プロデューサーズ

1.

 プロデュース業務は多岐にわたる。
 現在律子がやっていることは相手方との折衝でいわゆる営業といわれるものだが、アイドルがお茶の間に映るためにはそれ以外にも多種多様な事務作業が必要となる。
つまり必要なことは律子が最も得意とする事務作業一般であり、従って現在律子が頭を悩ませているのは事務作業ではないということになる。
 プロデューサーという仕事が簡単だと思ったことはないが、まさかここまでとは。
つい去年までやっていたアイドルとしての自分と、自分をアイドルへと押し上げたプロデューサーの事を思い出す。
事務として765プロデュースに入社したはずが、人材難の名のもとにアイドル候補生として登録されて1年間、あっという間にトップアイドルになって人気絶頂の最中に活動停止したことがつい昨日のことのようだ。自分も自分だがプロデューサーもプロデューサーだと思う。
初めて会ったときのプロデューサーはよれよれのシャツによれよれのスラックスといった様相で、本当にこの人が今まで2人のアイドルをトップに導いたのかと怪しんだものだ。
それがあれよあれよという間にトップアイドルの仲間入りを果たせたのだからあのプロデューサーの腕は確かなものだったのだろう。もっとも、なったからにはトップを目指す――そう言ったのは自分だが。
 だが、確かにあの一年間は刺激的であり、充実しており、律子が生きてきた時間の中で一番おもしろかった一年であったとは確かに言える。
 そうして最高の一年間を経た律子が自らの意思で選択した次の一年間はプロデューサーとして活動することだった。
そのためにアイドル中もプロデューサーから様々なことを学んだし、暇を見ては貪婪に知識を吸収するように心掛けてはいた。

だが、思う、最高に充実した一年であっても所詮は52週間であり、それははたして自分にとって準備期間として十分だったかどうか。

 律子はまだ皺の目立たないスケジュール帳のページをめくり、担当アイドルのこの1か月のトレーニングと営業を比べてみる。
まだまだプロデュースは始まったばかりであり、先日ようやくEランクへと達したアイドルの予定は営業活動よりもトレーニングのほうが遥かに多い。
もっとも、大きめのスケジュール帳には来月以降の予定もびっしりと書かれていて、律子の想定ではアイドルはあと10か月もすれば立派にトップの仲間入りが出来るはずである。
しかし、もう一度今月の予定表を見てみるとちらほらと荒があるのが分かる。突発の前座が入ったりアイドルの体調不良のせいでトレーニングができなかったり。
休養や事前に取れる策はきっちり取っていたはずだが、律子はどうも心の奥底から這い出る不安感を払拭できずにいる。

 予定通り事を運ぶのは至極当然のことだ、と律子は思う。
自分がアイドルとしてやっていた一年間では予定をすっぽかすことなどなかったし、それはアイドル以前に社会人として当たり前だと思っていた。
プロデューサーになってからもそれは当り前の事実として律子は認識していたし、ということは律子のアイドルもそう思ってくれているはず――という思いは受信したメールのバイブレーションに破壊された。
『体調不良のため本日はお休みさせていただきます。申し訳ありません』。
 これが、律子の携帯に送られてきたメールの全文だった。
 装飾も何もない。もっとも律子自身もメールに装飾はしないほうだが、今日びの少女なら年上にも装飾符の一つくらいはつけるものではなかったか。
「…好かれてないのかもなあ」
 聞き咎める者のない無人の事務所で律子はぽつりと零す。
そういえば、先日の営業の時も最後は何か言おうとしていたのを思い出した。結局事後の業務が残っていて最後の一言は聞けずじまいだったが、あれがこのドタキャンに繋がっているのだろうか。
しかし、結局のところ律子はそれ以上の思考をやめてスケジュール帳の今日の日付にバツ印を付け、トレーニングスタジオに今日の予定のキャンセルを伝えるために重い受話器を上げるのだった。



 プロデューサーが一年間の海外研修に出ると聞いたのは律子がプロデューサー業を引き継いで間もなくのことだった。
律子のプロデュースが無事に終了し、いまや業界で名前を知らない寸足らずは一人もいなくなったことで、高木社長は前々から温めていた企画を羽化させたらしい。
研修用のビザが届いたその日、律子は事務所で英字の赤紙を前に微妙な表情を浮かべるプロデューサーを見た。
『海外にショービジネスの修行に行くっていうの、本当だったんですか』
 律子の言葉にプロデューサーはゆっくりと顔を上げ、
『ああ、一年くらい向こうで武者修行。あっちは本場だからね、得るものは大きいだろうって高木さんが』
 パスポートの折り返しにビザを挟むと、プロデューサーは諦めたように律子を見た。
『いつバレた?』
『多分プロデューサーが予想してるより早くには知ってたわ』
『おいおい、もうプロデューサーはいいだろ。今は律子がプロデューサーだ』
 ぐ、と言葉に詰まる。翌週には律子はプロデューサーとしてアイドルをFランクオーディションに連れて行くことになっている。
不安が顔に現れたのか、プロデューサーは意外そうな顔をして律子を見た。
『何だよ、何か問題でもあるのか?』
『…かわいい後輩を放って海外に行っちゃう先輩の神経ってどんなもんかなと思ってただけです』
『そっちの方か。心が張り裂けそうよ?』
『バーカ』
 とはいえ、この軽口ももう終わりだ。
間もなく完全退社時間になる765プロデュース別棟にはプロデューサーと律子以外には誰もおらず、律子の眼には昨日まで散々な散らかりっぷりだったプロデューサーの机が妙に整頓されている様子が映っている。

 ひどく、心がざわついた。

『なに、一年なんてすぐだよ。律子をプロデュースしてた一年間なんてそれこそあっという間だったし』
『私には、すごくいい一年だった』
『短いとは言わないんだな』
『長いとも言わないけどね』
 溜息をつく。結局プロデューサーが一年間の長きに渡って765を開けることに変更はなく、その間律子は一人のプロデューサーとして765を背負って立たねばならない。
重責は覚悟の上で、それでもなお自分で選んだ道だ。
律子はそう思い、散らかりだした自分の机と私物のないプロデューサーの机を見比べた。
『まあ、律子なら大丈夫じゃないか? 担当の子も性格よさそうだし』
『誰かさんと違って?』
 肩をすくめてお互い笑う。
律子自身自分が扱いやすいアイドルだと思ったことはない。そう思われるのも癪だし、プロデューサーの方針が間違えていると思った律子がデータ片手に深夜までプロデューサーと打ち合わせしたのも一度や二度ではない。
『ま、やれるだけやってみます。プロデューサーが帰ってきたらびっくりするくらいのアイドルに仕立てて見せるわよ』
『そりゃ心強い。高木さんも安心してられるな』
『まかせてよ。だから、もし私がトップアイドルを作れたら――』
 その時、完全退社のベルが鳴った。


 もし私がトップアイドルを作れたら。その時、私のことを認めてくれますか。
 その問いは、結局問えずじまいだった。



2.

 ドタキャンしたアイドルには、もちろん始末書という名前の制裁が下される。
律子の担当アイドルも先日の体調不良の始末書を提出したが、社長に上げる前に律子がそれをチェックすることになっている。
が、でかでかと書かれた始末書というタイトルの下に申し訳程度に書かれた弁明と対策の欄に律子は再び頭を抱えた。
「…ダメ、でしょうか」
 ややふてくされたような表情でこちらを見遣るアイドルに、律子は本日何度目かの溜息を漏らす。
白地黒枠の始末書の欠席理由には体調不良、対策には自己管理の徹底と書かれていて、ちょっと前に見た始末書に比べればまだマシというレベルの要素が詰まっている程度の始末書を片手に律子もまたアイドルを見た。
「あのね、ダメってことはないわ。でも、これ前の始末書の内容と一緒じゃない。もうちょっと…例えばそうね、何度の熱が出たとかそういうこと書けないの?」
「…すみません」
 ああもう。
 律子は再び頭を抱える。この後の予定はトレーニングだし、まだ早朝ということもあって時間に余裕がないわけでもない。
ただ、これを社長室に持っていくのは律子の仕事だし、ということは小言を言われて嫌な気分でトレーニング指導をしなければならないのもまた律子の仕事だ。中間管理職は楽じゃないと思う。
 ふと視線を感じて顔をあげると、アイドルが相変わらずの表情で律子を見ている。
「あの、プロデューサー。今日の予定って」
 言葉にするのも億劫で律子は業務用の大きなスケジュール帳を渡した。
受け取ると、アイドルはのろのろとした動作で今日の日付を繰っていく。
ここ一ヶ月間の予定を頭に叩き込んだ律子はそんなことをしなくても今日の予定が分かっている――午前中はトレーニング、午後は新曲の打ち合わせと衣装合わせだ。
もうすぐDランクへのオーディションが迫っていて、Eランクの時と同じ衣装や曲では高評価は狙えないという判断だった。
「え、あの、曲…変えちゃうんですか」
「そうよ。衣装も変えるわ。あなたはダンスが苦手みたいだから、アップテンポのポップスの準備してある。いい曲よ」
 言ってはみたもののアイドルの表情は優れない。
 確かに急な交替だと思うが、しかし先週アイドルがちゃんと来れば律子も変曲について言うつもりではいた。
が、予定しているオーディションからの逆算からすると今日からの練習開始がぎりぎりと言ったところで、これについては不満を漏らしてもらう他ない。
「あの、今の曲、ようやく歌いこめてきたところなんです、だから、」
「うん。でもEの時の歌をDまで引っ張ったらオーディション上位には行けないわよ。あなただってわかってるでしょ?」
 ぐ、とアイドルは言葉に詰まった。
審査員の耳は肥えていて、同じような曲や振り付けをオーディションで見せれば即減点の対象になる。
これは律子自身の経験から言ってもそうだし、近年のオーディション傾向からいっても事実といえる。
スケジュールの通りに予定を消化するためには今度のオーディション合格は必須で、そのための手段としての曲や衣装の変更は止むなしというのが律子の判断だった。
「それは、…分かってますけど」
 なおも言葉を繋げようとするアイドルに、律子は再びの溜息をつくと、
「あなたをトップに連れて行くためには必須のことよ。不満はあると思うけど、納得して頂戴」
 うつむいてしまったアイドルから始末書を受け取ると、律子はさっさと立ち上がった。
 余裕はあるといってもそろそろ次の段階に話を移しておきたいし、ということはこれを社長室に持って行って小言をもらってアイドルをレッスンスタジオに連れて行かなければならない。
アイドルをトップに導くことは容易ではないし、そのためにやらなければならない事は五万とあるのだ。
 「社長室に行ってくるわ。すぐにスタジオに行くから、準備しててね」
 そういうと、表情の見えないアイドルを残し、律子は社長室へと向かう。道すがら、こんなことを考える。

 私があのくらいの時、あいつはどうしてたっけ。



 結局のところ、律子はアイドルであってプロデューサーではない。
つまりプロデューサーの決定は律子にしてみれば絶対で、絶対と知りつつも噛みついてしまうのは律子の性格によるところが大きい。
 しかし、である。
『ぷっ、プロデューサー!! 何なんですかこの衣装!!』
『何って衣装。いっやあ往生したよ、やっととれた営業なんだ。大手さんだぜ、律子なら売り上げ固いって向こうも太鼓判押してくれてさぁ』
 往生もしただろうし、大手でもあるだろうし、律子がブチ切れるのも無理はない。
プロデューサーが取ってきた仕事はあろう事かグラビアの撮影で、よりにもよって撮影のための衣装は水着である。
スタイルに自信のある連中ならともかく、律子自身は絶対にやりたくなかった仕事だ。
『だから! なんで! グラビアの撮影なんですか!! 私やりたくないっていつも言ってたじゃない!』
『えーいいと思うんだけどなー律子の水着。だめか?』
『だめですっ!!』
 頭の冷静な部分でしかし、と思う。まだDランクに入りたてで知名度もあまりない自分が手っ取り早く知名度を上げるためにはグラビアは相当有効な手段であろう。
が、それはスタイルの良いアイドルにとっての話で、あまり自分のスタイルに自信のない律子はつい先日もプロデューサーに水着はいやだと言っていたはずなのに。
『水着なんて着るくらいなら内臓やった方がまだマシよ。私は美希やあずささんみたいにスタイル良くないからねって前からずっとずーっと言ってきたじゃないですか』
『キグルミの内臓じゃ律子の顔が分からないだろ。顔売るために取ってきた仕事なのに』
『物の例えですっ!!』
 言うと、プロデューサーはよよよ、とわざとらしく泣き崩れ、ついで愚痴愚痴と文句を言い始めた。
『あーあー、せっかく取ってきた大手の仕事なのになー』う。
『律子なら絶対大丈夫だと思ったのになー』うう。
『向こうのスタッフもすんごい乗り気なのになー』ううう。
 結局、律子は所詮アイドルであり、プロデューサーは絶対なのだ。
『…分かった、分かったわよ分かりました! 水着でも何でも着てやるわよ!』
 すると途端にプロデューサーの顔は明るくなり、上機嫌に仕事の説明を始め出した。
この野郎嘘泣きか。律子の不満を意に介さず仕事の説明が終わったところで、プロデューサーは急に真顔になってこう言った。
『でもさ、律子。もし本当にマジでこの仕事嫌なら今からでもキャンセルするよ』
 ぶっ殺すぞこの野郎。
『一から十まで仕事の説明しておいて何言ってるんですか今更。私も女だ、二言はないわよ』
『さあっすが律っちゃん! もー俺感激! じゃあさっそくスタジオにゴーだ! 社長、そんなわけでちょっと行ってきます』
『ちょっ、ちょっと待って、今からなの!?』



3.
 Dランク入りしたアイドルの業務は徐々にトレーニングから営業へとその仕事比重を移していく。
律子のアイドルも今日の仕事は朝から営業が2件で、律子自身朝のCDショップへの直参りでは中々の感触を得ていた。
アイドルはと言えば移動の車の中での昼食を終えた後、何をするでもなくぼんやりと窓の外を見ていたりする。
「どうしたの? 疲れた?」
「…へ、あ、いえ、大丈夫です。今日はもう1件で終わりですし」
 律子もまたアイドルにならって紅葉の進む街路樹を見た。
気の早い物販ビジネスはすでにハロウィーンからクリスマスへと装飾を飾り替えていて、街行く人々もどこかしら浮かれたような足取りであるのがよく分かる。
「次の収録は新曲のアピールも兼ねてるから。今の曲でもう少し頑張ったら、新曲の手配も進めるわ」
「…あの、プロデューサー」
 ん、と視野を窓の外から正面に投げると、アイドルが妙に真剣な顔つきで律子のことを見ていた。
「プロデューサーって、どうしてアイドルやめちゃったんですか」
 実のところ律子がこの手の質問をアイドルから受けるのはもう3回程になる。
1回目は初顔合わせの時。2回目は確かEランクオーディションの前。
「またそれ。あのね、私は別に――」
 アイドルになりたかったわけじゃないもの―――そう答えることが果たして彼女にどう影響するだろうか。
もっとも一度目は確か大人の事情と答えたし、二度目は適当にはぐらかした気もする。
 答えならある。
 もともと私は事務のスタッフだったし、私がアイドルとして活動したのは手違いもいいところで、本来私がやるべき業務はいまやっているような事で、つまり元の鞘に戻ったにすぎない――
頭の中で言葉に戻せば実に簡単な返答だったし、こう返せばおそらく今後アイドルが律子にこの手の質問を投げることはなくなるのだろう。
 しかし、である。実のところなぜ律子が完全なる事務屋に戻らなかったのかは律子自身不思議に思っている。
確かにプロデューサーの姿を見ていてプロデュース業に興味を持ったのは事実だし、現在の日々の仕事が面白くないと言えば嘘になる。
しかし、実際にプロデューサーとして活動してみればプロデューサーの仕事などアイドルを銀幕に踊らせるための一要素に過ぎないし、別に律子が書き割を持って右往左往することもない。
 では何故律子がプロデューサーの道を選んだのか――
「――なんでだろうね。私にも分からない」
「…変なの」
「自分でもそう思うわ」
 回答はある。
しかし、それを認めるのはなんだか癪だし、それを話したら恐らくアイドルには悪影響しかもたらさないだろう。
日々からスキャンダルに気をつけるように言っている身からすれば特にだ。
「でも、今の私の仕事ならはっきりしてる。あなたをトップに連れて行くことが私の仕事なんだから、そのためにやらなきゃいけないことはやってるつもりよ。だから、あなたも」
「…分かってます」
 そう言うと、アイドルは再び過ぎ去る街路樹を見つめた。律子もそれに倣う。
あっという間に過ぎ去っていく街路樹の間にクリスマスのイルミネーションが映え、街行く人々を店内へと誘っていく。
もっとも、律子やアイドルはクリスマス当日まで営業が入っていて、このイルミネーションに彩られた店内を物色することなど不可能だ。
「あの、プロデューサー」
 物思いにふける律子に、再びアイドルから声が掛けられた。
ん、と顔を見ずに返す。窓の外では街路樹が途切れ、車は今まさに首都高へと昇って行くところだった。
「プロデューサーのプロデューサーって、どんな人だったんですか」
 質問に律子は胡乱気な視線をアイドルに投げると、持っていた茶のペットボトルで口元を湿らせる。
「一回ね、何で私をアイドルに選んだのって聞いたことあるの」
「え」
「だってそうでしょ。可愛げもない、愛嬌もない、歌もダンスもうまくないしスタイルにすら自信はない。
 挙句眼鏡でお下げでしょ。何で他の子たちを選ばずに私を選んだのって聞いたの」
「で、でもプロデューサーは…」
「眼鏡はコンタクトにしたし髪も長くなったからお下げも止めたの。営業先まで学生丸出しで言ったら舐められるわよ」
 狼狽したアイドルに自嘲気味に律子は答えた。
プロデューサーの肩書きになってからストライプのシャツもジーンズも着ていない。
いつもアイロンの利いた白地のシャツにビジネススーツの律子は、確かにやり手のOLに見えなくもない。
「…それで、何て言われたんですか」
 言葉に、ふ、と遠くを見るような表情をし、律子はひっそりと答えを口にした。
「律子だからだって。馬鹿みたいでしょ、回答になってない」
「…何となく、わかる気はします」
 そう、とだけ言い、律子はそこで会話を切った。アイドルもまたそれに倣い、アウトゲートの存在で首都高を降りたことを知った。
2件目のスタジオは高速を降りてすぐのところにある。大した信号待ちにもつかまらずにスタジオの駐車場に滑り込んだバンの扉を開け、アイドルは身を滑らせるように車から降りた。
 続いて降りた律子の視界に、初めて見るような歪んだ表情でこちらを見るアイドルが映る。

「だって、プロデューサーはかっこいいですもん。スタイルだっていいし歌だってうまいし。わたしとは大違いだから」
 
何を、と問おうとして、もう悠長に話していられない時間だと腕時計が告げた。



『律子だからって何よ。理由になってないわよちゃんと言いなさい』
『お前朝っぱらから飲んでんのか? おーい律っちゃんしっかりしろー傷は浅いぞー』
『私は敗戦間近の日本兵か。ねえ本当に何でよ。気になって仕事が手に付かないなー』
『嘘つけこの。ほれほれさっさと支度せぇ』
 確か理由はプロデューサーが社長から新しく採用するアイドル候補生の写真を見せられていたからだと思う。
律子もちらりと見たが、確かに写真の少女たちは顔形の綺麗な者だらけだった。
履歴書的なものもいろいろと付いていて、律子はそこまで見られなかったがプロデューサーはゆっくりと読んでいたようだった。
 もっとも、将来プロデューサーが受け持つかもしれない子達の情報は早めに見ておきたいと考えても不思議ではないし、それよりもっと不思議なのが何故よりにもよって敏腕の肩書きすらあるプロデューサーが3人目のアイドルとして律子を選んだかだった。
 現在在籍している未プロデュースの子たちにも律子以上にアイドル向けなのはいくらでもいる。
『えー教えてくださいよプロデューサー。私も引退したらプロデュース業やりたいと思ってるし、ほら先輩として参考にね?』
『ほほうプロデューサーですか。おやおやライバルの出現ですねこれは俺もうかうかしてられねぇなぁははは』
 無言で向う脛を蹴っ飛ばした。青い顔をしてピョンピョン跳ねるプロデューサーは失礼だが非常に面白い。
『真面目に聞いてるの! ねーどうしてよどうしてーどうしてー』
『ってえなこの。あー、まあ特に理由はないんだけどな。高木さんが持ってくる子に外れはないだろうし』
 そんな事は知っている。
確かにプロデューサーの腕は敏腕のそれだろうが、大根を植えた畑でバラは取れまい。だとすれば、種を選んだ社長の選眼もまた大したものだということになる。
 ということはつまり律子自身も植えられるべくして植えられた種というべきなのだろうが、律子自身は自らの経緯故かそんな気は微塵もなかった。
『じゃあなんでこの子ダメにしたんですか。ほらほらこのきれいな子――って目をそらすなコラ』
 そう言って律子はプロデューサーから一枚の履歴書をひったくった。
あ、とプロデューサーが漏らす前に律子はさっと履歴書の中身を読み、スタイルも顔かたちも今日今すぐテレビに出てもおかしくないようなその子の履歴書をプロデューサーに突き付ける。
『…お前な、そういうの感心しねえぞ』
『感心されたもんじゃないってのは百も二百も承知してます。
 でもこのままいったら私がプロデュースしたかもしれない子じゃない。面接まで行ったんでしょこの子』
 履歴書の右隅、会社記入欄には2次面接の版までは押されている。
が、その下には小鳥が押したであろう滲んだ版の文字で『業務処理』と書かれている。
業務処理とはすなわち、シュレッダー行きという意味である。
『うんまあ、高木さんが面接したし俺も立ち会ったんだけどな。まああれだ、今回はご縁がなかったってことで』
『万年人材難の765プロデュースがご縁がなかったなんて言ったら、残ってる事務員全員過労死するわよ。
 ねえ、どうしてこの子はNGで私はOKなのよ』
 そこで初めてプロデューサーは真面目に律子の顔を見た。律子の表情には隠しきれない不安の色があり、プロデューサーはポリポリと頭を描いて口を開こうとし、
『茶化さないでよね』
 あらあら律っちゃんたらそんなに自分に自信が持てないのかしら、とでも言おうとしていたに違いない。
プロデューサーはジャブをもらったボクサーのような表情を見せ、仕方ない、とため息を付き、
『まあ、ほんとに高木さんの下でプロデューサーやるなら知っといてもいいか。律子さ、人形遊びしたことあるか?』
『何よいきなり。……ありますよそのくらい。でも小さいころじゃないかな』
『何だ、じゃあもう答え分かったようなもんじゃねえか。ほれほれ営業行くぞ』
『え、ねえちょっと待ってよ、分かんないってばーっ!!』
 プロデューサーはアイドル候補生たちの履歴書を茶封筒に突っ込むと、やや乱暴ともとれる立ち上がり方でさっさと出口へと進む。
 律子は何が何やらわからないといった表情でハンドバッグを片手にあわててプロデューサーを追いかける。



4.
 Cランク入りしたアイドルではあったが、相変わらず律子は頭を抱える日々を送っている。
道場など遠の昔に通過したし、現在のスケジュールとプロデュース開始の時の予定を見比べてみても若干の遅れはあるものの十分カバーできる範囲だ。
だが、と思う。律子のアタリが確かなら、やはりあと一歩何かが足りないのだ。
歴代のトップスターを輩出してきた765プロにいるからこそわかる、平と非を明確に隔絶する目に見えない何か。
それがどうもアイドルには欠落している気がする。それが何かは分からないし、分からないままでもAランクには恐らく到達できる。
しかし、やはり何かが足りない――それを決定付けることがつい先週起きたのだった。
 オーディションの2連敗。
下馬評ではぶっちぎり間違いなしとまで評価されていたのに、アイドルは2位進出のオーディションですら通過できなかった。
事務所に来たアイドルに今日はお休みと簡潔に言うと、律子はさっそく原因究明に乗り出す。
律子に思い当たる節はないわけではないが、とにかくデータを拾おうと思い、各プロデュース事務所に送られてくるオーディション事務所からの素点データに目を通した。
 が、これもまた原因が分からない。
点数は上位にいるし、一定以上の評価は確かに得られている。
しかし、前のオーディションではどうやらダンスに難があったらしいし、その前のオーディションでは声に張りがなかったらしい。
 モチベーションに左右される業界ではあるが、こうもウィークポイントが変動するとどうにも作戦が立て辛い。
やれやれと頭を振り、肩周りがごきりとなって律子自身でぎょっとした。そういえば最近体を動かしていない。
うまい具合に今日の予定だったダンスレッスンのスタジオにはまだキャンセルは入れていない。
アイドルには悪いが、久しぶりに少し動かすかと思い、律子は小鳥に外出の旨を伝える。


 受付に行くと、初老の男性が実に不思議そうな顔をしてこう言った。
「あれ、今日は一緒じゃないんですか?」
 一緒って何が。律子が何のことですかと問うと、受付は相変わらず不思議な表情のまま、だってあの子来てますよ、と言った。
 なるほど受付帳の使用欄を見ればレッスンルーム2にあの子の名前がある。
今日は休みのはずなのに。まあ何にせよ自主練習ならいいことだ、しかしそれにしても後で報告入れて今日のレッスン料もらわないと、とぼんやり考えながらレッスンルーム2の扉に手をかけ


 アイドルが、床に崩れている。


 肩で息をしている。
 まだ寒いというのに、額からはおびただしいまでの汗が浮かんでいる。


「ちょっ、ちょっとあんた! 何してんの!」
 思わず大きな声が出た。アイドルは弾かれたように顔をあげ、次の瞬間激痛に顔を顰める。
駆け寄る、両手で庇うかのように隠していた左足を見る、
「…あんた、これ、」
 思わず顔を背けたくなるくらい、アイドルの左の足首が鬱血していた。
ねんざだ。ひょっとしたら骨もイってしまっているかもしれない様子に、律子の顔面は蒼白になる。
何でこんなむちゃなマネ、そう問おうとして、律子は聞き覚えのある音楽を聞いた。『エージェント夜を往く』だ。
ダンスの激しさで知られている765プロの十八番で、今アイドルが持ち歌にしている曲でもある。
「…だって、っ、練習しないと、…」
 顔を顰めながらアイドルは言う。
何をばかな、と思う、郵送されてきたオーディションの成績はダンスに弱点があるとは言っていなかった。
アイドル自身がダンスに欠点があるとでも思ったのだろうか。
 とにかく横にさせようと思い、律子は来ていたコートを脱いでアイドルをその上に横たえる。
そのわずかな動作でアイドルは悲鳴を上げた。
「待ってて、今救急車呼ぶから! おじさん! おじさん!!」
 叫んで異常を知らせ、血相を変えて飛んできた受付に救急車の手配を頼む。
バタバタとあわただしく走っていく受付の足音が遠ざかっていくと、アイドルはおもむろに苦痛に歪んだ口を開けた。
「練習、しないと、…わたし、踊れない、じゃないですか」
「そんなことない…そんなことない! こんな…こんな怪我して、あんたは!」
 憎らしいくらいの気持ちでリモコンをまさぐり、音楽を止める。
やかましいほど鳴っていた音楽がぱったりと止まり、アイドルの荒々しい息遣いだけがレッスンルーム2に響いている。


 そして、アイドルの口から洩れた言葉は、律子の呼吸をも止めた。
「こんな、怪我、したら…、わたしの、価値も、…下がりますか?」

 
 何を言っているのか全く分からなかった。
律子は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。頭のまだ冷静な部分で、こいつは痛みで思考が混乱しているんじゃないか、と思う。
背中が妙に冷えていく。
 目の前のアイドルが、今までにないほどの鋭い眼光で、律子を射ぬいている。
「ずっと、考えて…たんです。わたしは、本当に、…アイドルに、なってよかったのかって」
―――え、あの、曲…変えちゃうんですか。
 律子は何も言えない。ただただ鋭い眼光をその一心に受けている。
鋭い眼光は僅かながらも芯から冷えた冷気を帯びて、律子の背中に冷たい汗を走らせていく。
「テレビにも、…雑誌にも、取材されて、最初は…ほんとに幸せだった。でも、いつも…これでいいのかなって、思ってた」
―――…へ、あ、いえ、大丈夫です。今日はもう1件で終わりですし。
「夢、だったんですよ。アイドルになって、テレビに出て、…みんなにも、認めてもらえたらって」
「で、でも、それは叶ったじゃない。
 Cランクアイドルなら全国ネットにも放映されるし、芸能のニュースのトップに行くことだってあるじゃない。
 CDの売り上げだっていいし、社長もみんなもあなたのこと、」
 そこから先を、律子は言葉にできなかった。認めてもらえたと思うなら、こんな酷い怪我をするまでトレーニングなどすまい。
律子には何が何だか分からない。今たった一つだけ分かっているのは、目の前でアイドルが苦痛に呻いていることだった。
 そして、アイドルはこう言った。

「…でも、それは、わたしじゃない」

 瞬間、律子の頭の中は真っ白になった。
サイレンが響いている、慌てふためいた足音が近寄ってくる。
 律子の耳にはもう、雑音にも等しい周りの音は聞こえない。
「わたしは、プロ…デューサーみたいに、歌も、うまくないし、…踊れないし、スタイルだって、…よくない。
 でも、わたしは、…たとえ足りないって言われても、わたしでいたかった」
 ただただ目の前の少女の告白だけが聞こえてくる。
苦痛につっかえながら、それでも自らの心の内を吐露してくるアイドルの顔だけを見ている。
「わたしは…わたしで、ありたかったの。歌も、ダンスも、…ヘタクソでも、わたしとして、みんなに見て欲しかった」
 頭が真っ白で、ものが考えられない。
目の前で話している少女が、つい先日俯いてオーディションの落選のアナウンスを聞いた少女と同じ人物だと信じられない。
目の前の少女が、いつの間にか律子には全く得体のしれない存在へと変貌している。


 へたくそでも、わたしとしてみてほしかった。
 では、今、彼女は、一体何者か。


「…あなたは、じゃあ、今は何なの?」
 律子のその言葉に、アイドルは初めて苦痛以外の表情にわずかな嘲笑を浮かべた。
「分かり…ません。でも、…これだけは、言える」
サイレンの音が止まる、どかどかという足音が近づいてくる、キャリアーを広げた金属音が聞こえる。
 そうして、ついにその“アイドル”は、律子に向けてこう言った。


「私はあなたの…人形じゃ、ない」



6.
 何をどうやって事務所まで帰ってきたのか覚えていない。
あわてた様子で出迎えてくれた小鳥の表情から見るに、今自分はひどい顔をしているのだと思う。
脅えの混じった小鳥の声色に導かれ、律子は本棟の社長室の扉を潜る。社長はどこかに電話をしているようで、身振りでソファーに座るように促された。
大してやわらかくもないソファーに座ると、どっかりとした疲労感が両肩にのしかかってくる。ソファーの骨格以上にケツが沈んでいく気までする。
と、電話が終わったのか社長がゆっくりとした足取りで律子の正面に座った。
律子ほどではないが社長の表情にも疲労が浮かんでいて、やり場のないやるせなさだけが社長室を満たしている。
「…骨に異常はなかったそうだよ。二、三日で退院できるそうだ」
「…そうですか」
 会話が続かない。社長は手持ち無沙汰に両手をわきわきさせた後、いいかね、と言って懐から煙草を取り出した。
妙にこだわりのある社長は別棟を構えるまでに自社を発展させても相変わらず100円ライターで煙草に火を付け、気がついたように手元のリモコンを操作してエアコンに換気を指示した。
「まあ、不幸というのはどこでも起きるものでね。今回の件は残念だったが、幸い大事には至らずに済みそうだ」
「…すみません、監督不行き届きでした。始末書は」
「まあ待ちたまえよ」
 律子の言葉を遮ると、社長は緩くゆるく紫煙を吐いた。微かに飛んだ副流煙がエアコンのフィルターに吸い込まれていく。
「今回の件は休み中に起きた事故だ。誰が悪いわけでもない。私は誰を責めるつもりもないよ」
 骨格を通り越して床にめり込むような気がした。責められれば、もし責を追求されれば弁明になるかもしれない、という甘い考えはあっさりと社長に封じられた。
 単なるねんざなら少し休養を取ればまた動き回れるようにもなるだろう。
だが、もはや以前までの関係でいられないことも確かだ。
「あの、社長」
「何かね」
 答えると、社長ははっきりとした視線を律子に向けた。律子は相変わらずうつむいたままだ。
 だが、思う、ここでこの人に聞いておかなければ、この先のプロデュース活動などない気もする。
「社長って、もとはプロデューサーだったんですよね」
 そこで律子は顔をあげ、社長の顔がゆっくりと縦に動いたのを見た。
「プロデューサーだった頃、…自分のプロデュースに疑問を持ったことはありますか?」
 その問いに、社長は再び煙草を加えた。
紫煙を吐き出す代わりに昔の物語を掘り起こすかのような時間の後、社長はおもむろに、
「…律子君は、どうなのかね」
「私は…」
 ゆっくりとハンドバッグに入っている大きめのスケジュール帳を取り出した。
多少の荒があるとはいえほぼ予定通りに進んでいるスケジュールは、もう数か月後のアイドルのトップ入りを約束する、

 はずだった。

「私がプロデューサーだった頃は、今ほど機会に恵まれているわけではなくてね」
 いつも悩んでばかりだった、と社長は自分のデスクを振り返った。
視線の先には、今はもう黄ばんでしまった遥か昔の写真が飾ってある。律子はその視線を追い、再び視線を落とした。
「私は…悩んで、なかったかも、知れません」
「羨ましいことだ」
 その声色に皮肉の色はない。だが、その事がかえって律子を責める。
 悩んでいなかった。確かにその通りだ、私は悩んでいなかった。
私は、私の立てた計画通りに話を進め、私の立てた計画の通りに曲を変え衣装を替え、私の立てた通りに営業をし、テレビに出演をさせ、
 出演をさせ、

―――わたしはあなたの…人形じゃ、ない。

 その中に、彼女のことを考えたことが、果たしてあったのか。
「だから、…あの子は、私の、」
「…今日は、もう休みたまえ。病室の番号は後でメールでもする」
 よろよろと立ちあがる。地面がぐらついている気がする。ふらつく足を何とかなだめ、律子は礼を言って社長室を後にする。



 よう、とプロデューサーは手を挙げた。挙げた手の中にはコーヒーの缶が収まっている。
律子は高架の真ん中にいて、走り去る車の数を無意味に数えている。
ようやく律子のところまでつくと、プロデューサーはコートのポケットから取り出した缶コーヒーと合わせて微糖と無糖の2本を律子の前に出した。
『何やってんのこんなところで。自殺?』
『どうせ私はガサツですよーだ。微糖の方』
 げ、と言うプロデューサーから微糖の缶コーヒーをひったくってプルタブを開けた。
一息ついて落ち着くと、律子はプロデューサー越しにオーディション会場を見る。
今回のオーディションは今まで経験したことのないような大きさで、さすがの律子も緊張の色は隠せなかった。
見返りも大きい、このオーディションを抜ければ、律子も晴れてトップアイドルの仲間入りができるのは昨日の予測算ではっきりしている。
『何だよ、今更緊張してんのか』
『プロデューサーって、試験の前より結果発表の前に緊張したタイプでしょ』
 当たり、と言うと、プロデューサーもまたプルタブを開けてオーディション会場を見た。
寒空の下で鎮座している赤屋根のオーディション会場は天国への門へも地獄への入り口にも見える。
『あー…。何でこんなところまで来ちゃったんだろ私』
『後悔してんの?』
『少しね。でも後悔っていうより驚きの方が大きいかな』
 何の事だかよく分からん、という表情のプロデューサーにクスリと笑い、律子はようやく笑顔をプロデューサーに向けた。
『事務屋のはずだった私が、どうしてもうすぐトップアイドルなのか! ってね』
 プロデューサーの表情が、何だそんなことか、という本音をはっきり現わしていた。
その表情が気になり、律子はほんの少し唇を尖らせた。
『何よ。いつもみたいに、俺のおかげだな、とか言わないんですか?』
『いつもみたいって何だよ。俺いつもそんな感じ?』
『うん』
 腰までおろしてプロデューサーがいじけ出した。
律子はそれを見て不謹慎にもケタケタと笑い、それを見たプロデューサーがますますいじけに精を出していく。
『あーあーハイハイそーですよー俺はいっつもふざけてますよーだ』
『っく、あははは、おっかしい!』
 腹まで抱えて笑いだした律子を見、プロデューサーはゆっくりと立ち上がる。
澄んだ冬の空が広がっている。
『まあなあ。だから言っただろ、高木さんの目に間違いはねぇって』
『私も社長のお眼鏡に適ったんですかね?』
 じゃねえの、とプロデューサーは言い、
『それに、律子がここまで来れたのは別に俺が何かしたからじゃないよ。俺は手伝っただけ』
『え』
 プロデューサーは律子の声ににやりと笑うと、飲み干した缶の飲み口を律子に見せる。
何をするのか分からない律子に、プロデューサーは自信たっぷりにこう言う。
『俺の仕事は、ここ』
 そう言ってプロデューサーが指さしたのはプルタブだ。
まったくもって意味が分からない。表情にそう出ていたのか、プロデューサーはあら、と肩透かしを食らったかのような表情をして、
『だから、えーと、例えばだよ。律子はここでいうコーヒーなわけよ』
 プロデューサーは指で空き缶をぱちぱちと弾いた。カン、カンという澄んだ音が冬空に響く。
『高木さんの仕事は自販機に金入れてボタンを押すとこまで。で、俺はプルタブを開けて飲めるようにする役目』
 ああなるほど、という感想が表情に出たのか、プロデューサーはニマっと笑う。
『中身を飲む人に受けるかどうかは、中身次第?』
『そういうこと』
 腕時計を見ると、もう間もなくオーディションの時間が迫っていた。
律子はあわてて残りを飲み干すと、とたんに先ほどまで忘れていた緊張がぶり返す。もう少し待てば、中身が受けるかどうかわかるのだ。
 と、そんな緊張を見越したのか、プロデューサーが再び不敵な笑みを作ると、
『何、プルタブはちゃんと起こしたんだ。後は腹括って飲まれるしかねえよ』
 心情の機微には疎いくせに、この人は時々うまい事を言う。


 後は腹を括るしかない、と言われた。
 その通りだ、と思う。



7.
 翌日、律子は果物のバスケットを片手に病室を訪れた。
生まれてこの方扉をノックするのにこれほど緊張したことはない。控え目でややもすると聞き取りにくいかもしれないノックに中からはいと返事が返ってきて、律子は全身の毛が逆立つのではないかというほどの緊張を味わう。
 ガチャリと扉を開けると、白い入院着に着替えたアイドルがベットに横たわり、一瞬の驚愕ののちに表情を地蔵に変えた。
「おはよう。…足の具合はどう?」
 窓際には見舞いの品が所狭しと並んでいて、それらの夥しい品にはそれぞれにタグが付いており、そのどれにもアイドルの名前が書かれている。
フライデーされることは水際で防いだと社長は言っていたが、熱心なファンの中には週刊誌以上の捜査網があるらしい。
「明日には…退院できるそうです。その、すみません、予定をずらしちゃって、」
 ベットの中で縮こまるアイドルに律子は鷹揚に手を振ると、隅に置かれていたパイプ椅子を広げて座った。
こうするとアイドルの表情と包帯に巻かれた足が一気に見える塩梅だ。
恐縮する一方のアイドルに向かい、予定ね、と言うと、律子はおもむろにハンドバッグから大きめのスケジュール帳を抜き出して、

 何のためらいもなく、力の限り手帳を引き裂いた。

 驚愕するアイドルの前に、紙の束が躍る。
紙束の雨の中、律子はどこか吹っ切れたような表情を浮かべている。
 「話、聞いてくれる?」
 アイドルの表情が強張る。わずかに縦に動いたのを見て、律子はやがてゆっくりとこう切り出した。


「…私ね、あの人に認められたかったんだと思う」
 今は遠い海の彼方にいる“あの人”を思う。
初めて会ったときはよれよれのシャツによれよれのスラックスで、本当に今まで2人もトップアイドルを育て上げたのかと思った、あのお調子者の表情。
「最初はね、本当にどうしようもないくらいだらしなくて、ホントにこの人がトップアイドル作ったのかなんて思った」
「律子さんの、プロデューサーさん、」
 アイドルの相槌に頷く。律子はやがてゆるゆると息を吐き、次の言葉を選んだ。
「ランクが上がっていくにつれて、あの人のやってることも手広くなっていったわ。
 CDも何枚も出したし、歌番組にも何度も出た。やりたくないけどグラビアの撮影もしたわ」
 アイドルの眼には今、一年前の『秋月律子』が映っている。
アイドルがアイドルになる前、まだひと山いくらのジャリだったころに夢見たスーパースターの独白が始まっている。
「それは全部『秋月律子』にとってプラスに働いた。
 無茶苦茶なことも要求されて、私もこんなだから結構応戦したんだけど、
 その結果『秋月律子』は結局アイドルとしてはそこそこのところまで行けたのよ」
 全部あの人のお陰、と律子は付け加えた。アイドルは黙ってそれを見ている。
「それで、結局どうなったんですか」
「仕事していくうちにね、自分でも限界が見え始めた。
 もともと可愛くないしね、アイドル以外の方向を探し出したの。
 そして、辿り着いたところが――」
 プロデューサーという仕事なのだろう。アイドルは律子を見ている。

今、アイドルの視界には引退を間近に控えた『秋月律子』の最後の雄姿が映っている。

 律子はいったん言葉を切ると、再び口を開いた。
「最初は、あいつにも出来たんだから私にも、って思ってたところは正直あった。
 アイドルとしてやってた頃からプロデューサーになるための勉強もした。
 意識し出したころから自分の身になる事は吸収しようとしたし、あの人の仕事も盗み見て覚えた」
 アイドルの視界には今、お下げでもメガネでもない、コンタクトにウェーブのかかった髪の綺麗なプロデューサーが映っている。
「そうしてあなたをプロデュースしているうちにね、欲が出たの。
 あなたをトップに導くことができたら、あの人は私のこと一人前のプロデューサーとして、
 後輩として認めてくれるかなって」

 律子は今、遠くを見るような、夢を見るような、絶対に手の届かない憧れを見るような眼で天井を仰いでいる。
今は遠くにいる“あの人”の影を追いかけ、追いつこうとし、結局追いつかないのを知りながら無我夢中で走っているように見える。
 
「でも、結局あなたの事を見てはいなかった。…ごめんなさい、この怪我は私のせいね」
「そんな事ないです」
 顔を向けると、アイドルは今まで見せたことのないような優しい表情をしていた。
律子は救われたような表情を見せ、すぐにその表情を心の奥底に引っ込めて頭を垂れた。
 そんな事ある。私がちゃんとあなたのこと見ていなかったから。
 あなたが言おうとしていたことを聞こうとしていなかったから。
 全てをスケジュール帳という紙の上で考え、ファンの人数という数字で捉え、オーディションの素点で全てを分かった気になっていた。

 そうして、あなたの事をちゃんと見ていなかったから。

「ごめんなさい」
「あの、プロ…律子さん」
 見上げると、やはり穏やかな表情のアイドルがいた。
「…これからも、わたしの事プロデュースしてくれますか?」

 律子は今、初めて目の前の少女の地金を見た気がする。
 長い長い屈折と鬱積の道のりの上に、ようやく一つの回答に行きついた気がする。

「…私で、いいの?」
「律子さんじゃなきゃやです」
 そう言って屈託なく笑うアイドルの輪郭がいきなりぼやける。あれ、と思い、数回の瞬きをして突然零れた涙の存在を知った。
何で泣いてるんだろう、と思う。うれしいはずなのに、どうしてかぼろぼろと涙が零れてくる。
 慌てたのはアイドルの方だ、突然の律子の涙に驚いて無理やりティッシュをとろうとしてベットの手すりに足をぶつけて悶絶する。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「いっ、り、律子さんこそ、何でそんな突然、」
「分かんないわよ! 分かんないけど何か泣けてきたの!」
「こ、こっちこそ意味分かんないですよ!」



 その翌日、律子は無事に退院したアイドルとともに765プロデュース本棟の音響室で籠城を行った。
籠城のための資本は何十枚かのCDで、これは律子が昨晩から一睡もせずに選んだあまり足を動かさなくていい曲だ。
今までは律子がイメージ戦略を兼ねていくらか振いに落とした後にアイドルに新曲を選ばせていたが、今回は一切の振いに掛けずに全てをアイドルに聞かせる腹積もりだった。
「わ、候補ってこんなにあるんですか」
「全体から見たらごく一部なんだけどね。振り付けであんまり足動かさなくていいやつ選んできたの」
 もっとも、振り付けから楽譜の捜索までを入れたら一晩掛かった。765プロの極小時代を知っている身としては苦労半分感慨半分といった具合だ。
アイドルはと言えばすごいすごいと言って一枚一枚のジャケットを見比べており、バンテージで固められた足を器用に使って気に入ったCDをうまい具合により分けていく。
「良さそうなのあったらこっちにちょうだい。今日一日かけても終わるか分かんないから、気に入ったの片っぱしから掛けて行くわよ」
「了解であります!」
 そう言うと、今度はごく真剣な表情でCDの選定にかかる。
あれもいいなーこれもいいなーとぶつぶつ言いながら楽しそうにCDを選んでいくアイドルを見、律子はやれやれと溜息をついてサウンドコンソールに火を入れにかかる。



8.
 中間管理職も楽ではないと思う。
 つい何カ月か前までは律子のプロデューサーとしての仕事は机の上で終わっていたはずなのに、今律子がやっているのはスタジオのスモークのタイミングセットとバックバンドのタイミング合わせと背景の設置管理で、特に背景の設置に関してはどうにも律子自身気に食わないところがあって、しまいには自分から率先して背景スタッフに交じりだしてしまった。
何せ今週末は初めてのドームライブだ。無限にあるとすら感じた時間はもはや残り少なく、今日から明日にかけてはリハーサルもあって今日中にこの舞台を何とか完成させなければならない。
まさに一人何役を地で行く姿はまるでどこぞのプロデューサーを彷彿させると古いスタッフから憐れみ半分で言われた。余計なお世話だ。
 と、設計図片手にああでもないこうでもないとト書きを入れる律子の頭上で、まるで爆発でも起こったのかと言わんばかりの勢いで扉が開いた。
何事かとそちらを見遣ると、すっかり舞台衣装に身を包んだアイドルがとんでもないスピードで吹っ飛んでくるのが見える。
「律子さん!! 律子さん律子さん律子さん!! 見て、見て下さいこれってわあ!?」
 と、やはり埃を舞い上げそうな勢いで急停止したアイドルは律子の格好に目を見開いた。
疲れ切った首を動かすと、何か信じられないモノでも見たかのような表情のアイドルが映る。
「な、何なんですかそのカッコ!?」
「何って作業着。舞台もうちょっと待ってね、ペンキ乾いてないのとかあるから」
 目を見開くのも無理はない、今までスーツ姿しか見たことのなかった律子がいきなり土建よろしい作業着に着替えていれば誰だって驚く。
開いた口が塞がらない、という様子のアイドルに溜息をつき、ふとその手に握られた音楽雑誌に気がついた。
「先週の売り上げの結果でしょ。おめでとう」
「ありがとうございます! ってあれ、知ってたんですか?」
「知らないでか。入荷前の奴が事務所に納品されたから一部かっぱらってきたのよ。
 やったじゃない、私もその順位取ったことないわ」
 上位も上位、アイドルのCD売上ランキングは上から数えて5本の指でおまけの付く順位にランクインしている。765始まって以来の快挙だと社長が小躍りしていたのがついさっきのようだ。
悔しさ以上に嬉しさがあり、律子自身その心境の変化に内心驚いている。
と、感極まったのかアイドルが突然律子目掛けて飛んできた。
「やったーっ!! やった、やりましたーーっ!!」
「わーーっ! 飛びつかないで、インクが移るっ!!」
 飛びついてきたアイドルを引っぺがそうとするが、アイドルは離れない。
移ったっていいですぅ、と猫よろしくぐりぐりと頬を寄せるアイドルに律子はため息を付き、もう一度おめでとう、と心からの賞賛を口にした。
「わたっ、わたし、律子さんに付いてきてよかったですっ! 律子さんのおかげで私ここまで来れましたっ!!」

「何言ってんの、私はあなたの手伝いをしただけよ」

 あれ、と律子は思う。
 どこかでやったようなこのやり取り。懐かしいような、遠い日の大切な思い出のようなやり取り。
「私の仕事ってプルタブだもん」
 案の上、アイドルはぽかんとした表情をし、ついで表情一杯に疑問符を浮かべた。
何言ってるのこの人、という表情に、律子は苦笑をもらす。

 覚えている、あの高架の上の、あの冬の日のオーディションの前のやり取り。

―――だから、えーと、例えばだよ。律子はここでいうコーヒーなわけよ。

「例えばね。あなたは缶ジュースの中身なのよ」
 何のことだろう、という表情のアイドル。
手に取るように分かる、きっともう少し説明すればその表情に理解が広がっていくはずだ。

―――高木さんの仕事は自販機に金入れてボタンを押すとこまで。で、俺はプルタブを開けて飲めるようにする役目。

「採用面接社長だったでしょ? あの人は自販機にお金入れてボタンを押すのが仕事。
 で、私の仕事は缶のプルタブを開けて飲めるようにすること」

 ああ、と表情に急速に理解の色が広がっていく。
覚えている、あの時のプロデューサーのしてやったりな表情。
きっとあの時の律子はこんな表情をしていたに違いなく、今自分は確実にあの時のプロデューサーのような表情をしているに違いなく、この次に来る言葉はもちろん、
「じゃあ、飲んでもらえるかは中身次第ってことですか?」
「そういうこと」
 するとアイドルはうんうんと考え、考え考え考え、
「で、でも、例えばですよ?」
 会話が今に戻ってくる。あの時と違う展開におやと思い、何やら難しい顔で何かを考えだしたアイドルの次の言葉を待つ。
「プルタブって言っても、いろんな形があるじゃないですか。丸いのとかおっきいのとか」
「ああ、まあ確かに」
 そこでアイドルは下を向き、舞い上がった頭で懸命に話を考え、やがて納得がいく答えができたのか勢いよく顔を上げた。
「いろんな形のプルタブの中で、飲む人はやっぱりプルタブの形も見ると思うんです。
 これ飲みやすいなとか、これちょっと飲み辛いとか、…だから、」
 間もなく舞台が整う。もうすぐリハーサルの時間が迫っている。
律子の目の前には今、あの頃の“秋月律子”ではない今を立つアイドルの笑顔がある。

「わたしって飲み物のプルタブの形を作ってくれたのが律子さんで、やっぱりよかった、と思います」

 そう言ってぺこりと頭を下げると、アイドルは再び雑誌を片手に舞台へと一直線に駆けていく。


 ねえ、聞いた?


 律子は遠い遠い昔の自分と、昔の自分に向き合ったプロデューサーに問いかける。
冬の青空、高架の真ん中でのあの会話、渡された微糖の缶コーヒーと、自分のことをプルタブといったあの人の笑顔。


 私、この仕事選んでよかった。


 今なら心の底から言える。彼女のプロデューサーをやっていてよかったと、胸を張って言える。
 覚えている、自分の言おうとした言葉。
―――もし私がトップアイドルを作れたら、その時は、
 作ったのではなかった。やっとそれに気付けたと思い、律子は眼下に広がるステージで大きく手を振るアイドルに手を振って返す。
もうすぐドームライブのリハーサルが始まる。
マイクに火が入れられる、バックバンドが最後の音響チェックを行う、ステージライトが、書き割が、スモークが、ありとあらゆる演出がただ一人のアイドルのために最高の空間を演出し始める。
―――その時は、私のことを認めてくれますか。
 あの時はそう思っていた。
まだアイドルと衝突する前の、まだプロデュース業の何をも知らなかった頃の、まだ憧れを追いかけているだけだったころの自分の言葉。
 次にあの人に会ったら、私を、ではなくてこう尋ねよう。


―――あの子のこと、認めてくれますか。



9.
 例によって突然の呼び出しの行先は社長室だった。何かやったかな、と思いながら律子は社長室の扉をノックする。
入りたまえ、という声に扉を開けると、いきなりクラッカーを鳴らされた。悪ふざけにも程があると思う。
 律子は不機嫌を全く隠そうともせずにクラッカーを両手に持っていた社長を思いきり睨みつけた。
「何だね。せっかく祝ったのにその不満そうな顔は」
「扉開けていきなりクラッカー鳴らされて喜ぶ奴だらけなら、もうちょっと世の中平和に回ってると思いますよ?」
 せっかく用意したのに、と愚痴る社長を尻目に促されたソファーに座る。
どうでもいいがこの紙吹雪は一体誰が片付けるんだろう。
小鳥だったら容赦なく社長を責め立てるだろうし、もしそうならちょっといい気味な気もする。
「まったく、最近の君はあいつに似てきて困る。入社したばかりの頃の君はもう少しからかい甲斐があったのだがね」
「知ってます社長? 最近女性事務員の間で社長セクハラ対抗コミュニティっていうのができたらしいですよ。
 ある日突然地検のお世話になりたくなかったら暫くはおとなしくしといた方がいいですね」
 社長はぐぬぅ、と唸り、紙テープを巻き取ってデスクの上に置くと、紙テープの代わりに茶封筒を律子に渡してソファーに座った。
「そうするとますますあいつに似てきたな。さすが子は親に似るか」
「誰があの人の子供ですか。こんなでかい子供いたら流石にぶっ飛ばします」
 そうしたまえと言い、社長は茶封筒の中身を見るように顎をしゃくった。
促されるように茶封筒の中身を見ると、律子がプロデュース業をするにあたって社長と交わした契約書と一緒にアイドルの契約書が顔を出す。

 しばらく、時間が止まったような錯覚を得た。

「―――まずはドームライブの成功、おめでとう。私から見ても、あのライブは素晴らしいものだった」
 社長の言葉を理解するのに、数瞬の時間を要した。
 茶封筒の中身。律子のプロデュース契約書と、アイドルの契約書。
もうずっと昔の事のように思える、初夏の新緑が芽吹いていたころの朱肉と実印の乾いた臭い。
「…もう、そんな時期ですか」
「ああ。…そうだね。もう、そんな時期だ」
 この契約書に印を押したときは、一年が長いと思っていた。
まだアイドルでしかなかった自分は、その一年をとても楽しく、充実した一年として過ごしてきた。
―――長いとも言わないけどね。
 全くだ、と律子自身思う。本当に、本当にあっという間に一年間は過ぎ去ってしまおうとしている。
これがプロデューサーとアイドルの時間の違いかとも思うが、律子自身もまたあの頃感じた一年間はあっという間だった気もする。
「765プロデュース株式会社は、そのプロデュースクールを1年間と定めている。
 これは、君とて例外ではない。そして、君は見事一年間で彼女をトップに君臨せしめた」
 社長の言葉が、どこか遠くから聞こえてくる。
ずっとずっと遠いと思っていた終わりの日が、気がついたらすぐ目の前に迫っている。
「私は代表として、君と彼女に敬意を表する」
 敬意などいらない、と思う。
 そんなものドブにでも捨ててしまったらいいと思う。
そうすることで彼女のプロデューサーを続けていられるならそうするし、それ以外に手段があるならどんな障害があろうともそれを選択すると思う。
「…君も知っての通り、765では1年間の活動を果たしたアイドルにふさわしい花道を用意する。最後は、君が…君たち自身が、閉めたまえ」



 道すがら、いろいろな事を考えた。


―――体調不良のため本日はお休みさせていただきます。申し訳ありません。
 去年の夏の、まだ相手を何者かすら分かっていなかった時期の、人形遊びをしていた時のメール。
 あの頃の自分は、数字とデータですべてを分かった気になっていた。


―――それは、…分かってますけど。
 ようやく歌いこめてきた歌を変えると告げた時の、あの表情。


―――私はあなたの…人形じゃ、ない。
 初めて見た、あの時の鋭い眼光と悲痛なまでの声。


―――…これからも、わたしの事プロデュースしてくれますか?
 あの時の、救われたような気分になった申し出。


―――わたしって飲み物のプルタブの形を作ってくれたのが律子さんで、やっぱりよかった、と思います。
 ―――――…。


 ふと、『律子だから』といったあの寸足らずの気持ちに思いを馳せる。
今になって、あの時のプロデューサーの気持ちが何となくわかった気がする。
 あの子だからここまで来れたのだろうと思う。

 社屋併設のボイストレーニングルームにつくと、律子はためらいがちにノックした。
もっとも、もしアイドルがボイストレーニングルーム奥の防音室に入っているならノックの音など聞こえるはずもない。
散々ためらった末に静かに扉を開けると、鏡に隔たれた防音部屋で背を向けて歌うアイドルが見えた。
 防音室手前のコンソールを操作し、控室にも防音室内部の声が届くようにスピーカーを操作する。
ばっつん、という情緒もへったくれもない音がして、控室と防音室を隔てるガラスの上隅2か所に設置されたスピーカーが中の音を拡張して控室に奏でだす。

―――最初は、あんなにへたくそだったのにね。

 スピーカーが奏でる声が、律子の耳に届く。
 最初は確かにへたくそだった。子音と母音の差がはっきりせず、「は」が「あ」に聞こえたこともしばしばだった。確かあの時は音響部屋に缶詰にして一日ボイストレーニングに費やした。
それが今や伸びやかな声になり、朗々と歌を歌うようになり、時には雷のように激しく、時には琴線を動かす声となってファンを魅了していった。
―――私は手伝っただけよ。
 その通りだ、と思う。声の質まで変えることなどできないし、ここまで響く声にできるとも思わない。
彼女は頑張ったと思う。へたくそでも自分として、という彼女の言葉通り、ここまで彼女は成長した。
―――高木さんの持ってくる子に外れはないだろうし。
 まったくもってその通りだ、と思う。
彼女はきっとあたりも当たり、大当たりだったのだろう。
先々週のCD売上ランキングにせよ、先週のドームにせよ、彼女は彼女として聴衆を魅了していた。
 彼女は今、“アイドル”として“みんな”と向き合っている。堂々と渡っている。
自分は今、そんな彼女の手伝いをして、彼女の成長をここまで見てきたのだと思う。

 誇らしかった。

 ざまあみろ、あの子は私以上に成長したぞ。
 曲が終わるころ、律子は決して聞こえるはずのない防音壁の中に向って、惜しみのない拍手を送った。



 最後に聞いておきたいことがあるのと言うと、アイドルは律子が何を言おうとしているのか悟ったようだった。
誰もいなかろうと思っていた別棟の屋上はやはり誰もおらず、遥かな高みに青く広がる空とぼつぼつと生える街路樹の緑のコントラストが合計4つの目を焼いた。
 ベンチに腰掛ける。このベンチはプロデューサーが『屋上にはベンチだろ』と言ってどこからか買い付けたもので、後で請求書が社長にばれてしこたま怒られたという曰くの品で、春先には都心にも不思議と数の多い桜がよく見えるという隠れたスポットとしての屋上の意外性に花を添えていた。
 「もうすぐ夏ですね」
 アイドルの言葉にそうねと相槌を返した。
まだ朝晩は冷えることもあるが、日中はお天道の頑張りによれば半袖でも過ごせるような陽気だ。
律子はもう一度そうねと言うと、何の気なしに別棟の屋上から見える街の景色に視線を送った。
 
「ね、律子さん。ボイススタジオってどの辺ですかね」

 質問にアイドルを見ると、妙にキラキラした目で律子を見るアイドルと目があった。
やれやれと苦笑ともつかない笑みを漏らすと、太陽の位置と自社ビルの方向から大体の方角を計算し、
「ここからじゃ見えないと思うけど、あっちの方」
「じゃあ、イメージングのトレーニングルームは?」
「えーと、こっちが東だから、あっちかな。あの緑色の屋根の方角」
「じゃあ、」
 アイドルに請われるまま、頭の中の地図と逆算した方角計を頼りに様々な方向を指さす。
あっちはドームで、じゃあこっちはこの間の営業で行ったCDショップ、じゃああっちの方にこの間慰問にいった施設ですかね、それじゃあこっちは作詞家の先生の家で、
向こうはグラビア撮影のスタジオ、その向こうにダンスのレッスンスタジオがあって、もうちょっと行くとレコード会社の本社があって、ぜんぜん違う方向にテレビ局が

 ダンスのレッスンのスタジオがあって、

 指さしと説明が尻切れに終わり、アイドルは律子を怪訝そうな顔で見た。
なんだろう、という表情に自分の表情を垣間見た気がして、律子はとうとうその疑問を口にする時が来たと思った。
 「―――…、ねえ、どうしてあの時、もう一度私にプロデュースさせてくれたの?」
 思い出す、あの冬の日のダンススタジオ。
あの時、律子は完全にこのプロデュースは失敗したと思った。
あんな怪我をするまでにアイドルを追い込んだのは自分だし、またあんな怪我をさせるまでアイドルの本心に気付けなかった自分も自分だと心から思う。
 だから、アイドルのあの申し出はどん底の律子を救った一言だった。が、なぜアイドルはまた律子にプロデュースさせる気になったのかが分からない。
別棟を持つまでに成長した765には律子以外にもプロデューサーはいるし、その気になれば律子以外の誰かを新しいプロデューサーに付けることだって出来たはずだ。
 だが、アイドルは再び律子をプロデューサーに選んだ。
 律子には、それが分からなかった。
 律子の問いに、アイドルは呆けたような表情の後、いつぞやのようにうんうんと唸り出した。
30秒ほどもそうしていただろうか、アイドルは一度下を向くと、やがて何かを決意したように顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
 「―――わたし、」



10.
 ファイナルライブは発表と同時にチケットが売り切れるほどの人気を博している。
ダフ屋どもに掴まったおかげでプレミア物のライブチケットとして暴利同然の値段で売られたチケットすらも即完売したという。
律子は3日も前からドームに泊まり込みで最後の調整に挑んでいて、相変わらず給金以上の仕事をしない大道具方に特攻隊の将校のような視線を送りながら台本片手に舞台袖を飛び回っている。
もう開場まで1時間もなく、バンドとのリズム合わせもスモークの炊き方もライトアップのタイミングも調整は完了しているが、それでもやり残したことがあるような気がして律子は気が気ではない。
袖からでは分からない背景との距離感をつかもうと客席を踏み抜く勢いでドーム最上階の客席に上り、事前に何度も打ち合わせしたアイドルとのイメージ通りの舞台の設定をこれでもかとばかりに確認している。
 ドームの真ん中の、通常ならA席として売られる中腹にはVIP専用の座席が確保してあり、もう間もなく到着する高木社長や765の重役たちはここに陣取ってアイドルの最後の雄姿を見届けることになっている。
不思議なことに律子の知っている重役の数よりも確保した座席の数が多いが、スポンサーでも来るのだろうと理屈をこじつけて納得し、律子はもう一度雪崩に遭ったスキーヤーのような勢いで舞台に飛んで袖のチェックを行う。
 アイドルはもう間もなく発声を終えて最後の大舞台に立つための心の準備のために袖に来ることになっている。
今ではもう開場を待ち望むファンの行列が異様なまでに長い列を作っているとモギリが悲鳴を上げている。
安いバイト料であれだけの人数を捌かなければならないのは確かに気の毒だが、しかしこのバイトを選んだのは自分自身であると納得してもらう他なかろうとも思う。
律子は再び音響室に戻ると、スピーカーのボリュームと磁石共鳴の有無を確かめ、ついでにDVD編集のためのマイクの感を確かめ
 次の瞬間、恐ろしいまでの勢いで半狂乱のファンが会場に突入してきた。
律子は舌打ちして時計を確認する、もう開演まで1時間を切ってしまった。
外に音が漏れるのを全く気にせずにマイクに掌を当てて感を確かめると、律子は大きく頷いて袖へとつながる階段へと向かう。


「りっ、律子さん! ファンの方がこんなに来てますよ!!」
「この間のドームの時より凄いわね」
 袖に降りるとアイドルが跳ね付いてきた。
飛びつかれるままに返事をし、律子はアイドルにその場でターンするように指示をする。
「大丈夫? 緊張してない?」
「してます!」
「しないで」
「無理です!」
「でしょうね」
 二人で選んだ衣装は大きめのリボンのついた可愛らしいものだ。
律子は後ろに回ってリボンの歪みを直すと、がちがちに固まったアイドルの両肩に手を置いた。
それだけ期待されているなどと無粋なことを言うつもりもない。
つもりもないが、もう間もなく始まる最後のステージを緊張で最初からコケさせるわけにもいかない。
このライブをもって律子のプロデュースは終了するが、まだ彼女には次がある。
 両肩におかれた手の平に驚き、アイドルが律子を不安げな表情で見る。
律子はいつもの通りの不敵な笑みを浮かべると、まだ瞳の揺れているアイドルに向かってこう言った。
「声の調子はどう?」
「ばっちり…だと思うんですけど、」
「体は? どこか痛いところとか、いつもと感じの違うところは?」
「心臓がバクバクしてます」
「止めて」
 果たしてアイドルは笑った。
死んじゃいますよ、と屈託なく笑うアイドルの表情を見て、律子は安心したように時計を見た。
緞帳が下りているくせにステージ袖にまで届いてくるファンの熱い声が二人の鼓膜を揺らす。
もう袖にいられる時間はなく、もう二人でいられる時間もなく、もう間もなく最後の幕が上がる。
「これで、私があなたのプロデューサーでいるのはおしまい。このライブで、あなたは私の手から離れるわ」
「はい」
「舞台の準備は完全よ。音響もスモークもバックも全部ばっちり」
「はい」
「あなたの声の調子もいい。心臓以外は問題もない。…何か不安ある?」
 開演が迫る。ファンがアイドルの名前を絶叫する。
今まで明かりの付いていたステージのライトが一気に落ちて、律子とアイドルは袖の豆電球に照らされる。
 アイドルは律子のことをじっと見ている。律子もまたアイドルを見つめている。
一年間という長いようで短かった時間の最後が、もうすぐ幕を上げる。
「これで、最後なんですよね」
「うん」
「律子さんと一緒にやるの、もう終わりなんですよね」
「…そうね」
 そこでアイドルは目を瞑り、しばらくの後に眼を開いた。その眼には律子の顔がはっきりと映っている。

「ありがと、律子さん」

 アイドルはそう言うと、屈託なく笑う。律子もつられるように笑う。
それ以上の言葉は何もいらないと思う、万感の思いを込めた「ありがと」を受け取り、律子はとうとう最後の仕事が終わったことを知った。
「…うん、頑張って」
「頑張ります。わたしらしく、…わたし達らしく。…だから、」
 そこでアイドルはもう一度律子の顔を見た。
アイドルの眼には今、自分を最後までプロデュースしてくれたプロデューサーの顔が映っている。
眼鏡をコンタクトにして、お下げをおろして、ストライプのシャツでもジーンズでもなく、スタイルがよくて歌もうまい、黒いスーツの格好いいプロデューサーが映っている。
 
 だから言おう、と思った。
 最後まで自分を見ていてくれたプロデューサーに、伝えようと思った。
「最後まで、見ててください」
「任せなさい」

 言葉にアイドルは満面の笑みを浮かべ、最高のプロデューサーに頭を下げ、勢いよく反転してステージに駆け出す。
アイドルの登場とともにバックライトが恐ろしいまでの光量でステージを焼き、バンドとマイクがアイドルの声に合わせて仕事をし始める。
何万人もが入るドーム全てを埋め尽くした半狂乱のファンの声が聞こえてくる、袖のミキサーのモニタが波型に波長を刻む、シーケンサに引っ掛けられたトラックが最初の曲をかけ始める、

 最後の時間が始まる。



 一体何を言われたのか全く分からなかった。
初夏の青い空と都心のビルの稜線と曰くつきのベンチを背景に、アイドルはもう、と言って再びその言葉を口にした。
『わたし、律子さんのファンだったんですよ』
『はあ』
 何ともいえない声が漏れた。
確かに律子自身2年前はアイドルで、CDは何枚も出したしテレビにも出たし、最後のライブは確かにドームではあった。
が、目の前にファンを名乗るアイドルがいるというのは何とも不思議な気分なもので、突然のカミングアウトに何と言っていいのか全く分からない。
『あの、わたし、小さい頃から歌とか好きで、将来はアイドルとか歌手になれたらいいなって本気で思ってました。
 あの時は確か受験の前で毎日灰色で、いつの間にか小さいころからの夢とかそういうの全然考えられなくなってて』
 確かそんな事が書いてあった。
あの時社長から渡されたアイドルの履歴書。小さいころからの夢で、歌の練習も独学でやっていて、
『今考えたら余裕がなかったんだと思うんです。
 毎日毎日が嫌でしょうがなくて、朝起きるたびに自分がすり減ってるような気がして。
 そんな時にローカルテレビで初めて律子さんのこと見たんです』
 律子は必死に記憶を手繰るが、ローカルテレビに出ていた頃はひたすらに上を目指してやれることは何でもやっていた頃だ。
確かプロデューサーがグラビアの仕事を持ってきたときに、グラビアとのタイアップで何度かローカル局にはお世話になっていた。
『最初は全然律子さんのこと意識してなくて、なんか新しいアイドルが出たんだ、くらいにしか思ってなかったんです。
 でも、そのうち律子さんの事色んなところで見かけるようになって、
 CDとかもバンバン出て、すごいなって思うようになっていって』
『…それで?』
 相槌を打つと、アイドルは一つうなずき、再び記憶の発掘に乗り出した。
やがて掘り起こした記憶を語りだした時、律子の目の前にはアイドルでも何でもない、ただの少女がいた。
『律子さんってどんなことやってるんだろうって思って調べたことあるんです。
 そしたら、1週間でテレビには何回も出るし、ラジオもやってるしインタビューにも答えてるし、科学番組まで持ってる人だってわ  かって。
 あの時の全然余裕のなかったわたしは、何でこの人こんなに色んな事できるんだろうって思ってた』

 声が聞こえた。
―――でもさ、律子。もし本当にマジでこの仕事嫌なら今からでもキャンセルするよ。

 本当にマジで嫌な仕事なら確かに腐るほどあった。
が、その都度プロデューサーから必ず実がなるといわれ、訝しみながらも仕事に挑んだものだった。
営業先でぶん殴ってやりたい卑下な嘲笑に遭ったこともあったし、三日ほど凹んだ仕事も確かにあった。

 あの時、やめなくてよかったと思う。
 あの時やめなかったから、目の前にこの子がいる。

『わたしには、“秋月律子”がすごく輝いて見えました。
 悩みなんて何もない、できないことなんて何もない、歌もうまいし踊りも出来てスタイルもいい、すごく格好いい人だった』
 そう言うと、アイドルは遠くを見るような、夢を見るような、絶対に手の届かない憧れを見るような眼で空を見上げた。
 律子は、それが遠い日の自分に向けられていた視線だと思う。
悩みもなく、できないことは何もなく、歌がうまくて踊りが出来てスタイルもいい、わずかだが絶対的に遠い2年前の“秋月律子”に向けられていた視線を思う。
『“秋月律子“が活動停止になっちゃったのはショックでしたけど、ダメもとで出した765の募集に通った時はすごくうれしかった。
 わたしもいつか“秋月律子”みたいになれると思いました。
 ひょっとしたら律子さんに会えるかもしれない、ひょっとしたらいろいろ教えてもらえるかもしれない。
 ずっとずっと努力して、765で頑張って行ったら、いつかわたしも律子さんみたいになれるかもしれないって』
 そして、アイドルは現実を見たのだろう。
アイドルの担当になった“秋月律子”とは似ても似つかない別人がプロデューサーとなり、“秋月律子”と全く同じ名前でアイドルのプロデュース活動をしてきたのだ。
さぞや幻滅しただろうと思うが、アイドルはそこで申し訳なさそうに笑った。
『最初は、律子さんが怖くてしかたなかったんです。
 わたしも全然だめだったし、律子さんからもらった指導も上手くできてなかったし。
 要領も悪くて鈍臭くて、やっぱりわたしは律子さんみたいになれないんだって思った』

 アイドルは淀みなく話す。それは、いつかアイドルの本当の気持ちを律子に伝えたかったからなのだろう。
 最後に聞いておきたいことがある、と律子は言った。
 アイドルもまた、これが最後になるとはっきり分かっているのだろう。

『それでも律子さんのおかげでわたしはランクが上がっていって、いつの間にかわたしはわたしの名前で全国区になってた。
 なんだか嬉しかったんです、“秋月律子”を追いかけてたわたしが認められた気がして。でも、律子さんは全然違ってて、
 ずっとずっと前を見てたし、ずっとずっと上を見てたし、ぜんぜん私のこと見てないような気がしてた』
―――私はあなたの…人形じゃ、ない。
 それが、あの言葉なのだろう。
律子は唇を噛みしめる。あの冬の日の後悔が一心に蘇る。
 忌わしくて、忘れたくて、決して忘れることはない、あの日のあの時のダンストレーニングスタジオ。
律子はアイドルの顔を直視できずに顔を伏せた。悔やんでも足りることはなく、謝って許されるものでもないと思う。
『…でも、違ったんです。わたしも、間違ってた』
 声に、律子は頭を上げる。見上げると、1年前とは見違えるほどに違うアイドルの笑顔がある。
『病室で律子さんが、律子さんのプロデューサーに認められたいって言ったとき、そっか、って思ったんです。
 今目の前にいるのは“秋月律子”じゃなくて、わたしのプロデューサーの秋月律子さんなんだって。
 律子さんだって普通の人で、悩むし迷うし認められたい人なんだって。わたしと一緒なんだって思って、』
 そこでアイドルは言葉を区切り、深く深く律子に頭を下げた。突然のことに驚く、
『え、何であなたがそこで頭下げるのよ、下げるのはこっちの方――』

『私は、あの時まで律子さんのこと“秋月律子”だと思ってたんです。
 勝手にフィルター掛けて、勝手に律子さんのこと何でもできるすごい人だって思って、
 勝手に“秋月律子”は冷たい人だと思い込んでたんです』
 だから、謝らなきゃいけないんです、とアイドルは続けた。

 律子は言葉を失う。謝らなければならないことはこっちにだってある。
上ばかり見上げ、前ばかり見つめ、アイドルの事をちゃんと見てあげられなかったのは自分なのに。
 認められたくて、人形遊びしたのは自分なのに。
『―――…だから、わたしと同じこの人なら、きっとこの先も大丈夫だろうって思って。
 わたしも律子さんに認められるように頑張ろうって思えて。だから、』
 アイドルはそこで言葉を区切り、ぶるりと肩を震わせた。

 『だ、から、…っ!!』

 屋上のアスファルトに、この世で最も尊い雨が降る。
アイドルは可愛らしい顔をクシャクシャに歪め、ぼろぼろと大粒の涙を零している。
両手を腿の脇で強く握り、溢れ出んばかりの激情をこらえようとし、涙線に抗い切れずにぼろぼろとおちる涙を、律子は例えようもなく綺麗だと思う。

『わ、わたしっ、…っ、りっ、律子、っさん、と、一緒に、…一緒にっ!
 …やれてっ、すごくっ…すごくっ、うれ、しかった、ですっ!!』

 こらえきれず、アイドルの肩を抱いた。
『…ドームの前に、売り上げで私のこと抜いたじゃない』
 胸の中で嗚咽を漏らしながらがくがくと頷くアイドルを堪らなく愛しく思う。
この子と別れなければならないのを本気で嫌だと思う。
それでも765の決まりは絶対で、高木社長を本気で呪わしく思い、彼女に巡り合わせてくれた765と高木社長を心から誇りに思う。
 この子と、この子の次のために、ちゃんと別れようと思う。
『ちょっと悔しかったけど、でもそれ以上に、』

―――わたしって飲み物のプルタブの形を作ってくれたのが律子さんで、やっぱりよかった、と思います。

『すごく嬉しかった』
 言葉に、アイドルは声を上げて泣いた。
律子は唇を強く噛んで涙を堪える。アイドルの手が背中に回って強く律子を抱きしめる。律子は今は泣くべきではないと思う、
 耐えられない、
 でも泣かない。

 ラストライブを絶対に成功させると誓う。



「みんなーーっ!! 来てくれて、見てくれて、本当にありがとーーーーっ!!!」
 アイドルの声に、ドームに詰めかけた何万ものファンが絶叫で答える。
開演からもう間もなく3時間が経ち、間もなく最後の時間の帳が下りる。
唯の一つも失敗はなく、アイドルはそのスケジュールを凄まじいまでの熱量と密度でこなしている。
 次が、最後の曲だ。
 次こそが、本当の終わりだ。
 ファンの咆哮が袖にいる律子の鼓膜を揺らす。袖の中にいるスタッフが最高の緊張感に包まれる。
律子の視界にはもはやアイドルしかおらず、今までで最高の輝きを放つアイドルはファンの熱を一身に浴びてマイクに次の声を吹き込む。
「これが最後の曲ですっ!! 最後だから、わたしのとっておきの曲で締めたいと思いますっ!!」
 今日一番の咆哮が来た。音響係が堪らずに両耳を押さえる。
律子は微動だにせず、ただただ目の前のアイドルの最後の晴れ舞台を見ている。
その表情に、どこまでも晴れやかな笑みが浮かんでいる。
 「聞いてください! 曲は、『魔法をかけて』!!!」

 アイドルが最後の歌を歌い出す。アイドルの声に合わせて、ドームに詰めかけた何万ものファンが歌っている。
この何物にも代えがたい歌を聴くのはこれが最後だと思う。
 律子は歌わない。ただ目の前のアイドルを見ている。瞬きすらせず、舞台袖というこの上ない特等席で、かつて自分が歌った歌を歌いあげるアイドルを見ている。

 ♪魔法を かけて♪

 1番のギグが終わる。瞬間、怒号のようなファンの絶叫が聞こえる。
だが曲は終わらない、最後に向けて何のためらいもなくBPM150のリズムで小節を刻んでいく。
間奏が終わり、2番のイントロがかかり、怒号が会場を巻き込んだリズムタップへと変わる。
アイドルが大きく息を吸う、



 律子の横に、男が立った。



 律子は横を見ない。何となくそんな気はしたし、心の機微には疎いくせに変なところで妙に鋭いあの人らしいとも思う。
舞台袖というこの世で最高の客席に、二人のプロデューサーが並んで立っている。
二人とも何も言わない。何も言わず、口すらも開かず、ただ両の手を握り締めて目の前の“アイドル”を見ている。
目の前の最高の“アイドル”を見ている。

 2番のギグが終わる。もう一度の咆哮がドームの天井を揺らす。
曲は終わらない、最後に向けてリズムを刻む。
恐ろしいまでの熱量が、夥しいまでの質量が、溢れんばかりの熱狂が、律子とプロデューサーの鼓膜を揺らしている。
時間が進む、間奏が終わる、これが最後とばかりに大きく息を吸い込むアイドルの息がミキサーのモニタに拾われる。

 最高の時間が、もうすぐ終わる。



 曲が終わると、アイドルは深々と頭を下げた。
とたんに恐ろしいまでの声がアイドルの名前を呼び始める。
誰もかれもがアイドルの次の言葉を待っていて、アイドルが最後の感謝の言葉を口にする。

 「…ねえ」
 「ん?」
 舞台袖で、二人のプロデューサーが拍手をしている。
プロデューサーだけではない、ミキサーが、大道具方が、スモークが、ライトが、モギリまでもが掌が裂けんばかりに拍手をしている。
 「あの子のこと、認めてくれる?」
 問いに、プロデューサーは拍手をしながらまっすぐ律子を見つめた。
―――わたっ、わたし、律子さんに付いてきてよかったですっ!
 まっすぐに律子を見つめ、穏やかに笑い、プロデューサーは遂に、その言葉を言った。



 「すげえな、お前ら」



 律子は拍手を止めない。舞台袖も、客席も、誰もが豪雷のような拍手を続けている。アイドルは頭をあげ、客席に向かって大きく手を振っている。

 泣いてもいいのだと思う。

 律子の瞳から涙がこぼれる。
眼鏡をやめて、お下げもやめて、ストライプのシャツもジーンズもやめて、スーツを着た律子が、泣きながら笑っている。

 泣きながら、笑いながら、最高の“アイドル”に拍手を送っている。



Epi.
「765の海外事業?」
 律子の問いに、プロデューサーはうむ、と社長よろしく重々しく頷くと、威厳もへったくれもないスチール製の机から茶封筒を取り出して律子に渡した。
「前に言ってたろ、海外事業をしたいとか。そのための足がかりだよ」
 封筒の中身には何枚かのA4のプリントとCDが入っており、英語文面の書面を無視して日本語の文面を読むと、律子は呆れたような表情でプロデューサーを見た。
まるで悪びれた風もなく堂々と開き直るプロデューサーに律子はいつかのように頭を抱える。
「…これ、社長に許可取ったの?」
「そのためにわざわざ日本食のないところに行ったんじゃないか。もー味噌汁が飲めなくてどんだけきつかった事か」
「研修だって言ってたくせに」
「研修もしたよ。いやーさすがショービジネスの本場、向こうのおねーちゃんのおっぱいが大きいこと大きいこと」
 律子は黙ってプロデューサーの頭上に鉄拳を見舞い、再び書面に視線を落とした。
日本語の書面にはフォント14の大きめの文字で『765プロデュース株式会社の海外事業展開について』と銘打たれており、クリップで留められた英語版の束の一番上の紙にも似たような事が書いてある。これは本気だ。
「本気なのね?」
「何だよ、言い出したの律子だろ?」
「まさかこんなに早くチャンスが巡ってくるなんて思ってなかっただけです」
 いつかは海外に打って出る。律子が“秋月律子”だったころに口にした野望だ。
だが、それ以上に面白い仕事に巡り合ってしまった以上、もう律子は“秋月律子”に戻るつもりはさらさらなかった。
「ビビった?」
「冗談。面白くなってきたじゃない」
 律子は不敵に笑う。律子の表情を見て、プロデューサーもまたにやりと笑う。
やる事は腐るほどある。国際基準に照らした会社作りをしなければならないし、経理の透明化も今以上に求められるだろうし、社内の言語研修もしなければならないだろうし、
国際化に向けて新たにアイドルの育成も進めなければならない。
「ねえ、プロデューサー、お願いがあるんだけど」
 律子の声に、書面に顔を落としていたプロデューサーは顔を上げて口元に弓を引き、ただ一言、
 「元気なの頼むぜ」
 「任せなさい」
 


 そうして、律子は再びアイドル候補生の履歴書を片手にうんうんと唸り始める。
その顔には、ただ将来への漠然とした不安と、それ以上に大きい期待だけがある。
 “アイドル”と過ごした1年間が、律子に勇気を与えてくれる。
 眼鏡もお下げも、ストライプもジーンズもやめた“プロデューサー”の、新たな挑戦が始まる。
 次のプルタブをどんな形にしようか考えながら、次の中身は何かを楽しみにしながら、律子は今日も履歴書をめくっている。



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