ロストワン (エピローグ)

 17の歳の春、伊織はあれから3度目となる満開の桜を新社屋の最上階から見た。
伊織で765のお抱えAランクが6人を超えたことで、社長はついに慣れ親しんだぼろっちいし狭いし汚いしおまけにたるき亭という居酒屋の3階にあった、しかし愛着だけはあった小さな雑居ビルから自社ビルへ事務所を移す決意をしたらしい。
伊織にすれば何をいまさらという感じではあるが、ボイスやダンスのトレーニングルームはおろか収録用のスタジオまでもを腹の中に蓄えた自社ビルの値段を聞かされた時は社長めどこにそんな金をため込んでいたのかと思ったものだ。
 そんな伊織が今いるのは社屋内の収録用ルームに併設された楽屋であり、そこらのドームの控室が裸足で逃げ出す設備を整えた楽屋にはいくつか鏡台が並んでいて、伊織は奥から数えて2番目の鏡台の前で収録に向けた最後の楽譜のチェックをしながら今年の担当となる「プロデューサー」を待っている。
 結局、この3年間は伊織の予想通りになった。
 3月のあの夜からこちら直接あいつと会話をする機会は殆どなかった、と思う。
4月からのAランクと言うのがここまで忙しいとは伊織自身思っていなかったし、忙しさに慣れる頃にはあいつが受け持ったアイドル候補生がAランクに上がったとかで今度はあいつの方が忙しくなってしまった。
忙しさのせいでなかなかアイツに会う事は叶わず、代打的に行っていた週に1度の電話も何とか繋がっていたのは1年後の夏くらいまでだ。
小鳥を介してアイツの様子は常日頃から聞くようにしてはいたが、「元気そうよ」という小鳥の弁を聞く度に会いに行くことは憚られた。あいつが元気ならそれでいい、と思う。

 この3年で伊織はずいぶん背が伸びた。
あいつの伸長など気にしたことはなかったが、昔はあいつの腹くらいまでしかなかった背も今では胸辺りまで届くのではないかと思う。
あいつにプロデュースされていたころを知る連中からは「背が伸びたね」と言われることはままあったが、それにしてもこの3年間の伸びは異常だと伊織自身思う。
誰も自分を見ていなかった、というコンプレックスから解消された結果なら何の文句もないのだが、15から16に掛けて膝あたりを襲った成長痛には随分と眠れない夜を過ごさせられた。
 コンプレックス、

―――変な欲でも持ってたんじゃないか?

 かもしれない。伊織は突然頭の後ろ側で蘇ったあのバカのセリフに少しだけ微笑む。
あいつと過ごしたのはわずか1年ではあったしあれからもう3年も経っているのに、伊織の脳みその中でへらへらと笑うあいつの顔は一欠けらも風化してはいない。
 心の中に、あの日のタオルがまだ残っている。

 それにしても、新しい「プロデューサー」はいつになったらやって来るのだろう。
社長から「楽屋に行かせるから先に収録の準備をしていてくれたまえ」と言われたはいいが、待てど暮らせど新任はやって来ない。
実際のところ、そろそろスタジオに入って喉のアップをしておきたいし初のエンカウントで歌を聞かせて新任の寸足らずの度肝を抜いてやるのも悪くはないのだが、初めて会うはずの「プロデューサー」に与える第一印象くらいはいい方がいいだろう、と判断したのは他ならぬ伊織自身である。
最低でもこれから1年一緒に仕事をしていく間柄なのだ、最初くらいは良い印象を与えた方がよかろう。
 あいつとコンビを組んだ最初の方は、それこそ最悪だったのだから。

 伊織はそこでまだ真新しさが残る楽譜から顔を上げ、うーんと背伸びをし、座り続けたせいで痛くなったケツを椅子から浮かせた。
鏡と正対する位置にはガラスの扉があり、その向こうにはスタジオセットが録音はまだかと伊織を催促している。
 全くだ。
 それにしても遅い。もうかれこれ30分以上はここで待ちぼうけを食らっている。
いい加減スタジオに入ってアップしてしまおうか―――そう思っていたら、ガチャリと楽屋の扉が開いた。
「あ、はじめまして―――」
 そこで、伊織の外向きの笑顔はぴしりと固まった。



―――帰ってくるのよ。絶対。何があっても。



 シックな灰色の、タイトなスーツを着た男だった。
男は両手にペットボトルを持っていて、伊織の姿を認めるとへらへらした笑みを零す。
「いや悪い、ジュース取りに戻ってたら遅くなった。たるき亭の上だった頃が懐かしいな」
 そう言うと、男はずかずかと何の遠慮もなく楽屋に入り、伊織から2メートルの位置でぴたりとその歩みを止め、おもむろにこう切り出した。
「で、伊織はどっちがいい?」
 差し出された両手には果汁100%のオレンジジュースのペットボトルが握られていた。
右の方は汗をかいており、左はまるで「冷蔵庫から出して一晩鞄の中で寝かせておきました」とばかりに生ぬるそうだった。



―――本気で寒気を覚えたところで、ようやくこちらを向いた尻の手にはペットボトルが握られている。100%オレンジジュースである。
ほれと言われて渡されたジュースはしばらく鞄の奥底で放っておかれたのか妙に生温く、それでも緊張からくる喉の渇きは無視しがたくて差し出されたペットボトルの飲み口を一舐め―――



 口が、勝手に動いた。

「…アンタね、この伊織ちゃんに渡してくるジュースが生ぬるいってどういう事よ」

 そして男は、さも当然のような口調でこう言った。

「本番前に冷たいもの飲んじまうと喉が委縮するんだよ」


 2メートルの距離を一足で縮め、まるで体当たりするかのように伊織はプロデューサーの胸に飛び込む。
シックでタイトな灰色のスーツはまるで卸したてのように滑らかで、しかしワイシャツからは懐かしい煙草の匂いがした。
「…背、伸びたな」
「誰かさんが3年間も放っておいてくれたからね」
 プロデューサーの腕が、背中に回った。
「ホワイトデーのお返し、何がいい?」

 伊織は顔を上げる。
目の前には懐かしい、しかし3年間もの間鮮明に覚えていたプロデューサーのへらへらした笑顔がある。

「そうね、―――夏に、」


「何もかも」を手に入れてやろうと思って、伊織はアイドルになった。
 そして今、伊織の目の前で、「何もかも」が笑っている。


 伊織は息を吸う。
あの1年間が頭の中を駆け巡る。
4月から始まり、10月のタオルを思い出し、12月の「世界」を思い出し、3月のあの花火を思い出しながら、


 伊織は、ホワイトデーのお返しを、


「夏に、花火がいいわね」
 穏やかな笑顔を浮かべ、万感の思いを乗せてそう言った。




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