ロストワン  (6)

 ちょっと待ってろ、と言ったプロデューサーが持ってきたのは設置系花火が大量に入った徳用花火セットと出所を考察するのが不可能なほどに薄汚れたポリバケツだった。
伊織の腰までありそうな高さの徳用花火セットをビニールシートの上に置くと、プロデューサーはバケツに海水を汲んで来た。
離れていた時は感じなかった磯の香りがバケツから漂ってきて、伊織はプロデューサーに非難がましい視線を送る。
「ほれ、これ持ってこれ持って。風向きには気をつけろよ」
「…私、花火やるなんて一言も言ってないんだけど」
 プロデューサーが伊織に向けて差し出してきたのは「大本営」と銘打たれた大きめの手持ち花火である。
伊織の視線にプロデューサーはどこ吹く風と言った表情で、
「えーっと、紙ひもはどこだ紙ひもは。伊織、その辺にないか?」
「……」
 さっきまでのシリアスな雰囲気はどこかに行ってしまったようだった。溜息を一つ付き、伊織は徳用花火セットの中身を漁る。
「目的以外に使用した場合の保証は致しかねます」と注意書きされた紙袋を見つけると、プロデューサーはまさにガキ満点の笑顔で「おーそれだそれ」と言った。
「何に使うのよ紙紐なんて」
「何だお前知らないのか。まあ見てろって…と、そうだ」
 と、ここでプロデューサーは何かに気づいたように、伊織が掛けられるままに羽織っているスーツの上着のポケットに何の断りもなく手を突っ込んで伊織が身じろぎする前にライターを取り出した。
流れるような動作でライターを伊織の目の前にちらつかせ、先にやってろ、と言う。
「…何を」
「あれ、ひょっとしていおりんライターの使い方知らない?」
 小馬鹿にされた様な口調に伊織は息を吐き、ライターを手に取って要石と打ち石をこすり合わせて見せた。
弱々しい火花はすぐにオイルに引火し、伊織の手の中で小さな炎が揺らめきだす。
「知ってんじゃん。先やってろ、俺ちょっと準備があるから」
「だから、花火やるなんて一言も言ってないわよ私」
「やんねえの?」
 顔を上げると、プロデューサーはいつものへらへらした表情で伊織を見ていた。
 こいつはいつもそうだった、と思う。
真面目な顔でこっちを見たのは3000円の一件だけで、それ以外はいつもへらへらと毎日を面白おかしく過ごしていた気がする。
 そういう風に生きられたら、こんな風に悩むことも無かったのかもしれない。
 そう思って、すぐに伊織は自嘲気味な溜息をついた。
 それはない。それは、今までの生き方を否定するという事だ。
今まで「水瀬伊織」が「水瀬伊織」として生きて形作ってきた自分のコアを放りだすような真似は出来ない。
世の中には0か1しかなく、絶対に1の側になると意気込んできた今までの6か月をなかった事にしてしまったら、自分が空っぽになってしまうような気がした。
そうして、1になると意気込んで挑んだ大型オーディションで、「水瀬伊織は0の側だ」と言われた。
Cに上がってからこれまでの4か月に挽回の機会は終ぞなく、今日に至っては遂に車のスピーカーと大型スクリーンという無機物にすら「水瀬伊織は0の側だ」と言われた様な気がした。
 もう、自分の味方はどこにもいないのだと思った。
 味方なんてどこにもいないんだから、今なら何をしてもいいような気がした。
「…やる」
「そうこなくちゃ」
 一度やると決めた以上、躊躇う理由はどこにもなかった。
伊織はプロデューサーのライターで「大本営」の着火部に火を着け、するすると燃える和紙の先端まで種火が進んだ瞬間にカルシウムのオレンジ色が火を噴いた。
何だか童心に帰ったような気がして周りを見回すと、プロデューサーが紙袋の中身を取り出して一生懸命紙束を寄り合わせている。
仏門の修行僧のようなその真面目な表情に伊織は少しだけ笑い、ふとイタズラ心が湧いて火花散る「大本営」の先端をプロデューサーに向けてみる。
「おう、始まったか」
「何作ってるの?」
「起爆用延長ケーブル」
「…変態でサドでデリカシーがなくて、おまけにテロリストね。燃えちゃえ」
「うおっ、あぶねえなお前! わーこっち向けんなって燃える燃える燃える!」
 先端をプロデューサーに向けたまま近寄ってやると、へらへらした顔を一遍に引っ込めたプロデューサーの焦った声が聞こえた。
いつもこっちを弄って遊んでいたお返しだとばかりに更に近寄ってやると、プロデューサーは両手に紙束を挟み込んでこすり合わせながら妙に真剣な目で近寄った分後ろずさる。
 面白くなってきた。
「あら、逃げるのかしら?」
「はっはっはー、いおりん世の中にはTPOという大変便利な言葉があってだね」
 次の瞬間、プロデューサーは器用にも両手をこすり合わせたまま背中を見せて遁走を図った。
2歩ほど離れたところで伊織の顔に獰猛な猛禽の笑顔が浮かぶ。
いままでさんざん遊ばれてきたのだ。復讐の機会がついに訪れたことを伊織は肌で感じ、カルシウムが燃え果ててカリウムの紫色へとその切っ先を変えた「大本営」を片手に闇に逃げ去る白いワイシャツをロックオンする。
プロデューサーも負けてはいない、両手をこすり合わせて仏門に帰依したかの様な格好で浜辺を逃げ去るプロデューサーの様子はまさに俗世の煩悩から逃げる罪人を思わせる。
「逃がさないわよぉっ!」
「わはははははは、こーこまーでおーいでー」
 よかろう。
 向こうから来い、と言ったのだ。こちらに非は何一つない。
伊織は猛然とプロデューサーとの距離を詰めにかかる。
足元が砂浜だから普段より足を取られるが、2ヶ月ものダンストレーニングで鍛えに鍛えた足腰にそんなものは何のハンデにもなりはしない。
喜色満面で高速接近してくる伊織にプロデューサーは本気でビビり、見ていて面白いような走り方で夜の浜辺を逃げ惑う。
「待ちなさーーーい!! 今までの恨み、きっちり晴らしてやるんだからーーっ!!」
「いやお前花火はまずいってちょっとわーーーーーっ!!!」



 「大本営」が燃え果て、伊織がビームサーベルではなくロケット花火という近代兵器を向けてきたことでプロデューサーはようやく白旗を上げた。
マジ死ぬッス、と言いながら戻ってきたプロデューサーの顔には疲労困憊な笑顔があり、何だか凄く気分が良かった。
「…お前な、花火は…危ないから、人に…向けちゃいけないって…習ってないのかよ」
「変態に向けちゃダメとは聞いてないわねぇ」
 まさに魔女狩りの発想である。
ここ最近見ることのなかった伊織の笑顔にプロデューサーは息切れしながらも困ったように笑い、呼吸を整えながら件の「起爆用延長ケーブル」とやらを伊織に見せた。
が、どうも「起爆用延長ケーブル」という危険な臭いのする単語に比べて目の前に出された紙紐は随分貧弱に見える。
というより、これでは単なる紙紐だ。
合計4本ある紙紐は何枚かの和紙をより合わせて作ったのか、紙紐は薄暗い夜の光にも赤と黄色ともう一色よく分からない色のブレンド色を細くて長い裸身に惜しげもなく晒していた。
「何に使うの、それ」
「ああ、手伝ってくれ」
 そう言うと、プロデューサーは徳用花火セットからいくつかの設置型噴出花火を取り出し、無造作にビニールシートの上に投げ出した。
4つほど取り出したところで「これでいいか」と呟き、一纏めにされた部分を伸ばせば1mくらいにはなりそうな導火線を本体の側面から剥がし取る。
プロデューサーに倣って伊織も投げ出された花火を拾い、横にセロテープで無造作に貼り付けられた導火線を剥がす。
「サンキュ。剥がしたら導火線にケーブルをだな、」
 プロデューサーは伊織に見えるように導火線とケーブルをより合わせていく。
どうやら「起爆用延長ケーブル」とやらはその名の通りただでさえ長い導火線を延長する役割を担うようだ。
 少し考えて、
「何かそれ、時限爆弾の時計の針を巻き戻してるみたいね」
「うまい事言うな。テロに使えるぞ」
「牢屋にはアンタ一人で入ってね」
「えー一緒に入ろうよいおりーん」
 傍から見たら過激派を疑われる会話をしながら、プロデューサーは「ケーブル」を手際よく導火線により合わせていく。
伊織もそれに倣って手に取った噴出花火に「ケーブル」をくくりつけ、あっという間に4つの噴出花火に4本のカラフルな尻尾がついた。
上出来、とプロデューサーは笑みを零し、最後に4本の尻尾の先をまとめてお手製の時限延長済爆弾が完成する。
プロデューサーはビニールシートの一辺一辺に等間隔に噴出花火を一つずつセットすると、伊織に向ってこう言った。
「イッツ・ショーターイム」
 最早変態の変態的発言に突っ込む気は毛ほども起きず、背中側で変態がライターでケーブルに火を付けた気配だけを感じた。
伊織はぐるりと周囲を見回し、ビニールシートを取り囲むように配置された噴出花火を一つ一つ眼で追おうとする。
が、月明かりと街灯の手を借りてももはや置かれたはずの噴出花火は闇の中にその姿を消しており、ケーブルはそんなに長かっただろうか、とぼんやり
 バチ、という音を立てて、思った以上に近くから光の雨が降ってきた。
唐突に引火した4つの噴出花火は狙いを外さずに殆ど同時に点火され、4方から降り注ぐナトリウムの黄色とストロンチウムの赤と銅の緑とリンの青が暗闇に慣れた目に痛いほどの光量で伊織とプロデューサーを照らしている。

 綺麗、だった。

「別に0でも1でもいいさ」
 ややあって、プロデューサーはそんな事を言った。
 見上げると、4本目の煙草を口にくわえたプロデューサーが、どこか遠くを見ていた。
 さっきの会話の続きだとわかるのに、しばらく掛かった。
「…どういう事?」
「セコンドって言ったろ?」
 思い出す、2度目の大規模オーディション。
あの時、プロデューサーは確かに「セコンドも楽じゃない」と言っていた。
あの時、自分は遮二無二1位を取ろうと思っていた。
周りは敵だらけで、誰もかれもが伊織を見下ろしていて、躍起になって連中を上から見下ろしてやろうと思っていた。
 それだけが、目標だった。
 光の雨が降り注いでいる。雨の真ん中で、まるで台風の目のような雨の降らないビニールシートの上で、伊織は言葉なくプロデューサーの顔を見ている。
「0だろうが1だろうが、俺は伊織のプロデューサーだからな」
 自分は単に、誰かに見ていて欲しかっただけなのかもしれない。
 自分は単に、自分の後ろではなく、自分だけを見て欲しかっただけなのかもしれない。
 水瀬伊織が、誰かにとっての0ではなく、誰かにとっての1であって欲しかっただけなのかもしれない。
「伊織は、1になりたいんだろ?」
 自分の上に誰かがいて、自分を見下ろしているのが嫌だった。
「お前に価値なんてない」と言われているような気がしていた。
 自分だけの力で何もかもを手に入れればきっと、その「誰か」が自分の後ろではなく、水瀬伊織を見てくれるかもしれない。
 そう思ってFランクになり、その翌日からCランクに至る今日まで「何もかもを手に入れられる」と思えた事は遂になかった。
「伊織がヘタりたくなったらタオル投げんのが俺の仕事だからな」
 ヘタりたくなっていたのかもしれない。
周りには敵だらけで、無機物にすら「無価値」と言われて、息をしていい場所すらなくして、辿り着いたのがこの浜辺なのかもしれない。
よろめいてリングの隅まで追いつめられて、自分は光に囲まれたこのビニールシートの上にいるのかもしれない。
 だとしたら、プロデューサーが投げたタオルとは、前後左右を色とりどりの光で照らす花火の事なのだろう。
「…綺麗なタオルね」
「どうせなら綺麗な方がいいだろ。もうちょっとやるか?」
 プロデューサーの問いかけに、伊織は少しだけ首を傾げる。

 ひょっとしたら、変態は今までずっと「水瀬伊織」を見ていたのかもしれない。
 初めて会った時からずっと、プロデューサーは水瀬伊織を見続けていたのかもしれない。
 いつかタオルを投げなければならない時を、プロデューサーは見てくれこそへらへらと笑いながら、黙って見極めようとしていたのかもしれない。
 もし、そうなのだとしたら。

 光の雨が色を変えていく。色とりどりの光の雨の中、伊織はこんな事を思う。
 果たして、今の自分はプロデューサーが見るに足る自分であるのだろうか。
得な事など一つもないような気がする。
プロデューサーの言い分をすべて信じるのなら、プロデューサーはタオルを投げるという行為のためだけに営業を2つもすっぽかしたという事になる。
後で社長からきつい灸が据えられることは間違いないし、ややもすればプロデューサーの今後に響く可能性だってなくはない。
「水瀬伊織」だけを見て欲しいと思っていたくせに、いざ実際にそうなってみると意外に居心地が悪い。
 大事なものはバランスだという。よかろう。
 天秤の釣り合いが肝要だという。それもよかろう。
 果たして、プロデューサーにとって今日投げたタオルは、「水瀬伊織」はそれらの懸案と釣り合いの取れているものなのだろうか。
「…ねえ、聞いていい?」
「ん」
「アンタ、大丈夫なの?」
「…。こっちの方が大事」
 こっちの方が大事。
 恐る恐る顔を上げると、プロデューサーが疲れたように笑っていた。
思う、おそらくプロデューサーも今日タオルを投げたことで今後自身に何か悪い影響が起きるのは確実だと分かっている。
分かっていて、プロデューサーとして失格ものの営業ボイコットを敢行している。
 こっちの方が大事。
 という事は、つまり、プロデューサーは―――。
「…良かったの?」
「言ったろセコンドだって。これ以上大事な事はねえよ」
「自分のこの後が怪しくなっても?」
 酷い問いかけだとは自分でも思う。
ダメ押しのような質問にプロデューサーはポリポリと頭を掻いて、
「伊織風に言うなら、これが俺の生き方だよ」
 笑いながらそう言った。
「…ねえ、もう一つ、聞いていい?」
「おお。今日のパンツは星柄のトランクスだ」
 全く変態は度し難いほどに変態であり、しかしいつもなら不快に思うその言動に少しだけ笑う事が出来た。
こいつは本当に最初からここまで何一つ変わっていないんだと思えて、何一つ変わっていないやつがタオルを投げたのだと思えて、それが何だか嬉しかった。
「アンタにとっての私は、1と0のどっち?」
「…何だそれ。ヤだよこっ恥ずかしい」
 下着の柄は恥ずかしくないくせにと思い、答えが分かったような気がした。
「教えなさいよ」
 答えなんて分かっているくせに、というプロデューサーの照れたように赤く染まった表情がむくれた子供のように見えて、なんだか背中がくすぐったかった。

 もしかしたら、である。
 自分は単に、誰かに見ていて欲しかっただけなのかもしれない。
 自分は単に、自分の後ろではなく、自分だけを見て欲しかっただけなのかもしれない。
 水瀬伊織が、誰かにとっての0ではなく、誰かにとっての1であって欲しかっただけなのかもしれない。



 水瀬伊織を1と思ってくれるプロデューサーがこれからもずっと横にいるのなら、自分はもう、それでいいのかもしれない。



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