BST-072 (9)

 怒涛のような3週間は津波のように過ぎ去り、本番の日曜の朝は恐ろしいほどに晴れていた。
 あいさつの代わりに冬晴れねと律子は言い、美希の瞳を真正面から見つめた。
「…美希、今から緊張してたんじゃ上手く行くものも上手く行かないわよ」
「…緊張なんかしてないもん」
 嘘つけ。美希の瞳には決死の覚悟のような揺らめきがあり、律子はそれを危うい反面非常に頼もしく思う。
 美希だけではない、今日に限っていつもよりも早く出社したはずの美希と律子よりも前にスタッフが事務室に勢ぞろいしており、そのどの顔にも美希と同じくらいの決意が溢れている。
 何せ今日だ。この3週間の、この4カ月もの努力が報われるかもしれない日だ。
 まったく甘ったれなどいなかったはずなのに―――律子は思い、そこで破顔した。何のことはない、自分もその甘ったれの一人だ。
「もう少ししたら出るわよ。歌、大丈夫?」
「…うん。思ってるコト、歌うよ。それが多分、ミキのキモチだから」
 美希は後ろを振り返る。
 どいつもこいつも疲労困憊の顔に笑みがある。
 美希は頭を下げる。765の営業開始は9時で、しかし壁掛けの時計が指している時間は8時40分で、という事はここにいる甘ったれたちは営業開始の20分も前に事務所に詰めたことになる。
 隠そうとしていたのだろうが廊下で段ボールと毛布もしっかり目撃していた。

 落ちることなどないと思う。あり得ないとすら思う。

「―――みんな、ありがとなの。ミキ、頑張ってくる。頑張ってくるから、」
 スタッフの中に緊張が走る。3週間の、4か月の長きにわたる仕込みが今まさに完遂を遂げようとしている。
「よろしくね」
 雄叫びが美希と律子の鼓膜を揺らした。どいつもこいつも浮かれ騒いでいる。まだオーディションすら始まっていないのに、スタッフの顔には贔屓の野球チームが日本一に輝いたかのような勝利の歓喜がある。
 気の早いスタッフたちはすでにオーディション後の夜に行われるライブ中継に録画予約をしているし、見ながら食いでもするのかピザ屋の出前チラシをめくっている奴もいた。

 負けることなどないと思う。あり得ないとすら思う。
 絶対に勝ってみせる。

「…じゃ、行きますか」
 美希の表情を見た律子が壮絶な笑みを浮かべる。
 美希はいい表情をしている。緊張が裏返りでもしたのかそれとも目の前で起きた優勝祭に吹き飛ばされたのか、美希の表情には決意の中にも晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
 久しく見ることのなかった表情に、律子は今日の勝ちを確信する。
「うん」
 律子の鬼神のような笑顔にひるみもせず、美希は律子に向けて力強く頷く。
 事務所から外へと繋がる扉に辿り着くまでに、信じられないほどの励ましと拍手が二人を襲う。


 喧騒は社長室にまで届いていた。高木社長はその様子をどこか誇らしく聴いている。
 出遅れてしまった感もあるがまあいい。トップの仕事はこの後に控えているのだ。
 視線を飛ばす。木箱に入れられたままの湯呑は本棚から社長の机の上に移されていて、職人の手によってささくれ一つなく磨き上げられた桐製の木箱は陽光に照らされて薄く光っているようにみえる。

―――見とるかね、親不孝者。

 呟く。

―――君の家族が、船出するぞ。

 実のところ765がトップアイドルを輩出するのは2人目だ。1人目の時はもっとしめやかだった気もするし今日と大して変わらない気もする。
 変わっているのはあの親不孝者がいないというだけで、本当にこの4か月はスタッフたちを始め765の全員が頑張ってくれたと思う。
 だからこそ、社長はこの後に控える仕事を考える。
 と、ここでソファーの方からファンの回るような音がした。メカ千早の再起動音だ。
この2カ月と言うものきっかり8時50分に再起動するメカ千早を見ていたので、社長が業務に遅れることはすっかり無くなった。
「―――ブートオン、主記憶からのリード完了。音声認識デバイス正常完了、セルモーター動作確認完了」
 デスクから立ち上がり、社長はメカ千早の目の前に座った。社長の目の前でうっすらと目を開けたメカ千早はぼんやりとした様子で周りを見回すと、目の前に座っているのが社長と正常に認識したのか笑顔を張り付けて応対にあたる。
「―――おはようございます、タカギ社長」
「ああ、おはようメカ君。気分はどうかね」
「再起動に必要なすべての工程は問題なく処理されました。本日の起動に問題はありません」
 そこで初めてメカ千早の集音マイクが作動したのか、メカ千早はうるさそうに眉をひそめた。
 確かにこの時間はいつもならようやくスタッフ勢が出社してくる頃合いで、メカ千早が来てからしばらくこの時間に騒がしいことはなかったはずだ。
「複数の音声を感知しました。通常時と異なる状況です」
「ああ。何といっても今日はランクアップオーディションの日だからね」
「ミキは、出社しているのですか」
「さっき丁度事務所から出たところだよ。今日のオーディション会場は大きくてね、都内で行うものではないから早めに出たようだ」
 そこまで聞いて、メカ千早は困ったような表情を浮かべた。アイカメラが何かあるのかねとでも問いたげな社長を認識し、プロセッサが優先処理事項として現状では不可能なタスクを口にする。
「今日は、まだミキに挨拶をしていません。ミキは大丈夫でしょうか」
 なんとまあ。高木社長は顔を歪めた。
 そう言えばこの3週間というもの、メカ千早は本来律子が行うはずの事務作業を一手に引き受けていた。そのおかげで美希につきっきりでオーディションの対策ができたと昨日律子から報告を受けている。
 おまけに美希の心配までしているとは―――社長は改めてデスクの上に置かれた桐製の箱に視線を投げた。
 相変わらず、桐製の箱は陽光を浴びてうっすらと光っていた。
「…美希君の事を、心配してくれているのかね」
「ミキは、私の事を友達と言っていました」
 笑いが漏れた。
 目の前の少女は本当に2ヶ月間よく働いてくれたと思う。スタッフだけではない、美希や律子にも大きくプラスに働いてくれた。

「―――そうか、君はもう、家族なのだな」

「カゾ、ク」
 鸚鵡返しのように繰り返すメカ千早に、高木社長は大きく頷く。
「君はもう、765の一員という事だ。…いや、君だけではないか。律子君や音無君も、スタッフの諸君もよく働いてくれた。これは今月分の給金は弾まねばならんな」
 もう間もなく9時になる。765の営業開始は9時からで、薄く開いた社長室の扉からは事務室の様子がちらほらとうかがえる。
 どいつもこいつももう机の上のパソコンに火を入れていた。
 どいつもこいつも、顔にガキのような笑いがあった。
「どうかねメカ君。君さえよければ765のちゃんとした社員にならんかね。君は今のところ臨時職員のような扱いだからね、正社員になれば今よりも手当を弾むこともできる」
「―――…私は、」
 高木社長の申し出にメカ千早は一瞬だけ困惑の表情を浮かべて下を向き、次に顔を上げた時のメカ千早の表情は真面目を絵にかいたようなものだった。
「タカギ社長、お願いがあるのですが」
「何かね」
「今夜のミキのライブに、私を連れて行っていただきたいのです」
「―――今夜のライブはまだ美希君のものと決まった訳ではないよ。オーディションに勝ち抜いた者が、今夜のライブの主役になる」
 そんな事を言っているくせに、社長の顔には微塵も不安の色がない。メカ千早もメカ千早で無表情の顔を一転して笑顔にすると、傲慢にも程がある確信を口にする。
「―――ミキ以外に、今日のライブを行えるものはいるのですか?」



 勝負にならなかったというのが審査員の弁だった。
 美希の得点は他の5人とは比較にならないほど高かった。歴代のオーディションの最高得点を総なめにしてしまうほどの勢いでぶっちぎった美希は、律子に付き添われてADの指示に従ってライブの準備に向かっている。
 小鳥とメカ千早と社長はライブ会場ド真ん中に据え付けられた特別観客席に座っていて、今か今かとライブが始まる時間を待っている。
 周りにいるファンたちはどいつもこいつも浮かれ騒いでいて、小鳥がその様子をどこか誇らしげに見まわしている。
「コトリさん、どうしたのですか?」
 髪を頭にまとめて変装用の帽子にしまったメカ千早の問いかけに、小鳥はどうしたっていうかそりゃあ、と繋ぎ、
「美希ちゃんの事をこんなに待っている人がいるんだもの。とっても嬉しいわよ」
「ウレ、シイ」
「メカ千早ちゃんは、嬉しくないの?」
 周りのファンたちが怒涛のような美希コールを開始した。まるで中国のマスゲームの様相を呈し始めたドームの中で、メカ千早は頭をひねる。
「美希君だけの力ではないだろう。これは律子君や音無君をはじめとしたスタッフの努力もあってのことだよ。本当にいい仕事をしてくれた」
 もちろんメカ君もだよ、と社長は繋げた。
「あら、お褒めにあずかり光栄ですね社長。ところで今日の代休ってあるんですか?」
「もちろん用意はするよ。だが、君たちと来たら代休申請などしたことがあったかね?」
 小鳥の意地悪な問いかけにも社長は動じない。まったく765のスタッフにはワーカホリックなところがあって、この3週間はちゃんと休みを取った者がいるのかといった塩梅だ。
 代表的なワーカホリックは4か月前から一度も出社をしていないくせに、この3週間のせいで給与計算は滅茶苦茶なことになってしまった。
「まあ、止めはしないがね」
「美希ちゃんがあんなに頑張ってるんですもん。私たちだって頑張らなきゃって思いますよ。ねーメカちゃん?」
 メカ千早に会話を振ると、メカ千早は弾かれたように頭を上げた。何のことか全く分からないといった表情でメカ千早は左右を見回す。左には小鳥、右には社長の顔を見て、メカ千早はいいと思いますというよく分からない返答を返す。
 と、それを皮切りに周りの声が徐々にボリュームを落としていく。何が始まったのか分からないメカ千早は社長と小鳥の顔を交互に見て、
「…そろそろね、美希ちゃんが出てくるの」
 照明が急に落ちた。メカ千早のアイカメラが自動的に暗視モードに移行し、あらかじめプログラムされていた危機回避メソッドに従って周囲の様子をうかがう。
 急に落ちた照明のせいかそれともこれから待ち望んだアイドルが出てくる期待感のせいか、今まで騒いでいたファンたちは一斉に口を閉じている。完全なる無音
 瞬間、暗視カメラがフラッシュに焼かれた。幸いにしてノーマルモードへの移行に問題はなく、わずか一瞬でメカ千早のカメラがサーマルからノーマルへ切り替わる。
 緞帳が開いている。
 バックバンドが一斉に空気を吸い込む。
 あらかじめプログラムされた工程に沿って、カラーライトが舞台を照らしだす。

 舞台袖から、美希が跳ね跳ぶように走ってくる。

♪ Go My Way!! Go 前へ!! 頑張っていきましょう ♪
 夥しいまでの光量が爆ぜた。メカ千早はアイカメラに望遠モードを適用し、美希の表情をのぞき見ようとする。

 眩しいまでの笑顔。

♪ いちばん大好きな 私になりたい ♪
 バックバンドが本気を出した。同時に周囲から恐ろしいまでの轟音が聞こえ、メカ千早のプロセッサはアイカメラに回していたソースの大半を集音マイクの音感低下に回す。
 周りは激しく浮かれ騒いでいる。前の方に座っている法被まで着た気違いの集団がポールも折れよとばかりに旗を振っている。
 曲が進み、間奏が始まる。

 1曲目が終わる。
 オーディションの後のライブは大抵がオーディションに使った曲を披露して終わりだが、何曲か続けて歌う事も珍しくはない。
 今回の美希のライブは後者のほうで、社長の方に伝えられてるプログラムは1曲目が「Go My Way!!」、2曲目が新曲の予定である。
 「Go My Way!!」が終わると、美希はいまだ興奮冷めやらぬドーム内に向かって一礼する。来客に感謝の口上を述べるためだ。
 美希が息を吸うと、ドーム内の音がぴたりと止んだ。
「みんなーーーっ!!! 今日は来てくれて、本当に、ほんとにありがとなのーーーっ!!」
 怒号のような喝采。
「次の曲が、新曲でーーーす!! 聞いていってねーーーっ!!!」
 津波のような歓声。
 イントロがかかるまでは数秒の時があり、美希はその間満面の笑みを貼り付けて客席に向かって手を振っている。
 メカ千早の主記憶が、再び退避されて久しいメモリを参照する。

―――ミキも次の新曲ってどんなキモチで歌っていいかいまいち分かんないの。

「―――…ミキは、新曲をどんなキモチで歌っていいか分からないと言っていました。大丈夫でしょうか」
 つぶやきが聞こえたのか、小鳥がメカ千早を見る。メカ千早の表情には困惑の色があり、小鳥の方を心配そうに見ている。
「―――たぶん大丈夫よ、美希ちゃんなら」
 確信を持ったような言い回しに、メカ千早のプロセッサが疑問符を提示した。
「…なぜ、そう言いきれるのですか?」
 もっともな疑問ではある。メカ千早の質問に小鳥はえーと、と何の意味もない相槌を打って回答を探す。
 曲が始まる少し前に、小鳥はメカ千早に改めて向き直った。
「…理由は、まあないんだけど。でも私―――」
 イントロが始まった。テクノポップスの出だしに美希が踊り出す。旗振り隊が再びばっさばっさと仕事を始める。
 怒号のような歓声がドーム内に響き渡り、誰もが次の曲を心待ちにしている。
 言う。
「美希ちゃんの事、信じているから。…かな。メカちゃんは?」
「私は、」
 美希が息を吸った。



♪ 夜の 駐車場で ♪

 歌い出しと同時に会場が息を飲んだのが分かった。
 美希は踊りながら目を閉じている。美希の頭の中では今、4か月前のあの夜からの思い出が再生されている。

―――ねえ、聞こえてる?

♪ あの海 あの街角は 思い出に 残りそうで ♪

―――ミキね、Aランクになったよ。
―――だから、だからさ、

 会場のだれもが、その動きを止めている。誰もかれもがまるで目の前に神でも降臨したかのような表情を浮かべている。いまや会場で動いているのは美希だけで、ドームの中の誰もが目の前で歌い踊る美希を口を開けて見ている。

―――だからさあ、

♪ 「じゃあね」なんて言わないで、 「またね」って言って ♪

―――お願いだから、

♪ 私のモノにならなくていい、 そばに居るだけでいい ♪

―――起きてよう。

♪ 壊れるくらいに 抱きしめて ♪

―――帰って、きてよう。



 曲が終わった。美希が額に汗を浮かべて頭を下げる。
 拍手が起こらない。どいつもこいつもライブが始まるまではあれだけ浮かれ騒いでいたのに、いまやドームの中にいる観客は目の前のアイドルに完膚なきまでに圧倒されている。
 美希は頭を上げずにじっとしている。メカ千早の望遠レンズには、その様子がまるで何かに祈っているようにも見える。

 30秒ほどの空白の時間の後、どこからともなく拍手が聞こえた。
 最初は小さかった拍手は連鎖するように発生源から周囲に伝播し、10秒もせずにドーム全体に広がっていく。
拍手の音に我を取り戻したのか、旗振りが突然猛烈な勢いで旗を左右に振った。それが拍手を更に煽る。
扇情は止まらない、観客席の先頭が突然立ち上がって猛烈な勢いで拍手を始める。
それに倣ったのか、周りも次々と立ち上がって絶叫を始める。
スタンディングオベーションは止まらない、いまや座席に座っているのは特別席の765関係者以外には誰もおらず、ただただ目の前の奇跡のような存在に向けて途方もないまでの感情を爆発させている。
 美希が、祈りを終えて頭を上げる。
 美希の目の前に、余すところなく立ち上がったファンたちの狂乱がある。

―――ねえ、見てる?

 美希は思う。これでやっとAランクに上がれたと思う。
 やっと起きてくれると思う。

―――ミキ、やったよ。

 感極まったかのように、美希は再び深々と頭を下げた。

 プロセッサの70%を美希に割いて、メカ千早は残りの30%で周りの観察を試みる。
 どの顔にも必至とも呼べる表情があり、ひたすらに美希コールを行うやつらもいれば足を踏みならしている連中もいる。
あれだけの膨大な数が同じような動作をしているのだから事前に打ち合わせたとも考えられなくはないが、どうもその動きには整合性がない。
 打ち合わせなどやっていなかったように見える。
「メカちゃん、ライブは初めて?」
 ふと横を見ると、小鳥がメカ千早を見ていた。初めても何もそもそもドームに来たことがない。口を開こうとして止めた。どうせ初期値の声では小鳥まで届かない。
 こくりと頷くと、小鳥はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて、
「すごいよね。765始まって2人目のトップアイドル」
「…ミキは、凄いと思います」
 耳元でそう言うと、小鳥はくすぐったそうに笑った後にこう言った。
「うん。…でも、これは美希ちゃんだけの成功じゃないんだよ」
 小鳥はそう言ってまわりをぐるりと見回す。
特別席から見えるどのファンの顔にもはちきれんばかりの笑顔があり、再びメカ千早を向き直った小鳥の顔にはどこか誇りのようなものが見えた。

「これはね、765プロデュースの成功なの。私たちみんなで頑張って掴んだ成功なのよ」

 だからこんなに嬉しいの、と小鳥は続けた。
「そうだ。私たち全員が成功したのだよ」
 声に振り返ると、高木社長が誇りに満ちた表情で拍手をしていた。
「美希君だけではない。律子君や小鳥君をはじめとしたスタッフたちの努力が、この結果を生んだのだ。…私は君たちを誇りに思うよ」
 もちろんメカ君もだ、と高木社長は言った。

 バチ、と言う音を、メカ千早は確かに聞いた。

 メモリとプロセッサの間で、いつもに増して夥しい情報のやり取りが行われている。
 プロセッサが警告を表示した。メモリとのやり取りが初期基準値の120%を大きく超えている。あらかじめ入力されていた自己保存プログラムに従って、プロセッサは供給される電力を減衰させてハードディスクを保護しようとする。
信じられないことが起きる、減衰された電力を補うかのような勢いでメモリが電気を食っていく。バッテリーが信じられない勢いで消耗される。
研究所の職員たちが見たらハゲるのではないかと思う勢いでメモリが乱反射を起こし、巻き込まれる形でプロセッサとI/Oが熱にやられていく。
本来なら発汗を伴って熱を外部に放出して人工臓器を守るはずの表皮が真逆の反応をし始めた。振動している。主記憶の奥底に仕舞われていた故障診断用のプログラムが起動を開始しようとしてメモリの消費電力に邪魔された。
 熱にやられたのかそれとも致命的なバグがここにきて露出したのか、プロセッサが考えられないような信号を表情筋に送る。
 頭部を保護しようと自律プログラムが働いたのか、掌がプロセッサの指示を介さずにその両頬を抑える。

「―――これは、何な、のでしょう。体が、震えています」

 メカ千早のつぶやきを聞いた小鳥が、その表情を見た。
 小鳥の表情に、隠しきれないほどの喜びが現れる。

「それはね、メカちゃん。嬉しいって、言うんだよ」

 メカ千早が笑っている。
 今までの能面のような笑顔ではなく、中からあふれ出る激情が全身を通して溢れているように見える。
 両目をきつく閉じ、しかしその口元は大きく引かれている。

「―――嬉、しい」

 メモリが勝手にロードされた。いつか聞いた律子の言葉が勝手に流れ出した。

―――…何でもいいのよ。これやって楽しかったとか、社長がセクハラしてムカついたとか陰口叩かれて悲しかったとか。そういう経験を積んで、そこで改めて歌に向き合うの。

 これが、ココロなのですね。



 拍手が鳴りやまない。
 美希は再び客席に向かって大きく手を振っている。
 いまやドームの中で立っていない者は一人としておらず、小鳥も社長も、メカ千早もまた立ちあがって奇跡に拍手を送っている。


 メカ千早が、本当の笑顔で美希に拍手を送っている。



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