コーヒーブレイク

「…そうですね。ボクはボクですし。きっと、男とか、女とかより大事な事、あるんだと思いますから」
 真からその言葉を聞いた時、プロデューサーはほう、とため息をついた。
 真の魅力は一言で言えば中性である。
女性ファンにはボーイッシュな立ち居振る舞いから、そして男性ファンからはダンスのキレや時折見せるコケティッシュさが受け、
いまや『菊地真』は知らぬ者のないBランクアイドルとして765プロデュースの看板となっていた。
 最初こそ『女の子らしく』と言って聞かなかった真ではあったが、トップへの仲間入りを果たしたことでどうやら心境の変化があったらしい。
曰く、『ファンにどう見られるべきか』、『ファンはどんな真を見ているのか』。
 先日の昇格に伴い、真は自らの目指す理想のアイドル像から抜け出し、『菊地真』というアイドル像を見るようになっていた。
「そうだな。真は真だ。…そろそろ収録だな」
「はいっ! 今日も頑張っちゃいますよ、ボク!」
 それはある種の覚悟と言えるものだった。
 真は楽屋の丸いすから勢いよく立ち上がると、ぐるりと腕を回して簡単にウォームアップする。
両肩の感触を確かめてその場で軽く跳躍し、真は五体に満足したかのようにプロデューサーにニッと笑った。
「行くか?」
「行きます!」
 大またでどかどかと楽屋を出て行く真を見、プロデューサーは感慨深げに息を吐いた。
 やっとここまで来た。
 隠しようのない本音だった。
 プロデュースを始めたばかりの頃の真は、生まれながらに持つ自らの武器を自らで押し殺しているかのようだった。
いまや真は武器を力に変え、どんどん前へ進んでいく。
 実際のところ、真のような売り方が出来るアイドルはそうはいない。プロデューサーの手帳の埋まり具合がその証拠だ。
この収録の後にもレコーディングが控えているし、明日の収録の事など今は考えたくもない。
「プロデューサーっ、早く行きましょうよーっ!」
 楽屋の入り口から頭だけ出した真が感慨にふけるプロデューサーを急かす。そうだ、早く行かなければ。
プロデューサーは弾かれたように椅子から立ち上がると、悪い悪いと言って真を追いかける。

―――――――――――――――――――――――――

 ここがどこかと問われれば、「オープンカフェ」と答えるに違いない。
今真の目の前に広がるのは全く知らないカフェの軒先で、
突き抜けるような青空の下にあるカフェは、周りにあるビル群のせいかひたすら都会的に洗練されているようなイメージだ。
 イメージ、というフレーズに真は自分で首をかしげる。
ここ、どこだろう。
「…何? どうしたの首なんて傾げて」
 と、突然女の声がかけられた。誰だろう。
 女はさも当たり前のように真の正面の椅子を引くと、持ってきたトレイからカップを真の前に置いた。
真から見ても綺麗な女性だ。椅子の引き方からカップの置き方まで、何をとっても小洒落たこのカフェに合っていると思う。
「マコトちゃん、ラテでよかったんだよね?」
―――マコトちゃん。
 はて、と真はいよいよ疑問を思う。
 誰だこの人。見た感じはどうもあずささんから天然ボケを抜いてスレンダーにしたような感じだが、どうも真は目の前の美人に見覚えはない。
しかも大抵この手の人は真の事を『君』付けで呼ぶのが常で、
『ちゃん』付けで真を呼ぶのは小鳥や昔から真を知っていた近所のオバサマたちくらいだ。
 何か気恥ずかしい。心の底から思う、この人は誰なんだろう。
 ひょっとしたらTVか何かの偉い人なのかもしれない。だとしたら覚えていないというのも理由がつく。
その手の人との交渉は専らプロデューサーの仕事で、番組制作の上流に携わる人との見識など真はないに等しく、
であれば目の前の美人の名前すら知らないというのはひょっとしてプロデューサーに迷惑をかけるかも――
真はそこまで思い、いっそ思い切ってたずねてみようと思い、
『あの、以前に会った事が…?』
「あ、ありがとうございます。私ストレート飲めないんですよね」
―――え。
 発せられた言葉は、真の意図したものとは全く異なるものだった。
何これ、どうなってるんだろう――狼狽する真の意識に関係なく、マコトは慣れた手つきでカフェラテを受け取り、
よせばいいのにテーブル備え付けの砂糖を山盛りでカップにぶち込んであっという間に激甘ラテを完成させた。
 目の前の女性が笑っている。
「毎回思うけど、そうするならジュースのほうが良くない?」
『いや、ボクは別にその、』
「いいんです私はコーヒーが飲みたいんです。かっこいいじゃないですか、コーヒー飲めるのって」
 まただ。このマコトはどう考えても真ではなく、しかしマコトから発せられる声は慣れ親しんだ自分の声だ。どうなってるんだこれ。
「いいじゃない子供でも。『可愛い真ちゃん』なんて売り方、今しか出来ないのよ?」
 と、女性は机の下から大きめのバッグを引っ張り上げ、ピンを外して中から雑誌をいくつか取り出した。
なんだろう、と真は何とか雑誌の表紙を覗こうとするが、相変わらずマコトはもはやコーヒーとは言えない何かと女性の顔しか見ていない。
「私はプロデューサーみたいな大人の女性になりたいんです。
 格好良くて凛々しくて、男の人みたいに1人でもやっていけるような感じに」
 プロデューサー。
 真の声で聞こえた名前に、真はよくよくプロデューサーの顔を見た。
なるほど、言われて見ればどことなく真のプロデューサーに似ている気がする。顔かたちは似てはいないが、どこかで見たことのあるような安心する雰囲気。
 そこで、ようやくマコトは視線をテーブルの上に投げた。
ようやく真の視界に雑誌の表紙が映り、真はすぐさま視線を雑誌に走らせ、
―――うそ。
 雑誌はティーン向けのファッション誌だった。
覚えがある、以前本屋で見かけて、思わず手にとって見たものの『自分には似合わない』とカウンターに持っていくのを諦めたヤツだ。
 何よりも表紙にモードの最前線を行く女性を持ってくる事で有名なその雑誌の表紙に、真は誰よりも知っている顔を見た。
「―――菊地真特集なんて言ったってもう何回もやってるじゃないですか。私はもっと、」
「カッコいい仕事がしたい、でしょ? いいじゃない、貴女は貴女なんだから。背伸びしないでゆっくりやっていけば」
 何をどう見ても真が表紙を飾っている。が、表紙を彩る菊地真は真が着たことのないような服で、髪だって肩を越えている。
何よりも、何度瞬きをしても『菊地真特集』の下には『この冬の愛されファッション』と書かれている。
『…そっか』
 真はようやく気付いた。
これは夢だ。ずっとずっと思い描いていた『可愛いマコト』が真の大脳真皮質で演算されているに過ぎないのだ。
 真はままならない夢の中でぼんやりと思う。
だって、ボクはボクだから。男とか女とか、そういうのよりもっと大切な事を見つけたんだから。
 夢の中のマコトは真と違い、不満はあるようだがどうやら可愛らしさを前面に売り出しているようだった。
変な気分だ。あれほど求めてやまなかった『可愛らしさ』を持っている夢の中のマコトは、どうやら今の真が持っている格好良さに憧れているようだった。
 そんなもの、なくてもいいものなのに。
 「菊地真」は、「菊地真」の魅力を伝えていけばいいだけなのに。
 と、突然真の視界がぐにゃりと歪む。滲んだ視界の中、目の前のプロデューサーがあらまあと穏やかに笑う。
「眠い?」
「…うー、ちょっと。昨日の夜の放送見たから…」
 視界が突然暗転する。
マコトが目を擦っている、余りにも甘すぎるコーヒーに口をつける、マコトが唐突に強く瞬きをし、しかし眠気は去ってくれず、マコトの目蓋がやがてどんよりと落ち、

――――――――――――――――――――

 何度思い返しても変な夢だった。
テスト休み初日の真が今いるのは765プロの自社ビルで、他の所属アイドルはどうやらみんな出払っているようだ。
 プロデューサーも今は会議室で来週に控えたアイドルマスターグランプリについての打ち合わせをしており、現在事務室には小鳥と真しかいない。
が、小鳥は事務方の雑用に追われていて、さっきからばっさばっさと原林に宅地を作る重機のような勢いで書類の山を切り崩している。
 せめて茶でも入れようかと思い、事務所の隅にある給湯室に赴いて急須に茶葉が入っているのを確認し、真はカップを引っ張り出そうと戸棚を開け、
 イタズラ心が湧いた。
戸棚から小さな鳥のイラストが描かれたカップと真が愛用しているサッカーボールが書かれたカップを取り出し、電気ポットの『再沸騰』ボタンを押して電気を無駄遣いする。
コンソールが『100』と表示して間欠泉のような湯気を上げ、真は用意していた急須に熱湯を入れて心の中で3数える。
1、2、3。
すぐに小鳥のカップに茶を注ぎ、
口内ヤケド確実の茶を冷ましながら真はティースプーンで数杯のインスタントコーヒーをサッカーのカップに放り込む。
冷蔵庫に入っている牛乳で黒いコーヒーを茶色に薄めると、ちょうど茶の温度も程よくなる頃だった。
「小鳥さん、お茶どうですか?」
「あ、ありがとう真ちゃん。ちょっと待ってて今置く場所作るから」
 どうも小鳥はようやく宅地建設に反対する土着の抵抗勢力を一掃するのに成功したようだった。
作られた入植地第一号に記念すべき茶を置くと、真は挨拶もそこそこに給湯室に戻る。
 給湯室には湯気の立つサッカーボールのカップが鎮座しており、真は棚から瓶を一つ取り出した。
へたくそな字で「さとう」と書かれている瓶の蓋は密閉方式のワンタッチ開閉で、真は親指を蓋のツメに引っ掛けてパコンと音を立たせた。
 中身は一般的な上白糖で、真は先ほどのスプーンで今度は砂糖をカップに大量に放る。
夢のマコトがやっていた劇甘ラテを完成させ、真は珍味を目の前に押し黙る修行僧のような表情を浮かべる。
 やがて数分の逡巡の後、真は大きく息を吸った。
夢のマコトは飲んでいた。
じゃあ、ボクにも出来るはずだ。
 何の根拠もない理屈を脳裏に浮かべ、真はカップに唇をつけ、もはやコーヒーとは言えない何かを口内に流した。


 悲劇的な味。


 別に何をされたわけでもないが、真はひどく裏切られたような気持ちになった。
しかし入れたばかりのコーヒーのような何かは相変わらず湯気を立てているし、捨てるにも忍びない。
真はどうしようこれと後ろで格闘している小鳥に助けを求めようとし、
土着の抵抗勢力VS拡大を続ける人口の受け皿として戦う宅建労働者としての戦いがクライマックスに臨みつつある事を見て止めた。あれは駄目だ。
お湯で薄めれば何とかなるかと思うが、飲んで薄めてを繰り返しているうちにポットの湯も切れてしまった。
 仕方なしに牛乳を足して何とか飲める味まで食品化合を繰り返し、
「…あ」
 牛乳が切れてしまった。もともと牛乳を飲むのは真だけではなく、確か背を延ばすとか何とか言ってやよいも飲んでいたはずだ。
 仕方ない。
真は気合一発牛乳のお湯割りIn砂糖を飲むと、しかめ面をしてコートを羽織る。
「小鳥さん、牛乳切らしちゃったんでコンビニ行ってきますってプロデューサーに伝えてください」
「分かったわ。気をつけてね」
 背後を通るついでに開発の進捗を見ると、どうも土着勢力は宅地の中でも誇りを失わないという現実的な生存の道を選んだようだった。



 コンビニとは正式名称をコンビニエンスストアと言う。
しかし765の事務所はオフィス街にあり、オフィス街とは読んで字の如くオフィスビルが林立するショッピングの望めない不毛の地であり、
という事はコンビニまでは多少距離があり、しかし真はその距離を大して苦にしないのだった。
これも一つの体力づくりと思えばなんと言うこともなく、真は履きなれたスニーカーの踵をすり減らすかのように歩いている。
 冬の空はどこまでも高く、風がないせいか多少の暖かさすら感じる。
目指すコンビニはもうあと一つ角を右に曲がった先にあり、角2つ前の信号に捕まった真はクラクションの鳴り響く交差点の前でぼんやりと昨日の夢を思う。
 変な夢だったなあ。
 夢は脳が経験情報を整理する過程だというが、だとしたら真は一体いつあんな経験をしたというのだろう。少なくとも格好良くという願望を持った事はない。
とにかく女の子らしくと心がけ、しかしいつの頃からか菊地真に求められる像を意識し始め、真は自分を表現できればそれでいいと気付いた。
 何を今更と言われればその通りだし、ずいぶんな遠回りをしたと言われればまあそうだ。
それでも、見つかった菊地真は何にも代えられない宝物だし、やり方がわかったのだから先は明るい。
 このやり方を選択した事に後悔なんてない。


―――――――――本当にそうなの?


 真ははっと顔を上げる。はっきりと声を聞いた。慣れ親しみすぎた自分の声。
 しかし、冷静に考えれば菊地真はこの世に1人だし、と言う事は夢に引っ張られて幻聴でも聞いたのか、と真は肩から力を抜き、
 次の瞬間真は目を見開いた。
 道路の対岸に、マコトを見た。
 マコトは真が着た事のないような茶色のコートを着ていた。髪だって肩を越えているし、全身から立ち上る可愛らしい雰囲気は凛々しい真と対極にいる。
が、何をどう見てもその顔は真の顔で、マコトはその顔に穏やかな笑みを浮かべている。


―――――――――本当に、いいの?


 なぜかは分からない。しかし、真にはマコトの声がはっきり聞こえた。
あれほどやかましく鳴っていたはずのクラクションも今は全く聞こえない。
 対岸にはマコトの他にも沢山の人が信号待ちをしており、もうすぐ変わる歩行者用信号の点滅を仰いでいる。
と、マコトはもう一度真に向かって寂しそうに笑うと、まるでもう話す事は無いとばかりに交差点に背を向けた。
あまり背の高くないマコトはすぐに人垣に飲まれ、信号が青に変わった瞬間に真はマコトを追って駆け出す。
「…っ!」
 フードを目深に被ったお陰か誰も駆け出したのが『菊地真』であると気付かず、
向かってくる大勢を掻き分けて向かい側に渡るのは大変で、しかし真はそれでも何とか人垣を越え、マコトの背中を追いかける。
 何のことだ。
 後悔しないかってどういう事だ。
 それ以上に何よりも、アンタ誰なんだ。
 疑問符は山のようにあり、真は頭の中でそれらの問題に対する解答を用意できず、たかだか道路一本分の距離は余りにも遠かった。
「、ま、待ってっ!!」
 声まで掛けたが、マコトは散歩でもするかのような歩調を一切緩めない。
やがてマコトは追跡する真を全く気にも留めずに1つ先の交差点を左に曲がり、人の波に揉まれながら真もマコトを追って交差点を左に曲がり、
 そこにはもう、肩を越えた髪の、可愛らしい雰囲気の少女はどこにもいなかった。

 消えた。認めがたいが、そう形容するしかなかった。
Bランクに上がってからというもの、まともな休みすらなかったから幻覚でも見たのかもしれない。
 真は角を形作るビルに半身をもたれさせ、マコトの消えたビル街を眺める。

――――――――――本当に、いいの?

 いい。真は思う。これが菊地真のあり方だ。誰であろうと邪魔はさせない。空想がどのツラ下げて菊地真の花道に疑問を投げかけるのか。
 何となく腹立たしくなり、真はやがて牛乳を買いにコンビニに行くという本来の目的を思い出し、振り返ってもとのルートに戻ろうとし、
 そこにオープンカフェを見た。
突き抜けるような青空の下にあるカフェは、周りにあるビル群のせいかひたすら都会的に洗練されているようなイメージだ。

――――――――――格好良くて凛々しくて、男の人みたいに1人でもやっていけるような

 夢の会話が、嫌に生々しく思い出された。冬だと言うのに、真はじっとりと汗をかいている。
 何だこれ。
舞台が整いすぎていると思う。真冬の空の下にあるセンスのいいカフェ、突如真の前に出現したマコトと、マコトの放った強烈な問いかけ。

――――――――――本当に、いいの?

 唐突に携帯がぶーぶー震えた。
びくりと体を強張らせ、真は火に触れた原始人のような手つきで懐に手を入れ、携帯の液晶に表示された『プロデューサー』の文字に恐ろしいほどの不安に駆られる。
もし、プロデューサーまで『プロデューサー』なのだとしたら。
真か、ではなくて『マコトちゃん』と呼ばれたりしたら。
 舞台は嫌味なほど整っている。普通に考えればありえないことが、今現実になりそうな気がする。この瞬間に首都直下型地震が起きるといわれれば信じると思う。
しかし携帯電話のバイブレーションは止まらず、
真は恐る恐るポップなデザインの受話器のボタンを押し、現実味のまるでない冷えた携帯を耳に当て、
「もしもし、」

『ああ、真か? 今どこにいる?』

 安心で死ぬなら今死んだと思う。真は五臓六腑の隅々から息を吐き、受話器の向こうでプロデューサーの不審がる雰囲気を感じた。
『――真? どうした、大丈夫か?』
「あ、と、へへ、大丈夫です。今ちょっと外に、」
『そうか。すまん、突発で営業入った。今どこにいる?』
 結局、『プロデューサー』が迎えに来るのが怖くて、プロデューサーとはコンビニ前で落ち合う事にした。



――――――――――――――――――――

 気がつくと、真はオープンカフェにいた。例のあのカフェだ。
相変わらず空は青く雲の一つもありはせず、真はぼんやりとした意識が急速に覚醒していくのを感じた。
 多分、これも夢なのだろう。忙殺されるほどに忙しいくせに、寝ているときくらい休ませてくれたっていいのに。

「そう言わないでよ。だって、あなたちっとも私のこと見てくれないんだもの」
「…。得意なの? いきなり出たりするの」

 とげのある物言いを、真は突如正面に現れたマコトに投げた。
 マコトは読んで字のごとく唐突に現れると、遠慮などまるでなく椅子を引いてテーブルに着く。
なるほど、マコトのプロデューサーと見比べれば椅子の引き方から座り方までどことなくガキっぽい。
「あら。私嫌われちゃったかしら」
「アンタがやってたみたいにコーヒー入れてみたよ。ひどい味だった」
「そう? 美味しくない?」
「アンタ誰なの? どうしてボクの前に出てきたの?」
 質問を質問で返すと、マコトは心外と言わんばかりに頭を振り、次いでさも面白いものを見つけたかのような表情を浮かべ、
「私は菊地真よ。あなたと一緒」
「…ボクは、自分のこと私って言わないんだ」
「知ってるわ」
 なんだろう、だんだん腹が立ってきた。夢なのだからさっさと覚めて欲しいと思う。
真はどうしようもない目の前のマコトに向かい、心底うんざりとしたため息を吐く。
「多分、アンタはボクがなりたかった『菊地真』なんだろうね」
 改めて目の前の少女を見る。顔かたちはまるで真そのものだが、しかし立ち上る雰囲気は凛々しいと対極の可愛らしいだ。
髪型は前髪こそ似ているものの、ショートの真に対しマコトはセミロングで、ファッションといえば真がパーカーのスニーカーでマコトは流行のコートにボア付きのブーツと言った出で立ちだった。
 思う、顔は同じクセにこうも雰囲気が違うというのは何が原因なのだろう。あの馬鹿のような砂糖の量だろうか。
「そう? 今は違うの?」
「ボクはボクなんだ。もう女の子らしくとか、そういうのは関係ないんだ」

「それは、逃げじゃないの?」

 癇に障った。真は今までの人生で出した事のないような表情を浮かべ、目の前に座る癇に障るマコトを見る。
マコトのほうは澄ましたもので、剣呑な真の視線をどこ吹く風にニヤニヤと真を見ている。
「…違うよ。ボクは逃げてなんかない。見つけただけだ」
「本当のあなたを? なりたかったあなたと随分違うみたいね」
 図星を突かれた。確かに真は『誰よりも女の子らしく』とアイドルを志した。
それがいつの頃からか、男らしくとか女らしくとかではなく、菊地真というスタイルを目するようになっていった。
「あなた結局逃げたのよ。『なりたかった自分』じゃなくて『今すぐになれる自分』に甘んじてるだけよ。
 そうでしょ? 格好良くて凛々しくて、たまにコケティッシュな菊地真くん」
「うるさい!」
 耐え切れず怒鳴った。何でそんな事を言われなければならないのだ。たかが空想のくせに、たかが夢のくせに。
が、マコトは真の激昂をものともせずに口を開いた。
「それで『本当の自分を見つけました』なんてよくも胸張って言えるわね。
 賞賛するわ、さすがアイドル。心の中でどう思ってても顔に出さないもんね」

 自分を見つけたつもりでいた。やり方を見つけたつもりでいた。菊地真はこれでいいのだと、本心から信じていた。
男とか女とか、そんな事以上に大切なものを見つけたつもりでいた。
菊地真は菊地真の魅力を出していけばいいのだと、そう思った。


 じゃあ、目の前のコイツは、なんだ。


「あなたこう思ったんじゃないの?
 いつも聞こえるのは女の子の黄色い声、あれほど欲しかった男の子からの応援は相変わらず増えない。
 じゃあ、需要のあるほうに傾こう。それが菊地真の役割だろう。
 世の中は需要と供給で成り立ってるんだから、じゃあボクは自分が求められている姿を発していこう。
 そうすれば、もっともっと評価は高くなる。もっともっと売れっ子になれば、きっとプロデューサーも、」
「うるさい! プロデューサーは関係ないだろ!」
「そうね、関係ないわね。『真は真らしく』って言っただけだもんねプロデューサーは。
 夢を追いかけて妥協して今のあなたを選択したのは、あなただもんね」

 耳をふさいで頭をテーブルに埋めた。真には、もう目の前の女がマコトであると信じられない。
こんなヤツの話は聞きたくもない。しかし、どんなに強く耳を抑えても、マコトの声ははっきりと聞こえた。

「それが逃げでなくて何なのよ。はっきり言ってあげる、あなたはあなたから逃げたのよ。
 より受け入れられるほうにって大義名分掲げて尻尾丸めてさっさと逃げ出したの。
 そんなんじゃ皆そのうちあなたのこと見限るわよ。
 今は皆あなたのことチヤホヤしてくれてるんでしょうけど、その内プロデューサーだって」
「うるさい、うるさいうるさい!! だま、黙れっ!!」
 もう沢山だった。どうしてこんな事を言われなければならないのか。
 Bランクに上がる事だって並大抵の事ではなかった。
死ぬかと思うほど辛いトレーニングを乗り越え、思わず殴ってやりたいほどの皮肉と中傷に出会う事は一度や二度ではなかった。
 挙句、夢の中でまでなぜこんな事を言われなければならないのか。
「―――その内、プロデューサーだってあなたのこと捨てちゃうかもね」
「黙れっ! うるさい!」
 うずめた頭の上から降ってきた言葉は、どうしようもなく恐ろしい未来予測だ。
 なぜまだ起きられないのかと思う。頭を押しつぶすかのように耳を押さえても、目の前のマコトが笑う耳障りな声はずっと聞こえ続けている。
 もう沢山だ、文句なら充分言われた。なぜ文句を言われるかも分からないまま、真はきつく目を閉じ、顔を真っ赤にして叫んだ。

「消えろ! ボクはお前なんかじゃない! もう出てくるな!」
 
 そして、真は遂に、その言葉を言った。


「アンタなんか、大嫌いだ!!」


――――――――――――――――――――

 ばちんと目が覚めた。真はぼんやりと目に映る灰色の空を眺める。
 空?
 頭に左手を伸ばして額を覆う。と、手のひらの付け根に液体を感じた。うー、と声にならない声を上げ、手の届きそうなほど近くにある灰色の空を不審に思い、
「――お、起きたか」
「え、」
 声のした方に首を回すと、リクライニングを少しだけ倒したプロデューサーが視界に入った。
あれ、と思う。何でプロデューサーがここにいるんだろう。
「…プロデューサー。ここ、どこですか」
 何でいるんですか、とは問えなかった。
「車の中。今は首都高降りて都内で路駐してる」
 記憶を手繰る。
そういえば牛乳を買いに外に出て、緊急の営業が入ったとか何とかでコンビにまでプロデューサーが迎えに来て、その足で営業スマイルを振りまいて、そしてそのあと――
「ところで真、そろそろ右手ギアから放してくれ。危ねえ」
 言葉に一息入れて右手を見ると、真の右手はギア――に乗せているプロデューサーの左手――をがっちりと掴んでいた。
辛うじてパーキングに入っているのであろうギアを握っているプロデューサーの手は握力に晒されて白くなっており、怨念でもこめて握っていたのかと疑うような有様だ。
「あ、ご、ごめんなさい」
 すぐに手を離そうとして、不意にアイツの言葉が蘇った。
―――その内、プロデューサーだってあなたのこと捨てちゃうかもね。
 謝罪しながらも手を離さない真にプロデューサーはほんの少しだけ不可思議な視線を送り、しかしそれ以上は何もせずにスーツの懐をあさってハンカチを取り出す。
「顔。拭いとけ」
 え、と真はリクライニング全開でベッドの代わりをしていた助手席から上体を起こす。
言われるがままに体をねじって左手でハンカチを受け取り、そこで顎から水がこぼれた感覚を得た。
「怖え夢でも見たか」
 涙だ。受け取ったハンカチで頬を拭うと、次いで真は腫れぼったい目をハンカチで擦った。
膜でも張ったような視界の中、プロデューサーが疲れたように笑っている。
「…ちょっと。変な夢見ました」
「そうか。最近忙しかったからな」
 プロデューサーは真に握られたままの左手を動かし、ギアをパーキングからドライブに入れた。左にウィンカーを入れてハザードを消し、車線に混ざるタイミングを伺う。
「…プロデューサー、手、大丈夫ですか」
 一つ前の信号が赤になり、プロデューサーは丁寧に車線に車を滑り込ませた。走行車線に合流した後も真はずっとギアを握っている。
今までなかったことだ。動交法的にどうかと思うが、しかしチラ見した真の表情は何か切羽詰って見えた。
「何てことねえよ」
 プロデューサーと真と牛乳を乗せた車が、765プロデュースの本社に近づいていく。
結局車庫に車を入れるまで、真はずっと右手をプロデューサーの左手に乗せていた。



 テスト休み3日目。
たまのテスト休みのくせに、真は貴重なはずの休みを仕事で埋めたがった。
 特にデカい仕事であるアイドルマスターグランプリを週末に控え、調整をかねて何日か仕事を空けようかと尋ねたプロデューサーに、
入れられるなら仕事したいですと真からの申し出があったのは一昨日の車内でのことだった。
 アイドルとしての自覚がなどと言うつもりは更々ないが、それにしても仕事を詰めすぎたのではないかとプロデューサーは手帳を見て思う。
かなり疲労が溜まっているのは真も同じらしく、つい先ほどまでやっていた収録で珍しく真はステージでコケた。
ミスと言えばミスなのだが、「へへ、すみませーんっ!」と言って立ち上がった真がADのツボに嵌ったらしく、オンエアではカットされずに放映されるという。
「へへへ、久しぶりに転んだなあ」
 そう言って助手席で笑う真の笑顔は妙に歪だ。
 今日分の収録は全て終わり、現在真とプロデューサーは本社ビルへ帰る車内にいて、
突っ切ったほうが早かろうと乗り入れた都心ではうんざりするような長さの渋滞が待っており、
二人そろって遊び呆ける若人をガラス越しに眺めている。
「…すまん、少し仕事多いか」
 渋滞が動かない。プロデューサーは真の笑い声に表情に似た歪みを感じ、真の顔を見ずに謝罪を口にする。
「え、そ、そんな事ないですよ。仕事させてくれって頼んだのボクですし」
「そうか」
 真の目の前でプロデューサーの口元が僅かに笑んだ。
真が働く以上プロデューサーも働かざるを得ず、と言う事はプロデューサーも休む事は出来ず、ここ最近の真の懸案の一つがこれだった。
が、普段と変わらないプロデューサーの様子にほんの少しだけ安心し、真は視線をフロントガラス越しの夕焼けに投げる。

 懸案の本命など、言うまでもない。

 突如現れたマコトの音沙汰はあれから全くなかった。一晩出てきて言うだけ言ってドロンだ。
卑怯な気もするが、もう出てくるなと言ったのは紛れもない自分だ。
 言い過ぎたという気も、しなくはない。
「…それに、動いてれば余計な事考えないで済むし」
 安心したせいか、ついつい本音が漏れた。あ、と口を噤み、真は恐る恐るプロデューサーを見る。
プロデューサーは全く動かない渋滞を生み出した夕陽のように赤い信号に一瞥をくれ、その後ぼんやりとした視線を真に向けた。
「何かあったのか」
 全くもう。真はほんの僅かにため息をつく。
うかつな言葉が漏れてしまったと思う。しかしプロデューサーは何をどう差し引いても心配以外の何者でもない視線をしているし、
こうなったら素直にゲロしたほうが良かろうと思う。
 友達ですよ、と前置きした。
「昔からボクの事知ってるヤツがいるんです。
 家族のこととかボクが男っぽい事とか全部知ってて、ずーっと昔からの付き合いなんです。
 でソイツ、ボクが女の子っぽくなりたい事とか全部知ってたんですよ。
 だからボクがアイドルになる、女の子って言われるようになるって言ったとき、
 多分…多分ソイツ喜んでくれたんじゃないかと思うんですけど」
 信号が青に変わったが、ほんの少し前に進んだだけで状況は一向に改善しなかった。どうも先頭に右折の下手なヤツがいるらしい。
「いつからか分かんないんですけど、その内ボクはボクを出してけば良いんだって思いました。
 女の子っぽくないけど、でもこれが『菊地真』なんだって思うようになったんです。
 …でも、ソイツはどうもそう思ってなかったらしくて」
―――あなた結局逃げたのよ。『なりたかった自分』じゃなくて『今すぐになれる自分』に甘んじてるだけよ。
 あの日の夜から、眠ろうと目を瞑るといつもこの言葉が浮かぶようになった。
マコトは出てこないくせに、その強烈な物言いだけが真の頭の中に巣食っている。
「それで、ケンカでもしたか」
「ケンカっていうか」
 物別れに終わりました、と真は夕陽をまぶしそうに見つめた。
何せあれからマコトが出てこない。あのマコトは真の頭の中にしかいないし、出てこないというよりはそもそもそんなヤツはいやしない。
 が、真はどうしてもあのマコトが自分と同じだと思えなかった。
2度も寝れば頭が冷えたもので、もう少しまともに話すことだって今なら出来るとは思うが、肝心の話し相手がいないのでは話が先に進まない。
「友達か」
「そうです」
 面の皮が厚くなった気がする。少し前まではウソが苦手だったくせに、プロデューサーの問いに淀みなく真は答えた。
相変わらず夕陽はまぶしく、相変わらず先頭には右折が下手な奴がいる。
「それで、何て言われたんだ」

 遂に、この問いが来た。

 真は目を瞑る。ひどく難しい質問だとも思ったが、簡単に答えるのは上っ面を撫でるのと同じ事だと思った。
 思い出す、あの時あの夢の中で、マコトに投げられた言葉。

―――本当のあなたを? なりたかったあなたと随分違うみたいね。
―――それで『本当の自分を見つけました』なんてよくも胸張って言えるわね。
―――より受け入れられるほうにって大義名分掲げて尻尾丸めてさっさと逃げ出したの。

「…真?」
「…今のボクは、今すぐに出来る『菊地真』で妥協して、逃げてるだけだそうです」
 回答は、余りにもあっけなかった。ただその一言を言い、真は再び目を開けた。夕陽に目を焼かれ、顔をしかめてブラインダーを降ろす。
影が真の顔を覆い、漆黒の髪が影と混じって髪が伸びたように見える。
「プロデューサー、ボクは…なりたかったボクから、逃げたんでしょうか」
 真は縋るようにプロデューサーを見つめた。
プロデューサーはと言えば全く進まない前のセダンのナンバープレートを目で追い、やがてゆるゆるとため息をついた。
「ソイツとは長いのか」
 問いに、真は首を縦に振った。
長いも何も16年の付き合いだ。きつい事も辛い事も一緒にやってきたはずなのに、どうしてこんなに離れてしまったのか。
プロデューサーは視界の隅で真の返事を認め、セダンのナンバーを隠すかのようにクリープを効かせて車体を少しだけ前に出す。

「じゃあ一緒にいた時間が長すぎて、ソイツは真の変化に気付かねえだけだろう」

―――え。
 どういう事ですかと問おうとして真がプロデューサーを向いた時、ようやく右折レーンが動き出した。
セダンの背中が遠ざかり、プロデューサーはさして急ぐでもなくアクセルを軽く踏む。
 プロデューサーは横目でちらりと真を見ると、急に流れの良くなったレーンに満足したかのように口元で笑い、
「近すぎて分かんねえだけだ。ちょっと時間置いてみろ」
「…そういうものなんですか」
 そういうもんだ、とプロデューサーは答え、ようやく交差点に差し掛かってウィンカーを上げた。
タイミング悪く補助信号の矢印が消え、ちっかちっかと点灯するウィンカーの下に真っ赤なブレーキランプを光らせる。
「真が変わっていったから、ソイツ真に置いていかれたとでも思ってるんじゃねえか。真にその気がなくてもな」
「…ボクは、変わりましたか」
 質問に、プロデューサーはぼんやりと視線を信号に投げた。車の前席からは夕陽と信号が真横に並んでいるように見える。
 ややあって、プロデューサーは答えた。
「ああ」
 短い返答に、真はほんの僅かに唇を噛んだ。
「変わろうとしたんじゃないんです。ボクは…ボクになろうと思っただけで」
―――なりたかったあなたと随分違うみたいね。
 不意に、マコトの言葉が脳裏をよぎった。
マコトの言うとおりだと思う。4月の、まだまだFランクの底辺にいた頃の真の夢はマコトになることだった。
とにかく女の子らしくと心がけ、しかしいつの頃からか菊地真に求められる像を意識し始め、真は自分を表現できればそれでいいと気付いた。
―――夢を追いかけて妥協して今のあなたを選択したのは、あなただもんね。
 本当にそうなのかもしれない。
あの頃からの夢をひたすら愚直に追い続けていたら、ひょっとしたら今助手席に座っているのはマコトだったのかもしれない。
 それでも、真はマコトにならなかった。
 マコトにならないことを選んだのは、菊地真になることを選んだのは、
紛れもなく、

「いいんじゃねえのそれで」

 弾かれたように顔を上げると、いつまでも変わらない信号を尻目に、プロデューサーが真を見ていた。
夕陽に色濃く照らされた車内の中、真にはプロデューサーがぼんやりとぼやけて見えた。
「メッキ貼るよかずっといいだろ地金は剥げねえし」
「そういうものですか」
「そうさ。多分――」
 プロデューサーは視線を前に戻した。真の視界の隅で横斜線の信号が黄色に変わる。
 右折が近い。
「―――自分がどういう奴になるかは、自分が決めるしかねえんだよな」
 それは、誰に向けての言葉だったのか。真はプロデューサーを見ている。
 プロデューサーは視線を信号機に向けたまま、おぼろげな視線を前方に飛ばしている。
真には、プロデューサーがどこを見ているか分からない。
プロデューサーの横顔は、信号機よりもずっとずっと遠くを見ているように見えた。

 信号が変わる。90度に角度を変えた繁華街では、まもなく訪れる夜にあわせたネオンが光に踊って客を招いている。
「ちょっと時間置いてまた話してみろ。きっとソイツも分かってくれる」
「…そうでしょうか」
「友達なんだろ?」
 真は頷く。
きつい事も辛い事も一緒にやってきたのだ。
死ぬかと思うほど辛いトレーニングを一緒に乗り越え、一度や二度ではない、思わず殴ってやりたいほどの皮肉と中傷を一緒に踏み越えてきたのだ。
 だからこそ、真はとんでもない事を言ってしまったと思う。
「…ボク、ソイツに大嫌いだって言っちゃいました」
「ご挨拶だな」
 自分でもそう思う。
真はネオンあふれる繁華街を見る。新年会のシーズンももう終わったくせに、どこの店も相変わらず黄色く濁った蛍光灯の下で「生ビール1本サービス」と主張している。
 濁った蛍光灯の頼りない光が、ひどく心もとなかった。
「ひでえ事でも言われたか」
 鼻柱を掻き、へへ、と笑う。
「向こうにしてみりゃ、ボクがソイツのこと裏切ったようなものですから。色んな事言われすぎて、カッとなっちゃって」
 だから、そんなひどい事を、という真の声が、消え入るように日の落ちた車内に消えた。
ため息。
「謝んなきゃな」
 呟いた。しかし、謝ろうにもどう謝ったものか真には分からない。
何せあれからマコトは一向に出てこない。
本当に友達ならやり方などいくらでもあるのだろうが、しかし相手は誰であろうマコト本人である。
「向こうもそう思ってるさ」
「…そう、ですかね」
「そうさ。大切な友達なんだろう?」
 声にプロデューサーを見ると、相変わらず正面を向いたプロデューサーは横目でちらりと真を見、すぐに視線を正面に戻した。
「そういう友達は大事にしろよ」
 ほんの少し、ムッとした。
確かにマコトの事を友達と比喩したのは真だが、なんだかマコトのほうがベタベタに褒められているような気がしたのだ。
 それじゃまるでボクが子供みたいじゃないですか。真はそう言おうとして、ふとマコトのあの言葉を思い出した。

――――その内、プロデューサーだってあなたのこと捨てちゃうかもね。

 邪な思いが脳裏によぎる。もしマコトが実際にいて真と並んでいたら。
もしマコトもアイドルで、プロデューサーがマコトを選んでしまったら――。
「…あの、プロデューサー。ボクは、ボクになったんですよね」
 思う。マコトは真が思い描いていた理想の女の子で、『菊地真』は『ボクになった』真で、どちらも真には違いなく、しかしその中身は大きく異なる群像で、だとしたらプロデューサーに選ばれるのはマコトのほうではないのか。
 可愛らしくて、女の子っぽくて、真の顔をしたマコトを、プロデューサーは選ぶのではないだろうか。
「女の子っぽくはないんですけど、それでもプロデューサーはボクのこと見ててくれるんですか」
 ほんの僅かに声が震えた。これは賭けだと思う。
メッキは剥がれるだろう。では地金はどうか。剥がしたメッキの内側にある地金をプロデューサーはどう見ているのだろうか。

 いつの間にか、車は自社ビルの近くまで進んでいた。
プロデューサーは真の問いにすぐには答えず、何度目かの赤信号につかまった時にようやく口を開いた。
「当たり前だ」
 声色に僅かに怒気が混ざっているような気がして、真はプロデューサーの表情を見る。
プロデューサーは眉間にしわを寄せて何やらうんうんと考え込んでおり、
 しかしやがて信号が変わって自社ビルが目の前に迫り、プロデューサーは慣れた手つきで車を駐車場に収めると、
「俺は、真が真だからプロデューサーをしてるんだよ」
 早口でそう言うと、プロデューサーはさっさとベルトを外して運転席から冷えた表に出た。
 真はプロデューサーの突飛な離席に目を開いたが、しかし赤みのかかったプロデューサーの横顔をばっちり目撃してしまった。
 照れてやんの。
 なんだかおかしくなって、真は運転手のいない助手席で「へへへ」と笑う。

 確信した。
 あの人は、ボクの事捨てない。



――――――――――――――――――――

 目を開けると、相変わらずあのカフェだった。
 身構える、まさか今日とは思わなかった。
真は夢の中で思考を巡らせる。今日は確かテスト休みの4日目(?)で、昼間は確か収録があって事務所に戻ったら社長が新しい腹芸の練習をしててええと。
 自宅に戻った記憶はあるから体は布団の中なのだろう。ウソのようにはっきりとした思考の中、真はいよいよ本題に入る。
 なんて謝ればいいだろう。
 とんでもない事を言ったと思う。今にしてみればそう思うが、あの時の叫びは本心から出た言葉だ。
撤回するには余りにも重く、容易には許して貰えないだろうなと真は趣味の良い椅子の背もたれに体を預けて空を仰いだ。
 夢の中だからか相変わらず空には雲ひとつもありはせず、しかし逆に空の青さが現実離れして見えた。
「…何? どうしたの空なんて見上げて」
 と、真の視界の外から声が掛けられた。どうも声の主は正面にいるらしい。
真はすとんと視界を落とし、そこに意外な人物を見た。
「真くん、ラテでよかった?」
 真から見ても綺麗な女性だ。椅子の引き方からカップの置き方まで、何をとっても小洒落たこのカフェに合っていると思う。
真は勧められるように差し出されたラテの泡を見、次いで口を開いた。
「プロデューサーさん、ですよね」
『プロデューサー』は自己紹介は要らないかとばかりに微笑む。
 驚いた。アイツが出てくるものだとばかり思っていたのに、ドッキリもいいところだ。
プロデューサーがカップを唇につけたのを見て、真もまたラテを口に運ぶ。
 夢のくせに、妙にしっかりと味を感じた。
「砂糖、入れないんだ?」
「ボクはアイツみたいに甘党じゃないんです。一回やってみましたけど酷い目に遭いました」
「そうなのよ、毎回止めろって言ってるのに聞かないのあの子」
 ほとほと困ったかのように顔を覆う『プロデューサー』の雰囲気は、真のプロデューサーのそれとやはりよく似ていた。
「いつもそんな風に飲んでたら糖尿になっちゃうって言ってるのに、
 あの子ったら『女の子は砂糖で出来てるからいいんです』って。あなたからも言ってくれない?」
 なんだか親が子供の悪癖を晒しているようだ。止めなければならないのに、可愛さが先に立って強く出れない。
「言いました。そしたら『美味しくない?』って。全然そんな事ないんですけど」
 二人そろって苦笑をもらした。
 会話が途切れる。真は再びラテを口に運び、僅かな逡巡の後にこう言った。
「ボク、アイツに酷い事言っちゃったんです。…謝りたいんですけど、出てきてくれなくて」
 プロデューサーは胡乱気な視線を真に投げ、しかし真はその視線に動じる事なく次の言葉を言った。
「アイツ、今どうしてるんですか」
 問いに、プロデューサーはのんびりとコーヒーカップを口に付け、ため息を一つ漏らした。
「塞いでるわ。あなたに言われた事へのショックが半分、あなたに言ってしまった事へのショックが半分ってところかしら」
「…アイツから、聞いたんですか」
 プロデューサーは、まあね、と頬杖をつく。その口元が僅かにつりあがっているのを見て、真はふと思う。
「何で…そんなに楽しそうなんですか」
「そう見えるかしら?」
 はい、と正直に言うと、プロデューサーはこらえ切れないように笑い出した。
「だって、あなたたち本当にそっくりなんだもの」
「?」
「あの子言ってたわよ、『酷い事言っちゃった、謝らなきゃ』って。泣いてないで出てくればいいのにね、あなたみたいに」

 くすくすと笑い続けるプロデューサーの前で、真はひょっとして、と思う。
―――その内、プロデューサーだってあなたのこと捨てちゃうかもね。
 あれは、誰に向けての言葉だったのか。もし、真が本当にマコトとそっくりなら、それはもしや、
「あの、プロデューサー、さん」
 いつもプロデューサーと呼んでいるからか、最後に『さん』が付く呼び方はどうも違和感がある。
 しかし、これだけは聞かなければならない気がした。
 なあに、と相変わらず笑いを漏らすプロデューサーに向かい、真は口を開く。
「もし――もし、アイツが…アイツの理想じゃなくて、自分の素のままの魅力を出せば良いんだって気付いたら、
 アイツが理想を追うのを止めたら、…あなたは、アイツを捨てるんですか」

―――格好良くて凛々しくて、男の人みたいに1人でもやっていけるような感じに。
 マコトはそう言っていた。あの時、真は観客だった。
今、真はもう観客ではない。
マコトにそう問われ、回答に近い確信を得た真は、すでにマコトにとっても重要なファクターであるはずだ。

 問いに、プロデューサーは一瞬で笑いを引っ込めた。相変わらず口元は引かれているが、目は全く笑っていない。
「あなたのプロデューサーと一緒よ。私は、あの子があの子だからプロデューサーをしているの」
 真剣そのものの瞳をしたプロデューサーに、答えになってるかしら、と逆に問われ、真は強く頷いた。
 多分、アイツはこれが聞きたかったに違いない。
 懸案は去り、後は当事者のみの問題だけが残った。真はぼんやりとここでの意味を成したように思う。
 ラテを空けて、椅子から立ち上がる。
「あの、ボクそろそろ行かなきゃいけないんで、この辺で」
「そう。帰り方知ってる?」
 なんとなく、と真は返した。
「アイツに、伝えて欲しい事があるんです」
「なに?」
 目覚めが近い。
 空が大きく呼吸をしている。
 突き抜けるような青空、遠くに見えるビルの稜線、どこまでも都会的なカフェと、どこまでも優しい瞳をしたマコトのプロデューサー。

 この景色を忘れないようにしようと思う。

「今度の土曜日、アイドルマスターグランプリに出るんです。アイツにも見てて欲しくて。…それと――」
 真はそこで言葉を区切った。本当ならアイツに直接言うべき言葉だが、本人が出てこないなら仕方がない。
 それに真には、不思議とプロデューサーが間違いなくこの言葉をマコトに伝えてくれるだろうという確信があった。
―――私は、あの子があの子だからプロデューサーをしているの。
「アイツに、酷い事言ってごめん、って伝えてください」
 お願いします、と頭を下げると、プロデューサーはまるでマコトを見るかのような目つきで真を見た。
「…あの、何か」
「あ、いえ、…本当に、そっくりだなあって」
 へ、と間抜けな声を出すと、プロデューサーは暖かな眼差しを真に投げる。
「あなたの目、あの子にそっくりだわ。任せておいて、ちゃんと伝える」
 言葉に、真は再び頭を下げた。
ここで、マコトと『プロデューサー』と会った。マコトと酷い事を言い合い、『プロデューサー』に伝言を頼んだ。
 きっとここへはもう来ないのだろうと思う。
 だから、ここを去る前にもう一言だけ、真は『プロデューサー』に向かって言葉を渡した。
「そっくりだと思いますよ。だってボクとアイツは―――」
 ボクは女の子みたいになりたかった。でも、ボクは菊地真になることを選んだ。
 じゃあ、凛々しくて格好良くなりたかったアイツは、何になるんだろう。
 真にはなんとなく、その答えが分かった気がした。

「同じなんですから」

 真の言葉に、プロデューサーは今度こそ笑った。真も返すように笑う。
 真は、ここで成すべきを完全に果たしたのだと思う。
「じゃ、行きます。元気で」
「あなたも」
 別れの挨拶だった。
 他に言うべきは、何もなかった。

――――――――――――――――――――



テスト休み5日目から、アイドルマスターグランプリは幕を開ける。


 アイドルマスターグランプリと言えば知らぬ者のない冬の祭典で、
弱肉強食のこの業界において一年間を戦い抜いたアイドルという名の猛者たちが紅白に分かれて集まる連合集会で、
毎度毎度民放が放映権争いに巨額の資金を投入するスター番組で、
販売即完売になるドームのチケットを握り締めたファンたちがドーム最前列に陣取って狂気に乱舞するいわばお祭りなのだった。
と言う事は間違いなく出演するアイドルたちも漏れなく粒揃いであり、
いまや大御所と言われるようになったアイドルから新進気鋭のアイドルまでで犇くステージの中ほどに真はいて、
芸能界のお局と言われるような大物と一緒に開幕宣言をしたのはつい先ほどの話だ。
「緊張したか?」
 プロデューサーの問いにコクコクと頷き、真は手渡されたスポーツドリンクを一気に半分まで開けた。
真とプロデューサーがいるのは先ほどまで真を含むトップアイドルたちが鎮座していたステージ袖奥の側道で、
二人の目の前にあるはしごのような階段を上りきればステージ袖に出る按配だ。
 真は名誉な事にこの最大級のイベントの一番槍に抜擢されており、
真以外のチームメンバーたちは激励の言葉を残して今は楽屋に引っ込んでいる。
 周りを見ると、スタッフが補給を絶たれたベトコンのような表情で大道具方と恐ろしい大きさの書割を袖脇に据え付けようと不屈の戦いを挑んでいる。
 ステージのほうからは夥しい量の絶叫が聞こえており、どうもこのイベント後の数日は街に声を枯らしたファンが続出するらしい。
「春香じゃないですけど、緊張するなって言うのが無理ですよプロデューサー。死ぬかと思いました」
 ボトルのキャップを閉め、真はようやく一息付いたように話した。
 開会の宣言が突発で振られるものだという事は知っていたが、まさか自分に振られるとは思っても見なかった。
「気に入られてる証拠だ」
 そういうもんですか、と真はドリンクを弄んだ。
 会場に集まった恐ろしいまでのファンの中から誰かを探すのは難しいを通り越して不可能に近い。真とてそんな事は分かっている。
 しかし、真は宣誓にかこつけてステージの中央に進むと、不可能に近いことをばれないように行っていた。
―――アイツにも見てて欲しくて。
 少し前の自分の本音だ。
 もうとっくにマコトは真の中にしかいないということを分かってはいたが、それでもあの時道路の向かいにいたマコトは間違いなくマコトだと思う。
あの時こっち側に来たのだからもう一度くらい根性出せ、と真は勝手に思っている。
 そして、それは真にとっても同じ事だった。
 あの時の信号待ちから人を探せと言うのもやはり難しい気がする。しかし、真はマコトの声から一発でマコトを探し当てた。
 アイツが何も言ってこなくても絶対見つけて見せる、真は本心からそう思っていた。
 しかし結果は無情であり、大御所から『度胸据わってるなお前』と敵意なのか賞賛なのか分からない褒められ方をした真は、素直にありがとうございましたと言うことが出来ずにいた。
「…どうした」
 と、プロデューサーが声をかける。真はプロデューサーの方を見、少し前の車内と同じ色をした瞳に一瞬思考を奪われた。
「いえ、あの、アイツ、来てないかなって」
「友達か」
 頷く。
しかし――思う、アイツは真にとって『友達』ではないのだと思う。
 いまさらながら思う、アイツは友達よりも近く、プロデューサーよりもずっと長い間自分を見てきた、何にも代えがたい自分自身なのだ。

 自分にそっぽを向かれた。
 自分を大嫌いだと言った。
 謝りたくて、謝れなくて、伝言を頼んだ。

「直接見に来てくれって言いたかったんですけどね」
 『プロデューサー』は伝えてくれたと思う。後はアイツがどう思うかだ。
真はマコトと同じだと言ったが、こればかりは同じだと言い切れる自信もなかった。
「きっと来てる」
「そうでしょうか」
「そうさ。大事な友達なんだろう?」
 頷いた。
 真は、『可愛くて女の子らしい真』にはならなかった。真は、菊地真になることを選んだ。
 頷いたまま下を向いてペットボトルを弄りだした真を見、プロデューサーはため息をついて梯子のような階段を見上げた。
階段の向こうからは怒号とも絶叫とも付かないファンのパトスがあふれており、しかし真が本当に聞きたかった声はこの中にはない。
「もうすぐ時間だ。先に行って道具方とセッティングの確認してる」
 言うと、プロデューサーはさっさと階段を上りだした。
真があわてて顔を上げると、困ったように笑う顔のプロデューサーは階段の中ほどで真を見ている。
「待っててもいいから。遅れるなよ?」
 そう言って、プロデューサーは波打つ緞帳の中に消えた。
―――本当に聞きたかった声なら、ここで聞いておけ。
 そう言われた気がして、真はペットボトルのキャップをもう一度見つめた。


――――――――――本当に、いいの?


 あの時マコトに言われた言葉だ。あの時は頑なに「これが菊地真だ」と思っていた。
 まもなく開演を迎えるアイドルマスターオーディションの舞台の袖で、真はマコトの問いを思う。
アイツはどう答えて欲しかったんだろう。ペットボトルの蓋を徒に捻り、真は答えを探す。
 相変わらず階段の向こうからは恐ろしいほどの声が聞こえてくる。
階段の向こうにはプロデューサーがいて、気でも違ったかのようなファンがいて、誰も彼もが菊地真を待っている。
 真が待っているアイツは、あそこにはいないと思う。
 アイツはどう思ってるんだろうか。なんて返して欲しかったんだろうか。
真は思う。女の子らしかったマコトは、今の真をどう思っているんだろうか。夢から逃げたドロップアウターなのだろうか。

―――さあね。アンタはどう思う?

 もうすぐ時間だ。真は据え付けの時計に視線を走らせ、もう開演までの時間が僅かしか残されていない事を知り、階段を上ろうと視界を上げ、
そこに、マコトを見た。


 マコトは、真が着ているステージ衣装と全く同じものを着ていた。

――――――――――…本当に、そっくりだなあって。

 そうですね、と真は思う。
 何から何までそっくりで、でも決定的に違う目の前のマコトは、妙に気恥ずかしいような顔つきでそっぽを向いていた。

「…いいんじゃない? …カッコいいし、凛々しいし」

「…。得意なの? いきなり出たりするの」
 問いかけに、マコトは顔を赤くすると眉間にしわを寄せるように目を閉じた。
「そう言わないでよ。これでも決まり悪いの我慢して出てきたんだから」
 ボクもだ、と真は恥ずかしそうに頬を掻いた。
 いつの間にかあれほど喧しかった歓声が遠のいている。
今、二人の真の世界には緞帳と階段があるのみで、しかしここにはこれ以上ないほど大事な世界が広がっている。
「…あの、こないだはゴメン。酷い事言っちゃった」
―――アンタなんか、大嫌いだ!!
 酷い事を言ったものだと思う。16年間も一緒にいて、誰よりも自分を知っているやつに対して、真はとんでもない事を言ってしまった。
「私も、酷い事言っちゃった。…その、ゴメン、じゃすまないと思うけど」
 本当にそっくりだと思う。声も、顔も、何から何まで同じような二人が、ようやくお互いを認められた気がする。
Fランクから始まったケンカがようやく治まったような気がして、真は胸にじんわりと暖かさが宿ったのを感じた。
 思い出す、あの時のプロデューサーの言葉。

―――自分がどういう奴になるかは、自分が決めるしかねえんだよな。

 ボクは、ボクになることを決めた。
 多分、向こうもそうなんだろう。
 真とは改めて階段の先を見る。
階段の先にはプロデューサーがいて、プロデューサーの先には緞帳があり、その向こうには恐ろしい数のファンが今か今かと『菊地真』の登場を待っている。
 声が戻ってくる。夥しい歓声が二人の真の鼓膜を震わせる。真はもう一度マコトを見て、改めて緞帳を見つめた。
「行くの?」
 マコトの問いかけに、真は緞帳を見つめたまま答える。
「うん」
 階段を上がり、マコトを追い抜く。
皆が待っていると思う。プロデューサーが、道具方が、恐ろしいまでのファンが、『菊地真』を待っているのだと思う。

「手、貸してくれる?」

 真の問いかけに、マコトは一瞬だけきょとんと呆け、次いでおずおずと上目遣いに真を見た。
本当に自分でいいのか――そう問いたげな視線を受け、真は苦笑を漏らした。
「今まで、ずっと一緒にいてくれたでしょ?」
 真は手を差し出す。
 死ぬかと思うほど辛いトレーニングを乗り越え、思わず殴ってやりたいほどの皮肉と中傷に出会う事は一度や二度ではなかった。
今まで、一緒に踏み越えてきた。
 真は思う。楽しい事ばかりではなかったし、辛い事や苦しい事も結構沢山あった気がする。
でも、それでも、『菊地真』が頑張ってこれたのは、多分―――
 マコトが真の手を握る。階段を駆け上る。緞帳の緑が急速に視界を覆い、遠くで打ち合わせをするプロデューサーが目に入る。
―――多分、マコトにも支えられていたのだと思う。


「これからも、一緒にいてくれるんでしょ?」


 今、真はマコトの手を握り、階段の上にいる。マコトは相変わらず階段の中ほどにいて、真を嬉しそうに見上げている。
やっと答えを見つけたという顔をして、真を見上げている。
「あなたも、私と一緒にいてくれる?」
 力強く頷く。マコトはようやく真の手を握り返す。
 アイドルマスターグランプリはもうすぐ開演し、真とマコトは『菊地真』として緞帳の向かいに上るのだ。
 行こうと思う。
 真は再び緑の緞帳に向かう。あと1段も上がればそこは緞帳に区切られたステージで、分厚い緞帳と暗幕の向こうには『菊地真』を待っている大勢のファンがいる。
 一緒に行こう、そう言おうとして、
ふと今まであった握力がなくなったのを感じた。
 振り返ると、もうマコトはそこにいなかった。

「…アイツ」
 またか、と苦笑を漏らす。
 思えば最初からそうだった。最初に会った時も言うだけ言ってドロンだ。
卑怯な気もするが、しかし妙に照れ屋な自分と被る部分もあって真にはマコトを責められない。
…いや、違うかな。
 真は思う。アイツは最初からずっと真と一緒にいたに違いない。
アイドルになると決めたときも、Bランクに上がったときも、死ぬほどの練習や殴ってやりたい中傷と出会ったときも、ずっとずっとアイツは真と一緒にいたのだ。

 いなかった、のではない。アイツはずっと、真の中にいたのだ。

―――行こう。
 真の頭の中で、マコトの声が聞こえる。
 声に応えるように、真は最後の一段を上る。



 プロデューサーはと言えば、なにやら大御所の書割を前にバタバタしている道具方の前でもう間もなく始まる真のステージの準備のチェックをしていた。
ライトの明るさや色、スモークのタイミングなどは事前に何度も確認しているが、しかしステージが始まってしまえばもうプロデューサーにできる事など何もないと分かっているからか、
やりすぎと思われるほどの確認をしている。
「プロデューサー、お待たせしました」
 声に振り返ると、真がプロデューサーにドリンクを差し出していた。
受け取って腕時計で時間を確認すると、もう二言三言でステージが始まるような時間だった。
「…仲直り、できたのか」
 真は清清しい顔つきをしていた。まるで長い間のしこりが取れたかのような表情。
「ばっちりです!」
 真はそう言って笑う。プロデューサーはため息をつく。
 やっとここまで来たのだと思う。
 真はその場でぐるりと腕を回して簡単にウォームアップする。
両肩の感触を確かめてその場で軽く跳躍し、真は五体に満足したかのようにプロデューサーにニッと笑った。

「行くか?」
「行きます!」

 言葉にプロデューサーは頷き、袖口の裏手にいた進行役に向かって手を上げる。
スタートの合図だ。進行方の打ち合わせが済めば、このまま年に一度の大祭典の火蓋は切って落とされる。
「友達は見ててくれるって?」
「はい! だから、頑張ってきます」
 本番入りまーす、さんじゅー! という叫びが聞こえる。真はステージを見る。

 大きく息を吸って、吐いた。

「行って来い」
「はい!!」
 真は一歩を踏み出す。
緞帳が上がり始める、ちょっと前にステージに出ていた視界を照らすスポットライトが袖口にまで入り込む、さっきまでの喧騒がウソのような静けさの中、
真はステージに向かって駆け出す。


―――――――さあ、行こうか、『菊地真』。



 アイドルマスターグランプリに参加した真の知名度は今までに輪をかけて広がり、
今や日本人で『菊地真』を知らないものはモグリだとまで言われるようになった。
 流石Aランクとも言うべきか、真は最早毎日のようにテレビに映っているし、芸能新聞で真の記事が書かれない日はないといってもいいほどだ。
 が、当の真と言えばどうもおかしな趣味に嵌ったらしく、その日もプロデューサーの前で真は妙に難しい顔をしてコーヒーを飲んでいた。
「…変な味でもするのか」
「飲んでみます?」
 差し出されたコーヒーを一口啜り、プロデューサーは実に可哀想な表情を浮かべ、
「…甘い」
 悲劇的な味だった。もはやこれをコーヒーと呼んでいいのかすら怪しい。
 どうも真もそう思っているらしく、やっぱり甘すぎますよね、と鼻を掻いた。
「砂糖入れすぎたのか。薄めたら?」
「と思ってさっきお湯足してみたんですけどね。やっぱり難しいかあ」
 何がやっぱりなのか全く分からないプロデューサーの前で真は「へへへ」と笑い、
「アイツがこれ好きなんです。何がいいのか分からないんですけど」
「…糖尿になるぞこれ。口直しが欲しいな…」
 と、真の顔がにわかに輝く。なんだと思う間もなく、真はプロデューサーに向かってこう言った。
「あ、じゃあ美味しいラテを出すカフェがあるんです。近場なんで、行ってみません?」

「…にが」
「いきなり砂糖抜きで飲もうとするからよ。最初はあんなに砂糖入れてたんだから、もうちょっと入れていいんじゃない?」
 プロデューサーは頭を抱える。
 マコトが突然コーヒーが飲みたいといったからお気に入りのカフェにつれてきたのはいいが、今まで砂糖の申し子のようだったマコトが突然砂糖なしカフェラテに挑戦し始めたのだ。
マコトはうーと元気のないサイレンのような声を出し、しかし飽くことなくちびちびとカップに口を付けている。
「…女の子は砂糖で出来てるんじゃなかったっけ?」
 そう言うと、マコトは机にべしゃりと顔面を押し付けた。
「アイツに酷い味って言われたんです」
「ああそう」
 誰だか知らないがありがたいことだ。
 プロデューサーがそう思っている間もマコトはちびちびとカップを傾け、付け合せのケーキがなくなってしばらく経つ頃にはカップも空になりつつあった。
「飲めたじゃない」
 と呟いたとき、プロデューサーの後ろに誰かが座った。男性と少女のようだ。
 男性の声は低くてよく聞き取れないが、少女の元気な声は良く聞こえる。
 どうもプロデューサーと男性は背中合わせに座っているらしい。
「…だから、そんなに砂糖入れるな。体悪くする」
「へへ、大丈夫ですって」
 どうも少女は糖分摂取過多のようだ。
 プロデューサーは保護者のような男性にほんの少しの同情を感じ、
しかしいきなり後ろを向くのも失礼な気がして伝票を手に取った。
マコトもコーヒーを飲み終わっているし、この後も撮影がつかえている。
「行く?」
「はい」
 プロデューサーとマコトは立ち上がる。エネルギーも補給できた事だし、この後の撮影も上手く行くだろう。
さっさと会計を済ませると、プロデューサーはホルダーから車の鍵を取り出してマコトを助手席に座らせた。
エンジンを掛けてベルトを締め、駐車場を抜けたあたりでプロデューサーはマコトに聞いた。
「でも酷い味ってずいぶんな言われようね。友達?」
「んー…。友達って言うか、」


 後ろが席を立ったようだ。
プロデューサーはぼんやりとそんな事を思い、いつもより多めに砂糖を入れた真のラテをぼんやりと眺めた。
「しかし、とんでもない砂糖の量だったな。友達か?」
 問いに、真は一口コーヒーを含み、ぼんやりと空を仰いだ。
「んー…。友達って言うか、」


 16年間一緒にやってきた。辛い事も苦しい事も、ずっと一緒に乗り越えてきた。
 多分、これからもそうだろう。
 だから、これからもきっと一緒にいるに違いない。


「ボクみたいなヤツですよ」
そう言うと、真は晴れやかに笑った。


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