「はじめまして。俺が、君のプロデューサーだ」
「へっ? じ、じゃぁ私、ほ、ホントにアイドルになれるんですか!?」
 こんな会話をしたのが、今から3ヶ月ほど前。
社長に言われて迎えにいったスーパーアイドルの原石は、借り事務所の窓を拭いていた。
窓、と言っても1階の外側だが、丁寧に磨き上げられているガラスには曇り一つない。
ここまでやるのも大変だったろうに。
「ああ。それにしても、ずいぶん丁寧に掃除しているんだね」
「えへへ…。だって、私ここにいても何もやる事なくて。
だったら、お掃除してきれいになってたほうが気持ち良いじゃないですか!」
 笑顔に、喰われた。
高槻やよいは、そう言って笑っていた。
 そのとき、なんとしてもこの子をトップに立たせてやろうと思った。


「…今回のオーディション合格者は…」
 握り締める手に汗が伝う。死力を尽くしたオーディション「LONG-TIME」。
一発が大きいこのオーディションも、ご多聞に漏れず合格者は1名だった。
Cランクのやよいには厳しいオーディションではあったが、それでも特訓を繰り返す彼女の
もっとも傍にいる者として、今回のオーディションは自信がある。
 自信はあるのだが…
「えー、今回のオーディションですが、ダンス、ヴィジュアル、ボーカルの総合得点が25点で…」
 長い長い長い。
さっさと発表してくれ。やよいが持たない。いつも元気な彼女ですら緊張が顔に表れている。
その大きな目はパッチリと開かれていて、ダンス疲れではない粘性の高い汗が全身を伝っているのが分かる。
 手のひらの汗が気持ち悪い。胃が痛い。
「ナンバー3、高槻やよいさんです。おめでとうございます!」
「やっ…、やったーっ!!」
 飛び上がって喜ぶやよいとは対照的に、プロデューサーは腹を抱えて大きく息を吐いた。
これでファン数も大きく上がる。当面の目標であったランクBも一気に近づくだろう。

「やった、やったー! プロデューサーっ、やりましたーっ! 合格ですよ合格! ごうか…プロデューサー?」
 飛び跳ねていたやよいが、様子のおかしいプロデューサーの顔を覗き込む。
彼は目を閉じて大きく呼吸を繰り返していたが、やがて目を開き、
「よし…。やよい、おめでとう!」
「ぷ、プロデューサー? あの、どっか痛いんですか?」
 プロデューサーの様子がいつもと違う。
いつものオーディションなら満面の笑みで祝福してくれるのに。
どこか悪くしたのだろうか。顔色は悪く、脂汗すら浮かんでいる。
ハの字になっていた眉で無理やり笑顔を作ると、
「いや、その…緊張が一気に解けちゃって。ああ、しかし受かってよかった。本当に」
 そう言った。
相当無理をしてたんだろう。
私が大変以上に、プロデューサーさんは大変だったはずだもの。
 レッスン前に営業の資料集め、レッスンの指導。夜はオーディションの対策を考え、
作業はずいぶん遅くまでやっていたようだった。
そもそも、この人はいつ寝てるんだろう?
「うっうー…。プロデューサー、ご心配おかけしました!」
 精一杯の謝罪。プロデューサーはそれに首を振ると、やよいの頭を少々乱暴に撫でた。
「そんな事ないよ。やよい、おめでとう!」
 立ち上がる。まだ今日は終わりではない。
オーディションに受かっただけではファンは増えない。
この後の収録を完璧にこなして、初めて『高槻やよい』は視聴者に歌を届けることができるのだ。
「少し休んだら収録だな。頑張ろう!」
「…はい!」
 ヒマワリのような笑顔を浮かべ、やよいは元気な返事を返した。
 そうだとも、今日はまだ終わりではない。10万ものファンが、『高槻やよい』を待っている。


「…でかっ」
「…おっきーですねー…」
 数日後、プロデューサーとやよいはそろって大口を開けていた。
 社長から言い渡された新しい事務所は、今までの借家暮らしが嘘に思えるほど大きい。
ランクBに昇格したやよいに、ふさわしい事務所を用意した――社長からはそう言われていたのだが。
「今日からは、こんな大きなところでお仕事するんですねー…」
 うあー凄いなー。そんな声が横から聞こえる。
「あ、ああ。そうだね。なんてったって、今のやよいは…」
 ランクB。スーパーアイドル。いや、それはそうなんだけど。
「…でも、うちってこんなビル建てられるほど金持ってたっけ…?」
 やよいには聞こえないように一人ごちる。恐るべし高木社長。
「今の私は、何ですかー?」
「…ああ、いや、なんでもない。それより、中に入ってみよう。初事務所での初仕事だ」
 やよいを中に促す。
ランクB。スーパーアイドル。
だからどうした。
目指すところはもっと高い。こんなところで足踏みなどできない――…


 数日後、出社したプロデューサーは良く見慣れた後姿をビルの前で見た。
それは水が入っているであろうバケツをえっちらおっちら抱え、入り口から少し離れた窓ガラスの前まで行くと、
バケツから取り出した雑巾を搾り出した。
プロデューサーが出社するのは相当早い時間であり、まだビルの中には誰もいないようだった。
 後姿はそれを幸いと窓掃除を開始する。
どこから持ってきておいたのか、小型の脚立に危なっかしく登ると、窓を右から左へ拭き出した。
 そろそろ冬も近づこうかという今の時期の水は冷たい。
少し近づいただけで、後姿の手は赤く色付いているのが分かった。
 ガラスが1枚程度仕上がったところで、声を掛けることにする。
「…何、やってるんだ?」
「ひゃぅ!」
 脚立の上で器用にビビる後姿。はじめて会った時も、彼女はこうして窓を拭いていた。
「ぷ、プロデューサー…。おはようございます」
「おはよう。それで、何で掃除なんか?」
 問うと、やよいは少しだけ俯いて、脚立からやはり危なっかしく降りた。
「あの、ですね。そのー、」
「うん」
 ごにょごにょするやよいの表情は罰が悪そうというのとは違うようだった。
罰が悪そうというより、何か切羽詰っているような。
「私、この間ランクBまで上がったじゃないですか」
「うん」
「そうしたら、こんな大きな建物が事務所になったじゃないですか」
「そうだね」
「でも、何かこれってその、なんていうんでしたっけ。えーと。
 建物が大きくなってランクも上がってみんなに褒めてもらえるようになって。
 でも、そのなんでしたっけ。お饅頭…じゃなくて」
「慢心?」
「そうです、その…自分が、慢心してるんじゃないかって」
 身振り手振りを交え、やよいはそんなことを言い出した。慢心?
やよいの、どこが?
「何で、そんな」
「あの、ロングタイムのオーディションで勝ったとき、…そのー」
 ここで、初めてやよいの表情が崩れた。
泣き出しそうなのを我慢しているような表情は、笑顔の似合うやよいとはまた違う、等身大の13歳の表情だ。
「私、一人だけ、喜んでて。プロデューサーさんは、ものすごく心配してくれてたのに。
 何か、私はそのことを忘れてたんじゃないかって」
「それは、」
「事務所がおっきくなった時、ああ、認められたんだなーって思ったんです。
 でも、同時に何か、大事なものを前の事務所に忘れてきちゃったのかなって」
 だから、掃除を、とまで言って、やよいは俯いた。
なんて事だ。オーディションのときの表情をそう読まれてしまっていたとは。
「…なぁ、やよい」
 視線を上げる。俯くやよいの後ろ、脚立の掛かる壁の窓。
手を赤く焼けさせる冷たい水で磨かれた、曇り一つないガラス。

 ここまでやるのも大変だったろうに。

「忘れてないよ。何も。やよいは、やよいのままだ」
「で、でもっ!」
 勢い良く顔を上げたやよいの瞳は潤んでいた。
「大丈夫だ。やよいは、何一つ忘れちゃいない。前の事務所から全部持ってきて…」
 ガラスへ視線を投げる。きれいなガラスには、冬の入り口の空が映っている。
「ここにいる。俺が、保障する」
 言い切った。
「ほ、ホント、ですか?」
 ああ、もちろん。
そう言ったら、飛びつかれた。


 協力して窓掃除を終えた後、バケツと脚立を片付けた。
「うっうー! きれいになりましたね!」
「そうだね。これなら、気持ちよく仕事できそうだ」
「はいっ!」
 ドアをくぐる。
掃除に熱中している間に出社してきた社員に挨拶を交わしつつ、広くきれいな廊下を進む。
「あ」
「? どうした?」
 突然聞こえた声に後ろを振り返ると、やよいは手を後ろに回して、何でもないです、と言った。
それでも、後ろに回した手をこすり合わせているのがはっきり分かる。
ため息。
「水、冷たかったろ? ほれ」
 そう言って、右手を出してやる。
それを見て、えー、とかうー、とか言っていたやよいではあったが、やがておずおずと手を掴んだ。
「え、えへへ…。プロデューサーの手、暖かいです!」
 その笑顔に、喰われた。
「…おう」
 やよいは、やよいのままトップに立てる。

 なんとしてもこの子をトップに立たせてやろうと思う。



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窓ガラス

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