ロストワン  (7)

 あの花火の日から2ヶ月が経ち、インターバル後すぐに参加したオーディションで伊織はやはり2位通過を果たしてBランクへと昇格した。
しかし目標は不動なるAランクであり、今日これから行われるオーディション「Long-Time」を抜けることができれば目標のAランクに一気に近づくことができる、らしい。
 らしい、というのはプロデューサーの弁であり、「そこそこの営業はやったがどの程度効果があったか分からん」というのがその心らしかった。
なるほど最近は営業2にトレーニング1の割合でスケジュールが組まれていたし、正直に言ってCランクの時の方が営業をしていたような気もする。
が、プロデューサーによればそれは仕方のないことで、確かにBランクに上がってからは伊織自身もCランクとは異なる扱いをされることが増えた。
今回のオーディションにしても控室は個室だし、先日まで行っていたドサ回りでもCランクやDランクと言った中堅ランクだった時とは明らかに扱いが丁寧になった、とは伊織も肌で感じている。
 だからこそ、今までと同じような振る舞いをしてはいけないのだ、とも思う。
Cランクの時よりもトレーニングの回数が増えたのはそういう意味合いもあってのことなのだろうし、ドタキャンなどもはや自分からアマゾン秘境の奥深くにパスポート一つで飛び込んでいくのと同じ意味を持つようになった。
 一日中外面を張り付けていなければならないのは正直辛くはある。
最近では仮面を外せるのはプロデューサーの車の中で移動している時だけで、相変わらずその変態性を遺憾なく発揮するプロデューサーの相手をしているときが最近では一番心休まるというのはどういう事なのだろう。
 件のプロデューサーは現在オーディションの最終的な打ち合わせをしている真っ最中のはずで、カメラないけど着替えててくれ、と世間的にとんでもない事を言ったプロデューサーに笑いながら死んじゃえと返した。
へらへら笑いながら会議室へと出向いて行った変態を控室から見送り、トレーニングの時と同じジャージを着た伊織は現在鏡台の前に座っていて、もう何度開いたか分からない楽譜を見ながら最後の歌詞チェックを行っている。

 不思議と、落ち着いている。

 もう遥か昔のことのように思えるあの2度の大規模オーディションの時は、こんなに落ち着いてはいられなかった。
もっともあの時の控室は参加する中堅ランクが一堂に会する雑居房のようではあったし、周りを見ないでいい分はプレッシャーを感じずに済むのかもしれない。
しかし、他者と比べられるというプレッシャーは感じずとも、もう少し1位を狙うためのプレッシャーは感じてもいいのではないかと我ながら思ってしまう。
今回のオーディションは前から受け続けていたオーディションとは違い、1位のみが通過できるまさしく大型の鏡のようなオーディションである。
 やってやろうとも1位で通過してやろうとも思わない代わりに、ただこのオーディションを抜けようとだけ思う。
心がひどく静かな事に伊織自身で驚き、控室に置いてあった急須とポットには一瞥もくれずにプロデューサーが置いて行ったオレンジジュースの蓋を開けてちびりと飲み口を一舐めする。
 温い。
―――本番前に冷たいもの飲んじまうと喉が委縮するんだよ。
 減俸3ヶ月。それが、あの花火の日の後に話したがらないプロデューサーから無理矢理に聞き出したプロデューサーへの罰らしかった。
もっともCランクとは言え営業を2件もすっぽかしたことの被害額は伊織をして馬鹿に出来ない額ではあったし、という事は減俸3ヶ月という罰は765が社として受けた被害に比してそれほど大きな罰則ではない。
実のところプロデューサーに課せられた罰は本人の弁を借りるなら「他に示しがつかねえ」という理由から来た温情成分がかなりを占める罰則なのだと伊織も分かってはいる。
しかし、伊織自身がその罰則に納得したかというと、そんな事は欠片もなかった。
 あれは、タオルを投げるためだったのに。
 そもそもそんな事になったのは自分があの駐車場で「行きたくない」と言ったからだ。
責め苦を負うならば自分とて同罪のはずだ。
あの石頭だってそのくらいの事は分かっているはずなのに、今のところ伊織自身に何か実際的な悪影響は起きてはいない。
いつかプロデューサーが言っていた「極東機関」なるものが本当に実在するのなら今すぐにでも行動を起こしてほしいとは思う。
 要するに、自分は納得していないのだ。
言い出したのはこっちで、という事はつまり自分のわがままでプロデューサーだけが誰かから責められているという構図に納得できていない。
せめてあいつと同じような罰を受けなければ筋が通っていないと思う。
あれほど穏やかだった心が少しだけ波打ったのを感じて、伊織は自身を落ち着かせるように温いジュースを一飲みする。
―――でも飲んでみると中身の旨さに驚く。あれほど舐めきっていたのに、だ。
 温いジュースをちびちびと飲みながら、伊織はぼんやりとあの時のプロデューサーの言葉を思い出す。
舐めるのも大概にしろと思う。
要するに、プロデューサーは伊織の「プロデューサー」であり、つまり監督不行き届きを咎められているのだ。
自分のケツを拭くためにプロデューサーが犠牲になっているような気がして、伊織としては非常に居心地が悪い。
 だったら、自分が出来るプロデューサーへの贖罪は一つしかない。
 そこまで考えたところで、鏡に映っていた扉がガチャリと開き、廊下からプロデューサーが「あー疲れた」と言いながら帰ってきた。
「おかえり。何話してきたの?」
「ただいま。特に実のある話はなかったな。流行に変化はなし。参加者も飛んでない。正々堂々の一騎打ちで最後まで残ってたやつの勝ち」
 そう言いながら、プロデューサーは伊織の隣にどっかりと腰を下ろして配布されたと思しき資料の束を鏡台に置いた。
ちらりと横目でうかがうと今までの資料よりはぱっと見でも厚いと分かる。流石は一流オーディションと言ったところか。
「ふーん。…って事は主力審査員はあのオカマでしょ。私あいつ苦手なんだけど」
「そう言うな。俺だって得意じゃねえよ」
 ちょっと意外に感じて、思ったままを言ってみる。
「変態どうしって相容れないの?」
「奴とは哲学が違うねえ」
 なるほどプロデューサーの変態性が表に向けて遺憾なく発揮されるのに対し、黄色い変態審査員はどちらかと言えば己の内面にその変態性を向けることでオカマというキャラクター性を得たのかもしれない。
世の中変態だらけだ。
「変態の世界も奥が深いのね」
「いおりんなら歓迎するぞ。ともに変態道の頂を目指そうじゃないか」
「お断りよ。あんたが変態道を極めた時には花火の束でも送ってあげるわ」
 笑いながら拒絶してやると、変態はやがてゆっくりと息を吐いた。
「何か、大分落ち着いてるみたいだな。どういう心境の変化よそれ?」
「あんたには教えてあげない」
 正確には教えたくない。この気持ちの正体は察しがつくが、教えてしまったら今後こいつは増長するに決まっている。
「そうか。まあ別にいいけどよ、今回のオーディションは―――」
「予想獲得ファン数10万人、通過は1位のみで、通過した暁にはゴールデンタイム放送の歌番組への出場権を獲得、でしょ? もう覚えたわよ」
 会話の続きを拾ってやると、プロデューサーはぽかんとした目で伊織を見た。
「…もうちっとビビってるかと思ったんだが」
 溜息、
「変態の世界の奥深さの方が驚きよ」
「その様子だともう今日のエントリー表は見てるな?」
 プロデューサーの問いかけに、伊織は何を今更と言った顔で頷く。
今回のオーディションのエントリーは今までのオーディションに輪をかけて豪華だ。
何せ6枠全てがBランクで埋まっているのである。
流石は一流のオーディションであり、予想獲得ファン数10万人は伊達ではなく、Aランクを本気で狙っている連中にとってこのオーディションはまさしく垂涎もののオーディションなのだろう。
最初に見た時は伊織自身も驚いたが、しかしやることはいつもと同じなのだと思えばあまり驚くにも値しない。
 やることは、いつもと同じだ。
 考えていることは、いつもとは全く違う、ような気がする。
 今回のオーディションは贖罪の場だ。自分だけ罪を被って平気な顔をしている格好付けに報いる場だ。
無理やりにでも合格して「あんたのためだ」とでも言ってAランクになってやらないと、自分自身がすっきりしない気がする。
そうだその通りだ、別にプロデューサーのために合格してやる必要なんてこれっぽっちもない。全部自分のためだ。
自分がこの先もプロデューサーの横で胸を張っているために必要な事だ。
プロデューサーに負い目を感じ続けるなんて真っ平だ。
 しかし、そのためにはこのオーディションを抜けなければならない。
という事は、今まで万年2位だった自分が1位を取らなければならない。
 極論をすれば、不安要素はそこに尽きる。
「…でも、私今までずっと2位だったじゃない。何で1位になれないのかしら」
「変な欲でも持ってたんじゃないか?」
 変な欲。
「1位通過を狙うのは当然でしょ。今回はそれ以外不合格なんだから」
「いやまあそりゃそうなんだけど、」
 そこでプロデューサーはうーむと眉根を寄せて目を閉じ、一丁前に何かを考えだした。
伊織は横で唸るプロデューサーに溜息をつき、自分でも何度も考えた「自分が1位になれない理由」について考えてみようとして、ふとある事に気がついた。
 そう言えば、こんな風に考えるオーディションは初めてだ。
今までは周り全部がすべからく敵だったから単純に敵愾心だけを持って会場に突っ込んでいたような気がする。
今にして思うが、それでは特攻隊といい勝負だ。
考えてみれば、今までのオーディションは全て「1位で通過してやる」という我ながら天晴れと言う他ない根性論だけでオーディションを受けていたような気がする。
 ひょっとして余裕ができたのかもしれない、とは思う。
プロデューサーという1に気づいた今、遮二無二「1の側に立ってやろう」という欲が消えたのかも知れない。
「ねえ、練習不足とかそういう線はないのよね?」
「いや、あー…ない、はず」
「なによ歯切れ悪いわね。あれだけ人に練習させといて『ない』って言いきれない訳?」
 ちょっとつついてやると、プロデューサーは薄く目を開いた。
「ない、はずだ。一緒に見たろ、『いおりんの嬉しハズカシ成長の記録』」
 思い出すと同時にむかっ腹が立ち、しかしプロデューサーに向けて握りしめた右のグーを突き刺すことなく伊織は肩の力を抜いた。
「…そうよね」
 行き場のなくなった右のグーをぷらぷらさせながら、伊織はひとり言のように呟く。

『いおりんの嬉しハズカシ成長の記録』という赤っ恥な名前の記録メディアは伊織の記憶しているところ大きく分けて3つある。
それぞれ『ボイス編』『ダンス編』『ビジュアル編』という副題が付いていて、記録媒体としては『ボイス編』はMD、他の2つはそれぞれハンディカムの9cmDVDに収められていた。
初めてその全貌を知って容赦なくプロデューサーの背中をばっしばっしと叩いたのはついこの間やったオーディション前の最後のボイストレーニングの時で、設備の整ったトレーニングルームで頼みもしないのに上映会をやった時はほとほと困り果てた。
あの時のプロデューサーの悪魔のような笑顔は生涯絶対に忘れないと思う。
 が、口に出すのもおぞましいタイトルのそれら『成長の記録』に収められた映像や音声は、その後見せられた今までの「Long-Time」参加者のオーディション検証用ビデオと見比べても贔屓目なしに遜色はないと思う。
プロデューサーがいくら変態とはいえ今の自分が見て戦意を喪失するようならそんなビデオは見せないだろうし、という事はそれなりに今の自分のテクニックは信用されている、と信じたい。
 しかし、という事は、事前に準備できる事以外に伊織が2位に甘んじている原因がある、という事になる。
「ねえ、何かほかに原因になりそうなことない?」
「ある…っちゃある。でも、確実とは言えない」
「何でもいいから言ってみて」
 今回のオーディションは1位だけしか通過できない。
という事は何が何でも1位になる必要があり、そうしなければ自分は今後プロデューサーの横で胸を張っていることができなくなる。
自分だけ罰を受けて平気な顔をしているプロデューサーに向かって「あんたのためだ」とでも言ってやらなければ腹の虫が収まらない。
減俸3カ月を食らったプロデューサーはしかし、あの花火の日から2ヶ月経っても以前と全く変わらない変態性をこちらがうんざりするほど発揮しているし、という事はつまり、プロデューサーは直接の被害を受けているにも拘らず今までと何ら変わりない態度でこちらと接しているという事になる。

 プロデューサーは、あの花火の日から、全く変わっていない。
 事によると、最初に会った時から今まで、全く変わっていないのかもしれない。

「…信用、してるから」
 そっぽを向いて小さくそう言うと、プロデューサーは途端に呆けたような顔をした。
「なによその顔」
「いや別に」
 短くそう言うと、プロデューサーはぷくくと含み笑いを漏らした。可愛くない奴。
「…一応な、これじゃないかって原因はある。でも、」
「確実にそうだとは言えないんでしょ。何でもいいから聞かせて」
「分かった」
 突然、プロデューサーの纏う雰囲気が変態のそれから敏腕のそれに代わった。
「伊織、オーディションの時にどこ見てる?」
「どこって、会場全体よ。あんたの指示も見なきゃいけないし、他の連中も気に掛けなきゃいけないでしょ」
「だよな」
 何を当り前のことを、と思う。
オーディションは3人の審査員が随時受験者のアピールポイントを点数で加算する方式を採用している。
出来るなら受験者が他の受験者の様子を見てアピールできるポイントを決められればいいのだが、当然ながら歌い踊りながらそんな真似は出来ない。
そこで、プロデューサーをはじめとしたアシスタントの出番となる。
アシスタントは適時加算されていくライバルたちの点数を読み取り、受験者に身振り手振りで重点的にアピールするポイントを示唆するという重要な役割を担っている。
が、もちろんここにはペテンがあって、アシスタントたちが感じる他の受験者たちが重点を置くアピールポイントと受験者本人が感じるライバルたちのアピールポイントは当然ながら異なる。
従い、受験者たちがアシスタントの指示に従わないという事も十分に起きうる。
 しかし、これを話題にするという事はつまり、プロデューサーはこちらを信用していないのだろうか。
「でも、私はあんたの指示に今までずっと従ってきたわよ。…そりゃ、ちょっとは守らない時はあったけど、」
 何だか残念な気持ちになってそう言うと、プロデューサーは冷静にも「違う」と言った。
「そこじゃない。伊織、周りを見過ぎててオーディションに集中できなかった事、ないか?」
「…あった、かも、ね」
 オーディションは加点制である。
という事はつまり、合格枠に収まるためには3人の審査員がそれぞれ受け持つ3種類のアピールポイントで他の受験者を上回ることができればよい。
つまり、遮二無二1位になろうと考えていたあまり、他の受験者のアシスタントを追いかけ過ぎていて結果的にアピールが非効率的になってしまった、という可能性は十分考えられる。
もしそうなのであれば、周りを見ながらアピールポイントを決めていたのだから下地が十分であればそれなりの順位には着く事もできるだろうし、検証用のビデオに映った自分とその他を見比べても確かに劣っているポイントがあるとは思わないだろう。
「俺が思いつく要因は、それ、かなあ」
 プロデューサーを初めて紹介された時、社長から言われて知っていたことと言えば今まで何人ものヒヨコをAランクに連れていった、という事だけだった。
蓋を開けたら単なる変態で、こちらを弄って遊ぶという実にろくでもない趣味があり、おまけには火薬満載の車で速度超過をするという犯歴がついた筋金入りの紙一重である。
 蓋を開ければ変態だったが、しかし、こうしてみれば確かにプロデューサーは敏腕なのかもしれない。
「…じゃあ、それが原因だとして、私は何に気を付ければいいのよ?」
「周りを見ない」
 なんだそれ。
 顔に出たのか、プロデューサーはそこでにやりと笑った。
「見るべきポイントは2か所。審査員と、こっちの指示」
 つまり、プロデューサーはこちらに身を委ねろと言っているのだ。
自分で判断はせず、プロデューサーの指示を仰いでアピールポイントを決めろと言っているのである。
「俺の事、信用してくれるんだろ?」
 にかりと笑ったプロデューサーの顔を見ていたら、なんだか顔が熱くなってきた。
「か、…勘違いしないでよ。信用するって言ったのはアンタの変態性よ。別にあんたの事を1から10まで信用したわけじゃ」
「ま、それでもいいや。とにかく、今の俺が考えられる2位の原因はそれだ。間違ってたらすまん」
 これ以上この話題でプロデューサーと話すとまた弄られそうな気がして、伊織は強引に話題の変更を試みる。
「他には? もっと声を大きく出せとか、ダンスのステップを切れ良く、とか」
「…お前な、もうちっと自分の事信用しろよ。その辺りはいつも通りだ。変な欲掻いたってロクな事ねえぞ」
「…アンタ、」
 思えばいつもそうだった。
プロデューサーはいつもオーディションの前に「いつも通り」と言っている。
「とにかく頑張ってこい」とは今回に至るまで全く言われなかった。
そう考えると、プロデューサーは最初から今までずっとこちらを信じ続けてくれていたのかもしれない。
 何だか背中がくすぐったくなってきた。
「ん? 何だいおりん。トイレなら控室でて左の階段を下りたとこだぞ」
「デリカシーのデの字も知らないくせに。…とにかく、私は今回のオーディションであんたの指示を信用すればいいのね」
「他はいつも通り、な。大丈夫だいおりん、一緒に変態の道を極めようではないか!」
「Aランクへの道だっての!」
 プロデューサーの腹に握りしめた右のグーを突き刺したところで、控室のスピーカーが「オーディション受験者は会場に集まってください」というアナウンスを流した。



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