ロストワン (12)

 泣こうが喚こうが伊織がAランクなのは不動なる事実であって、その翌日からも営業という名前の拷問はそのスケジュール通りに粛々とこなされていく。
そんな伊織が今いるのは普通ならば大規模オーディションを抜けなければ出場など叶わない大手の音楽番組の収録を控えた楽屋であり、流石Aランクと言うべきなのか伊織はこの番組への出演に際して顔パスで済ましており、流石Aランクと言うべきなのか楽屋の扉にへばり付いてぺらぺらと揺れていた紙には「水瀬伊織様」以外の誰の名前も載っていなかった。
 ありがたかったが、同時にこんなものいらないとも思った。
 これこそが「世界」だと思う。
泣いても喚いてもプロデューサーに「すまん」としか言わしめなかった「世界」の権化は今まさに扉の向こうで誰かが廊下を通るたびに揺れる「水瀬伊織さま」の紙っぺらであり、ビリビリに引き裂いてやりたい衝動を実行するには既に精神が疲れ果てていた。
 プロデューサーは番組開始前の最後の打ち合わせのために今は席を外している。
が、そもそもプロデューサーがここにいたところで何を話すこともない。
「世界」を一望する駐車場で泣き叫んでからもう1週間はたったと思うが、あの日以降一週間経ってもプロデューサーと何か建設的な話をしている気は今に至っても終ぞない。
伊織は楽屋のなかでプロデューサーが持ってきた生ぬるいオレンジジュースを一舐めし、今さっき帰っていったスタイリストに仕上げられた自分の顔を鏡越しに眺めてみる。
 病人がいた。
 一瞬だけ目を見開き、伊織は両手を頬に当ててみる。
いつもはファンデーションなどあまりつけないのだが、そういえば今日は本番前の伊織の顔をいつも仕上げてくれるスタイリストがなぜかいつもより時間をかけて顔を作ってくれた気がする。
鏡の中の病人は伊織と同じように頬に両手をあててこちらを驚いたような眼で見ていて、今すぐにでも点滴を打たれてもおかしくなさそうな顔つきの病人が自分だとわかるのに数瞬掛かった。
―――お前の世界が見てるぞ。
 今の自分を見せてやりたい、と思う。
つくりの媚びとコケティッシュさで売れに売れている「水瀬伊織」の中身はプロデューサーとの別れに脅えて病人のような顔をしている14歳の中学生なのだと世の中に知らしめてやりたい。
そうすることでランクが落ちて来年もプロデューサーと一緒にいられるなら伊織としては一部の逡巡もないし、世の中を全て天秤にかけるような傲慢な「世界」ならこっちこそ願い下げだ。
 そこまで考えて、こう思う。
 そうなったら、その時自分は一体どこにいるのだろう。
オレンジジュースを一舐めする。
 生ぬるいオレンジジュースをすっかり狭くなった喉にしみこませるように通し、伊織はあの時のプロデューサーの言葉を思う。
―――居るさ。おいおい、今更ハブりはキツいな。
 あれは、一体どういう意味だったのだろう。何を持ってしてプロデューサーは「ハブりはキツい」なる発言をしたのだろう。
そもそもハブりと言うならハブられたのは自分のような気がする。
自分の元からプロデューサーが去る事に変わりはなく、と言う事はプロデューサーは「水瀬伊織の横」以外のどこかに行ってしまうわけであって、プロデューサーの方こそ勝手にどこかに行ってしまうはずなのにハブりと言うのは一体何を指しての言葉だったのだろう。
それを聞く勇気は、やはり腹の中のどこを探してもない。
どこを探しても勇気のゆの字も見つからず、伊織は苦しい心情を吐露するような溜息をつき、
 頭の中に、ぞわりと途方もない考えが浮かんだ。
 アイドル、辞めちゃおうか。
 途方もない考えは言う―――だってそうじゃない、こんなに辛くて切ないのは全部アイドル活動始めてからでしょ。
結局世の中っていうのは何一つ私の思い通りになるようには出来てなくて、Aランクに上がったって最後には結局一番大事なものを失くしちゃうんじゃない。
 そうよ何がAランクよ、自分の言葉なんだから覚えてるでしょ、「何もかも手に入れたい」んでしょ。
何にも手に入ってないじゃない、プロデューサーはどこかに行っちゃうんだし。
あいつ一人引きとめられないなんて「何にも手に入ってない」と同じじゃない。
 どうするのよ、世の中1か0しかないんでしょ。
プロデューサーがいない「世界」なんて0と同じじゃない。
今だってこんなに辛いんだから、今のまま続けたら苦しいばっかりよ。
さあどうするのよ「水瀬伊織」、また最初からのスタートならプロデューサーも横にいてくれるかもよ?

 突然の扉の開閉音に、意図せずケツが椅子から浮いた。
 驚いて振り返るといつかのようにプロデューサーがあー疲れたと言いながら楽屋に入ってきたところで、伊織はそれ以上プロデューサーの顔を直視できずに鏡に向き直る。
「どうだ伊織、準備できたか?」
「…」
 内なる声がささやく。ねえ聞いちゃえばいいじゃない。

私はプロデューサーを失くしたくないんでしょ? 
「世界」なんていらないでしょ? 
プロデューサーさえいればいいんでしょ? 
わざわざオレンジジュース温くして楽屋に持ってきてくれるくらいなんだから、きつくて辛くて悲しくて寂しいから「アイドル」止めますって言ったってきっとOKしてくれるわよプロデューサーなら。
それできっとプロデューサーは私が「水瀬伊織」じゃなくなってもきっと会おうと思えば会ってくれるわよ。
そうよそれがいいわ、そうすれば「アイドルとプロデューサー」じゃなくて水瀬伊織と変態の付き合いだってできるじゃない、

「伊織?」
 さあ聞けそれ聞け今聞け、
「―――ねえ、」
「何だ、腹イタか?」
 振り返ると、プロデューサーが背中のすぐ後ろから見下ろすように笑っていた。
「――――…あの日言ってた、アンタの居場所ってどこ?」

 この、意気地なし。

 頑張って絞り出した声は、本当に聞きたかった事からは相当にかけ離れた質問の形になって伊織の口から飛んだ。
プロデューサーは一瞬だけ面食らったような顔をして、
「どこって、お前の『世界』に決まってるじゃんか」
 そんなはずがない。だったら、プロデューサーは自分から離れていかないはずだと思う。
答えに納得できなかったのが顔に出たのか、プロデューサーはこちらを見ておや、という顔をして、
「何だいおりん、お前記念すべきファン第一号をよもや忘れたわけではあるまいな?」
「え、」
 するとプロデューサーは大きく胸を張って右の親指をぐいと立て、

「『水瀬伊織』のファン一号は俺だ。忘れてたなら思い出せ。知らなかったなら覚えとけ」

 何言ってんだこいつ。
「だって、あんたは私のプロデューサーでしょ。ファンって、そんなカウント、」
 うろたえたような声が勝手に出た。
プロデューサーは『プロデューサー』であり、ファンという「世界」よりも遥かに近くから今までずっと「水瀬伊織」を見てきたはずではないか。
するとプロデューサーはさらに大きく胸を張り、
「俺は、インディーズがメジャーデビューするときは嬉しいけどね」
 懐から、MDを一枚取り出した。

『いおりんの嬉しハズカシ成長の記録〜ボイス編〜』と書かれていた。

 ひょっとして。

「…ねえアンタ、それ、」
 震える指で見るも惨たらしいMDを指すと、プロデューサーは喜色満面の笑顔をうかべ、
「おお、ダンス編は車の中。ヴィジュアル編はうちのプレーヤーに突っ込んであるな。それに―――」
 そう言うと、プロデューサーは楽屋の隅に置いてあった自身のバッグからデータがパンパンに詰まっていそうなDVDを3枚ほど取り出した。
そのどれにもあの無残なタイトルが馬鹿丁寧な文字で書かれていて、その副題は、
「デビュー編と、秋頃までのテレビと、正月からのビデオ。見るか?」
 こいつは本当にもう。
インディーズだってメジャーデビューするときは嬉しいという男だ。だったら、つまり、
「ねえ、アンタがプロデューサーやめたらアイドルやめるって言ったら、アンタどうする?」
 笑いながらそう問いかけてやると、プロデューサーは一度笑いをひっこめて、
「プロデューサー的にはそれもいいかなって思うよ。伊織次第。でも―――」
 そこで、プロデューサーは少しだけ笑った。
「いちファンとしては、ちょっと寂しい」



 来月末の予行演習だと思ってろ、というプロデューサーの弁は確かに楽屋を出る前に聞いてはいたが、いざステージ上の出演者控用の椅子の列に交じってみるとファンの多さに圧倒された。
伊織の目の前を埋め尽くすファンの数はもちろん単純に伊織だけのファンではないだろうし、AランクやBランクしかいない出演者の横顔を見る限りではあの海のようなファンの中には他の連中のファンもいるのだろう。
明るく照らされたステージからは真っ暗い客席に座るファンたち一人一人の顔を識別することなど不可能だが、明るいステージの光を反射して爛々と輝くファンたちの目はまるで茂みに潜んで獲物を眺めるライオンのようだと思う。
客席にせり出したステージの最前部では打ち合わせ通りなら伊織の直前の番が歌っていて、伊織も今歌われている歌は街中で何度となく聞いている。
歌の節々に抜かりなく決めるアピールの度に客席からは歓声が上がっており、そのどいつもこいつもが猛禽の光を湛えた瞳を隠そうともせずに舞台の真正面をじっと見つめている。
不安に思って視線だけを舞台袖に向けると、プロデューサーは両手を組んで前の番を黙って見ていた。
 あの駐車場では分からなかった「世界」の細部が、目の前にあるのだと思う。
 プロデューサーも、この「世界」にいるのだろうか。
 正直に言えば実感が湧かない。今まですぐ横にいた奴が4月からあの「世界」にいるなど想像しろと言う方が無理だ。
12月のあの駐車場で見た「世界」はもはや別世界であって、いかにプロデューサーがファンであろうともこの「世界」に交じっているところを伊織は想像できない。
まるでジャングルに迷い込んだような気がして伊織は客席から見えない膝上の掌をギュッと握りしめる。

 プロデューサーもまた、ファンだと言った。

 なるほど、ならば「世界」をいらないと言ってしまったらプロデューサーの居場所がなくなるような気がする。
プロデューサーの弁を一から十まで信用するならば4月からあの変態は「世界」の方から「水瀬伊織」を見上げる側になるのであって、それならば確かに「水瀬伊織」が「世界」を拒絶するのならば確かにハブりの構図にはなる。
 が、そこではない。
 それならば確かにプロデューサーは自分を見ていてくれるとは思う。
が、その構図ではプロデューサーは自分の横にいることはない。

 いなくなりはしない。ただ、横にはいない。
それがやはり、途方もなく寂しい。

 前の番が最後の見せ場を演出する。ファンの声がひときわ大きくなり、しかし伊織はそれを聞いてはいない。

 伊織は思う。
プロデューサーが最初からファンだったというのなら、そしてこれからも「水瀬伊織」のファンであり続けるのなら、プロデューサーとの「水瀬伊織」との絆は切れない。
が、それはどう考えてもプロデューサーから自分へ向けての一方通行の絆であり、いかな変態とはいえプロデューサーが今目の前で爛々と眼を光らせるファンたちの中に埋没したら自分がプロデューサーを見つけるのは無理な気がする。
 そこで、伊織は自嘲気味に口元を歪めた。
 結局自分は何一つ変わらなかったのだと思う。
あの思い出すも嫌だった入社前のあの無力感を強気の姿勢で隠していたあの頃と、今の自分を比べて何か変わったところは恐らくないのだろう。
今にして思えば初任給だってそうだ。
初めての給料は3000円で、「水瀬伊織の価値は3000円だ」と言われた気がして、「水瀬伊織は0の側だ」と言われた気がして、あの時は本当に腹が立った。
なぜ腹が立ったのか―――今にして思う、きっと私は自信がなかったのだろう。
「水瀬伊織は1の側だ」と誰かに言って欲しかったのに、心の奥底でそれを求めていたのに、やたらに軽い封筒から出てきた3人の夏目漱石を見て「ああやっぱり」と思ってしまったのだろう。
あの時自分はきっと、14年で体の芯に染み付いた強気の態度で耐えがたい無力感に耐えようとしたのだろう。
 今だから分かる。
あの時の自分は誰かに「水瀬伊織は1の側」と言って欲しくて、しかし自分の事を信じられなくて、塗り固めた強気の姿勢のままで野口英世を3人まとめてユニセフに託したのだろう。
 そして、一年たった今、やはり自分は自信が持てないのだと思う。
「こんな世界いらない」と言ったのは自分だ。
だからこそ、プロデューサーのいる「世界」からプロデューサーを見つけられる自信がない。

「―――さあ、続きましては日本人なら知らなきゃおかしい! 昨年春の電撃的なデビューから世界を席巻し続けてきた歌姫の登場です! 今や学生だけでなく大人も口ずさむポップス『Here We Go!!』を歌うのは、『水瀬伊織』です!!」

 突如起きた轟音に、伊織はまさしく度肝を抜かれた。
 自分の番が来たと気付くのに数瞬掛かり、悪い夢でも見ているかのようにあたりを見回し、控えの椅子から立ち上がろうとして自分の膝ががくがくと揺れているのに気がついた。
ふと気付くと前の番がいい汗かいたとばかりに笑顔満開で控えの椅子列に座ろうとしているところで、伊織と目が合うと前の番は不審そうな眼で伊織を見た。

 お前の番だ、と言われていた。

 足がガクつく。
伊織は誰にも見られないように掌をギュッと握りしめ、いまやジャングルの入り口のようにしか見えないステージに向けて歩き出す。
「こんな世界いらない」と言ったのは、紛れもない自分だ。
プロデューサー以外の誰にもあの失言を聞かれていない事など何の免罪符にもならない。あの昼間の駐車場で思った事は紛れもなくあの時の自分の本心だと思う。

 そんな自分が、一度はいらないとすら思った「世界」に認められるのだろうか。
「水瀬伊織は1の側」と、誰かが認めてくれるのだろうか。

 いつもの倍は時間をかけてステージに立つと、途端に恐ろしいほどの声が伊織の鼓膜を揺らす。
怒号とも怒声とも嬌声ともつかない声が伊織の両の鼓膜を何の容赦もなく抉る。
「Long-Time」を抜けた時もその前の大規模オーディションを抜けた時も大して緊張はしていなかったはずなのに、今は両膝の震えを筋肉を硬直させてバレないようにするのが精いっぱいというのが我ながら笑える。
 最早笑うしかない。
目の前に広がるのは最早アマゾンの秘境と全く同じで、伊織の耳に届くファンからの声はまるで密林の奥深くで異物の侵入を防ぐ蛮族の戦声か聖域を守ろうとする猿たちの怒声にしか聞こえない。
あまりの恐怖に耳を覆いたくなり、しかし右手に持ったハンドマイクの重さがそれすらも許してくれず、伊織は堪らずにアイドルとしてもっともやってはいけない事をした。
 伊織は、思いきり首を回して、舞台袖にいるプロデューサーに視線を送った。

 その瞬間、音が消えた。

 全く何の前触れもなく薄暗い客席からの声が突然聞こえなくなった。
が、何か妙だ。90度右に回った視界の隅ではまっすぐにこっちを見ているファンが口を大きく開けている様子が映っている。
それなのに何も聞こえてこない。
音だけが蒸発したような「世界」で、伊織の視線をまっすぐに受けたプロデューサーは、

今の伊織には決して聞こえる事のない声を出そうと口を開けた。



―――伊織、

 プロデューサーは一度だけ口を閉じ、再び大きく口を開けた。

―――いつも通り、な。

 決して聞こえるはずのない声は、伊織の耳にはっきりと聞こえた。

 途端に音が戻る。
誰かが「いおりーーーん!! 愛してるーーーっ!!」と叫んでいる。
誰かが太鼓を鳴らしている。
足を鳴らしだしたのは客席最前列から数えて6列目の右から9番目の席あたりで、そこから津波を思わせる足鳴りは瞬く間に客席全体を覆っていく。
もはやそこに怒声はなく、アマゾンの蛮族の声も未開の聖域を守ろうとする猿の声も聞こえず、そこには歓声と嬌声と期待に胸ふくらませるファンたちの熱い声援だけがあり、誰かが縦に振り出したダイオードバーのほの暗い明りはまるで伊織を励ましているかのようだった。

―――ああ、そっか。

 イントロの掛かり出したステージの真ん中で、伊織はこう思う。



―――アンタ、そこにいるのね。



 何もかも手に入れてやる、と意気込んで業界に殴り込みをかけた。
 何も手に入らないかもしれない、と思った8か月だった。
 プロデューサーがいればそれでいい、と思ったのは10月のあの花火の夜だった。
 だから、プロデューサーを失うのが怖かった。

 やっと分かったと思う。
何も失ってなどいないのだ、という事がやっと分かった。
伊織の顔に獰猛な笑顔が浮かぶ。自分は何一つ失ってはいない。
「世界」は何度瞬きをしてもそこにあり、そしてプロデューサーは「世界」の中で伊織を見ている。

 今なら、思う、

 プロデューサーが「世界」のどこにいても、私ならきっと見つけられる。



 伊織は大きく息を吸う。
会場を埋め尽くす何万ものファンの息使いが伊織とシンクロする。
何万ものファンが織りなす「世界」が伊織と一緒に息をしている。
 今ならきっとプロデューサーも一緒に息を吸っているに違いなく、「世界」に備え付けられたスピーカーが歌うイントロはきっと「水瀬伊織」と「世界」との橋に違いなく、そして橋を渡った先にはきっとプロデューサーがいて、水瀬伊織をきっと見ている。

 肺の限界まで息を吸い込み、イントロを聞き、「世界」の熱を感じ、
 伊織は、大きく、





 歌を、








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