ロストワン  (2)

 殴り込み直後に参加したオーディションの結果によってEランク昇格を果たした伊織のその後の1ヶ月は、伊織にとっては心外な事にほとんどトレーニングという無為な時間に費やされた。
 プロデューサーを庇うわけではないが、伊織が無為に過ごしたと思っている1か月には勿論意味がある。
何事も要は基礎力であり、プロデューサーの見たところ伊織は他と比べても突出した魅せ方の才能はあるがヴォーカルやダンスといった他の評価要素的にはぽっと出に比べればまだマシという程度であり、よって伊織が無為に過ごしたと考えている1か月はプロデューサーによってヴォーカルとダンスで埋められた1か月である。
Eとはいえランカーとなった伊織をオーディション以来あまり営業に出さないプロデューサーの育成方針には伊織以上に社長がやきもきしていたのは特筆に値するが、しかしもちろん765プロはアイドル養成所ではなくプロデュース会社である。
“水瀬伊織”を必要以上に売り込もうとしないプロデューサーの育成方針に伊織自身が疑問を感じだした14回のヴォーカルトレーニングが終わって15回目のダンストレーニングが終わりを迎えようとしたその日、プロデューサーは唐突に伊織に向かってこう言った。
「…そろそろCランク狙ってみるか」
「はあ? アンタ頭でも打ったの? …そういえば季節の変わり目ってかわいそうな人が出るのよね」
「かわいそうとは何だかわいそうとは。何その憐憫の目、ちょっとちょっと」
 期せずして物凄い量の溜息が出た。何がCランクか。こちとら泣く子も黙るEランクである。
プロデューサーの脳味噌がイカれたか誰かが天文学的な発見で実はDというアルファベットは存在しないとでも言いださない限り、EからCにランクを上げる為にはとりもなおさずDという不動の順序を経なければならない。
「まだ私Eなんだけど」
「そうだね」
 間髪入れずに放った下段前蹴りをプロデューサーは予期していたかのようにひらりとかわし、
「もちろんCに上がる前にはDランクがあるけど、ここからはCに上がるまでオーディション一直線で行こうかって事」
「…本気?」
 何せ1月待たされたのだ。
これで嘘だったら本気で蹴ってやろうと考えた伊織の目の前でプロデューサーは大きくふんぞり返り、
「ああマジだね。本気と書いてマジと読むね。というわけで伊織、次の週のオーディションにエントリーするから、この中から好きなオーディション選んで」
 そう言ってプロデューサーはダンスレッスン場の板張りの上に何枚かのプリントアウトを広げた。
どれもこれも最低合格人数は2名であり、どれもこれも最低ラインの予想獲得ファン数が3万人を下らない、というオーディションのパンフレットを前に伊織はぴしりと固まる。
今まで受けてきたオーディションはどれも予想獲得ファン数5000人程度が関の山だ。
突然位が一つ上がった事に伊織は恐怖を覚える。
「な…何でいきなりこんなオーディション、」
 するとプロデューサーは突然懐からポータブルのMDプレイヤーを取り出した。
見るからに安物臭漂うそのプレイヤーの側面を操作し、プロデューサーはやはり10枚ひと綴りで売っていそうなMDをプレイヤーから引っ張り出した。
見てくれはボロボロの安いプレイヤーのくせに、生意気な事にちらりと見えたプレイヤーの上部には赤丸が付いている。どうやら録音可能なタイプのようだ。
まだ夏の入口とはいえダラダラと床に汗を滴らせる伊織を追い越し、プロデューサーはトレーニングスタジオのコンソールにMDを突っ込んで実にいやらしい表情でノイズアンプを弄りたおす。
プロデューサーの右手がすぐに棚に置かれていたリモコンを拾い上げ、赤三角の再生ボタンを押した。
 音が聞こえた。
「…何、これ」
「何だと思う?」
 不機嫌なオーラを隠そうともしない伊織の問いかけにプロデューサーは意地悪い笑顔を崩さない。
不承不承によく聞いてみることにすると、どうやら音は歌のようらしい。
さらによく聞いてみると、これはどうやら伊織が今歌っている「ポジティブ!」らし
「ちょっと待って、これ、ひょっとして」
「おう。1か月前の伊織の声だな」
「なっ、何で採ってるのよそんなもの! 消して今すぐ消して速攻で消して何もかも消して」
「まあそう言うな。ほらあるじゃん、幼稚園の入園式の時にビデオカメラ回しておいて高校卒業する時に見せるってやつ。あれと一緒。人の恥部とは甘美なものよのぅケケケ」
 ダンストレーニングの疲労をものともせずにプロデューサーの懐に飛び込み、伊織は割と本気でグーを見舞った。
面白いように鳩尾にクリーンヒット、一撃で呼吸困難に陥ったプロデューサーはその場に倒れ伏して消え入りそうな声で「いいパンチだ…」と左手の親指を立てて伊織を称賛する。
 欠片も嬉しくない。
「…。隠し撮り?」
「ぉお…ダンス編もあるぞ、タイトルは名付けて『いおりんの嬉しハズカシ成長の記憶〜ダンス編〜』だ。見るか?」
 何のためらいもなくプロデューサーの背中を踏ん付け、くぐもった「おふぅ」という声が聞こえて背中に泡立ちを覚えた。
この野郎マジで社会から追放してやろうかと思ったところで唐突に音が途切れ、変わりにプラスチック保護ケースの中身が回る音がコンソール内から漏れる。
驚いてコンソールを見ると、とんでもないスピードでコンソールの曲番が早送りされている。
どうやら足元の変態が腹に抱えたリモコンを押しているらしい。
キュラキュラという履帯のような音が途切れた時、コンソールには「14」という数字が表示されていた。
 歌が聞こえた。
 今度の歌はずいぶんまともだ。
さっきはいきなりすぎて単なる音だとしか認識できなかったが、こちらは最初から歌と判断することができる。
しかし、そもそもここに収められているのは一月分の伊織の過去の歌声だし、今更何を聞くことがあろうかと思う。
大体にして、もし本当に一ヶ月分のヴォーカルレッスンが収められているのなら今垂れ流されている自分の歌は変態の言葉を借りれば恥部である。
このド変態と罵ろうとしたところで、変態の体がのそりと動いた。
「気付かないか?」
「アンタがドのつく重度の変態だっていう事なら十分に分かったわよ」
「生まれいずる人間は誰しもが少なからず変態なのだよ伊織君。哲学だ哲学」
 そう言うと、イカレポンチは再びリモコンを動かしてコンソールの電子表示を数字の1に合わせた。
とたんにコンソール併設のアンプががなり立て、伊織はもはや何をしてもこの紙一重に人の摂理を学ばせることは不可能だと悟る。
「よっく聞いてみろ。もう一回」
 よって、伊織はそれ以上変態に向ける言葉を思いつかず、渋々とコンソールから流れ出る習作真っ只中の自分の声に耳を傾ける。
 聞いているうちに、伊織の表情がどんどん曇っていく。
「どうよ」
「…どうもこうもないわよ。良くないわね」
 変態はさておき、伊織は結構デモテープ版のポジティブを聞いている。
所詮デモテープはデモテープであり、己の目指す音楽とは結構な開きがあるのが常ではあるのだが、プロデューサーに言われるまでもなくこの1か月で伊織は伊織なりの音楽を目指したつもりではいた。
要するに、今の伊織から見れば1か月前の伊織の歌は鼻で笑う程度の代物であり、今ぱっと聞いただけで結構な数の問題点が見つかってしまう。
タンギングやブレスタイムはともかくとしても、子音が潰されてしまって何と歌っているか全く分からない部分など論外だと思う。
 憎たらしいのが、これが1か月前の自分の声という事だ。
「…で、今の伊織ならどう歌う?」
「…アンタ、変態でしかもサドって社会的に救いがないわよ」
「えー救ってよいおりーん」
「いおりん言うなっ!!」
 渾身の右ストレートを涼しい顔で受け止め、二重苦は再びリモコンを回し始める。
右ストレートがだめならフェイント入れてテンプルを狙おうかと世にも恐ろしい事を考えている伊織の横から、二重苦の笑いの漏れる声が聞こえた。
「今の伊織ならどう歌うか想像しながら聞いてみろ」

 なるほど変態ではあるが、偉そうな態度をとるだけあってそれなりに教鞭の知識はあったらしい。
つい先日隠し採られた自分の歌声を聴き終えて伊織は素直にそう思う。
イメージとの差異は若干はあったものの、おおむねイメージ通りに歌えていることに伊織自身でホッとする。
「どうだ、何となく自信ついたか」
「…でも、前までのオーディションが5000人規模でしょ。いきなり3万人なんて」
 そこまで聞き、プロデューサーは頭に旗でも生えたかのような白痴の如き表情でいきなりMDを巻き戻し始めた。
「わ、分かったわよ! できるんだから、このくらいのオーディションなんて問題にもならないんだから!!」
 するとプロデューサーは肉親が見たら涙を流すその表情のままコンソールの電源を落とし、部屋隅に置いておいた私物のバッグからMDの代わりに歴史の風格漂うデジタルカメラを取り出してコンソール上のテレビに電源を入れ、フロントをパカリと開けてAVケーブルを差し込もうと
「…それ以上やったら本気で怒るわよ」
「何だ残念」
 本気で残念がっているのが気持ち悪い。
プロデューサーは渋々と部屋隅のバッグにデジカメを戻しに行き、ごそごそと再びバッグを漁って伊織のもとに帰って来たプロデューサーの手には果汁100%のオレンジジュースが握られていた。
「一応な、この規模のオーディションを受けるのは初めてだから補欠込みのオーディションに絞ってある。今の伊織なら問題なく通れるやつだから、最初は伊織のよさそうなオーディションを受けようと思ってな」
 伊織にジュースのペットボトルを渡し、プロデューサーはスラックスが皺になることを一切気にしない様子でどかりと床に腰を下ろした。
伊織もそれに倣い、床に広げられたオーディションの勧誘チラシを一枚一枚眺めてみる。
どれもこれも結構な有名どころであり、特にアイドルを追いかけている人物でなくとも学校や会社での話題作りのために一通りは見ていそうな有名なテレビ番組のオーディションも幾つかちらほら見受けられる。
 しばしの黙考の末、伊織は沸いた疑問を口にしてみることにする。
「…私なら、通れる?」
「あらーいおりんいつの間にこんなにおっきくなってー」
「ま・じ・め・に・聞・い・て・る・の!!」
「いはいいはいわはっはおへはわふはっは」
 両頬を思いきり抓り上げると変態の口から翻訳不可能な未知の言語が飛び出した。
脳味噌の裏側あたりに右のグーあたりから追いやっておいた優しさで「痛い痛い分かった俺が悪かった」と言っていると解釈してやると、伊織はじっとプロデューサーを見上げる。
「だから通れるって。問題ないよ。なんだ伊織、変態の言う事は信用ならんか」
「ええそうね。このまま警察に突き出したらお昼くらいは貰えるんじゃないかしら。市民の義務としての詐欺犯逮捕の貢献って事で」
「変態にも人権はあるのだよ伊織君。何か不安でも?」
「ふっ、不安なんてあるわけないでしょ!」
「じゃあ選べ。ほらあと10秒な、じゅーきゅーはーち」
 この変態はやることなすことが何もかも強引である。
慌ててオーディションのパンフレットをざっと眺めるが、伊織にはもはや全てのパンフレットがどれも同じようにしか見えない。
変態にペースを握られているのがどうにも癪だが、とにかく一通りの予想ファン獲得数をすべて見ようと思ったあたりで変態のカウントが「いーち」と言った。
「ちょっ、もうちょっとゆっくり選ばせなさいよこのド変態!」
「いいんだってこのくらいで。大規模オーディションなんて初めてやるんだから直感で選べ。俺を信じたまえ」
「アンタのどこを信じろって言うのよ!?」
 伊織の問いにプロデューサーはふと黙り、音漏れ防止加工の施された穴だらけの天井を見つめた。
今までギャーギャー騒いでいた変態ではあるが、突然黙られると何かしてくるのではないかと思う。
30秒ほどの沈黙の後、身構える伊織に向けて顔を下ろしたプロデューサーは実に哲学的な表情を浮かべてこう言った。
「…変態性?」



「今戻りましたー」
「あ、お帰りなさいプロデュー…って、どどどどうしたんですかその顔!!」
 実に軽快なスキャットにて迎えられたプロデューサーの左頬には紅葉マークの真っ赤なスタンプが付いている。
痴情の縺れですとプロデューサーは笑いながら言い、小鳥に向かって残業申請の紙をぺらりと出した。
「…痴情って…。何かあったんですかっ!? 2丁目ですか!? プロデューサーさんも2丁目に行っちゃったんですか!?」
「何ですか2丁目って」
「いや、あの、社長が前…じゃなくて、本当にどうしちゃったんですプロデューサーさん!? 冷やします!? 温めます!?」
 尋常でない様子の小鳥に若干気圧されつつもプロデューサーは「別にそんなに痛くないんで大丈夫です」とだけ答える。一体社長は2丁目なるところで何をされたのだろうか。
ポットサイロがあれば月まで吹っ飛んできそうな勢いの小鳥に向けて質問をしたい気がするが、帰ってくるであろう答えを聞いてしまったら今後社長の事を一切信用できなくなる気がする。
「いやあ、伊織をいじって遊んでたら一発貰いました」
 余りにもしつこくオロナインH軟膏とボラギノールを薦めてくる小鳥にそう言うと小鳥の表情からは焦りの色が一瞬でかき消え、次いで浮いた顔には「このぺド野郎」と思いきり書いてあった。
そんなに悪い事をしただろうか。
「…プロデューサーさん、私見損ないましたよ」
「だから俺にも人権はあるんですって。申し開きの機会を下さいな」
 プロデューサーはそう言って笑いながら鞄を開き、伊織が選んだオーディションのパンフレットを温度の低い視線を向けてくる小鳥に差し出す。
小鳥はまさに汚物を見る目つきでプロデューサーを一瞥した後に差しだされたパンフレットを受け取り、
「小鳥さん、申し訳ないんですけどそのオーディションのエントリー作業お願いします。俺ちょっと今からでも回れる営業の方当たるんで」
 小鳥は次の瞬間「実はマツコ・デラックスがあなたの実の姉です」と言われたかのような驚愕の表情を浮かべた。
営業先の物色に忙しいプロデューサーに代わって小鳥がオーディションのエントリーをすることはない訳ではないが、それにしても今まで5000人が関の山だったEランクアイドルが突然5万人規模のエントリーをするとなれば驚くなという方が無理ではある。
「ぷっ、ぷぷぷぷぷぷ」
「…小鳥さん、次デビューしてみません? “スキャットアイドル音無小鳥二十●歳”、いやーこれは絶対売れ…はいすみません。申し訳ありませんふざけ過ぎました」
 765の美人事務員音無小鳥の年齢に触れるのは北京広場で毛沢東を“けざわあずま”と発音する程度には危険な行為である。
分かればよろしい、と小鳥は文章では形容しきれないほどに危険な角度をした右腕を下ろし、すぐに般若の表情を不安と心配の入り混じった顔に変え、
「プロデューサーさん、本当に大丈夫なんですか?」
「伊織にはド変態とまで言われました」
「そうですか。いやそっちじゃなくて」
「フォローなしですか先輩」
 小鳥は横を見てふっと笑った後、すぐにプロデューサーに向けてオーディションのチラシを突き付ける。
予想獲得ファン数5万人、合格者2名、オーディション合格者には漏れなく人気音楽番組への出演権が獲得されるという唄い文句の後ろにあるのはまさしくこれから生き別れたデラックスと対面する妹の顔である。
「このオーディション、今までのよりもかなり大きいですよ。伊織ちゃん大丈夫なんですか?」
「いやまあ都合2か月くらいトレーニング漬けでしたからね。そろそろいい具合に味も付いてきた頃かなと」
「…伊織ちゃんはお漬物じゃないですよ」
「念のため合格枠は2人のやつです。伊織が普通通りにやってくれれば問題ありません」
 なおも疑問の払拭されない小鳥を見、プロデューサーは一つ小さくため息をついて鞄から例のデジカメを取り出した。
操作盤を弄って飛び出してきた9cmのDVDロムのタイトルには『いおりんの嬉しハズカシ成長の記憶〜ダンス編〜』と実に惨たらしい字で書かれており、それを見た小鳥の表情が見ていて面白いほどの勢いで変態を蔑む色合いへと変化していく。
「…盗撮ですか」
「何を根拠に。小鳥さんまでそんな事言うんですかまあ盗撮みたいなもんですけど」
 ほぅらやっぱり、という表情の小鳥に「このビデオはダンストレーニングルームに備えてある警備用カメラのロムをコピーさせてもらったものだ」という説明をするだけで30分はかかった。
それでも疑惑一杯の小鳥の顔にプロデューサーはもう一度のため息をつき、
「そんなに不安なら見ます?」
「…伊織ちゃんを信用します」
「俺は?」
「計算ができる変態は一層危ないと思う事にします」
 だから変態じゃないって言ってるのに。
それ以上何も語らずに必要書類にペンを入れ始めた小鳥を見て、プロデューサーもまた首をこきりと鳴らして目ぼしい営業先のドブ浚いに移る事にする。



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