ロストワン (10)

 結局プロデューサー6の伊織が4になったスーツの支払いを済ませ、その後入った喫茶店で半ば強引にコーヒーを奢り、その後「仕事が残ってる」と言ったプロデューサーに当たり前のように家近くの最寄りの駅まで送らせて無事とは言い難い作戦は一応の終息を見た。
夕暮れの街並みを背景にセダンのケツが路地を右に曲がったところで伊織は隠しようもない大きな溜息をつく。
まさかカマをかけてくるとは思わなかった、というのが正直なところだ。
確かに変態は今まで散々こちらを弄りまわしてはいたが、どれもこれも言葉遊び的な直接表現でしかなかった事を思い出す。
まさか向こうがあんな腹芸をかけてくるとは思わなかった。腹立たしい事は腹だたしいが、おそらく向こうの方が何枚か役者が上だったのだろう。
それは認めざるを得まい。
 そうこなければ面白くない。
何せ水瀬伊織の横にいるのだ、中身が詰まっていないことには話にならない。
つつけばつつくほどいろいろ出てくるなら今後もつつきまくってやろうと思う。
帽子を目深に被っているのをいい事に伊織はヒヒヒと笑う。
駅の改札前で帽子を被って笑っているのだから今の自分は結構な不審者に思われるような気がするが、しかし面白いものは仕方がない。
何だか変態に感化された気もするが、それはそれでいいのだろう。今までずっとプロデューサーの横にいたのだ、多少似てくるのは仕方がない―――
 そこまで思って、伊織はふと自問する。
 今まで、こんな風に穏やかに過ごしたことがあっただろうか。
 あった、とは思う。まだ自分が何も知らない子供だった頃、自分を褒め千切る寸足らずたちが「水瀬伊織」を見ているのだろうと疑いなく思っていたころはきっと穏やかなものだったのだろう。
寸足らずたちの腹の底に気が付いてからは気が気ではなかった気がする。
奴らにとって自分は無価値で、水瀬の家の単なる窓口に過ぎず、誰も「水瀬伊織」を見てはいなかった。
 だが、自分がAランクという高みに上り詰めた今ではこうも思う。
 それは、きっと仕方のない事だったのだろう。
あの時の自分は中身など何もない単なる張りぼてだったのだから。精一杯の虚勢で何もない中身を押し隠す、ひと月の労働対価が3000円の子供だったのだから。
―――そうじゃないけど、伊織が“水瀬伊織”として初めて貰ったお金だぞ。いいのか。
 そしてあのバカはきっと、3000円の子供に価値を見出していたのだろう。
初任給のあの日から花火の夜までの6か月でプロデューサーに向けた口はほとんどが憎まれ口だった気がするが、という事は初めて会った時からすでにあのバカは「水瀬伊織は1の側」と思っていたのかもしれない。
ふと頭に慧眼という単語が去来して、伊織は少しだけ息を吐いて懐を漁る。
 違うといい、と思う。車内での話を思い出す限り昨夜行われたという「1月何とかパーティ」とやらは凄惨を極めていたようだし、プロデューサーはそのパーティから逃げ出した後も何か仕事をしていたらしい。
何をしていたかは教えて貰えなかったが、火を入れっぱなしで顔を洗いに行ったプロデューサーのパソコンモニタには思い切り「水瀬伊織の今後のプロモーションについて」というタイトルが付いていた。
―――…何だそれ。ヤだよこっ恥ずかしい。
 あの花火の日の夜、自分を1と思ってくれるプロデューサーが横にいるのなら、それでいいのではないかと思った。
今、自分は今までとはちょっと違う事を考えている。
 もし、である。
 もし、あの時のプロデューサーの言葉が「水瀬伊織」ではなくて水瀬伊織を指していたのだとしたら。
 そこまで考えたあたりで、伊織は両手で顔を覆った。
今鏡を見ようものなら多分真っ赤になった自分の顔が見えるはずだ。駅の改札前で笑ったり真っ赤になったりと不審者丸出しの格好になってしまった事を今更ながら自覚し、伊織は咳払いをして懐から携帯電話を取り出す。
 とにかくも今日の作戦は終わりだ。円満とは言い難かったが明日も営業が詰まっている。
こうなれば速い所家に帰って風呂にでも浸かってさっさと意識を切り替えておきたい。
今のままプロデューサーの顔を見てしまったらきっと自分は前後不覚に陥ってしまう事請け合いだ。
駅まで送らせておいてここから迎えを要請するのもどうかと思うが、家に手すきのドライバーはいるだろうか、

 突然震え出した携帯に思うさまビビった。

 その場で大声を上げたくなる本能を意志の力で殺すと、閉じたままの携帯のサブウィンドウに見たことのない番号が電話を受けろと催促をしていた。
誰だろう。プロデューサーの携帯の番号は暗記しているから違う。家の番号でもない。ファンでもなかろう。
 では誰か。
 すっかり舞い上がってしまった伊織は駅の改札前にいるという事も忘れて回りをきょろきょろと見回し、誰もこちらを観察していない事を確認して携帯電話を開く。
「もしもし、」
『あ、水瀬伊織様ですか? 先ほどは当店に―――』



 スーツの購入にあたり、伊織が二つプロデューサーに譲らなかった事がある。
ひとつはスーツの仕立てである。
二人揃って店に入った後に「じゃあ気に入った生地を別々に見つくろってこよう」と言ったのはプロデューサーであり、さては自分のセンスに自信があるのかと思ってみたらプロデューサーは実に地味な黒に限りなく近い藍色の生地を選んできた。
視線だけで思いきり小馬鹿にし、伊織が選んだ生地を見せてやると「この柄俺が着てるところ想像してみ?」と言われた。ピンクストライプの何が不満なのだろう。
すったもんだの末に二人が選んだ生地はシックな灰色の生地であり、このあたりは伊織にとっては妥協に妥協を重ねた結果であり、せめてスーツの仕立てくらいは意地を張らなければならなかった。
最後の最後にプロデューサーが折れたことでスーツは細身の仕立てになったのだが、もしプロデューサーのセンスに任せていたらどんな事になっていたのか想像するだに恐ろしい。
 そしてもう一つが、完成したスーツの送り先である。
そもそも作ったのはプロデューサーのスーツなのだから送り先はプロデューサーの自宅にするのが筋と言えば筋なのだが、ここで伊織は強硬に「送り先は私の家」と主張した。
だって俺のになるんだから手間がなくていいじゃないか、と言うプロデューサーに、そもそもこのスーツはもともと私が全額出す予定だったんだからまずは私の家に来るのが正しい、という無茶苦茶な理屈を押しつけて伊織は半ば強引に領収書に自分の名前と連絡先を書いている。
何のことはない、そもそもこのスーツはバレンタインのプレゼントとして購入するつもりだったのだから、「3倍返しよろしくね」とでも言いながら手渡ししなければならないだけだ。
 つまり、店側が把握していた連絡先は伊織だけという事になる。

 要するに、スーツの納期に遅れが出たらしい。
 ならば、自分はプロデューサーにその事を伝えなければならない。
 客商売にあるまじき事とは思ったし滅多に乗らない電車路線の入組み様には閉口したが、不思議と伊織の足は軽かった。
夕暮れの太陽がビルに塗れたデコボコの地平線に沈んでいくのが電車の窓からよく見えるこの時間に一人で行動していた事などそれこそ滅多にないが、仕事が残っていると言った以上プロデューサーはまっすぐ事務所に向かったのだろう。
丁度いい、もう遅いから送って行けとでも言えばあのプロデューサーは何だかんだと言いながら送ってくれるに違いない。
帰りの車の中ではどんな話をしよう。

 事務所の最寄りの駅に着くころには既に太陽は地球の西側を照らしに行ってしまっていて、見慣れたはずのたるき亭に仕事帰りのサラリーマンたちが吸い込まれるように入っていくのが見えた。
視線を上げるとガムテープで「765」と張られた台風でも来たら一発で割れそうな事務所の窓から煌々と光が溢れているのが見える。
まだプロデューサーが仕事をしているのだろう。千鳥足の酔っぱらい達がたるき亭に入って行ったのを見計らい、伊織は表に備えられた階段から足取り軽く3階まで上る。
上った先にある社長お手製の「765プロデュースにようこそ」と書かれた木札の扉は開いていて、伊織は慣れた手つきで扉を開いた。
「プロデューサー、いる?」
 いない。
 事務所に入った伊織を出迎えたのは傘立てと「765プロデュースは新人アイドル候補生を募集しています!」と書かれた小鳥お手製のチラシの入ったスタンドで、カウンター越しに見える営業部のブースにはうず高く積まれた書類に人間大の大きさの影は見えない。
不審に思って近づいてみると、プロデューサーの机に乗ったパソコンのモニタの中でイルカのスクリーンセーバーが己の仕事をせっせとこなしていた。
スクリーンセーバーが仕事をしているのだからまだプロデューサーは事務所にいるのだろうが、それにしてはトイレの電気も消えている。
変態とはいえ奴も人間なのだから暗い個室で用を足すのは不可能だとすれば、プロデューサーは一体どこに行ったのだろう。
 その時、こんな声を聞いた。
「―――――しかし、君も危ない橋を渡る男だな。もう少し堅実な男だと思っていたが」
 振り返ると、社長室の扉がわずかに開いていた。
プロデューサーはあそこにいるのだろうか。
営業部の机の上の書類を落とさないように気を付けて社長室に近づくと、今度はわずかな扉の隙間から伊織が探し求めた男の声が聞こえてきた。
「伊織、あの時は相当煮詰まってましたからね。すみません社長、ご迷惑を」
「いや、結果を見れば良い方向に動いたようだからね」
 プロデューサーと社長が扉の向こうで会話をしている。
大の男が二人揃って土曜の夜に何の話をしているのだろうと思い、伊織は社長室の僅かに開いた扉のノブに手を掛け、
「だが今回限りにしてくれたまえよ?」
 聞こえてきた声に、伊織は静かにドアノブから手を離した。
そう言えば伊織のドタキャンはプロデューサーだけではなく社長にも随分な迷惑をかけたと聞く。
いつか機会があったら社長にも改めて謝らなければ、
「…しかし、あのジャジャ馬がAランクか。君も働くね」
 前言撤回。会話の内容から社長の言うジャジャ馬が自分の事である事くらいわかる。
伊織は黙ってほくそ笑み、心の内にあるノートに決して消えないインクで「社長誅殺」と書き込む。
「ジャジャ馬って。社長、伊織はそんなじゃないですよ」
 続いて聞こえたプロデューサーの声に少しだけ胸を撫で下ろす。同意されたらどうしようと思った。
しかし、これはよく考えればチャンスである。扉の向こうの寸足らず二人はまだ伊織が事務所にいる事に気が付いていないようだし、会話の流れを待っていればひょっとしたらプロデューサーが自分の事をどう思っているか分かるかもしれない。
「いや、君が6人目のプロデュースに伊織君を選んだ時は驚いたがね。なかなかどうして君も見る目がある」
「俺は何にもしてません。伊織は負けん気が強いですからね、少し手を貸しただけですよ。Aランクに上がったのは伊織の実力です」
 何だか腹の底がムズムズしてきた。
確かにここまでの自分を誰よりも知っているのはプロデューサーを置いて他にいないとは思うが、面と向かって言われたわけでもないのに勝手に口角が上がる。
今の顔はプロデューサーに見せられない。
「そうかね?」
「そうです」
 違う、と思う。
もしプロデューサーがいなければ、きっと今頃自分は0の側だと思いこんで腐っていたに違いない。
プロデューサーに逢わなければきっと、自分は今頃無気力に座りこんでいただけだっただろう。
 だが今は違う。
プロデューサーという何にも代えがたい1を手に入れた今、たぶん自分は無敵だと何の引け目も無く思う。
プロデューサーと一緒ならばどんな困難もどんな痛苦も乗り切って見せるし、どこまでも行ける気がする。
 だって、自分は「水瀬伊織」なのだから。
 だって自分は、プロデューサーが認めた1なのだから。
「それに、俺に人を見る目を教えてくれたのは社長じゃないですか。感謝してます」
「伊織君にも、そのくらいの素直さで接すればいいだろうに」
 確かにそうだ。
扉を挟んでいるからプロデューサーが今どんな顔をしているか分からないが、声を聞く限りでは借りてきた猫状態だ。
やはり変態も人の子であり、給与の払い元と接するときは縮まってしまうのだろうか。
社長に後襟首を掴まれたプロデューサーを想像して伊織は笑い声を殺す。

 そして次に聞こえた言葉は、伊織の表情を殺した。

「やはり、素直に接すると別れが辛くなるかね?」

 え、

「…やっぱ、社長には隠し事出来ないですね」
「君は変わらんな。5人も別れてまだ頭の切り替えができていない」
「こればっかりは、どうしようもないですね。ビジネスライクにやろうとは思ってるんですけど」
 なかなかうまくいかないですね、というプロデューサーの言葉は、右から左に抜けていった。

 別れって何だ。
 素直に接すると辛くなるってどういう事だ。
足元にぽっかりと大きな穴が開いたような気がして立っていられず、伊織は壁にもたれかかる様に座り込む。
「―――お別れライブの会場の目星は、もう付けているのかね?」
「いくつか候補はありますけど、もうこのクラスになるとドーム以外の選択肢はないですね。後は、伊織に伝えれば、」
「何だ、まだ伝えていないのかね。いい加減諦めたまえ、わが765プロデュースの方針は鉄則だ」
 何を、伝えられていないのだろう。
「―――『一プロデューサーが同一アイドルを担当するのは最長1年』。分かってますよ。分かってますけど、」
 苦虫を噛み潰すようなプロデューサーの声が、震える伊織の耳に入る。
 今、何月だ。考えるまでもない、2月である。プロデューサーと初めて会ったのは去年の4月だ。
プロデューサーが伊織の担当に就いてから、すでに11か月目に入っている。
「…こればっかりは、やっぱりキツいですね」

―――0だろうが1だろうが、俺は伊織のプロデューサーだからな。

 ずっとずっと、プロデューサーが横にいるのが当たり前だと思っていた。
何も手に入らないと思い続けた8か月を超え、年を超える直前に見せられた夜景はすべて自分のものだと思った。

 そう思わせてくれた1を、自分は失ってしまうのだろうか。

 頭が痛くなる。耳鳴りがしてくる。歯の根が合わない。
 これ以上この話を聞いていると頭がおかしくなりそうで、伊織は音を立てずに事務所から2月の夕闇に向かって飛び出していく。



SS置き場に戻る      ロストワンに戻る            その9へ   その11へ

inserted by FC2 system