ロストワン (8)

 真っ暗な山道を、プロデューサーの車が高速道路を突っ走っていた時が嘘のような安全運転で上っている。
ライトで照らされたでこぼこの道は公道から横道にそれた時から延々と続いていて、助手席に深く腰を下ろした伊織は星のない都会の空をフロントガラス越しに眺めている。
月だけが煌々と照らす藍色染みた夜空はまるで果てなどないように思え、そのウソ臭い空に不安を覚えて伊織はちらちらと横をうかがう。
ここまで来て全部ドッキリはないと思うのだが、プロデューサーはさっきからドがつくほど下手糞なハミングでオーディション後の収録でも歌った「Here we go!!」を繰り返している。
 Aランク、らしい。
「Long-Time」を通過してプロモーション用の撮影をした後に事務所にくたびれ果てて帰って来た伊織とプロデューサーを迎えたのは5連に弾薬を増やしたクラッカーを鳴らした社長とファンクラブの人数上昇を一覧に纏めた表を持った小鳥で、事務所に入るなりクラッカーを鳴らした社長に向かって「そこから吐き出された紙束を誰が片付けるのか分かっているのか貴様」と実に見事なドロップキックを社長に向けて放った小鳥が渡してきた表の棒線は確かに「ファン数百万人」のラインを超えていた。
正直に言えば実感が湧かない。
顔に見事なまでにくっきりとパンプスの底のマークを付けた社長に「合格おめでとう!」と言われたが、別にオーディションを受けていた時から何かが変わったような気はしない。
その後正式にファンクラブの人数が百万とちょっとになったと社長に言われ、実感が湧かずにプロデューサーの顔を見て、「この後ちょっと時間あるか」と言われて頷いて連れて来られたのがこの山道である。
「…ねえ、いい加減教えてよ。どこに連れてく気?」
「秘宝館」
 このやり取りももう何度目かになる。
最初に訪ねた時は確か「スーパーいしはら」と言われたし、2度目は「靖国記念館」と言われた。
ぶっちゃけて言えば神経を使い果たしたオーディションの後にも収録はあったのだし、これでろくでもない所に連れていった日には二度と足腰が立たないくらいには蹴っ飛ばしてやろうと冗談でなく思う。
「秘宝館って何」
「知らぬなら教えてやろう。秘宝館とは古来より続く男女の夜の」
「もういい聞きたくない。あんたに聞こうと思った私がバカだったわ」
 どうせロクでもない事に決まっている。
伊織はため息を付き、ドがつくハミングを再開したプロデューサーの顔を横からぼんやりと眺める。
 こいつはいつもそうだった。
さっきは迂闊にも敏腕のプロデューサーという肩書を信じてしまったが、やはりこいつの根幹を成すところは見ていて潔いまでのその変態性なのかもしれない。
 プロデューサーは、あの花火の日から全く変わっていない。
 事によると、最初に会った時から今まで、何一つ変わっていないのかもしれない。
「…アンタ、変わらないわね」
 呟くようにそう言うと、プロデューサーのハミングが尻切れに終わった。
「いや、そうでもない。伊織と会ったことで俺の中でも大きく変わった」
 ちょっと意外に思って、思いつくままを言ってみる。
「何が?」
「俺の中の哲学。いやあ、完成系だと思ってたけど学問は奥が深いね」
「…何にも変わってないじゃない」
「伊織は何か変わったのか?」
 溜息のような返答をしたら、今度はプロデューサーから難しい問いかけが来た。
変わったのかもしれない、とは自分でも思う。
 何もかも手に入れてやろうと思ってFランクになった。
Aランクになれれば、頂点に立てれば何か変わるかもしれないと花火の日までは遮二無二頑張っては来たが、結局Aランクになったと言われたところで何かを手に入れられたような気は未だにしない。
少しばかり残念だが、それならばそれでもいいと今では思う。
「アンタみたいな変態とも何とか付き合えるようになったっていうのは、良い変化なのかしらね?」
 あの花火の日に気づいた自分の本当の本音の部分は、実のところもう満ち足りてしまっている。
欲張ってもろくな事にはならない、というのは紛れもないプロデューサーの弁だ。
笑いながらそう言ってやると、プロデューサーは実に重々しく頷いた。
「いおりんもようやく己が内に眠る変態性に目覚めたか。おにーさんは実に嬉しい」
「誰が変態よ誰が。あんただけで十分よそんなの」
「そんなっ…! あの夜に一緒に変態道を極めようって言ってくれたのに!」
「いつの夜で誰の話よ。まったく、」
 何でこんな奴のために、という呟きを拾われた。
何が、と聞いてくるプロデューサーの左目がいぶかしげにこちらに向いているのに気付き、伊織は鼻息を一発、
「良かったじゃない。担当のアイドルがAランクに上がったんだから減俸取り消しになるんじゃないの?」
「何だお前そんな事気にしてんのか」
 思いっきりしています、
「な…馬鹿じゃないのアンタ、何で私があんたの事気にしなきゃいけないのよ」
「その割にゃあオーディションの最中全然こっちから視線外さなかったみたいですねヒヒヒ」
 ついつい本心とは真逆の返答を返してしまったが、返す刀に再び伊織は黙らせられる羽目になった。
確かに今日はいつもよりプロデューサーの指示をきっちり見ていたような気もするが、それはAランクに上がるための必須の行動であり、何よりも「こっちをちゃんと見るように」と控室で抜かしたのはプロデューサーの方ではないか。
悔しげに唸る伊織に笑いかけ、プロデューサーは再び前を向く。
「伊織が気にする事じゃねえよ。あれは俺がやりたくてやったことだ」
 これだ。
まったくプロデューサーは変態なくせに格好付けたがりなところがあって、こちらの暗に行う気遣いを一切受け取ろうとはしない。
妙に鋭いプロデューサーの事だからこっちがいろいろ気を使っていることに気付いていないはずはないのに、である。
それとも単にプロデューサーは鈍感でこちらの気遣いに気付いていないだけなのだろうか。
伊織はため息をつき、出来れば言いたくなかった直接的な言い方を仕方なしに選択する。
「…誰かさんのためよ」
「何が」
「オーディションに合格したのもAランクに上がったのも、全部鈍感の誰かさんのため。どっかの変態さんはこっちが責任感じてること全然気付いてないみたいだしね」
「マジで? いやあ罪深い変態もいるもんだなあ」
 気付いてやがる。
今日何度目か数えるのも億劫な溜息を吐いて、伊織はプロデューサーに向けて半眼の強い視線を送る。
「どの口で言ってんだか」
「いやあ、いおりんにそんなに思ってもらえるなんて俺ぁ幸せだなあ」
「…言ってなさい」
 何だか腹のあたりがムカムカする。なぜこの変態は人の好意を素直に受け取ろうとしないのだろうか。
変態でサドでテロリストで格好付けで、おまけにひねくれ者と来た。これでは五重苦である。
「何よ一人でカッコつけて。最初にアンタが言ったんじゃない、自分はセコンドだって」
「おお、言ったねえ」
「それって、二人でトップに上ろうって事じゃないの? なのに自分だけ酷い目に遭って私はお咎めなしなんて納得できないわよ」
「まあそうだけど。それにしても、二人で、ねえ」
 そこで、プロデューサーは再びぷくくと含み笑いを漏らした。
ムカつく。右のグーをプロデューサーに見えるように振りかぶってやるとプロデューサーはわざとらしい悲鳴を上げ、
「自分だけの力で何もかもを手に入れたい―――じゃなかったっけ?」
「…そう、ね」
 だからどうしたという口調を取り作った伊織に向ってプロデューサーは再びだらしのない笑顔を見せ、
「いや、いつの間にか『自分だけ』の部分が『二人で』に変わってるからさ。ちっとは俺も伊織の野望に貢献できたのかなって思って」
「…あ、」
 そう言えば。
 最初は『自分だけの力』で何もかもを手に入れたいと思っていたはずだ。
むしろ、水瀬伊織が1の側になるためには『自分だけの力』でなければならないと思っていた。
Aランクだと言われたところで「何かを手に入れた」ような気は今だにしないが、一体いつの間に自分の中での前提条件が覆ってしまったのだろうか。
 決まっている、あの花火の日だ。
「べ、別にアンタが―――」
 顔が赤くなってきたのを自覚した。
プロデューサーに顔を見られないように伊織はプイと顔をそむけ、横道に入ってから延々と続く道沿いの木々を眺める。
どうせプロデューサーの事だ、今の自分の顔を見たらこの後もずっとからかわれるに決まっているし、ボコボコの道路を延々走ってもいまだ見えないプロデューサーの目的地とやらがどうしようもない場所だったとしたら行きついた場所での会話の糸口がこちらの顔になってしまう。
顔はそむけたものの耳が赤くなっていたらどうしよう、と考えだしたあたりで、変色を気にしていた耳にプロデューサーの声が入った。
「ありがとな」
「は?」
 突然の感謝の声に弾かれるように横を見ると、プロデューサーはうっすらと笑いながらまっすぐに正面を向いていた。

 いつもとは違う笑い方のように見えた。

「いや、オーディションの時さ。こっちばっか見てたって事は、俺の事信用してくれたって事だろ?」
 こいつは何を突然、
「だって、アンタじゃないこっち見ろって言ったの」
「いやそりゃまあそうなんだけど」
 そこで今度はプロデューサーがため息をつき、
「何か嬉しくてさ。伊織が1の側になるのに貢献できたなら嬉しい限りだよ」

 思い出す、あの花火の日。
 プロデューサーはあの時、確かに「別に0でも1でもいい」と言っていた。
生き辛くないかとは聞かれたが、この生き方を「だからやめろ」とは結局一度も言われていない。
今思えばこの考え方も極論だとは思うが、プロデューサーは結局いいとも悪いとも言わなかった。
 今にして思えば、プロデューサーはその考え方を暗に肯定していたのかもしれない。
水瀬伊織の生き方を肯定してくれた、と考えるのは少しばかりプロデューサーを買いかぶり過ぎているだろうか。

 サイドバーに肘をついて溜息をつくと、プロデューサーが視界の隅でいつもの如くへらへらと笑っていた。
夜の山道をセダンがゆるゆると昇っていく。
「…それで、一体どこに連れていく気?」
「いいトコだよ」
 いい加減この縦揺れも嫌になってきて会話を最初に巻き戻すと、ようやくプロデューサーからはそれっぽい回答が返ってきた。
いいトコ、というのが具体的にどの程度いい所なのか全く想像はつかないし、そもそもこんな山道を走り続けた先にある場所がいい所だとは伊織には思えない。
「スーパーいしはらとか靖国記念館とか秘宝館が?」
 皮肉交じりにそう言ってやると、プロデューサーはへらへらと笑いながら、
「プロデューサー会でな、都内の穴場探索ってのもやってんだ。そのうちのひとつ」
「へえ」
 遊びに行く暇がないからせめて遊ぶ時は一発派手な事をしてやろう、と考える良からぬ連中の集団である。
どうせロクなところではあるまいと思い、プロデューサーに見えない左手をギュッと握りしめ、頂上に着いたら右のグーと合わせてコンビネーションでノックアウトしてやろうと思ったところで、プロデューサーはふと呟くようにこう言った。
「で、野望を達成した気分はどうだ?」
「野望って何」
「いおりんの野望。1の側に立って何もかも手に入れてやるって言ってたじゃん。今は違うのか?」
「…まだ。何も手に入らないかも、とは思ってるわ」

 自分の事を1と思ってくれるプロデューサーが横にいるのなら、自分はもうそれでいいのではないだろうか
―――という自分の本音は、もちろんプロデューサーには伝えていない。
そんな事を伝えてしまったらプロデューサーがその変態性によりを掛けるのは目に見えているし、第一そんな事を伝えるのは何だか告白みたいで恥ずかしい。
しかし、という事はプロデューサーにとって伊織がアイドルになった理由はあの花火の日に語ったところで止まっているのだろう。
さっきの会話にしてもそうだ、「伊織が1の側に立つ野望に貢献できた」と言ったという事は、やはりプロデューサーはこちらの本音に気付いてはいない。
少しだけ寂しい気もするが、しかし気付かれたら気付かれたで今後プロデューサーとの距離感を難しくするだけのような気もする。
それに、「何もかもを手に入れたい」というのもプロデューサーの言葉を借りるならば確かに野望ではある。
結局今に至るまでそう思えることはなかったが、もし叶う事ならば叶えたい願いなのは確かだ―――
 そんなことを思っていたら、ようやく山道の終点が見えた。どうやら山頂にある広場へと繋がる道だったようだ。
今まで山道と並走するように生えていた木々の列もそこで途切れていて、どうやら広場はそこそこの大きさがあるらしい。
かなり長い間車に揺られて坂道を上っていたような気もするし、どのくらいの高さなんだろう、とぼんやり思っていたところで、プロデューサーが口を開いた。
「実感してみるか、何もかも手に入れたって事」
 広場に着いた。
どうやら併設の自然公園の駐車場に繋がる道だったらしい。
既に入園ゲートは閉まっていたが、プロデューサーはそれを全く気にする素振りもなく図々しくも広めにとられた駐車場のド真ん中に白線指示を無視して斜めに車を止め、さっさと車を降りて行った。
 実感するってどうやって。
 完全に出遅れた格好になった伊織もまたシートベルトを外し、ドアを開けた瞬間に12月の大気の寒さに身震いする。
こんなところで何をどう実感するというのだろうか。
恨み満載の視線でプロデューサーを見ようとして、プロデューサーが駐車場の端のガードレールに向かっててくてくと歩いていくのが目に入る。
単なる駐車場とは言え、ところどころにある街灯と月明かりを借りてもなお薄暗い駐車場に残されるのは何だか怖い。
小走りでプロデューサーに近付き、伊織はガードレール越しにそれを見た。

 光。

 まず目に入ったのは無駄だと感じるほどのイルミネーションで埋め尽くされたタワーだった。
3尽くしのタワーだと気付くのに若干の時間を要し、そのすぐ近くにはタワーよりも背は低いが数だけは夥しい飛行機除けの赤いランプを灯したビルの林が乱立している。
そろそろ夜の8時も回るころだというのに、年末だからかどこの窓からも蛍光灯の光が漏れている。
視線を下げればさっきまで走っていたであろう道路には無数のヘッドライトとテールライトが煌めき、幾本ものビルに遮られるように延びる道路は遠くに行くにつれて薄く細くなっていく。
タワーのすぐ傍には鬱蒼と茂る森があり、日中に見れば荘厳で重ったるいとしか思わないはずの寺社仏閣の類すらライトアップされている。
緑色にしか見えない人工芝が照らされている四角い広場はテニスコートだろうか。

 日中なら見慣れていたはずの世界が、まるで別世界に見えた。

 伊織は無意識のうちに冷えているはずのガードレールに両手を置き、視界一杯に広がる都心の夜景を眺めている。
オーディションの会場は見当たらず、今まで回りに回った営業先の店舗は米粒のようで、伊織は言葉なく夜空に広がる夜景だけを眺めている。

「Aランク、おめでとう」

 横を見ると、ガードレールに腰を乗せたプロデューサーが煙草を咥えていた。
伊織は再び夜景に視線を送り、日中からは考えられない程の人が作りだした光に溢れた下界を眺める。
「どうだ、何もかも手に入れた感想は」
「…プロデューサー会って、結構いい仕事するじゃない」
 思ったままを言ってみると、プロデューサーはだろう、と頷き、
「穴場中の穴場だよ」
 確かに穴場だろう。
夜景くらいなら父が経営する関連会社のビルの最上階で見たことくらいはあるが、駐車場のガードレールから見下ろす夜景の中では何がどのビルなのかもわからない。

 高い所に来た、と思った。

「パパを超えて、兄さんたちを超えて、今見てる景色がAランクの景色、」
 腹の底に熱が生まれた。
熱は全身の血管を経由して伊織の体のあらゆる臓器に行き渡り、寒さではない震えが体全体を駆け巡る。
 何もかもを手に入れてやろうと思って、Fランクになった。
 思い出す、あの日の初夏の陽気、初めて受け取った封筒の中の3人の夏目漱石、自棄になってムシャクシャして初任給を丸めて募金箱に突っ込んだあの日から既に8か月が経っていた。
「これが、私の世界、」
 プロデューサーという1を手に入れ、連れて来られたその場所は、百万ものファンが見上げる頂点からの景色だった。
「ポケットには入らねえぞ」
 ポケットどころか視界にも入りきらない。伊織はガードレールに顔をうずめ、震える足に気合いを入れる。
 もう、自分を通して自分ではないものを見る不届き者はいないのだと思う。
「…さあって、これから忙しくなるなあ」
 忙しくもなるだろう。
CランクやBランクでもあれほど忙しかったのだ、最高峰に上り詰めたこれからはきっともっと忙しくなる。
きっともっと忙しくなるが、忙しさの先にはきっと「水瀬伊織」を見てくれる夥しい数の人がいるはずだ。
 やっと、自分は1の側になれたのだと思う。

 もう、何も怖いものはなかった。

「ねえ」
「ん」
 ガードレールに顔を埋めたままでプロデューサーに声をかける。
「水瀬伊織」を今までずっと見てきてくれた自分にとっての1がそこにいることを確認し、伊織は確認の質問をすることにする。
「私、何もかもを手に入れたのよね」
 伊織の問いかけにプロデューサーは12月の夜空に紫煙を吐き出し、ニカリと笑ってこう言った。
「野望達成、だな」

 願いが、叶った。

 何もかもを手に入れてやろう、と思ってFランクになった。
 何も手に入らないのかもしれない、と思いながら過ごした半年だった。
 都会の星のない夜空の下、足もとに夥しい数の夜光と鬱積をため込み、
 水瀬伊織はようやく、何もかもを手に入れた。

 伊織はガードレールから顔をあげ、プロデューサーの顔を見て、もう一度自分の「世界」をぐるりと見回し、大きく息を吸い、

 叫ぶ、

「やったあ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!」

 鍛えに鍛えた肺からの声が、白い吐息すら吹き飛ばす勢いで12月の空に響いていく。
 伊織の野望の世界に、まるで別世界のような現実の空の下に、伊織の叫びが夜空に溶けて消えていく。




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