ロストワン (5)

―――ただいま、1件の伝言をお預かりしています。新しい伝言1件目、今日の午後5時13分、

―――音無です! プロデューサーさん、営業すっぽかしてどこに行ってるんですか!?
    こっちにまで電話掛かってきて大変ですよ! 社長もカンカンです!
    これ聞いたらすぐに電話ください! プロデューサーさん!? 聞いてますよね!
    こらあーっ!! 聞いてるのっ!?



 踵を返すように車を急発進させ、あれよあれよという間に首都高を半周走り、湾岸線に乗り換えたあたりで変態は完全に調子に乗ったようだった。
鼻歌交じりにキックダウンで加速し続ける車の助手席はベルトなしジェットコースターの恐怖といい勝負だと思う。
「ちょっと! スピード出し過ぎよっ!!」
「わははははははははははははははははははは!!!」
 何が面白いのかプロデューサーは爆笑しながらアクセルを緩めない。
絶対オービスに引っかかってナンバープレートの写真を撮られていると思うのだが、プロデューサーの楽しそうな表情に高速機動隊や速度制限標識や、所々にある小学校低学年作と思しき「スピード出さずに安全うんてん」と書かれたへたくそなイラスト入りの涙を誘う看板を気にかけている素振りは微塵もない。
「止まってっ! 怖い怖い怖いから止まってえっ!! いやあああああああああああっ!!!」
「さー遊びに行くぞー今日は徹ぇっ底的に遊ぶぞおははははははは!!!」
「いやあああっ! 止めて降ろして、人さらいーーーーっ!!」
 叫んだ途端に車は急減速し、停車反動でシートベルトに締め付けられて冗談ではなく腹が痛い。
願いが叶ったのかと思った次の瞬間、助手席の真向かいのスピーカーが「料金は1060円です」という恐ろしい事を言った。
事実を認識する間もなくすぐに車が再加速、今度は先ほどと逆のベクトルが掛かって伊織の体は大して柔らかくもない助手席の背もたれに抑えつけられる。
「東名っ!! 突入っ!! だーっはっはっはっはっはっはっは「突入じゃなーーーいっ!!! きゃあああああああああーーーーーーっ!!!」っはっはっはっはっはっ!!!」
 気違いじみた加速を繰り返すセダンが先行する数多の車をばんばん追い抜いていく。
恐ろしい勢いで風景が後ろへとびゅんびゅん飛び跳ねていく。
白点線の筈のラインマーカーがもはや白い直線にしか見えない。
翼があったらこのまま空に飛んでいくような気さえする。
目を閉じると音だけが知覚されて恐ろしく、目を開けたら開けたで「140k」の表示を大きく右に振りきった計器が視界に否応なしに飛び込んでくる。
止めろ降ろせと助手席でばったばったと暴れる伊織に気を払うそぶりは一切なく、変態は馬鹿笑いを高らかに響かせながらアクセルを踏み続ける。
伊織の悲鳴と変態の馬鹿笑いと尋常なからざる排気音を響かせながら、時速140Kmオーバーのセダンが南へと突っ走っていく。



 気持ち悪いと思う暇もなかった。
あまりにも乱暴なプロデューサーの運転で連れて来られたのは人気のない海岸で、今だ夏の情景を捨てきれない若者たち相手に気合と根性の商売を続ける海の家の店主以外には誰かがいる気配もない。
もっとも多くの若者たちにとって10月の海とは既にひと夏の思い出の一ページになって久しいのか、伊織の視界に入ってくるのは静かに打ち寄せる波と「かき氷一杯400円」の侘しさ際立つ海の家の旗と、散々っぱら遊んだくせに片づけられずにその辺りに放り投げられたゴミという名前の夏の残滓だけだった。
 現在伊織がいるのはそんな寂しさ漂う浜辺の一角であり、現在伊織がケツを落ち着けているのは変態が車のトランクから出してきた中身が餡子の頭をもつキャラクターのビニールシートの上である。
普通営業活動にはビニールシートなど必要ないはずなのだが、なぜか変態のトランクの中にはビニールシートの他にも大量の打ち上げ型花火と「徳用花火セット」と書かれた明らかに小学校低学年向けと思しき花火が入っていた。
ややもすれば変態は火薬満載の車で議事堂にでも突っ込む気だったのかと思うが、自分でも突飛だと思えるその想像も先ほどの恐怖体験のせいであながち馬鹿らしいと言う事も出来ない。
 今更ながら思うが、あの変態は結構謎な人物ではある。
伊織が事前に変態について知っていたことと言えば、いままで何人ものヒヨコ共をAランクに連れて行った敏腕のプロデューサーであるという事だけだった。
蓋を開けたら結構な変態であり、2ヶ月間にわたってトレーニングを強い続けた紙一重であり、Cランクに上がってからはトレーニングはおろかオーディションすら殆どせずに営業に邁進する社会不適合であり、こちらを弄って遊ぶという実にろくでもない趣味があり、おまけには火薬満載の車両で高速道路を爆走するという犯歴が付いた。謎すぎる。
 その変態は伊織に「寒くないか」と聞いた後にこちらが首を振るのを見て溜息をつき、今は「かき氷一杯400円」を10月に入ってからも気合いで唄う海の家に向かっている。
もうじき日も暮れる時間であり、視界いっぱいに広がる水平線に沈んでいく太陽が穏やかな海面を真っ赤に照らしていた。
 あの変態は、自分の事をどう思っているのだろうか。
 唐突にそんな疑問が脳みその裏側から去来し、伊織はぶんぶんと首を振る。
とたんに恐ろしいほどの疲労が両肩にどっかりと落ちてくることに気づいた。
 疲れている、のかもしれない。
 あんな変態にどう思われていたって、私には関係ないじゃない。
 何せ変態である。
今日の出来事だけを取ってもそうだ、営業先に向かう車の中ではデリカシーの欠片もない言葉を投げかけ、こちらがいくら皮肉を言ってもニヤニヤと相手にすることはなく、おまけに社会人としてあるまじきことに営業をすっぽかして高速道路でテロ紛いの走行行為すらしている。
まさに社会不適合を絵に描いたような変態の暴れっぷりを思い出し、伊織は自分で自分を笑う。
 そうよ、あんなやつにどう思われてたって構いやしないわ。
 疲れているのだと思う。さすがCランクと言うべきなのか、今までせいぜい一日1件だった営業先回りも最近は1日2件がザラになった。
人間疲れているとろくでもない事を考え出すものだと我ながら思う。
視界いっぱいに広がる真っ赤な海を見つめながら、伊織は自嘲気味に笑う。
 世の中には1か0しかないのだと思う。営業をすっぽかし、ここで暮れゆく太陽を眺めている自分は、だったら0の側なのだろうと思う。
思った瞬間に諦観じみた感情が浮かんでくる。

 何もかも手に入れてやろうと意気込んで、Fランクになった。
 何一つ手に入らないのかと思いながら、Cランクになった。
 アイドルランクなど、何の慰めにもならないのだと思う。

 大事なのはバランスである、らしい。
なるほど自分が入社後1か月でFながらもアイドルとしてデビューできたのは自分が765という小さなプロデュース会社に入るというバランスの結果なのだろう。
そうして2ヶ月ものトレーニングを終え、都合4か月も営業先で外向きの顔をし、結果得られたバランスの結果はアイドルランクCという階級なのだろう。
 クソくらえだった。
 アイドルとしての最初の給料は3000円だった。
3000円を得るために1か月のトレーニングを費やした。
1か月のトレーニングを経てすら「水瀬伊織」の客観的価値は3000円であると言われた気がして、腹が立ってダサい地球の言うままに野口英世を3人まとめてぶち込んだ。
 あれからもう、5か月が経っていた。
 自分はあの時から、ずっと変わらなかった気がする。
 受け取った茶封筒の中身に、一度目の大規模オーディションで1位を取った奴らに、二度目の大規模オーディションで1位を取ったユニットに、車内で流された歌に、壁面に掛けられた大型モニターに、「お前の価値なんてそんなもんだ」と、「水瀬伊織は0の側だ」と言われているような気がした。
 もう、味方なんていないような気がした。
 あの変態は、自分の事をどう思っているのだろうか。
 あの変態もまた、「水瀬伊織の価値は3000円だ」と思っているのだろうか。
 あの変態もやはり、「水瀬伊織の価値は0の側だ」と思って
 視界の左から、いきなり焼きそばがスライドしてきた。
驚いて振り返り、伊織はそこに口から爪楊枝を生やしてたこ焼きを持った変態の笑顔を見た。
「こんなもんしかないんだと。我慢してくれ」
「…いらない」
「多分うまいぞ」
「…」
「たぶんな。たぶん。保証はしかねる」
 不承不承に焼きそばを受け取り、麺に突き刺さっていた割り箸をバチンと割って麺を一本だけ啜る。
不味い。顔に出たのか変態は「悪い」とだけ言い、伊織の横にどっかりと腰を下ろしてたこ焼きを置き、懐に手を入れた。
「いいか?」
 声に横を見ると、変態が煙草のパッケージをこちらに見せていた。
驚く、今まで変態が煙草を吸っているところなど見たことがない。
「…アンタ、タバコなんて吸うの?」
「定時で社内なら吸わないけどな。もう5時過ぎてるし。今の俺はプロデューサーじゃねえからさ」
 じゃあ、今の変態は、一体何なのだろう。
 もう一度いいか、と尋ねてくる変態に向かい、伊織は「煙がこっちに来ないなら」という控えめな条件を課す。
ありがと、という返答の後、ライターの打ち石が要石を擦る音が聞こえ、吐き出す煙がこちらに向かうと思ったのか変態は伊織の背中越しに座り直した。



 不味い焼きそばを食べ終わり、たこ焼きを1つ食べたあたりで後ろの変態が食ったかと聞いて来た。
「食べた」
「味は?」
「最低」
 そーか、といつぞやのように気のない返事を返してくる変態の背中にもたれ、伊織はすっかり日の暮れた海岸を眺める。
海水浴客用に作られた照明が浜辺のところどころを照らしていて、日が落ちたくせにまだ何とか周囲を見回せる浜辺に伊織は自分自身を重ねてみる。

 多分、今の自分の現状は今よりも酷いのだと思う。

「…お。あれ、花火だな」
 変態の声に横を見ると、照明から大分海側に離れたところで頼りない光がびゅんびゅん動き回っているのが見えた。
大方地元の若者が手持ちの花火を振り回しているのだろう。そういえば花火など随分やっていない気がする。
 花火、
「…アンタ、あの花火で何かするつもりだったの?」
 ぼんやり呟いた問いかけに、変態が「なにが?」と繋がりの分からない問い直しをしてきた。
「トランクの中の。テロでもやるつもり?」
 ああ、と得心したような声が後ろから聞こえ、ついでのそりと動く気配がし、
「いや今度な、プロデューサー会で花火でもやろうかって話してたんだ。俺らも全然遊べてないからな、だったら派手なの一発やったろうかって事で、据え置き系のとか派手なのばっかり」
「…何、プロデューサー会って」
「765にも増えたじゃんプロデューサー。今何人いるのかなえーと、」
 後ろで指折り数える気配、
「まあいいや。情報交換とかそういうのの為にあった方がいいだろうって事で、今年の初めあたりに出来たんだよ。内実は遊びグループみたいなもんだ」
「へえ」
「なんだいおりん花火やりたいのか。そーかそーかやりたいのかさあおにーさんにやりたいって言ってごらん?」
 変態はどこまで行っても変態なのだろうか。
ヒヨコを何人Aランクに連れて行こうが、どれほど効果的なトレーニング指導ができようが、やはり変態はその根幹の部分で変態なのだろうか。
変えようとしても変えられない深い深い業の部分で、後ろでタールとニコチンの混じった煙を肺に入れる人物は変態なのだろうか。
 そんな変態から見たら、今の自分は一体何なのだろうか。
「ねえ」
 聞くなら、今だと思った。
「アンタ、私の事をどう思う?」
「どうって、」
 振り返らずに伊織は目を閉じ、背中にじんわりと広がる気配から変態の動きを想像してみる。
伊織の頭の中で、変態はこちらを見ずに頭をポリポリと掻いている。
「えーと、今年14歳でAB型で誕生日が5月の5日で、スリーサイズが」
 肘鉄一発、
「何だこういうんじゃないのか。ちょっと待ってろ、えーと、」
「世の中に1か0しかないんだとしたら、私はどっちの方?」
 ライターを擦る音の後、後ろからは何の音もしなかった。
2本目の煙草が中ほどまで種火に浸食された頃、プロデューサーは伊織に向ってこう言った。
「…お前、何でアイドルになろうなんて思ったの」
 本当に静かな、疲れた問いかけだった。
「聞いてるのはこっちなんだけど」
「それ次第」
 海の音が聞こえる。波が浜辺を洗う音だけが聞こえる。遠くから車の排気音だけが聞こえてくる。
月明かりと街灯の明かりだけに照らされた薄暗い浜辺のビニールシートの上で、伊織は顎を上げて空を眺めた。
「…大事なのはバランスなんだって、小さいころから言われてたわ」
「誰に」
「パパとか、上の兄さんとか。今年の初めくらいから下の兄さんも言うようになって、私はそれを馬鹿にしてた。世の中には1か0しかないんだって思ってた。何もかも手に入れるか、何にも手に入らないのか、どっちかだって思ってたわ」
 3本目の煙を吐く音、
「色んな所でちやほやされたわよ。伊織さん、ご機嫌いかがですかって。当たり前だと思ってた。こんなに可愛い子が、そういう風に言われないのはおかしいって思った。だってそうでしょ。私は水瀬の家の娘で、誰もが認める可愛い女の子なんだから」
「良かったじゃないか」
 意図せずして腐った笑いが漏れた。
そこで良かったと思えたなら、海べりで空を眺める機会など一生なかっただろうと思う。
「でもね、気づいたの。結局、みんな私なんか見てないんだって。私を通して私の後ろばっかり見てるんだって。私が私だけの力で手に入れられたものなんて何一つないんじゃないかって思った」
 後ろが身じろぎしたのが、背中から伝わる熱で分かった。
「笑っちゃうわよ。そう思ったら、今まですり寄ってきた奴らが下心丸出しで近寄って来たんだって思った。なんだが馬鹿にされてるような気がしたわ。結局みんな私なんてどうでもよくて、私を通して私じゃないものしか見てないんだって思った。だから、」
「……」
 後ろがゆるゆると息を吐く気配がし、伊織はそこで初めて後ろを振り返った。
丸めた背広の真っ黒い背中の上から、夜闇に白い煙が立ち上っていくのが見えた。
「だから、私が1になってやろうと思った。何もかも手に入れてやろうと思った。パパを超えて、兄さんたちよりもっともっと上に上って、私はここにいるんだってそいつらに分からせてやりたかった。
 それが、私がアイドルになろうと思った理由」
 何だか妙に気分が良かった。本当に本音の部分を誰かに向けて言ったことで、気持ちの整理がついたのかもしれない。

 自分は単に、誰かに見ていて欲しかっただけなのかもしれない。
 自分は単に、自分の後ろではなく、自分だけを見て欲しかっただけなのかもしれない。
 水瀬伊織が、誰かにとっての0ではなく、誰かにとっての1であって欲しかっただけなのかもしれない。

「そうか」
 返事と同時にプロデューサーは立ち上がり、突然スーツの上着を脱いだ。
突然の事に驚く伊織に構う素振りもせずにプロデューサーは脱いだ上着を伊織の肩にかけ、スラックスのポケットに手を突っ込んで車のキーを取り出しながらこう言った。
「伊織、花火やろう」
「…あんた、話聞いてた?」
 これだけ腹の内をさらけ出したのは初めてだったのに、プロデューサーが言ってきたのは慰めでも励ましでもなかった。
やはりもう、世界には自分の味方は一人もいないのだと思う。
その事実をまざまざと見せつけられた気がして、もはやプロデューサーの突飛な言動に怒る気力さえ出ない。
「聞いてた。だから花火やろう」
「…ねえアンタ、ひょっとして私をここに連れてきたのって」
 思うところがあってそう尋ねると、プロデューサーは疲れたように笑って、
「もちろん、俺が遊びたかっただけ。ここまで来て花火やんないなんて嘘だ」
 そう言った。



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