のか」
 頭が真っ白になった。美希は鼻水すら垂れ出した頭に乗せられた腕を両手で握る。
何を話していいか分からない。本当にいろいろな事があった半年だった。
やっと起きてくれたと思う。やっと帰ってきてくれたと思う。
 ただ美希の心の中にはそのふた言が無限に繋げられ、しかし全く言葉となってくれないことがもどかしく、美希はただひたすらにがくがくと頷く。

―――ねえ、メカさん、

 本当にいろいろな事があった。
悔やむべきことも、泣きたいことも、楽しいことも嬉しいことも聞きたくなかった事も聞かなければならなかった事も、何もかもが美希の頭の中をすさまじいまでの勢いで流れている。
 プロデューサーの腕が動き、美希のくしゃくしゃの顔を撫でた。
「…似合ってる」

―――帰ってきたよ。

 何を言おう。何て言えばいいんだろう。何か言わなければならないはずなのに、もう何も考える事が出来ない。
ただされるがままに顔を撫でられ続ける。くすぐったいような気がするしこのままずっと撫でていてもらいたいとも思う。
 ぼやけた視界の中でプロデューサーは穏やかに笑っている。笑顔につられるように笑おうとして上手くいかず、美希はそこでようやく、
ずっと言いたかった事が言えた。

「…おかっ、ぇっ、り、なさ、い」

 くしゃくしゃの顔で、くしゃくしゃの声で、美希はただしゃくり上げるかのように声を出した。
プロデューサーは美希の顔を拭うように手を動かし、やはりかすれた声で、

「ただいま」

―――プロデューサーが、帰ってきてくれたよ。

 ベッドに跳ね跳ぶような勢いでプロデューサーに抱きつく。
言いたい事はいくらでもあったはずなのに、伝えたい事はたくさんあったはずなのに、口からは何も出てきてくれない。
 メカ千早に伝えたかったと思う。この人がプロデューサーだと、この人も家族だと紹介したかった。
プロデューサーが起きてくれた嬉しさとメカ千早にプロデューサーを紹介できなかった口惜しさが綯い交ぜになり、美希はただプロデューサーの胸に顔をうずめて嗚咽だけを漏らしている。
 あの時の決断は間違っていなかったとは思う。それがどんな結果をもたらすかも覚悟した。
そして覚悟は現実のものとなり、メカ千早はいなくなった。
 悲しかったし、寂しかったし、また一人になったと思った。

 プロデューサーが、美希の頭を撫でた。

 何もかもがようやく終わったのだと思う。
鬱積の半年が、プロデューサーを待ち続けた半年が、メカ千早を得た半年が、親友を失った半年が、今ようやく終わりを迎えたのだと思う。
何を得て何を失ったのかを考えることもできず、美希はただプロデューサーの胸に顔をうずめ、小さな子供のように泣き続ける。



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