ロストワン (13)

「―――だから、このドームじゃ人入らないじゃない! アンタ話聞いてたの!?」
「聞いてます聞いてました。だから言っただろ、このドームじゃスピーカー性能が良くねえんだっつの」
 営業課の中ほどに位置するドーム資料がうず高く積まれたプロデューサーの机の前はまさしく戦争の様相を呈している。
何よりもまずドームの収容人数を第一に考える伊織としては、目の前に8万人収容のドームがあるにもかかわらず5万人収容のドームを第一候補として推してくるプロデューサーの精神が信じられない。
「何よ、スピーカーなんて私が本気出したらいらないくらいなんだから」
「お前ひとりで3時間歌うんだぞ? マイク使わなかったら喉潰れちまうよ。それとも何か、お前本番の最中にオレンジジュースでも持ち込む気か?」
「いいじゃないそのくらい。アンタステージに持ってきなさいよ」
「俺がデビューしたって仕方ねえんだっつうの」
 もう3月も半ばだというのに未だに単独ライブの会場が決まらない。
年度末となるこの時期にライブに耐えうるドームはもはや殆どが予約済みではあるが、幸か不幸か伊織に見せる前にプロデューサーが分別した候補となるドームの殆どは常識に照らせばアイドルの単独ライブに用いるにはデカ過ぎて予約が入っていなかった。
が、それは別に今後それらのドームが予約で埋まらない事を保証はしない。
プロデューサーとしてはこちらの意向を反映させつつもそれなりの大きさのドームで単独ライブを行おうという腹なのだろうが、当の伊織本人はプロデューサーが提示した候補の中で最も収容人数が多いドーム以外には目もくれない。
「とにかく、私はこのドームじゃなきゃ嫌よ。絶対嫌」
「そう言われても。じゃあ伊織、お前の考える単独ライブに必要なドームって何よ」
―――「世界」が入るドーム。
 口をついて出ようとした単語を伊織はすんでのところで飲み込んだ。
そんなものは存在しない。あえて言うなら地球そのものだろうか。

 「水瀬伊織」の活動は3月末の単独ライブを持って一区切りとなる。
1年間で獲得したファンを前に1ユニットでライブを行うのは世間にも広く知られた765プロデュースの一つの節目であって、もはやミーハーなファンだけでなく普段はあまりテレビを見ないパンピーたちをして第二の紅白とまで言わしめるようになった年度末ライブの会場が3月に入ってまで決定しないというのは過去にない事態である。
 そして、当の「水瀬伊織」はと言えば、単独ライブを迎えるにあたって一つだけ何が起きても譲らないと心に決めた条件がある。
「人がいっぱい入るところよ」
「―――だそうですよ、小鳥さん」
 首を右に回したプロデューサーに倣って左の方を見ると、机の上にユンケルの空箱を5箱横倒しにした小鳥はまさにゾンビのような形相でこっちを見てきた。
「小鳥、他にないの?」
「…どうせ私は能無しですよーだ」
 ドームの選別はもちろんプロデューサーが主体となって行っているのだが、当然Aランクアイドルとなった伊織のプロモーションをしながらライブ会場の候補地を集めることは一人では至難を極める。
昨晩から頭をガリガリ掻きむしりつつドームの資料を集めるプロデューサーの様子を見た小鳥は親切心から手伝いを買って出たのだが、そもそもドームは基本的にライブを目的として作られていないところが大半であり、やっとのことで見つけたライブに使えるドームは前述の通りほぼ全てが予約で一杯というのはなかなか堪えるものがある。
朝方に掛けて社内LANを幾度となく更新し続けてなんとか数件の会場候補を見つけられたはいいのだが、音響や収容人数の観点から無残なまでに切り捨てられていく候補群は小鳥をして「飲まなきゃやってられない」精神状態に陥らせるには十分な効果を持っていた。
 どうせ私は嫁き遅れですよーだ、とよく分からない愚痴を零しながらプロデューサーが買ってきた6本目のユンケルの蓋をねじり出した小鳥から早々に視線を外してプロデューサーを見ると、プロデューサーはまっすぐにこっちを見ていた。
「具体的には何人入ればいい?」
 60億人。
「―――そうね、最低6万人くらいね。ホントはもっと入ってほしいけど、それ以上は譲らないわ」
「5万じゃだめか」
「ダメ」
「そうか」
 それきりプロデューサーは何も言わず、小鳥と協力してかき集めたドームの資料に目を落とす。
伊織もそれに倣って渡されたドームの資料に目を通すが、収容人数6万人以下のドームを切り落としていくと手元にはやはり8万のドームしか残らない。
「ねえ、何でこのドーム駄目なのよ」
 ぺらりと8万ドームの資料を見せると、プロデューサーは2度ほど瞬きをして、
「だから、そのドームだとスピーカーのボリューム的に最後尾まで声が届かないんだよ。伊織だって後ろがガラガラのドームが節目なんてヤだろ?」
「アンタの仕事でしょ、何とかしなさい」
「朝から晩まで馬車馬のように働くプロデューサーにそういう事言うかいおりん。おにーさんは実に悲しい」
 そういうと、プロデューサーはへらへら笑いながらスクリーンセーバーの働いたパソコンに喝を入れた。
「起こしたら子々孫々に至るまで呪います」という不遜極まりない文字が画面の中を飛び跳ねるという精神構造を疑うスクリーンセーバーはマウスの衝撃に打ち砕かれ、画面に社内LANに繋がりっぱなしのブラウザが関東近郊のあらゆるドーム会場の予約状況を一望できる営業部虎の子のイントラ画面が表示される。
プロデューサーの肩から覗き込むように画面を見るとカテゴリがドームでサブカテゴリが収容人数5万人以上のドームの予約状況が一覧になっていて、その殆どに「予約済み」の赤いマークが付いていた。
―――結局、何一つ自分の思い通りにはならなくて、
 つい先日の良からぬ考えが抜かしていた言葉が脳みその裏側で再生された。
伊織はぶんぶんと頭を振る。
 伊織だって別にただ歌うだけなら1万だろうが5千だろうが構いはしない。
レバノンだろうがチェチェンだろうがどこでだって歌ってやろうと今にして思う。
 が、今回は話が別だ。
何せ今回のライブは儀式である。プロデューサーを「水瀬伊織」の傍から「世界」の側に笑って送り出すための特別な儀式だ。
ならばプロデューサーに「世界」を改めて見せる必要があると思う。
「水瀬伊織」の横を離れるプロデューサーが安心するように、どれほど大きな「世界」でも「水瀬伊織」が輝いていられると伝えるために、
プロデューサーがどこにいたって自分はプロデューサーを見つけられると証明するために。

 プロデューサーがどこにいたって見つけられる自信が、証拠に裏打ちされた事実だという事を証明するために。

 それなのにこのバカと来たら、
「ほらやっぱり6万人のドームなんて空いてないじゃない。やっぱりこのドームよ、スピーカーなんて外付けのやつ使えばいいじゃない」
「あのなぁ伊織…、」
「―――外付けの大型スピーカーなんて借りたら、プロデューサーさんのただでさえ大変なお給料が飛んでっちゃいますよー」
 言い辛そうなプロデューサーの弁を、もはや血尿間違いなしの小鳥が引き継いだ。
伊織は小鳥の表情を見て言葉に詰まり、ついでプロデューサーに向き直る。
「いや別にそれはいいんですけど。外部スピーカー借りると音割れとかマイクとの整合とか上手くいかない事が多いんですよ。出来れば気持ちよく歌って欲しいじゃないですか」
 もっとちゃんと調教しておけばよかった、と考えていたのは一体いつだったろうか。
「あーあー、いいなー伊織ちゃん、本当プロデューサーさんは伊織ちゃんに甘いんだから。ねえ知ってます? プロデューサーさんね、この間社長に」
「小鳥さん」
 小鳥の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をしたプロデューサーを見て、伊織は純粋に何だろうと思う。
「…社長に何よ」
「小鳥さん、それ以上言ったらこの間の飲み会の写真ばら撒きますよ」
 伊織はプロデューサーにちらりと横眼を流し、ついで小鳥の方を向いた。
 小鳥は実にどす黒い目でいやらしい笑い方をしながら、マウスをカチカチとクリックしていた。
「この間社長にですね、『来年も伊織のプロデューサーやらせてくれ』って頼みこんでたんですよー。そりゃもう凄い剣幕だったんだから」
 ば、と音すら立てる勢いでプロデューサーの方に首を向けると、プロデューサーは実にバツの悪そうな顔でそっぽを向いていた。
ほんの少しだけ口元がニヤけ出し、伊織は慌てて口を噤む。
「あーあー、いいなー伊織ちゃん、私も誰かにそんな風に―――」
 そこで、そこらの酔っぱらいよりも性質の悪い笑い方をしていた小鳥が突如として言葉を止めた。
「…ねえ、それホント?」
「いやいや、小鳥さんは実に多彩な妄想癖を持っていてだな、」
 伊織は思い切り大股の一歩をプロデューサーに向け、後ろを向いていたプロデューサーの首を思いきりロックする。
「ほ、ん、と?」
「伊織苦しい苦しい伊織ちょっとタンマタンマ極まってる」
―――1、だ。
 多分本当だと伊織は思う。
あの日あの駐車場で1と言ったプロデューサーの事だ、きっと駐車場に上る前に社長と何がしかの交渉をしようとしたに違いない。
おそらく交渉は失敗したのだろうが、もはや伊織にとってそこは問題ではない。
 プロデューサーもまた自分と一緒にいたいと思っていてくれたことが、伊織には純粋に嬉しい。
「―――ねえ、伊織ちゃん、」
 嘘つきにヘッドロックをかけたまま小鳥の方を見ると、ブラウン管モニターに顔の下半分を隠すようにこちらを見上げる小鳥と目があった。
「6万人以上なら、いいの?」



 キャンセルを確認した後、滑り込むように予約したドームは「Long-Time」後の収録に使った会場だった。
伊織は控室で温いオレンジジュースを一舐めし、楽屋にすら響いてくるファンの足音と嬌声を椅子の足越しに感じている。
発売後即完売したドームの予約チケットを手に入れられなかったファンたちの中には大して量もない当日券を購入するために2日並んだ猛者もいるらしく、伊織が裏口から会場に入る際には正面から阿鼻叫喚の叫び声が聞こえていた。死人が出なければいいが。
「どうしたいおりんニヤついて。何か面白いものでもあったか?」
「アンタの顔」
「マジか。うわ嬉しいな本当ありがとう伊織」
 笑いながら死んじゃえと言うと、プロデューサーはへらへら笑いながら伊織の横に腰を下ろしてニヤニヤ笑いながら懐に手を突っ込んでボロクソになった今日のスケジュール表を取り出した。
ライブはあと30分ほどで開演を迎え、3時間の後にプロデューサーはセコンドを降りることになっている。
 もう少しブルーな気持ちになるかと思ったが、伊織は自分が驚くほど落ち着いている事に気がついた。
「うん、面白かった。あんた芸人になったら? きっと売れるわよ」
「いおりん、男はそう簡単に自分を安売りしたりはしないのだよ」
「へえ」
 笑いながらそう言ってやると、プロデューサーは本人的には格好良いつもりなのだろうかニヒルな笑みを浮かべる。
が、実に様になっていない。
堪え切れなくなってあははと笑うと、プロデューサーは表情をふとあの夕闇の駐車場のそれに変えた。
「楽しかったか?」
 何が、とは聞くまでもなかった。
「充実してたわね」
 そうか、とプロデューサーは笑い、表情を崩さないまま伊織に向けてこう問いかける。
「アイドル、どうする?」
―――私がアイドルやめるって言ったら、アンタどうする?
 伊織は問いかけに一瞬だけ笑いをひっこめ、穏やかな表情を浮かべた。
「内緒。それより、あれホントなの?」
「何が」
「ドームを決める時の小鳥の話。あんたが社長に直談判したって」
「ああ、」
 溜息のような声を漏らしてプロデューサーは椅子の背もたれにだらしなく体を預け、天井をぼんやりと眺めた。
階層的にはステージの下に位置する楽屋の天井からは開演までまだ間があるというのに既にテンションは最高潮のファンたちの足音がどかどかと聞こえていて、しかしプロデューサーはそれに何を思う様子もなく口を開き、
「内緒」
「…」
 もう1年間も連れ添ったのだ、プロデューサーがそう答えることくらい伊織とて分かっているし、おそらく答えの検討もつく。
プロデューサーの口から聞きたかったと言えばその通りではあるが、しかしプロデューサーがどこにいようと見つけ出す自信が持てた今の伊織にはプロデューサーのブラフは何の意味も、
「なあ、伊織」
 唐突に、プロデューサーは口を開いた。
「なに?」
「花火の日、覚えてるか」

 覚えている、10月のあの夕闇、夏の残り香と潮の香りと差し出されたまずい焼きそばと、背中越しに感じたプロデューサーの熱。

「うん」

 背中越しに見た白い煙と手に持った「大本営」の重さと、二人で作った「起爆用延長ケーブル」に繋がれた光のタオルを、伊織はまだ鮮明に覚えている。

「そうか」
 そこでプロデューサーは今までの真面目な表情をいっぺんに変え、あの時と同じへらへらとした表情を浮かべて、
「逃げっちまうか?」
 あろう事かそう言った。伊織はにやりと笑って天井越しにファンが起こす地鳴りをどこか眩しそうに見上げ、
「―――それもいいかなって、この間まではそう思ってたわ」
「今は、違う?」
 一年間も連れ添ったのだ、プロデューサーだって伊織の答えは分かっているはずなのだ。
分かっているはずなのに意地の悪い質問をしてくるあたり、1年間自分のセコンドをし続けてきたプロデューサーはやはりドの付く変態だったのだろう。
伊織は笑う。
「見てなさい、今日のライブ大成功させてやるんだから。アンタ、どうせ袖で見てるんでしょ?」
「ああ。喉が潰れたら袖に来い。オレンジジュース持っててやる」
 そして、ドの付く変態はドの付く変態なりに「水瀬伊織」の今後を心配しているのだろう。
余計なお世話だとちらりと思い、伊織は少しだけ不満げな色を混ぜた声でこう尋ねる。
「そんなに不安?」
「いやーもう胸張り裂けそうだわはっはっは」
「ばーか」
 そうだ、余計なお世話だ。

 あの時の光を、覚えているのだから。
 投げ込まれた光のタオルを、伊織は忘れる事はないのだから。

 投げ込んでくれたプロデューサーを、自分は決して忘れないのだから。

「特等席で見てなさい、私は大丈夫だって証明してあげる」
 言葉に、プロデューサーは笑いながら、
「ま、伊織なら大丈夫か。いつも通りにやれば―――いや、」
 プロデューサーはそこで不意に口を噤み、一度だけ下を向き、ついでどかどかと音を立てる天井を見上げ、
再び伊織に顔を向けたプロデューサーの顔には少しだけ寂しそうな、しかし実に晴々とした笑みがあった。

「―――頑張れ、伊織」

―――ああ、
 この気持ちを、何と呼べばいいのだろう。

「ねえ、」
「ん?」
 伊織はプロデューサーに倣って天井を見上げる。
天井越しに感じるファンたちの声援はとどまることがなく、伊織はぼんやりとプロデューサーが「世界」に混じり行く様を想像する。
ほんの数週間前までは全く想像することができなかったその様は、今はもうはっきりと思い描くことができる。
「ライブが終わったら、」
 それが途方もないほど寂しく、それが途方もないほど嬉しかった。
 伊織は一度言葉を止め、プロデューサーの顔をじっと見た。

「最後に一つだけ、お願いがあるの」




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