ロストワン  (1)

 自分では何一つ手に入れることはできないかもしれない、と思っていたのは昨日の夜までだった。
不本意だったが親に頼みこんでコネのある765に入社したのは正解だったかもしれないと伊織は思う。
送られた765プロは芸能プロダクションの肩書きにあるまじきことにたるき亭とかいう居酒屋の上にあり、ぼろっちいし汚いし狭いしおまけに看板はガムテープだった。
肩透かしを食らったと言えばまあそうだ。
が、あまり大手過ぎてはいくら親のコネとはいえ入社後1か月程度でデビューとはいかなかっただろうなとも思う。
重要なのはバランスである、らしい。
水瀬の名門はそうやって今の繁栄を築いたというのは耳にタコまで出来るほど聞かされた親の口癖だし、最近は上の兄のみならず下の兄までそれを口癖にしてきた。
うんざりするやら馬鹿馬鹿しいやらで頭が下がる、何がバランスか―――そうは思っていたが、しかしなるほどこうやってデビューできたのは自分が弱小プロデュース会社に所属するというバランスをとった結果なのかもしれない。

 つまり、水瀬伊織は本日付けでFランクアイドルとして芸能界に殴り込みをかけたのである。
この1か月は死ぬほど退屈だった。来る日も来る日もアイドル界の流行を聞かされ、しかし1ヶ月間は基礎トレーニングの繰り返しをさせられた。
要領のいい方だと自分では思うし、半月もしたあたりからのトレーニングはまるで答えを暗記した問題集を解いていると錯覚するほどだったし、容姿などはこれ以上磨くところなどありはしないと思う。
が、伊織の担当をすることになったプロデューサーはそうは思っていなかったらしく、このあたりは伊織としてもプロデューサーの教育について反省の余地があるように思う。
大体にして今日のオーディションもそうだ、控室で渡してきたのは何と緑茶である。しかもそこらの自販機で買って来たような代物だ。
確かに100%のオレンジジュース以外は受け付けないと言ったのはオーディション直前だった気がするが、それにしても担当アイドルの好みくらい把握しておくべきではないのだろうか。もっとちゃんと調教しておけばよかった。

 しかし、プロデューサーの失態を除けば今日のオーディションは自分でもまあまあだと思える結果だった。
首位こそ取れなかったが、自信のあったビジュアルの得点はぶっちぎりだ。
今日から水瀬伊織のトップアイドルが始まるのだと言ったあの間抜けの失態は論外にしても、確かにその言い分には一理ある。
 今日からである。
今日から水瀬伊織はAランクへの階段を登り始めるのだ。
今に見ていろと思う。
今まで散々媚びへつらいながら腹の中で散々っぱら悪態を吐いて来たであろう連中の顔を一つ一つ思い出して伊織はヒヒヒと笑う。
そうだとも、今日からだ。
今日から伊織の伊織だけの物語が始まるのだ。
自分では何一つ得られなかったのはもう昨日までの話だ。
オーディション後に回されたカメラは明日放映されるという話だし、そういう連中がどんなツラをして画面にくぎ付けになるかを想像しただけで面白い。
何もかもを手に入れてやろうと思う。
父を見降ろし、上の兄を超え、下の兄の望めることはない高みから何もかもを見下ろしてやろう。
明日からの毎日が本当に楽しみだ。
何て言ったって、ここから私の快進撃が始まるんだから―――…。



「な、何なのよこれっ!!」
「何って、茶封筒入りで明細書つきの典型的な手渡し給与だな。どうよ初めての給料は」
 やかましい、と心の底から思う。
何が給料か。こんな額はせいぜいひと月の小遣いの10分の1に満たない額ではないか。
伊織は顔を真っ赤にさせ、怒りを隠そうともしない手つきで乱暴に茶封筒を漁り、所得控除の欄が空欄の明細をプロデューサーに突き付ける。
「これのっ、どこがっ、給料なのよ!!」
 どこからどう見ても3000円である。
右から数えて5番目の数字があるべきポジションには恐るべきことにYに2本の毛が生えた記号が鎮座しており、そこから左には数字の3、それ以降は0が3つ続いているという額を置けば立派な明細である。
「どこがって言われても。真っ当な額だとは思うぞ」
「はあ? あんた目が腐ったの? 三千円よさんぜんえん!! こんなんじゃ何も出来ないじゃない!!」
 んなこと言われたってなあ、とポリポリ頭をかくプロデューサーの右脛をとっくにお嬢様フェイスを引っぺがした伊織が思い切り蹴飛ばす。
哀れなプロデューサーはとたんに安物の事務椅子から転げ落ち、謂われない暴力に襲われたガザ地区の難民の気持ちを嫌と言うほど味わう。
「だいたい、テレビにだって出たじゃない。それなのに何でこの額なのよ。おかしいでしょおかしいわよ何で全国ネットに出てこれだけしか出ない訳?」
 すると眼の端に涙まで浮かべたプロデューサーはそこで初めて疑問のような表情をし、
「全国ネット?」
「そうでしょ? 昨日の撮影ってテレビに出たんでしょ?」
 ああなるほど、という顔のプロデューサー。
どこで糸が絡まったのかやっと分かったという顔をした後、プロデューサーは今だぢんぢんと痛む足を庇うように並みならぬ努力を重ねてようやく椅子に座り直すと、
「伊織、言っとくが昨日のテレビは全国じゃないぞ」
「…はぁ?」
「もうおもっくそローカル。千葉ケーブルテレビとかと比べたら真っ青のヤツ。一応都内とかにも引かれてるラインだけど、有料だし会員制だからそんなに視聴してる人いってえ」
 会話の途中で今度は左脛を蹴っとばした。結構痛そうだがこのくらいやっても腹の虫がおさまらない。
弁慶の泣き所と表現した奴がもしここにいたら座布団5枚くらいやってもいいんじゃないかと伊織は思う。
あまりの痛みに目すらつぶったプロデューサーの頭の上に意図せず震えた声を投げかける。
「…それじゃ、どうやってファンを獲得するっていうのよ」
「…あーいてぇ。ローカルだけどな、大手局が時間帯見て番組を買ったりアイドルの発掘が生きがいみたいなファンがそういうところから口コミ発信してったりするんだよ。だから、昨日のテレビは伊織が想像してたみたいな大手じゃないぞ。大体、ほとんどのアイドルのデビューなんてそんなもんだ」
「…嘘よ」
「嘘じゃない。みんなここを潜って行く行くは大スターになりたいって思ってる。だから、ここで躓くようならそもそもテレビに映ろうなんて事は考えないだろうし、言いかえればみんなスタートは同じだよ。このオーディションに合格したら次のオーディションっていう風にオーディションを渡り歩いて行くんだ。何も伊織だけが特別悪い所からスタートしたわけじゃない」
 そんな。
 今日から華々しくデビューだと思っていたのに。
今日から水瀬伊織の輝かしいスター伝説が始まると思っていたのに、実際のところは全く違うらしい。
頭をハンマーで殴られた様な衝撃すら感じ、伊織はプロデューサーが転げ落ちた事務椅子におぼつかない足取りで座り込む。
「だ、だって、今日からデビューって言ってたじゃないアンタ。それなのに3000円って、聞いてないわよ」
「出演料もピンキリだからなあ。下手に変な事言って期待させるのもまずいかと思ったんだが、…先に言っとくべきだったな、すまん」
 すまんで済むか。
腹立たしいやら馬鹿馬鹿しいやらで頭の中がぐるぐるし、伊織は八つ当たりのように茶封筒をビリビリと引き裂いてピン札の夏目漱石を三人纏めてくしゃくしゃにし、乱暴にスカートのポケットにしまう。
財布に収めようという気などこれっぽっちも起きない。
「どーするのよ。私言っちゃったわよ、今日はお給料だから私がドーンって奢っちゃうって」
「誰に」
「…色々よ。3000円じゃ何も出来ないわ」
 すると伊織は重たい足取りでのっそりと立ち上がり、いまだ床に這いつくばるプロデューサーに一瞥をくれて出口に向けて歩き出す。
慌てたようなプロデューサーの声が背中越しに聞こえてくる。
「お、おい伊織、どこ行くんだ?」
「コンビニ。ジュース買うついでに募金する」
「…募金って、全額?」
 何せ3000円である。
日頃貰っている小遣いの10分の1に満たない額である。
こんな額じゃ服はおろか一度の奢りすら無理だ。
プロデューサーはなぜそんな事に気付かないのか。
 苛立たしさも骨頭に至り、伊織はそこで憤怒の形相を隠そうともせずにプロデューサーに向き直った。
「そうよ。何よこんな額、私が何かに使うくらいならユネスコにでもユニセフにでも送ってもらった方がいいわ。大体私の価値が3000円ってどういう事よ、これならまだ―――」
 そこで、伊織はプロデューサーの顔に如実な変化を感じた。
これならまだ地雷原を学校にするのに役立ててもらった方がマシだ、という次の言葉はプロデューサーの表情に止められる。
 プロデューサーは、何ともいえない微妙な表情を浮かべていた。
「…いいのか。それ、お前が自分で稼いだんだぞ」
 斜め下から送られる鋭い眼光に、伊織は一度だけ息を吐いた。
「…私が自分で稼いだお金すら、私には何をする権利もないってこと?」
「そうじゃない。そうじゃないけど、伊織が“水瀬伊織”として初めて貰ったお金だぞ。いいのか」
 そこで伊織はため息をつき、再びプロデューサーに背を向けた。苛立たしいにも程がある。
 じゃあ何か、目の前の寸足らずは3000円で果汁100%オレンジジュースを箱買いしろとでも言うのだろうか。
大事なのはバランスである。よかろう。ではバランスとは何か。
ここで3000円貰って「わあ嬉しいこれがアイドルなのね」とかバカっぽく騒げばよかったのか。
世の中には1か0しかないのだと思う。
「こんな端金、貰わない方がマシよ」
 そうして、目の前の寸足らずは1か0しかない世の中で自分の価値を3000円と認めろと言っているのだろうか。
冗談ではない。事ここに至っては額の問題ではない。
あれだけ無為に過ごしたとしか思えない1か月の果てにあった見返りが3000円という1などと言う事は断じて認めてはならない。
金で買える程度の1であると認めるわけには断じていかない。

 “水瀬伊織”の価値が、その程度しかないと、伊織自身が認めるわけにはいかない。

 なおも何かを言いたそうなプロデューサーに背を向けたまま、伊織は怒気を隠そうともしない足取りで事務所の扉に手をかけ、そこでようやく形を成したプロデューサーの次の言葉を聞いた。
「伊織、」
 呼びかけに振り向こうとして止めた。
今更何を言われても腹の底から決めた募金の意思は何物にも覆せないのだ。
水瀬伊織が3000円と認めるくらいならこれを使って黒柳徹子にテルアヒブの水源でも確保してもらった方がましだ、
「…今日はトレーニングだからな。早く帰ってこいよ」
 事務室の扉を思いきり閉めて、バタンという大きな音に伊織自身が驚いた。



 自分自身では何一つ手に入れることはできないかもしれない、と思っていたのは一昨日までだ。
 そして今日、伊織に手渡された伊織の客観的価値は小遣いの10分の1に満たない額だった。
 何だって手に入れてやろう、と思えたのは昨日までだ。
 手足の生えた目のある地球が吹き出しで『恵まれない子供たちに愛の手を』とのたまうレジ前の募金箱に丸めた夏目漱石を3人まとめてぶち込んで店員に目を剥かれた伊織の頭の中には今、ひょっとしたら自分はやはり何一つ手に入れることは出来ないのではないか、という悲観じみた疑問だけがある。



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