BST-072 (7)


 特訓は困難を極めた。
何せ教えているのは美希である。美希自身は発声から呼吸の一つに至るまでプロデューサーや千早からの指導を受けてはいたが、指導を受けていたころの美希は何でも自分の才能に頼る部分が多く、そして得てして才能に頼っただけの基礎は抽象的なイメージで捉えられているのが常であり、結果美希の指導は「こんな感じ」とか「もっとおーって感じの」という不審極まりないものだった。
 メカ千早もメカ千早で最初のうちは「それでは分かりません」と応戦していたが、2週間もするころには独自に美希の抽象的指導を自らで解釈するようになっていた。
 もっと張りのある声でと言われれば発声中に消費する空気の量を増やしたり、声に厚みが欲しいと言われれば発声で使用する空気帯にブラフを混ぜたりと試行錯誤を繰り返し、どうにか怒涛の2週間が過ぎ去るころにはメカ千早の発生は本家に遜色のないものとなった。
「すごいすごい!やっぱりメカさん才能あるよ!」
「ミキ、何度も言いますが私はロボットです。才能という初期設定はありません」
「そうなの?」
「そうです」
 この不毛なやり取りももう2週間にわたって行われている。
 メカ千早がプロセッサにものを言わせた解析で美希の無茶苦茶ともいえる指導をこなすたび、美希はメカ千早に「才能がある」と言い続けている。
「ではミキ、私はそろそろ歌を歌う事は可能でしょうか?」
「うん!できると思う。あ、でもまだ『朝ごはん』は無理だよ。あれってテンポ速いから。メカさんってリズム早いの苦手でしょ?」
 美希の見たところメカ千早の発声は確かに本家のそれに近づいてはいるが、どうもメカ千早は速いテンポでの発声が苦手らしい。
 美希の知らない話ではあるが、このあたりはハード担当の限界というやつだ。通常会話にある程度以上の音程は必要ない。
「歌とは、困難を伴うのですね」
「困難っていうか、まあ難しいよね。ミキも次の新曲ってどんなキモチで歌っていいかいまいち分かんないの」
「いえ、そういう事ではなくて―――」
 それ以上を続けず、メカ千早は諦めたかのように表情筋への出力を落として練習用の楽譜を見た。
 練習用の五線譜の上には妙にきびきびした字で「練習曲V」と書いてある。美希の入れ込み具合を見た律子が「気が紛れるならいいか」と発生用の簡単な譜面を見つくろったのだ。
 全部でXまである練習曲のVまではスローテンポで声を出すことを主眼とした譜面だが、W以降は厄介なことに歌詞を伴う歌の形を取っており、しかし目下メカ千早のプロセッサは早くW以上に進むことが効率的と判定している。
「じゃあ、4番目に行ってみる?」
 美希の声にメカ千早は頭を上げる。
 メカ千早のカメラアイは妙にキラキラした表情の美希をとらえ、プロセッサがその表情に対応した笑顔のコマンドを送る。
「いいのですか?」
「うん。きっとここに千早さんとかプロデューサーがいたら、次に進もうって言うと思うの」
 言うが早いか美希はコンソールにセットされたCDの早送りキーを押しこんだ。
 ヘッダーが合わせられるキュラキュラという音が聞こえ、ついでスピーカーがばっつんと準備完了を告げる。最初は音を聞いて歌詞と照らし合わせするのと美希は言い、メカ千早はそれに黙って従う。
 もっとも流石に練習曲は練習曲であり、実際に声を出す時間は1分ほどだ。このくらいなら一発で出来ちゃうんだろうなと美希は思っている。
 CDが歌い終わり、メカ千早はゆっくりと美希の方に向き直る。
「情報取得が完了しました。メモリ5をロードします」
 メカのもったいつけた言い回しにも慣れたもので、美希はニタリと笑う。
「じゃあ、次はCDと一緒に歌うの。美希は先生役ね」
「分かりました。よろしくお願いします、ミキ」
「先生なの!せ・ん・せ・い!」
 律儀にも「よろしくお願いします、先生」とメカは言いなおし、巻き戻しボタンを押されたコンソールがやけくそのように再び練習曲Wのイントロを鳴らしだした。
 プロセッサがメモリの5をロードし、歌い出しに合わせるようにメカ千早は息を吸い、
「―――お、やってるわね」
 絶妙に最悪なタイミングで律子が現れた。が、美希は「おはようなの」とメカ千早を見守りながら律子の方を見もしない。律子も慣れてしまっているのかそれについては何も言わず、静かに椅子を引いて美希の横に腰掛ける。
 メカ千早の人工肺はすでに発声用の空気は取り込んでしまっているが、突然の律子の乱入に一瞬だけ判断にブレが生じた。回答を求めるように律子の方に向けたカメラアイに律子の苦笑いが映る。
 処理続行の判定が出た。


 言っては何だが小学校の音楽の教科書のような内容の歌ではある。
 が、千早いわく歌とは「生き物」であり、今日日の初等教育を舐めてはならない。わずか一分に満たない発声の時間を終え、メカ千早は美希と律子の方を見た。
 美希は実に満足そうな笑みを浮かべている。
 対照的に、律子は実に難しい顔をしている。
「―――終了しました、先生。いかがでしょうか」
 返答の代わりに美希は掌が赤くなるような拍手をした。が、メカ千早はそれに笑顔で応えることなく、律子の方を見る。
 メカ千早のカメラアイの動きを見たのか美希もまた律子の方を見遣り、
「ね、ね、律子さん。メカさんって歌上手いよね!」
 問いかけにまあねと返し、少し考えて、
「ねえ美希、メカ千早は最近ずっと発声だけ?」
 すると美希はきょとんとした表情を浮かべた後、何を言っているんだこいつはという顔で、
「うん。だってメカさんって今まで発声のトレーニングとかやった事ないもん。本格的に歌っぽいのはこれが初めて」
 メカ千早の名誉のために、『朝ごはん』の悲劇には触れずにおく。そう、と律子は返し、
「ところで美希、あなた自分の練習は大丈夫?新しい曲はまだ下ろして一週間くらいだけど、もう歌える?」
 突然話題の中心が自分のことになったことに驚いたのか、美希は目をぱちくりさせると、
「―――まだ。まだあんまり歌のキモチが分かんないの」

「悪いんだけど、それあと3週間でモノにできる?」

 突然の宣言に美希は身を固くした。律子はじっと美希を見ている。美希もまた固くなった表情で律子の顔を見つめた。
「3週間後、ランクアップオーディションがあるわ。美希さえよければ、それに出て貰う」
「ランクアップ、オーディション」
 メカ千早の呟きに律子は頷き、
「Bランクももう2か月になるわ。知名度も高くなってきたし、今なら勢いをバックにしてトップに上れる。チャンスよ」
 律子の真顔に、美希は一呼吸だけ深く息を吸い込んだ。
 もし、である。もしそのオーディションに合格できれば、美希も晴れてトップアイドルの仲間入りだ。
 今までよりも仕事は増えるし、今までよりも更に手広い活動ができるようになる。
 もしもそのオーディションに合格できれば、
 合格して、Aランクになることができれば、

 そうすれば、きっと、

「―――出る。ミキ、そのオーディション、受けるよ」



 バタバタと走り去る美希の背中を見つめた後、メカ千早は律子の方を見た。律子は疲れたような表情を浮かべ、美希の走り去った廊下をぼんやり眺めている。
 律子には美希の次の行動が手に取るように分かる、きっと事務所に駆け込んで小鳥に「次にボーカルのトレーニングルームが使えるのはいつか」と聞いているに違いない。
 今まで散々教鞭を垂れていた相手にすら何も言わずに走って行ったところを見ると、相当気負いこんだ3週間になるだろう。
「リツコさん、お疲れなのですか」
「…大丈夫よ。あの子の方が心配」
 最後の方は到底大丈夫に聞こえない声で律子は呟き、改めてメカ千早の方を向き直る。
 何か聞きたいことがあったんじゃないか、という律子の表情をカメラアイが認識し、プロセッサが先ほど保留処理した疑問をコマンドする。
「先ほどの歌は、まだオリジナルには達しませんか」
「どう答えて欲しい?」
「思われるままに」
 返答に律子は座ったまま眉根を寄せて腕を組むと、散々ためらった挙句に聞き流してもいいからねと前置いた。
「…スカスカね。何も入ってないわ」
 メカ千早は無表情のまま、
「予想された回答でした。やはり、歌とは困難を伴うのですね」
「発声は完璧だった。歌詞もブレスのタイミングも申し分ないわ。でも、やっぱり何か一つ足りない」
「―――ココロ、ですね」
「そうとも言うわ」
 律子は腕組みを解くと、再びまっすぐにメカ千早を見つめた。
「私は今のところ本職のプロデューサーじゃないからね。もし歌手でも何でもない人が歌って今のなら、全然文句なんかない。でも、千早と比べちゃうとどうもね」
 言葉に、メカ千早はすでにメモリから退避されて久しい2週間前の美希の言葉を引用する。
「ミキは、ココロのない歌は棒読みと同じと言っていました」
「うまいこと言うわね。誰の受け売りか知ってる?」
「オリジナルだそうです」
 まあ千早なら言いかねないかと律子は笑みを零し、見上げた視界のなかに恐ろしく真面目な表情をしたメカ千早を収めた。
「リツコさん、ココロはどうやったら手に入りますか?」
「…私、哲学は専門じゃないんだけど」
 呆れたような表情を浮かべた律子に、メカ千早は至極真面目な表情をしてこう言った。

「私は、オリジナルに近づきたいのです」

 兆候はいくらか律子も見ている。2か月前にひと暴れした時もメカ千早は千早のCDをずいぶん熱心に聞いていたようだったし、事務仕事を手伝っている最中にも千早関係の資料があると手が止まると聞いている。
おまけにひと月前からは昼休みに音響部屋に籠城しているようだった。そこまでして「オリジナルには関心がありません」と言われれば嘘だと思う。
 まったく私は心理カウンセラーじゃないってのに。呆れたような溜息が出て、ついでに考えが漏れた。
「…何でもいいのよ。これやって楽しかったとか、社長がセクハラしてムカついたとか陰口叩かれて悲しかったとか。そういう経験を積んで、そこで改めて歌に向き合うの。自分の感じたことや経験を歌に合わせて思い出せれば、あなたや美希の言うココロがあるって事になるんじゃない?」
「楽しかったこと、悲しかったこと、」
「あるでしょそのくらい。―――大体、」
 そこで律子は言葉を区切り、改めてメカ千早を見た。
まったく千早本人と顔も形もクソ真面目な性格も瓜二つのくせに、どうしてこうも違うものかと思う。
「大体あなた、何で千早に近づきたいのよ」
 黙したメカ千早から目を外し、律子は壁掛けの時計を見た。
 もうすぐ昼休みも終わる。美希があの調子なら律子の仕事もそれに合わせて調整しなければならないし、美希が気負った3週間を過ごすなら律子もまた眠れない3週間を過ごすことになる。
 あの野郎が起きてきたら本気で一発殴らないと割に合わない。
「―――私には、製造された目的がないのです」
 しばらく後、メカ千早はぽつりとそう言った。
 それ以上は何も言う事はないと口をつぐんでしまったメカ千早に一瞥をくれ、律子はやれやれと頭を振る。クソ真面目にも程がある。
「いいじゃない別に」

「それは、どういう、」

 こいつホントに人間なんじゃないかと思った。メカ千早の表情には今までにないほどの驚きの色があり、律子は口から出てしまった本心をカバーしたものかどうかと思う。
 が、すでに言葉は口から出てしまっているし、ごまかすよりはいいかと咳払いをして律子は椅子から立ち上がる。
「製造された目的がないってことは、何にも強制されてないってことでしょ?別に千早みたいにならなくたっていいじゃない。何にでもなれるってことでしょ」
 まったく律子の度肝を抜いた存在のくせに。あり得ない存在のはずなのに。
 完全二足歩行で自律していて声も合成出来て言語でコミュニケーションできる、ヘレン・ケラーもびっくりの奇跡のような存在のはずなのに、律子はもう目の前のロボットをそうとは感じなくなっていた。
 何のことはない、中身はまだまだガキなのだ。
「私は―――何になれば、よいのでしょうか」
 心理カウンセラーの次は学校の先生か。律子は再びの溜息をつき、走り去った美希が開けっ放しにした扉の向こうを見た。
「自分で探せって言いたいところだけど。…じゃあそうね、ひとつお願いしていい?」
 そう言って振り返った律子の顔には色濃い疲労の色があった。当惑したような表情のメカ千早を見て、律子は疲れを押し殺すように笑い、
「―――美希の事、支えて欲しいのよ。あの子、自分がAランクに上がったら千早もプロデューサーも帰ってくるって思ってるみたいなの。…そんな事、あるわけないのにね」
「私に、できるでしょうか」
「あなたはあなたのままでいいのよきっと。変わらなきゃいけないのは美希の方だから」
 そう言って、律子は音響部屋の扉を潜った。


 帰ってくるとはどういう事なのか、メカ千早は外部からの視覚情報を遮断して今までの2ヶ月間を洗い出しにかかる。
 条件キーワード設定、「千早」は該当が多すぎるので除外。条件を再設定、「プロデューサー」という条件文字列に完全適合をオプション。
 払い出された記憶野のリプレイを開始。

Sub: Kotori Otonashi Date: 9/12
Rept: ―――プロデューサーさんね、天麩羅が好きで。私が持ってくるとこっちのことずっと見てるの。
Sub: Miki Hoshii Date: 11/20
Rept: ―――うん。きっとここに千早さんとかプロデューサーがいたら、次に進もうって言うと思うの。
Sub: Ritsuko Akizuki Date: 11/20
Rept: ―――あの子、自分がAランクに上がったら千早もプロデューサーも帰ってくるって思ってるみたいなの。

 検索を終了。続いて収集された状況から「プロデューサー」の現状を推測。
 推測ワード候補:「天麩羅」「きっとここに〜いたら」「帰ってくる」。
 プロセッサがストライキを起こした。これでは確かに必要な情報が少なすぎる。プロセッサが機械的に「プロデューサー」の現状推測を優先候補から外し、続いて現状の確認となすべきジョブの検索を開始。
 ヒット1、リプレイを開始。

Sub: Ritsuko Akizuki Date: 11/20
Rept: ――――――美希の事、支えて欲しいのよ。



 3週間後にはランクアップオーディションだ。という事は律子をして猫の手も借りたいほどの事務作業が山と積まれるという事であり、しかし律子はそれにめげることなく一つ一つの仕事を丁寧にこなしていく。
いくらアイドルがその活動を認められていると言っても、たかだか書類の不備程度で評判を落とすわけにはいかない。銀幕の表でアイドルが踊れるのは裏方がいるからなのだ。
目下のところそれがプロデューサー代理としての律子の矜持だが、律子自身は今後プロデューサーとして活躍していきたいという淡い願望を持っているために「これも経験の一つ」と割り切っている節がある。
 律子の見るところ美希のプロモーションは順調の一言に尽きるが、3週間後に向けてまだまだ売り込むところは多い。ランクアップのオーディションは完全な実力勝負だが、獲得するファンの数はそれまでのドサ回りがモノを言う。
 先ほどから小鳥も今からでもプロモーションができるレコードショップやラジオ局に電話をかけてくれているし、小鳥以外のプロモーションスタッフも全員が血走ったような目つきで目ぼしい営業先のドブ浚いをしている。
 美希は美希で律子と入れ違いに一人でボイストレーニングルームへと向かっていて、もうじき美希が社屋から出て3時間ほどになる。
 いまやスタッフは一丸となって美希の残り3週間に向けて血尿の出そうな奮闘をしている。

―――そんな事が、あるわけはないのに。

 遠くで誰かが「律っちゃーん!レコードのプロモ1件とれたー!!」と叫んだ。声に顔を向けず、親指だけを立てて律子は答える。
 一瞬だが動きの止まった左手を再びキーボードの上に走らせ、律子は邪念を追い払うかのようなスピードで叫ばれたレコード会社の社名と店舗名をモニタの上に描画していく。

 律子の頭の中の冷静な部分が、「そんな事があるはずがない」と言っている。
 思考の8割を目の前の作業にあてて、残りの2割で律子はこんなことを考える。

 誰だって、そんな事はないと思っているはずなのだ。そんな都合のいい話はオハナシの中だけだ。
努力が報われるのは全体のほんの一握りだけで、その他の多くは「次こそはきっと」という淡い心持ちで次の努力に進むのだ。希望というヤツだ。
誰しもが心の奥底に仕舞っていて、本当にキツくて本当に辛い事があった時に一瞬だけ取り出してくる人間の最後の砦だ。
叶わないと知っていて、報われないと知っていて、最後の最後まで信じることしかできない人間の原動力だ。

 希望が叶うなどと本気で信じている甘ったれなど765の中には一人としていないはずなのだ。

 すぐ近くで、「よおおおっし! 律子さん、テレビひとつ取れました!!」と叫ばれた。律子は右のこぶしを立てて答える。

 一人としていないはずなのに、誰もが恐ろしいまでの勢いで仕事をしている。

 律子の手がキーボードを離れ、ボールペンを引っ掴んで余人には解読できないほどの走り書きで伝えられたテレビ局を書きとめた。

 全く度し難い。分かっているくせに誰もサボろうとしない。お前ら暇なのかと頭の中で悪態をつく。
どうせ暇なんだろう、叶うはずがない望みにかけて全力を傾けるなんて暇人のすることだ。
希望は最後の砦であり、度し難いほど救えない人間の業だ。これがもしダメでも次が、その次がダメでもまた次がと進んでいく、ろくでもないくせに諦めきれない人間の根幹にある毒だ。

 今度は遠くで、「ラジオ局と折衝できましたー!条件次第でOKだそうですー!!」と聞こえた。

―――あるわけがないのに。

 メモ帳が破れんばかりの勢いで律子はページを捲り、指定の条件と日取りを恐ろしいスピードで書き込んでいく。

 美希も美希だ。自分では隠しているつもりだろうが、あれではスタッフにすらバレバレだ。
大体にして私の事を呼び捨てなくなったのもあの時からだ。自分が変わればあの寸足らずが本当に帰ってくると考えているのだあのゆとりは。
どうせ起きてくるはずがないし、どうせ帰ってくるはずがないのだ。CTスキャンの結果も見たし医者の話も聞いたはずなのに、奇跡のような確率にかけてあのアホ毛は今までの態度を一変させたのだ。本当に救えない。
あと3週間しかないのにどうやってあの歌をモノにするというのか。無謀にも程がある。無謀にも程があるはずなのに、美希も自分も小鳥もスタッフも馬鹿のように前へ進もうとしている。

―――ひょっとしたら、今度こそきっと、

 律子の手が再びキーボードに戻る。折衝の内容はまるで子供の要求のようだった。こんなもの訳はない。少々残業が増えるくらい何の足かせにもなりはしない。

 ひょっとしたら次こそあのバカは起きてくるかもしれない。美希のトップランク入りを誰よりも望んでいたのはあのバカだ。
これで起きないなら永眠してしまえと思う、これだけやってまだ起きないなら本当に死ねとすら思う、



 事務室の扉が開く音を、スタッフは全員で聞いた。



 誰しもが動きを止めて開いた扉を見、そこに立つロボットを見た。
 ロボットはまるで誰にも見られていないかのような足取りで律子のところまで進むと、すっと机から今し方律子がまとめたスケジュールのプリントを取り出した。
 次いでほんのわずかな動作でロボットは小鳥の机から3つ前の椅子を引き、埃すら被り出したパソコンの電源を入れた。
 それを見たスタッフの表情に一瞬だけ獰猛な笑顔が宿り、すぐに全員が目の前の作業を再開し始める。ロボットが座った机は丁度律子の机の目の前で、起動したコンピュータはすぐさま事務所内のLANに接続され、コンピュータのブラウン管モニタに律子が見ている画面と同じものが表示される。
そのまますぐにロボットはコンピュータの環境を最適化し、律子の仕事を分捕るかのような勢いで情報を処理していく。

「―――私が、私のままでミキの支えになれるかどうかは分かりません」

 事務所内に喧騒が戻る。恐ろしいまでの勢いで3週間のスケジュールが埋まっていく。
 もちろんスケジュールを埋めただけではアイドルは活躍できない。この後にも組まれたスケジュールに沿って資料を集め、それを先方に伝えた後に綿密な打ち合わせがスタッフたちを待っている。
 律子はぴたりと作業を止め、目の前のロボットを見ている。
 ロボットは自律反射の瞬きをプロセッサからの圧力で殺し、ひたすらに物凄いスピードでスケジューリングを組み立てていく。

「ですが、私にも出来ることはあるはずです」

 メカ千早はそこまで言い、律子に向けて笑顔を作った。
 それを見た律子の顔に、子供が見たら逃げるのではないかと思うほど恐ろしい笑顔が浮かんだ。
「…頼んだわよ」
「了解です」
 メカ千早は笑顔で頷く。律子は恐ろしい笑顔を張り付けたまま小鳥に向き合い、外出用のテンプレートに「秋月」の判子を押した。
 行き先の欄を書こうとして小鳥に止められた。小鳥の表情にもまた笑みがあり、ワイヤレスの電話機で何事かを話しながら小鳥はしっかりと頷く。
 律子は頷き返すと、踵を返して椅子にひっかけていたコートを手に取った。
 律子が大股で事務所を出ると同時に小鳥の通話は終わり、小鳥はLANモニタ上の美希のスケジューリングページに電話で取れたテレビ局の仕事の予定を書き込んでいく。
 メカ千早の机の上にあるコンピュータが直ぐに更新を開始し、メカ千早の目の前に小鳥が書き込んでいく予定がライブで表示されていく。

 入力が終わると、小鳥は律子が判だけ押した外出許可証の「外出先」の欄に、「ボーカルトレーニングルーム」と書き込んだ。



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