夢のバトン

 匿名のタレ込みがあったのはほんの1時間前の事だ。
 『某大物タレントと大物女優の密会』。
 チープに過ぎるこのタレ込みは、しかし運の悪い事にデスクの目に留まり、
年末のくそ忙しい編集室で暴露記事の編集がひと段落した若手チームに運の悪い命が下された。
 行っていい画を撮って来い、上手くいけば明日の一面は刷り換えだ―――
そう檄を飛ばされたが、仮に上手くいったとしても編集は夜を徹して行われる事は必死だし、
もともと明日の一面は他のチームが撮ってきたプレミアリーグのゴールの画と決まっていたはずで、
本当に差し替えになったらそいつらも黙っていないだろう。
 そんな事を思うと、ついつい阿久の口からはため息が漏れた。と、それが耳に入ったのか、隣にいた先輩が阿久を見た。
「何だよ阿久、眠いか?」
「いや、別に眠いわけじゃねっス。ただその、えーと、ネズミはホントにいるのかなって」
「知らねぇ。オヤジに言われたらやるしかねえだろうが。…お前、こっち来てどんくらいだっけ」
 阿久たちがいるのは都心から少し外れたホテル街で、年末のホテル街といえばLEDライトの電飾が環境破壊も甚だしく、
何をどう間違えたのか『清しこの夜』のハードコア・バージョンが流れ去り、
聖夜を居汚く汚す煙草の吸殻が目立つ街頭には薄ぼんやりと立つ幽霊のような電話ボックスがあり、
一見してそれと分からないくらいの夥しい数のピンクチラシがガラス張りの個室を一面に覆っている。
 そんな中、阿久たちは電話ボックスから少し離れたホテルの玄関に張り付いており、
周りには有象無象の同業者たちが決定的瞬間を取り逃すまいとカメラの絞りを限界まで短くしている。
 ネズミ、とは要するに今阿久たちが張り付いているホテルにいるであろう大物タレントと大物女優の事で、
タレ込みの情報がどこからか漏れたのかそれともタレ込み元が複数のお友達にリークしたのか、
ゴシップを売りにする編集の有名どころのほとんどは先輩記者に右へ習え状態だった。
 阿久は先輩の質問にぼんやりと思考をめぐらせ、やがて頭だけで間に合わなくなった計算を指に手伝って貰い、
「4、5年ってとこですかね」
「じゃあもうお前もここがどんな業界か知ってるだろ。取れる数字は必ず取る。業績は数字がすべて、」
「オヤジが黒いといったら白い碁石も黒くなる、っスよね。聞き飽きましたそれ。何かほかにないんスか」
「ばあか、基本のキってのはそうそう増えたりしねえんだよ。俺だってお前くらいのときはそう思ってた」
 そんなもんスか。阿久はそう言うと、再びぼんやりとした目をホテルの安っぽい自動ドアに向けた。
 俺だってお前くらいのときは。そう言った先輩は確かもう入社して大分経つはずで、元がいいのか『教育』の賜物なのか、
いまや芸能人の風評を下げる術は右に出るものがいないらしい。
阿久のチームは若手チームなどと銘打たれてはいるものの、実はこのオッサンが平均年齢をそれこそ2、3年は引き上げている。
 しかし、その腕は確かに確かなもので、阿久はずいぶんとこの先輩記者からさまざまな技法を学び、
またさまざまな技法を盗んできた。
 親が黒いといえば白い碁石も黒くなるこの世界で生き延びるためには必要な技能であり、知識であり、
要するに生き目を抜くようなこの業界で阿久が今の今まで生き延びてきたのはこの先輩によるところも確かに大きいのだ。
 大きい、のだが。
 今も鮮明に思い出す、桜の花が咲いていた満開の下での入社式、酒に酔っ払った同期に笑い、信頼できる上司と夢を語り合い、
阿久もまた同期と飲み明かして語った夢があった。
今も鮮明に―――

「おい、阿久。そろそろ動くぞ」
「え、ほんとっスか」
「“お友達”も動いてる。冗談じゃねえ、リークはウチが一番早かったはずだ。
おい阿久、いつもどおりやるぞ。お前プレスしながらカメラ回せ、“お友達”に転ばされるなよ」
 そんな物騒なお友達など御免こうむる。
 業界人の悲しい性か、カメラマンは総じて体格のいいものが多く、
一般的にはそこそこいい体格をしている阿久もここでは大学生の体育祭に混じった高校生の様相を捨てきれない。
 しかし阿久の持ち味はフットワークで、
ほんの僅かな隙間にも強引に体をねじ込んでライカのシャッターを切ることで生き延びてきた俊足の兵であり、
それは獲物のデカいパン食い競争で何とか阿久が生き延びてきた手段でもある。
 時計を見ればまもなくタレ込みからは2時間ほどが経過しようとしていた。
その場に居合わせた記者たちは総じて浮き足立っており、それは歴戦のゴシップ・マンである先輩も同じであるようだった。
 しかし他と先輩が違うのは良く見ていれば一目瞭然で、先輩の目はずっとある一点を見て動かない。
視線を追えば分かる、先輩は自動ドアからほんの少しだけ見えるカウンターの、その奥の2回へ繋がる階段を見ているに違いなく、
そこに何かが見えた瞬間に飛び出す気なのは傍から見ていてはっきり分かるほどで、
阿久は握り締めたライカが汗で滑らないか内心気が気でない。

「…そろそろ、出てきていいはずなんだが」
 阿久が汗を気にしだしてから5分が経過し、先輩はふと心境を漏らした。
 阿久にその感覚は分からないが、こういうときの先輩の鼻は間違いがない。
百戦錬磨の記者の鼻は尋常ではなく、阿久にとっての俊足は先輩にとっての鼻である。
 何せ阿久が先輩とチームを組むようになって5年、阿久は唯の一つも先輩に秘密を持てたためしがない。
鼻が臭いを嗅ぎ間違える事など早々はなく、しかしタレ込みは匿名で、周りは浮き足立っており、
阿久には今何をどうしていいか分からず、不安そうな目で先輩を見遣り、

 瞬間、ガチン、と自動ドアがロックされた。

 大小さまざまな記者がひしめくホテルの前で、その音はえらく高く響いた。
一瞬にして空気が凍り、次いで無駄足だったか、という嘆きが聞こえ、嘆きは伝播してお友達に伝わり果て、
そして、この瞬間空気に飲まれていないのは先輩だけだった。
「―――やられた」
 呟くと、先輩は突然社名を潰した白のバンに向かって走る。
何のことかわからない阿久もとりあえず先輩に従い、運転席のドアが悲鳴を上げる勢いで体をバンに滑り込ませ、
シートベルトも締めずに鍵を捻ってエンジンに火を入れる。
「阿久! 裏だ裏に回られた! 畜生、ネズミは裏から出やがったんだ!!」
 間の悪いことに阿久がドアを閉める前だった。
 何事が起きたか分からなかったお友達は先輩の声に弾かれるようにホテルの裏手に走り出し、
機材を抱えたカメラクルーが悲鳴を上げながら写真機を放り投げる。
 事が急だったからかそれとも体格のよさが災いしたか、いまやホテル前は踏む側と踏まれる側に分かれた地獄へと化していた。
地獄から一足早く足抜けした阿久はすぐさま車体を振って裏口へと回り、
人気のいない赤信号と赤丸に白いマイナスの標識を片っ端から無視してホテルの裏口へと回ったときにはもう、
 ネズミの白いセダンは、テールランプがぼんやり見える程度だった。
ネズミの白いセダンは、やがてテールランプの燐光を残して大通りへと消えていった。

 やがて、先輩が懐から取り出した10mgの煙草に火をつけ、阿久めがけて副流煙を垂れ流し、
お前も吸うかとボックスの蓋を開けたときに、はじめて阿久は今回の取材が徒労に終わったことを理解した。



 今も鮮明に思い出す、桜の花が咲いていた満開の下での入社式、酒に酔っ払った同期に笑い、信頼できる上司と夢を語り合い、
阿久もまた同期と飲み明かして語った夢があった。
 今も鮮明に思い出す、あのときの自分の言葉。
『俺、俺のシャシン見た人がすげえ勇気をもらえるような、そんなシャシンを撮りたいんス!』
 恥ずかしい夢を酒の勢いで言い切り、沈んだ場は次の瞬間歓声であふれた。
 俺は記事で皆に夢を、俺は俺の脚で夢を皆に配る、何を俺だって、俺だって。
 大学卒のバカヤロウ共は口々に青臭い夢を語り、お前らならきっとやれる、頑張れ青二才と上司たちは口汚くバカヤロウ共を煽り、
阿久はアルコールに犯された胃と肝臓を護ろうと桜の根本を掘って盛大にぶちまけ、『栄養注入ーーっ!!』と叫んで喝采と顰蹙を同時に浴びた。

 それからもう、5年経った。
あの時恥ずかしくも誇らしい夢を語り合った仲間は一人また一人とデスクを離れて他の部署に行き、
口汚くも励ましてくれた上司たちは左遷の憂き目と栄転の日の目を見て、
ついにあの桜の下で語った夢を共有した仲間はいなくなった。
―――俺のシャシンを見た人がすげえ勇気をもらえるような
写真を今年は何枚撮っただろう。ネガもフィルムも回収されて残ったライカのレンズが捕らえていたのは、
阿久の記憶が確かなら女優のケツと走り去るネズミの車のフロントガラスだ。
 思う、阿久の神聖で不可侵で犯しがたいあの遠い日のあの夢は、あの時の胃液にまみれて桜の根本に植わっているに違いない。
いまさら掘り起こしたところで何一つ成果は実らず、なんだかんだで居場所の出来たゴシップデスクに使い減らされ、
バッテリーが切れるかフィルムが巻けなくなったら阿久はとうとう左遷の憂き目を見るに違いない。
 そうなったら―――阿久は思う、あのときの桜の根本を掘って、
無残にも吸収されつくした『夢』という名前の栄養をまた食らうのも悪くはない。
 悪くは、ないが――
―――俺のシャシンを見た人がすげえ勇気をもらえるような。
 ゴシップも立派なメディアの一つには違いなく、簾バーコードの重役の会議を中継するのがメディアの仕事なら
茶の間に笑いを提供するのもまたメディアの立派な仕事の一つで、
阿久とてそれくらいの事はわきまえてこの5年間を粛々と享受してきた。
 だが、いつもどんな時も、阿久は自分の脳裏に付きまとう違和感がどうしようもなく離れていかないのを感じていた。
 女のケツとフロントガラスで夢を見るか。苦笑する、そんな自分の夢が、誰かに勇気を与えるか?
 これが俺の、やりたかった事か。
 これが俺の、夢か。
 悶々とした思考に出口は見つからず、夜更けに阿久は一人退社した。
夜はひたすらに冷えて寒く、阿久は対して厚くもないコートの襟を立てて首を冷気から守りつつ、
駅へ向かう道すがらに居酒屋を見つけた。
 たるき亭。
薄ぼんやりとした思考で目に入った店としては悪くない。
若干店内が狭い上に2階はどうも空のようで、こびりついたガムテープのノリから阿久はあっさりとその数字を読み取る事ができた。
 765。
どこかで聞いた名前だな、と思いつつ、阿久はたるき亭の暖簾を潜る。



 何が悪いと言えば年末が悪い。
ごもっともである。年末年始は結局のところ飲み会という名の戦場を渡り歩く一国総動員での国内戦国時期であって飲み屋のハシゴなど日常で、
詰まるところ敏腕記者で若手で女性の善永が引っ張られない忘年会など無きに等しく、
そして善永も若手という事で例外なく忘年会という名の社交界ではお茶注ぎ人形としてその職責を全うする。
 アルコールが特に苦手というわけではないが、人のペースで飲みなれない焼酎を注がれた日にはたまったものではなく、
しかしこの期に乗じて名刺を配りまくっておけよ、という上司の命には一応の得心もあり、
果敢に飲み屋を攻める善永の、この時期の起き抜けの顔など直視に耐えうるものではない。
 が、企業戦士たる善永はその程度の事ではへこたれず、いつもより厚めに塗ったファンデーションの上に強気の眉毛を筆で描き、
リポビタンとグロンサンを両手に持って今日も華麗に出陣したのだった。
 しかし、何事にも中日というのはあって、今日善永が出席した忘年会は僅かに1回のみの、
しかも1次会のみとあって、若干善永には時間の余裕が出来た。
 それがまずかった。
 結局時間がとれずになあなあで決めかねていた同期との忘年会を突発的に行い、
結局善永の胃液がアルコールと中和分解されて合いの子になる頃にはとっくに終電は田舎の彼方へと去っていった。
しかし善永も人の子であり、終電を逃した事など一度や二度ではなく、
そんなときは決まっていく店が一つ二つはあるもので、今日第3の戦場をたるき亭にしようと善永は決めた。即決行動は善永のいいところである。

何が悪いといえば年末が悪いのだ。
この時期の飲み屋などどこも満員御礼なのは当たり前で、それはたるき亭すら例外ではない。
暖簾を潜った善永の視界一杯に飛び込んできたのは全く空席のない座席で、
ありとあらゆるテーブルには料理と酒とつまみがごっちゃになって置いてある。
ため息をつき、酒と料理と騒音が支配する戦場に背を向けようとしたとき、よりにもよって筋肉が壁を作って迫ってきた。
何のことはない、近くの大学のスポーツクラブが飲みなれない酒に今日こそと挑んできたに過ぎず、
しかしこのとき善永は生ビールをジョッキで既に3杯入れていた。
プレスの連中に鍛えられた足腰はしかしアルコールの魔力によって力が入らず、
なし崩し的に善永は偶然あいていたカウンター席に押し込められる形で着席に成功する。
形はどうあれ座席を確保した。おじさんジョッキ、生ー、と手馴れた様子でカウンター越しにオヤジに注文をつけると、
善永は普段めったに吸わない煙草に火を灯そうとし、

「あれ、アンタ…」

 声のほうを見ると、どこかで見たような顔がこっちを見ていた。どこで見たんだっけ。
善永は今まさにニコチンに犯されそうになった脳ミソをアルコールの助けを借りてフル回転させ、
しかし思ったように記憶の引き出しは開いてくれず、半ば当てずっぽうで、
「…あなた、芸編の…?」
「あ、覚えてて貰えましたか。芸編3部の阿久です。芸1の、善永さん、…でしたっけ?」
 思い出した。そういえば春先にやった芸能編集部の合同コンパでそんな名前の奴がいた。
確か同期が『芸3に面白い名前の奴がいる』と言って受け取った名刺をひらひらさせていたような気がする。
 芸3編集部とはあまりガチンコで企画を通した事はなかったから今の今まで忘れていた。
「1人なの?」
「あ、ええ、ま。今さっき編集上がったばっかで」
「え、芸3って社内忘年会来ないの?」
「いやあ、行きたかったんスけどね」
 ふぅん、と善永。カウンターに乗った料理とビールの減り具合を見ればあまり量も減っていない。
こいつ来たばっかりか――善永はオヤジがサーバーから注いだせいで全く泡立っていない中生を一息で半分まで開け、
「何よ青年、1人で飲んでないでお姉さんも混ぜなさいよ」
「げ、善永さんって絡みなんスか」
「絡みじゃないわよー。1人寂しくお酒飲んでるかわいそうな後輩君と親睦を深めようって事じゃない。
 いいわよいいわよ1人で飲むから。どーせあたしは独り身さー」
 こうなるとフォローに回るのは阿久の仕事だ。善永にばれないようにため息をつくと、
阿久は中身のほとんど残っていたジョッキを一気に飲み干してオヤジに向かい、もう一丁、と我鳴った。
 横からの視線。
「へぇ、いけるクチだねあっくん」
「なんスかあっくんて」
「いいじゃん。阿久だからあっくん。呼びにくいし仰々しいの嫌いなのあたし。あ、オヤジさんあたし串焼き追加ー」
 へえい、と返事の声。



 善永との会話は面白かった。
部署は違えど同じ会社社員同士の会話は共通点も多い。おまけに善永は聞き上手の話上手だった。
 阿久も阿久でどうせ今後の付き合いなどないだろうとタカをくくり、
気がつくとほとんど初対面だったはずなのにプライベートもだいぶ話してしまっていた。
 いやいや勘弁してくださいよ、彼女とかいないっス。何言ってんのウブっちゃってもう、おねーさん相談に乗るわよー。
「いやマジ勘弁してください、今は仕事で一杯一杯っス!」
「へえ。芸3の仕事って面白い?」
 面白いって言うか、そこまで話して阿久は視線をジョッキの泡に投げた。
相変わらず薄い泡の層に目を向けたまま何も言わなくなった阿久の様子を見、善永は怪訝な顔をして串焼きを頬張った。
「何よ。何かあるなら言いなさい。イジメ?」
「いえ、あの…。善永さんは、今の仕事に不満あります?」
「不満? …ん、そうねえ。ウチのデスク絶対ズラだわ。正直ハゲはあんまりねー」
「いや、そうじゃなくて」
 そこで再び善永は阿久の顔を見た。
アルコールのせいかそれとも照明のせいか、阿久の顔色は赤みの中にも真っ黒い何かが垣間見れる。
「俺、正直今の仕事向いてないんじゃないかって思ってます。
 その、先輩とかデスクに不満があるわけじゃないんスけど、その…、俺、えっと…」
『俺、俺のシャシン見た人がすげえ勇気をもらえるような、そんなシャシンを撮りたいんス!』
 その一言が、どうしても出てきてくれなかった。
5年前の春の日は胸を張って言えた青臭い夢が、どうしても喉元で引っかかって出てこない。
 善永はそんな阿久の様子を見、ふぅ、と息を吐いた。
「ねえあっくん、君芸3でカメラやってるんだっけ?」
「え、ああ、そうです。ってか俺カメラしか出来ないんで、編集とか無理スけど」
「あのさ、年明けってスケジュールある?」
「…えっと、多分まだないです。突発で入っちゃうのもあるけど、」
 善永はそこで眉根を寄せて、さも困ったかのように流し目で阿久を見遣り、吸うタイミングを逸していた煙草を咥えた。
「ウチのカメラがさ、こないだの飲みで潰されたの。もー凄かったんだからいきなりぶっ倒れてゲロゲロ。
 で、病院行って話聞いてきたらこれだって」
 善永は火のついていない煙草を咥えたまま左手でわき腹を擦る。
「急性アル中?」
「そ。で、年明けしばらくは病院で療養しなさいって。そんなわけで今ちょっとカメラが足りないのよ」
 そこで善永はずい、と身を乗り出し、酒臭い息を阿久めがけて思い切り吹きかけた。
 零れ落ちた煙草は机の下で阿久の出した手に落ちる。
 が、落ちた煙草など毛ほども気にかけず、善永は真っ直ぐに阿久の瞳を覗き込んでこう言った。
「あたしを手伝わない?」
「っ、いい、っス、けど」
「よし決まり」
 身を乗り出すのと同じくらい前置きなく椅子に座りなおすと、
善永はハンドバッグからライターと一緒にプレス用のドームチケットを机に出した。
 ドーム?
「あの、善永さん。手伝うって言ったって、ネズミは何なんですか?」
「ウチじゃネズミって言わないのよ。ホシって言うの」
 そういうと、善永はチケットから手を引いた。
瞬間、阿久の目が驚愕に見開かれた。そんな、まさか、だって、これ。
「これ、あの、『天海春香』の、年明けライブチケット、」
「言ったでしょー。ネズミじゃなくて、ホシ」
 観客じゃないから場所は良くないけどね、と善永は笑う。



 半分お客さんでいいわよ、と言われた。言われなくてもそのつもりだ。
 『天海春香』といえばたった1年で押しも押されぬ大スターに成り上がったトンデモで、日本人で彼女を知らないのは多分モグリだ。
このライブも確か芸能ニュースで販売初日にチケット完売と報じていた気がする。
 こういうのを僥倖と言うんだろうか――いまだ夢の只中にいる気分の中、阿久はぼんやりとそんな事を思う。
善永たちは今、阿久の目の前にある白い扉の向こうでライブ前の突撃インタビューを敢行しているはずで、
矢鱈に頑丈そうに作られている控え室の扉からは何の話も漏れてこない。
 残念といえば残念だが、そもそもプレミア必死のチケットがプレスとは言えタダ同然で手に入ったのだ。
これから『天海春香』を見るチャンスなどいくらでもある。
 阿久はそう思い直すと、灰皿のないプレス控え室で1人ライカのバングルを握った。
 思い出す、夢をかなえるためにひたすらシャシンの技術を磨いた学生時代。
このライカはそのときに思い切って買ったもので、学生時代にやっていたバイトの儲けはすべてカメラに飲まれて消えた。
そのおかげでシャシンの技量も上がり、今の会社には写真の技量を買われて入社したんだと阿久は頑なに信じている。
だが、入社からしばらく経ち、ライカを通してフィルムに焼き付ける映像はいつの間にか女のケツとフロントガラスだけになった。
――カメラが足りないのよ。
 相変わらず善永は出てこない。『天海春香』を撮ると決めたとき一度はライカを机に置こうと考え、
備品のカメラをいくつか構えてみたが結局しっくりこなかった。
 正直に白状すれば、この場にいる自分は場違い以外の何者でもないのではないかと思う。
 あるいはこれは本当に夢で、本当の俺はまだたるき亭の赤いカウンターにみっともなく突っ伏しているのではないか。
急に心細くなり、阿久の手の中でライカが汗にすべり、それでも首にかけたストラップのおかげでカメラは下に落ちることはなく、
「お待たせー。じゃあプレスは特設に移動! いい画とってねーって、おーいあっくん大丈夫?」
 善永が出てきた。阿久はほんの少し悪い顔色を隠すようにすばやく立ち上がると、プレスの腕章を腕に通す。
「だいじょぶっス。フィルムの替えがあるかどうか心配になっちゃって」
ふぅん、ならいいけど、と善永。ふと横を見ると、いかつい格好をしたカメラが無言で35ミリを投げて寄越した。
 あ、ども、とフィルムを受け取ろうとして、阿久はそのまま固まった。

 薄く開いた控え室の扉の向こうに、天海春香がいた。

 春香のほうは阿久に全く気付いていない。多少顔色が悪そうに見えるのは緊張なのかそれとも照明なのか。
春香は扉の影に隠れて見えない誰かの言葉を一心に聞いているようで、時折その顔に笑顔が浮かんでいた。
 阿久の心にほんの少しだけよこしまな思いがよぎり、35ミリをポケットに入れるフリをしてほんの少しだけ体を動かし、

―――大丈夫だ、春香ならやれるさ。そのために今まで頑張ってきたんだもんな。
―――はいっ、大丈夫です! た、多分…。
―――おいおい、多分って何だよ。
―――だ、だってプロデューサーさん、ドームですよドーム! あがるなって言うのは無理ですよー。

「あっくん、ほらほら行くよ! 他のプレスに場所とられるでしょ」
「あ、すんません、すぐ行きます!」
 おいおい、大丈夫なのかよ。
 阿久の心配をよそに、ドームライブの開園はもうすぐそこに迫っていた。



 なんだこれ。
ドーム入りした阿久は思わずそう呟いた。ン万人入るのが売りの超大型ドームは見渡す限り満席で、
S席の真ん中には見ていて頭が悪くなりそうなピンク色の法被を着た連中が
いかにも頭の悪い『はるるん命』と書かれた大型の旗を振っている。
 あれが聞きしに勝る親衛隊か。
 ピンクの真ん中には矢鱈に気張っている奴がいて、ソイツの叩く音頭にあわせて旗がばっさばっさと揺れていた。
よくよく見れば揺れているのは旗だけではなく、S席にあわせてDまである座席のすべてが右へ左へと揺れている。
まるでライブが最高潮に達したときのようだ。なるほど、これは心配したくもなる――阿久は心の底からそう思った。
ここまで盛り上がってしまっているステージに上がるのは至難の技だろう。
 阿久は同情する、ここまで盛り上がってしまった会場を、
これ以上のテンションに持っていかなければならないというのは現実的に無理ではないのか。
 阿久はそう思い、歓声飛び交うドームの前列に配置された怒号飛び交うプレス詰めで善永に向かって叫ぶ。
「善永さん!!」
「何!!」
「天海春香ってドームライブやった事あるんスか!!」
「あるわよ!! 2回!! どっちも大成功!!」
 嘘だあ。
阿久は小さくそう呟くと、念のためライカのフィルムをチェックした。
 さっきちらりと見た春香はどこにでもいる女子高生のガキだった。不心得にも阿久はその時そう思った。
アイドルに憧れる一山いくらのジャリどもからラッキーをスピンアウトさせてテレビに映り、
出したCDがたまたま売れて機会のあったライブが成功し、
本人の意思とは無関係にネームバリューだけが一人歩きして気がついたら取り返しのつかないところまで来ていた
―――阿久は本当に本音の部分で『天海春香』をそう思っている。
 ガタガタ震えてチビりそうになってるジャリに、
それでも尚多少の意地に託けて多大な期待をその一身に背負わせてバカみたいにデカいステージで歌わせるのか。
それとも実はさっきのは仮面で、実はとんでもない悪女なのか。
それこそプロデューサーをあごで使い、あのピンクどもに『閣下』と呼ばれて喜んでいるとんでもないSなのか―――
とてもそうは思えなかった。
 お前ら鬼か。あんなガキにこんな重いもの背負わせてそこに何を見る気だ。
一体善永は何が楽しくて自分をこんなところに連れてきたのか、そう思い、善永に強い視線を送ろうとし、
「来るわよ!!」
 怒号が返ってきた。それを皮切りに、熱狂の渦と化していたドームが徐々にその熱量を落としていく――
 違う。ベクトルの向きが変わったのだ。
 今まで外向きに飛ばされていたエネルギーが内向きに蓄えられていき、爆発の時を待つかのように表面はひっそりと、
だが内側には鉄すら溶かす熱量を以って『天海春香』の登場を今か今かと待っているのだ。
 唐突に、不安になった。
 あのガキ、潰れるんじゃねえか。
 そう思い、善永に向き直り、口を開きかけ、しかし何を言おうか分からずに開けた口からは息だけが抜け、

 歌が聞こえた。
聞き覚えのある歌だ。
 なんだっけ歌のタイトル。ええと、確かそう、『天海春香』初のミリオンヒットで、確か名前は、ええと、
「『Go My Way』、よ。あーそうだあっくん、鼓膜気をつけてね」
え、と聞き返そうとした瞬間、会場が揺れた。



♪…Go My Way!! GO 前へ!! 頑張ってゆきましょう♪
 出てきた。やっと出てきた。俺たちの、僕たちの、私たちのアイドル。
 S席に寿司詰めになった親衛隊が、AからDに座ったファンが、
ステージそばに付けられたスタンドにいるプレスが、ン万人入るドームに詰め掛けた余りにも多くの人間が、
ステージの右袖から現れた『天海春香』というアイドルを見つめる。
♪一番大好きな 私になりたい♪

 瞬間、一気にステージの照明が上がった。
奥行きあるステージのバックでバンドマンたちが一気にうなりを上げ、特設の巨大クラッカーが一気に弾け、
同時に内向きに蓄えられたエネルギーが一気に爆発の時を迎える。
 轟音のような歓声の中、阿久はただただ目を見開いてステージの上の『春香』を見ている。
 嘘だあ。
 2度目の呟きはしかし、阿久の口からついに漏れることはなかった。
どんな魔法をかけたのか、どんなペテンにあったのか、あの控え室で震えていた一山いくらのジャリはすでにそこになく、
押しも押されぬ大スター『天海春香』はいまやステージの真ん中にすえられたマイクの固定スタンドにハンドマイクを指し、
ピンマイクへと入力を変えられたアイドルは所狭しとドームのステージを駆け回っている。
 何でお前そこまで出来るんだ。何で足がすくまないんだ。何でそんなに声が出るんだ。
 阿久の頭にはおびただしい量の疑問詩があり、
量と質の両面からはじき出される『普通無理だろう』という結論は跳ね回るアイドルと怒号のような声援に消し飛ばされた。
 ステージの上で『天海春香』が踊り、春香のステップに合わせて観客がドームよ揺れよとばかりに体をねじり、
夥しい量のプレスのフラッシュが一気にステージの照明を炙る。
 やがて曲は変調しクライマックスを迎え、大喝采の中を春香はゆっくり固定マイクを手に取った。
とたんに会場が静まり返る。
『みんなーっ! 今日は来てくれてありがとーーっ!!』
 喝采が答えた。
『ドーム公演も3回目ですっ!! 私、これで3回も夢が叶いましたーーっ!!』
 絶叫が答えた。
 そして春香は、喝采が完全に静まるまで待った後、ひときわ大きな声でこう言った。
『それもこれもみーんな皆さんのおかげですっ!! 精一杯歌いますので、みんなも精一杯楽しんでください!!』
 地震が起こった。歓喜の叫びがびりびりとドームの天井を震えさせ、空気膜構造の屋根を破裂させる勢いの熱量がドーム全体に炸裂する。



 夢が叶った、と言った。
 阿久はバットで後頭部を強打されたような衝撃を受け、ライカを片手に立ち尽くしていた。
 目の前には照明よりも輝くアイドルがいて、後ろには夥しい人数のファンが何事かを叫んでいる。
 
 なるほど夢か。
阿久は思う。何でお前そこまで出来るんだ、何で足がすくまないんだ、何でそんなに声が出るんだ――
全ての答えがそこにあった。
 あそこにいるのは確かにジャリなのだろう。だが、ただのジャリではないのだろう。
 来る日も来る日もいつの日かアイドルになるんだと夢を見て、
恐ろしく関門の狭いオーディションを潜り抜け、血反吐を吐いて尚立ち上がり、
ひたすら直向に夢に向かっていく半端のないジャリなのだ。
 アイドルに憧れる一山いくらのジャリどもからラッキーをスピンアウトさせてテレビに映り、
出したCDがたまたま売れて機会のあったライブが成功し、
本人の意思とは無関係にネームバリューだけが一人歩きして気がついたら取り返しのつかないところまで来ていた、
そんな甘っちょろいものではなかったのだ。
 ただひたすらに夢に向かい、そして少女は――天海春香は、
『天海春香』としていまや押しも押されぬスーパーアイドルになったのだ。
 阿久は初めてライカを春香に向けた。
ファインダー越しに写る少女は一山いくらのガキでは最早なく、すさまじいまでに光り輝く『天海春香』の笑顔を35ミリのフィルムに余すところなく落とし込む。

――夢が叶いましたーーっ!!

 今も鮮明に思い出す、桜の花が咲いていた満開の下での入社式、酒に酔っ払った同期に笑い、信頼できる上司と夢を語り合い、
阿久もまた同期と飲み明かして語った夢がある。
 今も鮮明に思い出す、あのときの自分の言葉、
今でも鮮明に覚えている、神聖で不可侵で犯しがたいあの遠い日のあの夢は、
今でも鮮明に思い出せる、あの日のあの時のあの気持ちは、

『俺、俺のシャシン見た人がすげえ勇気をもらえるような、そんなシャシンを撮りたいんス!』

吼えた。
「うわあああああああーーーーーっ!!!」
会場の熱は阿久の咆哮を飲み込み、夥しいまでの出力となって春香へと注ぎ、春香もまたその思いに全力で応える。
全力と全力の応酬が今まさに始まろうとしている。



 撮りまくった。一曲につきフィルム一巻きは使ったと思う。
 阿久の持ち味はそのフットワークだ。怒号飛び交うドームの中を所狭しと走り回り、
ほんの少しでもいいアングルが見えれば阿久は迷うことなくフィルムを焼いた。
最早フラッシュは意味を成さないと悟り、更なる軽量化を目指して阿久は外接のストロボを外して腰に下げる。
 ひたすらにシャッターを切り、手持ちの弾薬はあっという間につき、
そのたびに阿久はいかついカメラのポケットから35ミリを持ち出した。
 カメラも最後には阿久へ請われるだけフィルムを渡し、
阿久はライカの絞りの速さと軽さを武器にひたすらシャシンを撮り続ける。

 このシャシンが、誰かに夢を与える。
 このシャシンが、誰かに勇気を与える。
 このシャシンが、このシャシンが、このシャシンが――。

 こんなに楽しいのは久しぶりだ。
阿久は思う、これが夢か。
 何で俺はここまで走れるんだ。
 何でこんなにシャッターが切れるんだ。
 何でこんなにフィルムが巻けるんだ。
 何でこんなにいいアングルが見えるんだ。
阿久の頭の中に浮かぶさまざまな疑問詩が、ありとあらゆる『普通なら無理だろう』が、あの日のあの時の阿久本人にぶち壊されていく。

 ステージが移っていく。
 春香は「Go My Way」の後、「relations」「魔法をかけて!」と繋ぎ、
「First stage」「エージェント夜を往く」に繋げたあたりで会場の温度が一段と熱を帯びた。
 熱に浮かされるように阿久も走り、ステージ上ではじける春香の笑顔をこれでもかとばかりにフィルムに映写して、

 阿久は足を止めた。

 今阿久がいるのはステージを正面に捕らえて左端であり、このアングルからはステージ右の袖の中が丸見えで、
阿久は熱に浮かされるように動き回るスタッフの中にたった一人ピクリとも動かない人物を見た。
 ライカを構え、倍率を最高にしてその人物の顔を見た。
―――アイツ、確か。
 阿久は思い出す、春香がステージに出る前、プレスが灰皿のないプレス詰め所にいたとき、
ひたすらにアイドルを励まし続けたスーツの男。確か善沢が言っていた、あの男がプロデューサーではないか。
プロデューサーと言えばアイドルの世話係のようなもので、要するにアイドルと二人三脚で仕事を成功させる仕事で、
つまり今この瞬間に成功を喜んでいてもいいはずだ。
あるいはこの先の展開をにらんで難しい顔をしていてもいいはずだ。
それが、どうしてあんな顔をしているのか。
ファインダーのノズルによって拡大された男の顔は、今や興奮の坩堝と化したドームの中でたった一人取り残されたかのように見える。



「みんなーーっ!! 今日は来てくれて本当に、本当にありがとぉーーーっ!!!」
 ステージの上で春香が叫んだ。反射するように座席から溢れ出る咆哮。
ふと気付いて時計を見れば、もうすぐライブも終わりに差し掛かる時間だ。
 しかし会場の熱は冷めやらず、ピンクの真ん中が始めた春香コールが会場を席巻する。
コールを一身に受けた春香は、もう一度みんなありがとうと叫び、
「最後は私らしく、この曲で締めたいと思いまーーす!! 今日は、ありがとうございましたあーーっ!!!」
 瞬間、とんでもない衝撃がドームから発せられた。
イントロが掛かる、天海春香を「天海春香」に仕上げたダブルミリオンの看板タイトル、ひたすらに明るいバンドマンのうねり、

輝くばかりに笑う春香の笑顔、
「曲は、『太陽のジェラシー』!!」



 会場が揺れる。
阿久の周りにいる観客が、ドームの中にいる観衆が、春香と一緒になって『太陽のジェラシー』を歌っている。

 その中で阿久はじっと男を見ている。
男はマネキンのように動かず、ひたすらに場違いな表情を浮かべて春香をじっと見ている。
その表情はひどく儚く寂しく、見方によっては切なく見える。

 何でアンタそんな顔してんだ、大成功じゃねえか、これ以上ない成果じゃねえか。
そこまで思い、阿久はやっと気付いた。

―――ああ、そうか。

『天海春香』といえばたった1年で押しも押されぬ大スターに成り上がったトンデモで、日本人で彼女を知らないのは多分モグリだ。

―――あんたらの夢は、もう終わりが見えたのか。

 猛烈に羨ましくなった。
あいつらは夢を叶えた。それがどんなに辛くても、それがどんなに寂しくても、
ひたすらにひたすらに夢を追いかけ、夢を見続け、最後まで夢を叶い果たそうとしていた。

 俺の夢は、まだ始まってすらいなかった。

 そうだ、まだ始まってすらいない。
 阿久は走る。あまりに膨大なアングルから撮り溜めたフィルムはすでに数える指が足りないほどで、
しかし阿久のまだ始まってすらいない夢は世界中のフィルムを集めてなお足りないように思える。
 走りながら、撮りながら、阿久は歌を聴いた。
 この最高の時を永遠に残していけるように、
 この最高の舞台を見るン万人の観衆の記憶により鮮明に舞台を覚えていて貰うために、
 この最高の舞台をこの場にいない人に見せるために、
 この最高の舞台のシャシンを見た人が、俺のシャシンを見た人がすげえ勇気をもらえるように。
 阿久を含む何万人の観衆と春香にとっての最高の時間は、まもなく終わりを迎えようとしていた。



 「天海春香」の電撃的な活動停止の記事が芸能ニュースを賑わす頃、芸能編集第3部にある辞令が下った。
阿久の会社の辞令は壁貼り式の古いもので、
おまけに芸3は芸2の隣にあるものだから辞令の内容はあっという間に知れ渡ってしまった。
 その時、阿久は大して背の高くない会社の屋上にいて、阿久の目の前には5年もの間阿久を鍛え励まし、時にイビった先輩がいた。
「――…あの、先輩」
「んー?」
「その、俺、」
「なんだよハッキリしねえな。お前そんなんで芸1行けんのか?」
「え、」
 話題を先に出されてしまった。知ってたんスかと問うと、バカヤロウと返ってきた。
「お前何年俺と一緒にいたんだよ。俺の鼻知ってんだろ?」
 あ、と声が漏れた。そういえばそうだ。
この人の鼻はこの手の事に矢鱈に敏感で、嗅ぎ間違える事などないのだ。
 阿久は苦笑する、5年間で結局この人に隠し事の一つも出来たためしはなかった。
「…なんてな。芸1にお前推薦したの俺だよ。善永けしかけて正解だった」
「!」
 そこで先輩はニヤリと笑った。いまだ春は遠く、冬全盛の空はひたすらに澄んで青く、先輩は懐から10mgを取り出して火を着けた。
「『俺の写真見た人がすげえ勇気をもらえるような、そんなシャシンを撮りたいんス!』
 …だっけ。いいんじゃねえの? ほれ」
 先輩は呆けている阿久に向けて自社の記事を投げた。
風がなくてよかった、折りたたまれた新聞をあわてて受けとり、阿久は開いた先にシャシンを見た。
「お前だろ、それ撮ったの」

阿久の手の中には輝くように笑う「天海春香」の笑顔がある。

阿久は呆けたようにそれを見、ついで新聞の向こうで笑う先輩を見た。

「先輩、俺、あの、」
「芸1は締め切りきついからな。気をつけろ。あとデスクにズラって言うな。結構気にしてんだあの人」
 煙の向こうで、先輩が笑っていた。
 思う、5年間この人に隠し事の一つも出来たためしはなく、
つまり先輩はずっと阿久が何をどう思っていたか知っていたはずで、
先輩はつまり阿久が言い出すのを待っていたのかもしれない。
 思う、夢なんてほかの人には目クソ鼻クソに等しく、それでもそいつには宝物で、
結局阿久は腹の内に溜め込んだ夢をいつの間にか出力していて、先輩はその敏感な鼻でそれを鋭敏に嗅ぎ取ってたに違いなく、
「おい、阿久」
 顔を上げると、先輩は懐から取り出した10mgを投げて寄越した。新聞を左手で持ち、開いた右手でボックスを受け取る。
「餞別。持ってけ」

 受け取ったボックスの中身は、1本だけ抜けた10mgがぽっかりと空白を作っている。

「先輩…その、俺、すんません、っ」
 泣くまいと思っていたのに。結局堪えきれず阿久は泣いた。それを見た先輩が笑う。
なんだよ最後くらい笑わなくったっていいだろう。
「お前今日からスタートだろうが。泣くんじゃねえよみっともねえ」
「すんっ、ません、俺、俺、…ありがとう、ございましたあ!」
 堪えきれず、阿久は腰から90度に頭を下げた。



 765プロデュースがまたぞろ新しいアイドルをプロデュースするらしい。
桜の咲く頃の芸1はそんな話題に沸き、善永は最早黄ばんだ受話器を乱暴に取り上げて事実確認に勤しんでいる。
阿久をはじめとした通称善永組はそんな善永の様子をうずうずしながら見守っており、
やがて善永は受話器をゆっくりとベルポケットに落とし、にやりと笑った。
「おっしアポ取れた。みんな行くわよー!」
 おうっ、と総勢5名の善永組が錨を上げる。
阿久は颯爽と机からライカを持ち上げ、ストラップを首にかける。
 このライカが、芸3で過ごした5年間が、あのときのライブが、
どうしようもなく青臭く神聖で不可侵で犯しがたいあの遠い日のあの夢が、阿久のライカのフィルムに焼きこまれていく。

―――俺のシャシンを見た人がすげえ勇気をもらえるような。
さあ、今度はどんな夢を見せてくれるんだろう。

期待してるぜ、765。



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