井坂の幽霊

 双海亜美は、“お化け”が嫌いである。
 事実である。1年前の『ドキッ! 心霊スポット108 アナタは今夜眠れない!!』という誠に頭の悪い2時間特番を、よせばいいのに枕を抱えて大入りポテトチップスをパーティ開けして頭からつま先まで見てしまい、眠るに眠れず、寝たところで稲川淳二に『木造校舎の東棟の北側の一番奥のトイレのトイレットペーパーを最後まで引っ張ると上から真っ赤な紙が云々』という実にありがちな怪談話をされながら追い掛け回されると言う夢を見て半泣きで飛び起きて同時に尿意を覚え、必死に真美を起こそうとするもさっさと寝てしまっていた真美はゆすろうが叩こうが布団の国から帰って来ず、これはきっと夢の続きなのだと無理して布団をかぶり、次の日にはシーツに立派な『夢の国』を作った。
真美にはまだきっとバレてない――亜美は今でも愚直にそう信じている。
 だから、クラスで『イサカの幽霊』の話になると、亜美は耳を押さえてどこかに行ってしまう。
『イサカの幽霊』とは、つまるところ墓地近くの坂には幽霊が出て、
何も知らずに近くの遊園地に遊びに来た観光客や地元民をとり殺すというチープな怪談話であり、
亜美のクラスでは春ごろから盛んになったこの話も夏休み前には終息した。
 一方の真美はと言えば、実のところ大して“お化け”が嫌いではない。
というか、信じていない。正確性を期せば、真美は見た事しか信じないといったほうが正しい。
 前に一度だけ亜美から『真美はお化けとか怖くないの?』という疑問を投げかけられたとき、
真美は『だって見た事ないもん。亜美はあるの?』と逆に聞き返して亜美にあの忌まわしい記憶を蘇らせた。
 会話の最後に真美は、見た事すらないものを怖がるなんて子供のすることで、
お化けを怖がるなんて亜美はまだまだオトナノオンナになれないねという意味の言葉を尻にくっつけて、さすがにその時はケンカした。
 結局その時は『オトナノオンナにもいろいろあって、怖がるオトナノオンナだっているんだよ』的なプロデューサーの平和判決が下り、亜美には小さな痣、真美にはわずかな歯型を残して手打ちになった。
 そんなわけで、夏休みも中盤を迎えるほどになると、亜美の頭から『イサカの幽霊』の話はきれいさっぱりなくなっていた。
 結局、亜美がその後『イサカの幽霊』の話を思い出したのは、それから1年後のことだ。



 そんな2人の共通点と言えば、退屈が大嫌いという事である。
プロデューサーの仕事が詰まっているときに2人が遊びに来たときなどは大変で、
真美はプロデューサーに向かって遊んで遊んでとまるで初めて見る客に対してジャレ付く座敷犬のようであるし、
亜美はと言えば『兄ちゃんは絶対職場にHな本を持ってきているに違いない』という完全に条例違反な思考の元にプロデューサーの机を漁る。
 そんな2人だからこそ、『お盆』という行事は例年非常に退屈極まりないものだった。
何せ車に半日揺られて行く先が親戚のおばあちゃん家という名前のド田舎である。電気が通っているかすら怪しい、上下水道がちゃんと機能しているかなどもっと怪しい。
 アイドルとはいえ日本国民であり、8月11日から5日間は盆休みが取られており、8月13日からの3日間にはド田舎ツアーが予定表の上に動かし難く鎮座していた。
だから、プロデューサーが8月11日に有給を取る、と小鳥から聞いたとき、2人は飛び上がって喜んだ。
「ねぇねぇ亜美、これってチャンスだよね!?」
「チャンス到来、だね!」
 チャンスの到来である。
 つい先日のオーディションで4ランクも上の相手とガチンコのような対戦をするにあたり、亜美と真美はお子様理論でプロデューサーとこんな約束を交わしていた。
 勝ったらどっか遊びにつれてって。
察するに、先日の算数の抜き打ちテストの結果が悪かった亜美と真美は母からこう言われているはずだ――きちんと勉強しなさい、そうしないと夏休みどこにも連れて行ってあげないわよ。
前までなら効果を発揮した母の愛情あふれる脅し文句は、
しかし新たなパトロンを獲得するに至った亜美と真美にとってはどこ吹く風である。パトロンの名前をプロデューサーという。
 顔を合わせてにんまりと笑う。人が見たら腰を抜かすような意地の悪い笑みを浮かべた2人は、パイプ椅子から跳ね上がって社長室の扉に耳を当てた。
こうすれば中の会話が聞こえる、社長との会話が終わったらこう言ってやる。遊びにつれてって。
ダメと言われてもいい。こっちには虎の子がある。
勝ったんだからどっか遊びにつれてって。
きししししと声を殺して2人で笑い、そっと耳をそばだてる。

――そうかね。では、よろしく頼む。
――分かりました。すみません、お休みまで頂いて、
会話の切れる間、
――いや、謝らなければならないのはこちらだな。
――そんな、事は…。奈夢子さんには、お世話になりましたから。
奈夢子さんって誰だろう。もっと耳を押し付ける。やわらかそうな2人の頬が扉に押し付けられて饅頭のように広がる。
――では、とりあえず11日はお休みを頂きます。ありがとうございます。
――うん。では、頑張ってくれたまえ。

フローリングの床を革靴が進む『カツ、カツ』という音がしたあたりで、亜美と真美はようやく扉から離れた。
饅頭には痛みこそないものの赤くあとがついている。


 つまり、プロデューサーが8月11日に休みを取る事は事実である。
そんじょそこらの8月11日ではない。お盆休みの、夏休みの、ド田舎ツアー2日前の8月11日である。
安っぽいドアの開閉音の直後に、亜美と真美はそろってプロデューサーにへばりついた。
「ねーねー兄ちゃん、今度の11日ってお休みなんでしょー?」
「遊びに行こうよー! 真美たちもお休みだしさー!」
「うおっ、お前らいつからそこに!」
 戸を開けた瞬間抱きつかれて慌てない人間などおらず、プロデューサーも人間である。
が、そこは歴戦のプロデューサーであり、すぐに平常心を取り戻すと、今だ行こうよー行こうよーとわめき散らす2人に向けてこう言った。
「ごめん。11日はダメ」
「えーっ!?」
「何でー!?」
 実に当然の不満である。
 こっちは勝ったのだ。負けて当然のような相手から白星をもぎ取ってきた。
 昨日テレビドラマで実際には絶対いない美形の先生がこう言った、『努力は絶対報われる』。今報われなくて何の努力か。
努力にしかるべき報いがあるなら、勝った暁にどこかに遊びに連れて行ってもらうのはきわめて当然の成り行きなのだ、という素晴らしい理論が瞬時に組み立てられる。
 だから、言った。
「だって、この間のオーディションの時に約束したじゃん!」
「そうだよ、どっか連れてってくれるって言ったじゃん!」
 う、と言葉に詰まるプロデューサー。
 好機到来である。リクツで勝てない相手が隙を見せたときはチャンスだとさっちゃんは言った。
こっちの言い分をテッテイテキに相手に浴びせ、もし相手が怯まなかったら切り札を出せ。
相手を黙らせてしまえばこっちのもんだ、そうしたらそのまま一気にシュウチュウホウカしてしまえ――さっちゃんの教えである。
 さっちゃんとは小学校3年生からの友達で、たいそう気が強くしかも頭の回る恐るべき小学校6年生であり、
先生を言い負かす事も日常茶飯事で、目下さっちゃんを言い負かす事ができれば校長先生から賞状がもらえると噂されている。
そのさっちゃんが言うのだ、間違いはない。
 が、プロデューサーは「分かった、どこかに行こう」ではなく、二人に向けて両手を合わせてこう言った。
「ごめん、本当に11日はダメ」
「「えーっ!!」」
 さっちゃん敗北。
 基本的にプロデューサーは2人に甘い。2人はそれを重々承知しているからこそ、わざわざ社長室の見た目は高そうで実は安い扉にへばりついたのだ。
饅頭を赤くしてまで頼んだのに、勝ったからどこかに連れて行けという虎の子まで出したのに、
さっちゃん直伝の説得法まで使ったのに。
 泣きそうになった。事実涙が出たのだろう。
プロデューサーは今度こそ慌ててハンカチを出し、2人の顔を交互に拭ってこう言った。
「――分かった。11日は無理だけど、それ以外でいいならどっか行こう。
 …わわわ、1日だけじゃなくて2日行こう。うん。2日間あれば普段行けないところにもいけるよ?」
 11日は無理だけど、でさらに涙ぐむと、プロデューサーはさらに良い条件を提示した。心の底でほくそ笑む。
 涙はオトナノオンナの最後の手段なの、これでオチナイ男はいないわ――一昨日のドラマで八面六臂の活躍をしていた女エージェントはこう言った。エージェントって凄いと思う。
「ホントに?」
 と亜美。
「本当だ。3人でどっか行こうな」
「嘘つかない?」
 と真美。
「本当だって。俺が今まで君たちに嘘ついたことあった?」
 今ついたじゃん、とは言わない。オトナノオンナは分別があるからこそである。
「じゃあ、指きりね」
「嘘ついたら針じゃなくてバット飲んでもらうからね?」
 とんでもない報復であるが、プロデューサーは一瞬怯んだあとに小指を出した。2人の小さな小指に絡める。
 ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいーたーらバット十万本のーます。
「10万本か…」
 切り終えた小指を見てなんともいえない表情をするプロデューサーに向かい、すでに泣き止んでいた2人はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべるのだった。



 ついてくるな、とは言われなかった。
確かに言われていない。プロデューサーは2人に向かって「11日は無理だけど違う日ならいいよ」と言っただけであり、その言の中に「11日はどこかに行くけどお前ら絶対ついてくるなよ」という内容はなかった。
 暇だった。8月10日と言えば夏休みも中盤であり、
さっさと宿題を終わらせれば夏休みの残りはずっと遊んでいられるのよ、という母のアドバイスに従ってやっつけた夏休みの宿題は2日ほど前から机の上でホコリを被っている。
 あれほど楽しみにしていた夏休みはアイドル活動のために消化されつつあり、明日からの仕事休みのために事務スタッフの机は山と積まれた書類とファイルに埋まっており、肝心の『双海亜美』の営業は午前中で終わってしまった。
 今日は半ドンである。
 暇すぎて、こんな話をした。
 ナムコって誰。
 出るべくして出た話題ではある。母お手製のカキ氷をしゃくりしゃくりとスプーンで口に運び、行儀悪くも口の中にメロンシロップの緑を貼り付けながら真美はこう切り出した。
『わかんない。そんな事務の人いたっけ』
 ゲームをしながら亜美はそう切り返した。
 テレビの中では反則のようにレベルを上げまくった勇者の一行が『世界の半分をやろう』と交渉してきた魔王を素手でボコボコにしている。
『世界の半分』なら貰ってやっても悪い気はしない。絶対兄ちゃんのいる方をもらう。
 切り返された真美は、うーん、と声を上げて考え、スプーンで緑の氷をすくい、目を閉じ、必死に思い出そうとし、
『――いなかった、ような気がする』
 じゃぁ、誰なんだろう。
 振り出しに戻った話題の中、真美はだいぶ氷が融けて氷山のようになった氷をスプーンでつついた。
地球温暖化は世界の危機であり、今すぐ温暖化ガスを削減する努力をしないと遅からず陸地は水没する、
だから冷蔵庫は開けたらすぐ閉めて電気は消してクーラーは28度より低く設定してはいけない、
と昨晩テレビの中でご高説を述べたどこぞのダイガクキョウジュとやらの顔を思い出し、
真美はふと緑の海の中で泳ぎまわる自分を想像した。
でも大丈夫だと思う。泳げるし。
 あらゆる危機に直面してもあわてないのがオトナノオンナなのよ――女エージェントはそう言っていた。

女エージェント。

『兄ちゃんの、彼女だったりして』
 息継ぎをするかのように呟くと、亜美は驚いたように振り向いた。
テレビの中では筋肉ダルマが亜美の指示を待っており、驚いた拍子に落としたコントローラーが誤入力してダルマが勇者を殴った。
『彼女なの!?』
『わかんない、けど。でも変じゃん。たまの休みに会いに行くくらいのオンナだよ?』
 誤入力は続き、ダルマは殴り続ける。
 ぼかりぼかりという効果音の中、二人の頭に『彼女と仲良く遊ぶ兄ちゃん』の図が構成されていく。
 まさか、あの兄ちゃんに限って、という考えはいつの間にか払拭され、亜美は結婚式で『ナムコ』に指輪をはめるプロデューサーを、真美は青緑の海で『ナムコ』と仲睦まじげに戯れるプロデューサーを想像する。
『――確かめなきゃ』
『――そうだね。確かめなきゃ』
 ダルマの猛攻に耐え切れずに勇者が膝をつく。
いまやその矛先は女僧侶に向かっており、女僧侶はライフが低くて体力もない。
 明日の目標は決まった。何とかして兄ちゃんの後をつける。
そして、『ナムコ』とやらがどんな面をして兄ちゃんを掻っ攫ったのか見極め、必要なら、
 テレビの中で、女僧侶が悲鳴を上げて倒れた。
 ダルマの目標は切り替わり、幾度となくモンスターを葬ったその豪腕を今度は老賢者に向ける。



 プロデューサーの家など、とっくの昔に割れていた。
ついでに、車はシャケンに出したと言っていた。シャケンってなんだろう。
さらには、プロデューサーは寝坊助である。
それについては2人とも確信を持って言える――泊り込みの営業のとき、9時を過ぎても起きてこなかったプロデューサーをたたき起こした事だってある。
 あの時の兄ちゃんの顔っていったらもう、と真美は思い出して少し笑う。と、
「真美、兄ちゃんが出てきたよ!」
「オッケー」
 きわめて普通の服装で安アパートの鍵を閉めたプロデューサーを横目で確認する。
 返事を返し、真美はすばやくポシェットの中身を確認した。
お小遣いよし。ハンカチよし定期よしシャーペンよしメモ帳よしお菓子よしジュースよし双眼鏡よし。
掛けたサングラスはちょっと大きい。ティッシュは駅前で貰えばいい。――何か忘れているような気もするが、それはひとまずさておこう。
「じゃあ、尾行開始ーっ!」
 尾行が開始される。わくわくする8月11日が切って落とされる。盆参りでごった返す夏の日の青空が広がる。

 BGMは『エージェント夜を往く』である。



 都心部はまだやりやすかった。
盆休みで人が密集した駅前などは明らかにお上りさんと思しき家族連れがタクシー乗り場とバスプールでごった返しており、
駅のホームなどはもっと悲惨な状態で、電光掲示板とコンパスと5万分の1縮尺の地図を片手に電柱のように立ち尽くす観光客のおかげでプロデューサーには見つからずに済んでいる。
 人生での見納めのように駅ビルを拝む老夫婦の間を縫って小走りに移動する。
ここまで人がいるとは予想外で、見つけられる危険より見失う危険の方が大きかった。
 しかし、それはプロデューサーの側からも同じであろう、と2人は推測した――
向こうはそもそも後を付けられていることなど知りもしないし、であるがゆえにこちらを探してもいない、であればこちらを見つけられるはずがない。
「亜美、兄ちゃん電車に乗るみたい!」
「オッケー。どこに行くんだろうね?」
 言いながら、真美はすばやくポシェットから双眼鏡を取り出した。
コンパクトなくせに25倍まで拡大可能なこの双眼鏡は亜美の机の中で長らく忘れられていたもので、ボロボロに崩れたシールはかろうじて『日光江戸村』と読める。
 420円。連絡なし。
 プロデューサーが改札を抜けた直後に券売機に駆け寄ると、500円玉1枚を券売機にぶち込んで80円を回収した。
慎重に大胆にプロデューサーとの距離を保ち、リュックサックとキャリアカートしか乗っていないような電車の中に何とかプロデューサーの姿を見出し、1両違いに乗り込んだ。
「にっひっひ、やったね、真美!」
「うん! ところで、兄ちゃんどこに行くんだろう」
 電車が閉まる。
 電気をうなるほど食って、巨塊がゆっくり動き出す。



 電車の次はバスだった。
プロデューサーと2人を乗せた電車は4階以上の建物がないような田舎に到着し、もう食えないとばかりに乗客を吐き出した。
 物陰に素早く隠れ、改札から出たプロデューサーの足取りを追う。
都心部からは離れたが今だに結構な人数が駅前を歩いており、その大半がペンキの剥げたバスプールに向かっている。
プロデューサーの並んだバス乗り場は家族連れでなかなかの客入りだが、双眼鏡越しに見たバスのタイムスケジュールには一列に数字が一つ程度しか並んでおらず、まさしく『田舎の赤字経営の路線バス』の風合いである。
 双眼鏡を若干下に向けると、

牛原駅→三笠→平井坂霊園→三笠四丁目→平井坂レジャーランド→高御倉車庫

「平井坂レジャーランド、だって」
「兄ちゃん、ここに行くのかな」
 実に垢抜けない名前である。デートなどしたことがない2人ではあるが、こんな垢抜けない名前のところに連れて行く男など願い下げだ。
大体都心部のほうがはるかに遊ぶところがある。
では、なぜこんなところに来たのか――という疑問は、丁度バスが到着した事でお開きとなった。

 プロデューサーにバレないように乗り込むのが大変そうではあったが、
列の前の方にいたプロデューサーは流れに乗ってバス前部の椅子に座り、亜美と真美は上手い具合に後ろ側に行く事ができた。
 ラッキーである。
「ね、亜美」
「何?」
「兄ちゃん、どこに行くのかな」
 いまさらの質問ではある。疑問点を整理しよう、と亜美はメモ帳とシャーペンを取り出した。
メモ帳に書かれた事を丸写しすれば、このようになる。

・兄ちゃんはどこにいく? 
・服装がダサい 
・平井坂レジャーランド? 
・おやつがもうない 
・相手のオンナ(ナムコ?)は? 

 補足をしよう。
 まず2番目の『服装がダサい』であるが、確かにプロデューサーはデート向けの服装をしてはいない。
着ているのは大衆洋服店で売っているような安いYシャツだし、下はよれよれのスラックスだ。
ネクタイはしているようだが、その色は余り冴えない。
 3番目の平井坂レジャーランドとは『平井坂開発事業団』なる県営組織が8年前に『若者の誘致と観光の発展』を期して運営を始めた遊園地と公園の合いの子のようなもので、
どこからどう見ても不良債権化した園内の観覧車は2ヶ月前から動いていない。
 さっさと民事再生すればいいのに――という地元住民の意見もむなしく、
現在『平井坂開発事業団』は第3セクターの介入を今か今かと待っている。
 4番目はどうしようもなく真美のせいである。
行きの電車の中で真美は『小腹が空いた』と言い、持ってきた2袋あったはずのポッキーはすでに1袋なくなっている。
 では、5番目は。
 目の付け所はいい。
確かに今までプロデューサーに接近してきたオンナはいない。
もちろん『平井坂レジャーランド』なる垢抜けない名前のデートスポット(?)で
現地集合という手もないわけではないが、わざわざ電車とバスを使うなら駅かバスプールで待ち合わせればいい。
何よりも、本当にデートならばプロデューサーの服装は決定的に間違えている。
 では、1番目『兄ちゃんはどこに行く?』について――『プロデューサーがデートをしにここまで来たわけではない』という可能性について考察をしよう。
 この場合、『ナムコ』なる人物が今回の遠征にどう絡むのか全く分からない。
 何とかして納得のいく答えを見出そうとして2人並んでうんうん唸り、結局分からないから兄ちゃんを追いかけた先で『ナムコ』なる人物を特定すればいいという所まで考えが行き着いたとき、
とんでもない事に気付いた。


 兄ちゃんがいない。


「ま、真美っ! 兄ちゃんがいないよ!」
「ほ、ほんとだ! ど、どうしよう…!」
 すでにバスは山の中を走っていた。外には人はおろか電柱の1本すら立っておらず、林道沿いにそびえ立つ杉の木は出来損ないの滝のように見える。
 プロデューサーの姿はすでになく、周りにはとっくに枯れた老人しかおらず、救いの手はどこにもないような気がした。
「と、とにかく降りよう!」
「そ、そうだね。前の前のバス停までは兄ちゃんいたもんね!」
 慌てて停車ボタンを押す。すぐに停まって、という二人の思いとは裏腹に、バスは5分間に渡って時速50kmで山道を突っ走り、恨みがましく見やる2人から子供料金820円をふんだくって去っていった。
 二人が降ろされたバス停は『三笠四丁目』である。



 田舎のバスを舐めてはいけない。
バス停とバス停の間隔など都会と比べれば各駅停車と特急くらいの差があるのがザラで、来た道をどれだけ戻っても見えるのは杉の山と時折こっちに無邪気に微笑む道祖神くらいだ。
 腹が減ったら戦は出来ぬ、とばかりに勢い勇んで取り出したポッキーはチョコレートの服を溶かしきられてプリッツのようになった裸身を惜しげもなく晒しているし、
350mlのペットボトルなどバスに乗る前に飲みきってしまっていた。
「前のバス停ってなんて名前だっけ?」
「えーと、確か…」
 おまけに道にも迷っていた。
アスファルト舗装だけはされていたから何とか車の通る道ではあるのだろうが、3又の交差点は反則以外の何者でもないと思う。
 とぼとぼと歩くが行けども行けども雑草と日に焼けたアスファルトがあるばかりで、汗をぬぐうハンカチはすでに湿りきっていた。
 セミがジンジンと鳴いている。
 夏の日差しが容赦なく二人を蝕む。
「ねぇ、亜美。もう、電話しちゃおっか」
「そうだね…。兄ちゃんに頼んで、迎えに来てもらおっか」
 女エージェントだって最後は恋人役に助けてもらえたのだ。こっちが助けてもらえない理由なんてないはずだった。
2人の無謀ともいえる今回の遠征の最後の命綱が携帯電話だ。
 結局これに頼る事になったのは癪だが、このまま遭難して野宿する羽目になって野犬にでも襲われたら事だ。
仕方ない、と言う顔で亜美はポシェットを探り、

――――――――――――――――――――――。

「ねぇ、どうしたの亜美?」
 突如として動かなくなってしまった亜美は、その後物凄い勢いでポシェットの中身をひっくり返し始めた。
同時に顔色がどんどん悪くなっていく。さすがに不安に思った真美が再びどうしたの、と問うと、亜美は一言、
「ない」
 聞き間違いであって欲しかった。
「ケータイが、ない…」
「えーーーーーっ!!」


 ないのは当然である。
 二人の携帯はそもそも社の備品であり、今回のような長期休暇の場合は備品を社に一度返還する事になっている。
 今回の5日間にわたる休暇などは備品返還を求められる極めて当然のケースで、二人の両親は契約に従って携帯を社宛に送付していた。
携帯電話がポシェットに入っていなかったのは当然であり、だが、二人にとってそれは『当然の出来事』ではなかった。
「だ、だって真美が持ってると思って!」
「亜美に朝聞いたじゃん! 持ってるかって! そうしたら亜美が頷いたんじゃん!」
「頷いてない! 大体ポシェットの中身確認したの真美じゃん!」
 ケンカである。
どうしようもない。お互いに相手に非を認めさせようとして一歩も引かない。
真美は「亜美に携帯を持っているかどうか確認したら頷いた」と言って聞かないし、亜美は「真美がポシェットの中を確認したはずだ」と言って徹底抗戦の構えを見せた。
 お互いに手が出なかったのは、夏の暑い日差しのせいだと思う。
不毛な言い合いは長時間にわたり、道端にある道祖神の顔の影に角度が生まれる頃、終末は訪れた。
「…このまま帰れなかったら、亜美たちどうなっちゃうのかな」
「…わかんない」
「パパとママ、心配するかな」
「うん…してると思う」
 道祖神の木陰の中に座る亜美も真美も、ひどく焦燥しているようだった。
道祖神のにこやかな笑い顔にどうしようもない絶望を覚える。
このままここに座っていたら、ひょっとしたら身体が石になって道祖神と肩を並べるかもしれない。何年か後にここを通りかかった人が言うのだ、あらこの道祖神3つ子なのね。
「…兄ちゃんは、」
 どちらともなくそう言った時、4つの目から堪えようもなく涙が溢れた。
「う、うぅぅうぅぅ」
「うぇぇえぇぇぇえぇ」
 絶対いない美形の教師も、さっちゃんも、凄腕の女エージェントもここにはいない。
向こうはそもそも後を付けられていることなど知りもしないし、であるがゆえにこちらを探してもいない、であればこちらを見つけられるはずがない。

――――兄ちゃんはここには来ない。

 どうしようもない絶望感が2人を襲う。溢れる涙は止まらず、顎を伝ってアスファルトに染みを作り、

その時、声を聞いた。

「あらぁ、2人してどうしたの?」
 声を掛けてきたのは美形の教師でもなく、女エージェントでもなく、大人の言い方をするなら妙齢の、二人にしてみれば丁度親戚のおばちゃんのような年齢の女性だった。
ファンデーションを余り塗っていないのか、目元や口元の笑皺がちっとも隠れていない。
隠そうとしようとしていないのかもしれないが、本気で化粧をしたなら誰もが振り返るような美人だろう。
「に、兄ちゃ、兄ちゃん、と、はな、れ」
「お、っかけ、よう、と」
「はいはい泣かないの泣かないの。どうしたのかお姉ちゃんに言ってごらん?」
 しゃくりあげながら何とか説明を試みる。
結局「兄ちゃんを追っかけていたら見失った。電話しようとしたが、携帯電話を持っていないことに気付いて不安でたまらなかった」という説明をするのに10分近くかかった。
 その10分近くの間、女性はずっと屈んで二人を胸に抱いており、似合っていないようで妙に似合っているワンピースの胸元には涙のみならず鼻水の跡すらついている。
「…それで、二人は何とかそのお兄ちゃんと会いたいわけね?」
「うん」ぐすっ。
「で、お兄ちゃんはここより手前のバス停で降りたのね?」
「そう」ズズッ。
 涙の山を越えた様子の二人を見て、女性はすっくと立ち上がり、腰に手を当ててこう言った。
「よっし。お姉ちゃんもそのお兄ちゃんが降りたっていうバス停のほうに用があるし、一緒に行こっか?」
「ホント?」
「うん。じゃあほらほら立って立って! 泣いててもお兄ちゃんには会えないよ?」
 明るく笑う女性に、亜美と真美はようやく笑顔を見せて、
「うん!」
「ありがとう、おばちゃん!」

「…おばちゃん?」

 一瞬にして世界が凍った。あれほどうるさかったセミは一瞬にして鳴りを潜め、夏の日差しを受けているにもかかわらず二人の背中にとんでもない量の冷や汗が伝った。
「お、お姉ちゃん」
「そう、その、ありがとうお姉ちゃん!」
 夏が戻ってきた。お姉ちゃんは、よろしい、とにっこり笑う。



 道すがら色々な話をした。
簡単な自己紹介、夏休みの宿題、パパとママの話、クラスの友達の話、この間の算数のテストの成績は下から数えたほうが速かった事。
それに――アイドル活動の話。
「へぇ、二人ともアイドルなんだ。双子でアイドルって事?」
 その問いにはあいまいに頷いた。
 765プロデュースに入社した手の頃、見知らぬ人に『自分がアイドルである』と言う事は絶対に言わないように、という高木社長との約束をしていたのに、こうまで自分たちのことを話してしまったのは初めてだ。
「でも、誰にも言わないでね。社長と約束してるんだ」
「真美たちがアイドルだって他の人に言っちゃうと、その人に迷惑が掛かっちゃうからって」
「ふーん。あ、でもお姉ちゃんは大丈夫だからね。こう見えて結構強いんだから」
 お姉ちゃんはそう言ってワンピースの袖をまくって力瘤を作って見せようとした。
単4の乾電池の横一本分くらいしか盛り上がらない瘤は、それでも二人には心強く映る。
 ありゃ、あんまり膨らまないね、と言って3人で笑う。
「でも、立派な社長さんだね。なんていう人?」
「えっとね、高木順一郎って言うの。お爺ちゃんみたいな人だね」
「ねーっ!」
 顔を見合わせる亜美と真美。
声に出して言った事はないが、二人とも高木社長をまるで本当の祖父のように感じる事が時折ある。
 当のお姉ちゃんはと言えば、実に意外そうな顔をした後に、すぐふんわりとした微笑を浮かべ、

「高木、順一郎、か。へえー」

「? お姉ちゃん、知ってるの?」
 ううん、知らない人。
 そう言って、お姉ちゃんは笑う。
 その笑い方が何かを懐かしむような色をしていたことに気付いた二人がお姉ちゃんを見上げると、お姉ちゃんは慌てて繕ったように、
「そ、そういえば、二人のお兄ちゃんって?」
 話しながら山を越えた。夏のセミは散々にうるさく、照りつける夏の太陽はジリジリと暑い。
 卵を落とせば目玉焼きになりそうなほど熱を持ったアスファルトは、しかし木陰に入れば歩けないほどではなかった。
 杉並木によって出来た木陰を進む。熱中症にならなかったのが奇跡だ。
「お兄ちゃんはね、真美たちのプロデューサーなの!」
「ええと、プロデューサーって言うのは、亜美たちのお仕事とか持ってきてくれる仕事で、」
 簡単な世話係のようなものだ、と言う説明を、二人はずいぶん時間を掛けて話した。
 説明にもずいぶん寄り道があって、例えば兄ちゃんはあまり整頓が得意ではなくていつもピヨちゃんに怒られる、
お酒が全く飲めなくてすぐに赤くなる、テレ屋な癖に格好付けたがりで、朝に弱くて服のセンスはあまりよくない。
「―――ふーん。よく知ってるんじゃん」
「そんなのあたりまえだよっ!」
「だって、亜美たちの兄ちゃんだもん!」
 屈託なく笑う。まぶしいまでのその笑顔にお姉ちゃんは一瞬ほっとしたような安堵の笑みを浮かべ、そりゃいいや、と呟いた。
 坂道が終わりに差し掛かり、ほんの少しだけ匂う排気ガスのお陰でバス停が近づいてきた事が分かる。
「お兄ちゃんのこと、好き?」
「うんっ!」
 と亜美。
「…でも、兄ちゃんはもっとオトナノオンナが好きなのかも。真美たちがいくらせくしーぽーずであぴーるしても何にも言ってくれないし」
「ありゃりゃ、そうなの?」
「うん。だから、頑張って早くオトナノオンナにならないと」
 お姉ちゃんは苦笑いを漏らした。その笑いの中に嘲るような色はなく、二人はここで始めてお姉ちゃんを改めて見た。
 白いワンピース。やっぱり白い、余り高くないヒール。
夏なのに首にはスカーフを巻いていて、肩まである髪は若干パーマが掛かっているように見える。ハンドバックはどこか古臭い。
 今風ではないと言えば、そう言うことも出来る――
亜美は以前お姉ちゃんのようなファッションを事務所の資料室で見た事がある、気がした。
 不思議なお姉ちゃんだ。会って間もないと言うのに、泣き顔から笑い顔まで全部見せてしまった。
会話しながら歩を進め、気付けば『平井坂霊園』バス停まで戻って来ていた。
間違いなく兄ちゃんはここにいる――そう思う。やはりデートなどではなかった。
いくらなんでも『霊園』でデートなど常軌を逸しすぎている。

 兄ちゃんはデートをしていない。

「うん。前のバス停ってここでいいのかな?」
「多分ここだと思う。この前のバス停では降りてなかったから」
「そっか。じゃぁ、お姉ちゃんはここでバイバイ」
「そうなの?」
 驚いて二人がお姉ちゃんを見やると、お姉ちゃんは古臭いハンドバックからゴツい懐中時計を取り出して蓋を開いた。
「待ち合わせに遅れちゃうから。もうちょっと二人と話してたかったけど、」
 時計を二人に見せる。長い針が55、短い針がもうすぐ3を指そうとしている。
「もう、時間切れ」
 そう言って、お姉ちゃんはぺろりと舌を出した。
古ぼけて塗装も剥げたバス停には、やはり日に焼けた時刻表がぶら下がっており、『高御倉車庫』行きがあと5分で乗客を拾いに来るらしい。
 じゃ、と言って手を上げるお姉ちゃんに向かい、二人はそろって頭を下げる。
「ホントに、ホントにありがとう!」
「絶対お姉ちゃんのこと忘れないから!」
「お、うれしい事言ってくれるね。それじゃ、お姉ちゃんからもう一つアドバイスをして進ぜよう」
 2人に頭を下げられて気を良くしたのか、お姉ちゃんはいきなりしゃがみ込んで二人と同じ目線になった。
バス停には3人のほかに誰一人おらず、セミが相変わらずジリジリと鳴いている。

「亜美ちゃんも真美ちゃんも、あんまり無理してオトナノオンナにならなくてもいいんじゃないかな」

「え?」
 面食らう。―――オトナノオンナに、ならなくていい?
「お姉ちゃんが思うに、オトナノオンナって『なるもの』じゃなくて『なっていくもの』だと思うんだ。
 今の二人が経験した事が積み重なって、オトナノオンナになっていくの」
 夏はどこまでも暑く、セミはどこまでもうるさく、お姉ちゃんの視線はどこまでも優しい。
「だから、今の二人を思いっきりやってみて。そうすれば、きっと二人はすっごい『大人の女』になれるよ」
 誰もが振り向くようなね、とお姉ちゃんは最後に付けた。
その目を、亜美も真美もどこかで見たような気がした。どこだっけ。
 懐かしいようなそうでないような目だ。物凄く澄んでいて、物凄く誇らしくて、ほんの少し寂しそうな。
「そうかな」
「そうだよ」
「―――うん、わかった」
「よろしい」
 そこまで話して、お姉ちゃんは再び懐中時計を見た。長い針が58を指している。バスがもうすぐやって来る。お別れがもうすぐやって来る。

「それじゃ。お兄ちゃんと、―――高木社長に、よろしくね」
 二人がお姉ちゃんを見たのは、それが最後だ。


 思い出した。
あの目は、はじめて会った時の兄ちゃんの目と、同じだ。



 バス停から少し歩くと、すぐに『平井坂霊園』という石彫りの土石が目に入った。
『平井坂霊園』はこのあたりで最も広い墓地であり、馬鹿っ広い土地をやはり『平井坂開発事業団』がバブル期に買い占めて分譲形式で売り出したもので、『平井坂開発事業団』としては成功した事業の部類に入る。
 正門らしきゲートを潜ると時節柄人が多く、皆一様に花やら線香やらを持って各々の家族の墓へと向かっていた。
嘘のように晴れ渡った空には手を伸ばせばつかめそうな入道雲が大きな顔をしており、あの中にラピュタが入っていると言われれば亜美も真美も絶対に信じる。
 まっすぐに入道雲を目指して歩き、幾つかの瓶を越え、何区画か乱立した墓石の間を縫って歩き、そこでようやく、

 一つの墓石の前でボンヤリと立ち尽くすプロデューサーの姿を見た。

「「っ、兄ちゃああああん!」」
 二人そろって雄たけびを上げて突っ込むと、プロデューサーは心底からビビった様にこう言った。

「うおっ、お前らいつからそこに!」

 安心しすぎて涙が出た。うれしくてたまらず、二人は感情に任せてプロデューサーに飛びかかる。
プロデューサーは驚きながらも何とか体制を崩さずに二人を抱え、
そして、亜美は墓石に刻まれた檀家の名前を、真美は側石に刻まれた名前を見た。


 檀家の名前は『高木家之墓』であり、側石の名前は『高木奈夢子』とある。



 結局、その日は帰りにパフェをオゴる羽目になった。
牛原駅まで来れば大手のファミリーレストランチェーンの1件や2件はあり、よりにもよって2人は高いほうのチェーンを選んだ。
渋々財布の中身を確認するプロデューサーの後ろで、二人は顔を合わせてキシシと笑った。
 何だかんだ言って、プロデューサーは結局二人に甘いのだ。
「――それで? 迷子になった後はどうなったんだ?」
 怒ってもいいくらいではあったが、日焼けして真っ赤になった二人を見てプロデューサーは何とも言えなくなってしまっていた。
怒るのはいつでも出来る、今は二人に何事もなかったことを喜ぼうと思う。
「親切なおば…お姉ちゃんに助けてもらった!」
「美人だったよ!」
 よほど飢えていたのか、貪るようにパフェを平らげる亜美の頬には生クリームが、真美の顎にはチョコチップが付いている。
美人ねぇ、とプロデューサー。
「ふーん。名前は聞いた? お礼もしとかないといけないし」
 そこで、二人は『あ』と言う顔でお互いを見合った。聞いてなかった、という呟きを耳に入れ、プロデューサーはため息をつく。
「でも、お礼は言ったんだろ?」
「うんっ!」
「もちろん!」
 なら、まあいいか、とプロデューサー。頼んだコーヒーを半分ほど飲むと、おもむろに、
「どんな人だった?」
「優しいヒトー。いろんなお話したよ」
「でもおばさんって言うと怒る」
「そ、そうか。背格好とかは?」
「? えーとね、」

 白いワンピース。やっぱり白い、余り高くないヒール。
夏なのに首にはスカーフを巻いていて、肩まである髪は若干パーマが掛かっているように見える。ハンドバックはどこか古臭い。

 説明の最中から、プロデューサーの表情がどんどん険しくなっていく。
「に、兄ちゃん? どうしたの?」
「なあ、亜美、真美。その人って、ひょっとして、」
 そう言うと、プロデューサーはおもむろに定期入れから古ぼけた写真を取り出した。
カラー技術が導入されてすぐ現像しました、と言うような痛みまくったその写真に写った女性を見たとき、二人はそろって
「あー!」
「これ! この人!」
指差した女性は、カメラに向かってにっこり微笑んでいる。その微笑みはまるでお別れした時のような澄んだ笑顔だ。
 どういう事だという視線の先で、プロデューサーはすさまじい勢いで脱力し、大して柔らかくもないソファーに後頭部を預けてこう言った。

「――井坂の幽霊、か」


写真の裏には、かすれた字で「高木順一郎 奈夢子 結婚5周年を期して」と書いてある。



 結局、双海姉妹はこの件について「あれは他人の空似なんだ絶対そうだ」と言うスタンスを今だ持って貫いている。
 プロデューサーはと言えばあれ以降『暗いところはいやだ』と言って夜間ロケを嫌がる二人を何とかなだめすかさなければならず、社長はと言えば『結婚5周年を期して』を片手に物思いに耽ることがわずかに増えた。
亜美はもとから“お化け”が嫌いであるし、真美はと言えば『見てしまったんだから信じないわけには行かず、しかし幽霊なんて存在するわけがないからあれは他人の空似だ』という独自理論で理論武装している。
 結局のところ亜美と真美が見た女性が『高木奈夢子』である証拠は何一つなく、二人の言うように『他人の空似』という可能性も捨てきれないわけではない。
 それでも、二人は今のところ大人の女に向けて着々と日々を明るく過ごしており、もうすぐBランクに上がろうかと言う『双海亜美』は、いまや最も波に乗る若手アイドルとして全国区に名前を知れ渡らせている。
 お姉ちゃんに恥じないように、『大人の女』になれるように、二人は今を思いっきり楽しんでいる。


(※ 作中に出てくる『高木奈夢子』は、珈琲缶さんの作品である『追憶』という作品からヒントをいただきました。
   この場をお借りして、お礼申し上げます。)


SS置き場に戻る

inserted by FC2 system