うさぎと亀

 友美だって見つけたんだから、私の運命の人がいたっていいと思う。
 実に長い時間の電話で要領を得た話といえば、親友が今度めでたく結婚するという事だけだった。
今日の天気の話から始まって、近所で見た犬の話、最近の仕事の愚痴、花見に行った時の思い出話――親友は、
そこまで話して、突然押し黙った。

―――あのさ、今度…結婚するの。
―――え…そう、なんだ。

 軽口が叩けるほど機転の利く頭ではないことなど人より分かっていたはずだが、
すぐに「おめでとう」の一言くらいは出てきても良かったはずだと今でも思う。
 だが、実際に口から出たのはたった一言だった。
「そうなんだ」という言葉には、軽口を叩く余裕も、祝う気持ちすら入っていなかったように思う。
ただ、近い未来に起こるであろう事実を確認するだけの言葉。

―――うん。会場はえーと、大学の近くなんだけど。ほら、あの教会みたいなところ。
―――、あの、きれいなところね〜。

 詰まりながらも適切な相槌を入れられたと思う。
 ベッドサイドにたまたまあったブックカバーに『教会』とだけ書いて、電話に集中しようとする。

―――それで、あずさにも、
―――ええ。もちろん参加するわ。

 集中しようとしていた。
 だが実際のところ、どんな会話をしたかおぼろげにしか覚えていない。会話の内容は夏の夜の深い闇に飲まれてしまった。

―――結婚するの。

 どこまでもどこまでも、親友のその言葉が反響していた。



「…………へ?」
 実に間抜けな声が出たと思う。
 清新気鋭のポット出アイドルからメジャー級アイドルへの進出を果たした担当アイドルが『アイドル』を目指した理由は、運命の人、とやらを探すためだと告白してきた。
 知らなかったです、と返すと、あずさは照れ隠しの中にほんの少しの不安を交え、こう尋ねた。
「…軽蔑、しますか?」
 野心のない奴に、夢のない奴に、この世界は優しくはない。
夢なくてこの業界に足を踏み入れたが最後、奈落は大きく口を開けて待っているのだ。
 だから、こう答えた。
「胸、張ってください。それだって、立派な目標です」
 その答えを聞いて、あずさは心底安心したように大きく息を吐くと、
「良かった。…プロデューサーさんには、いつかお話しないと、と思ってたんです」
 なるべく、私のことを知っておいてほしいから。あずさはそう言って、ふわりと笑った。



 次の日から、あずさの様子がわずかに、――本当にわずかに変わった。
 容姿も表情も全く変わらない。だが、やる事がほんの少しだけ以前より多くなった。
 例えば、今やっているダンスレッスンの振り付けが以前より鋭くなった、とか、ボーカルレッスンの発声が以前より大きい、とか。
なるべく、私のことを知っておいてほしいから。その言葉からしばらくたった今でも、そのわずかの変化は継続中だ。
 最初、プロデューサーはそれを「ランクCアイドルとしての自覚か」と思った。
であれば望ましい事だ、事実彼女を慕って765プロデュースの門を叩くアイドル候補生は後を絶たないし、
彼女自身こんなところで収まって満足してもらっても困る。
 ダンスレッスンが終わる。上を向いて息を整えるあずさに、タオルと水を差し入れ。
「あ、ありがとうございます、プロデューサーさん」
「いえ、お疲れ様です。最近調子いいみたいですね?」
「そう、見えますか?」
 そう言って笑う。
渡したタオルで汗をぬぐう。夏のスタジオは暑く、あずさほど動き回っていないプロデューサーですら汗をかくほどだ。
「朝もお伝えしましたが、この後はテレビの収録があります。ちょっと大変ですが、頑張りましょう!」
「はい」
 簡単なやり取り。それじゃ、下で待ってます、そう言ってプロデューサーはドアをくぐろうとし、
「あずささんも――」
行きましょう、と言おうとして、言葉を詰まらせた。

 あずさは、前かがみで膝に手をついていた。
不恰好な「く」の字を身体で描くように両腕を突っ張って上体を支え、口で荒く息を吐く。
すさまじいまでの疲労感を全身から漂わせ、その長い髪は首を伝って地面に向かっている。
 大丈夫ですか、と言う前に、それでもあずさは顔を上げた。
「それじゃ、行きましょう、プロデューサーさん」
 容姿も表情も全く変わらない。だが、そこにいるのは明らかに、以前の『三浦あずさ』ではなく、
そしてプロデューサーはこの時はじめて、『何か』があずさを変えつつある事に気付いた。
 それが何であるのか、何が原因かは分からない。分からないが、それは確かに存在する。
仕事に差し障らないならそれも良かろう。
 だが、収録を後に控えたダンストレーニングで疲弊するほど身体を突き動かす『何か』は、どう贔屓目に見てもプラスにはなりえない。
「…大丈夫ですか、あずささん」
 立ち尽くすプロデューサーより先にトレーニングルームを出ようとしたあずさは、プロデューサーの方を見て、機械のように笑った。



 NGの嵐であった。
 普段のあずさならまずやらないであろうコメントミス、サインを見逃してカメラフレームから出る、
とどめには振られた会話をねじ切ってしまうトークミス。
 13回のリテイクと数え切れないほどのダメ出しの後、あずさはほうほうの体でプロデューサーの車に乗り込んだ。
 5分ほど車を走らせたあと、プロデューサーはおもむろに口を開く。
「あの、あずささん。何か、悩みでも?」
「え?」
「いえその、最近のあずささんは何か、こう、」
「…前と、違いますか?」
 慎重に言葉を選ぼうとしてあずさのほうをちらりと見ると、彼女はフロントウィンドウ越しの風景をじっと眺めている。
 都会の夜の高速道路のくせに道はいやに空いていて、背の高いビルの電飾と看板のネオンが物凄いスピードで流れていく。
「ちょっと」
 それだけ言うと、プロデューサーもまた正面を見た。今日のテレビ局は765プロデュースのいわばお得意さまであり、
帰りに見る風景もいつものものと変わらない。
変わっているのは、帰り道の車内に会話がないだけだ。
「…ねぇ、プロデューサーさん」
 高速道路を降りたあと、今度はあずさのほうから口を開いた。
社長からの直帰許可は既に取ってある。高速を降り、都内の夜道をひた走る。
「? なんですか?」
「ウサギと亀、っていうお話、ありますよね」
 ちょっと面食らった。が、すぐに相槌を打つ。
「あの、ウサギと亀が競争をするっていう、あれですか?」
 助手席の人のあごが縦に動く。
ウサギと亀が競争をする。ウサギは自慢の俊足を生かし、亀よりもはるかに先にゴールへとたどり着く。
一方の亀は、遅々として進まない鈍足ながら、徐々に徐々にゴールへと進んでいく。
「最近よく思うんですが、あっという間にウサギに抜かされてしまった亀は、どんな事を思ったんでしょうね?」
「亀の思った事、ですか」
 いつの間にか、車はあずさの家の前までついていた。
 腕を組んで少し考える。
プロデューサーは亀ではないし、そもそも彼らはいったい何のためにゴールまでの競争を始めたのだろうか。
 ちょっと考えて、こう言った。
「…特に、何も考えなかったんじゃないですか?」
「何も考えなかった、ですか?」
「あー…、というよりは、考えている事に変化がなかった、というか」
 うーん参ったな、どう説明すればいいんだろう。
そう言って頭を掻くプロデューサーを、あずさは実に真剣な面持ちで見ている。
「ただ、亀はひたすら前に進む事を考えてたんじゃないですかね。…あれ、それじゃ競争って言わないかな」
「ひたすら前に進む事だけを、ですか?」
 はい、と言って再び頭を掻くプロデューサー。ひとしきり頭をカリカリと掻いた後、彼はハンドルに顔を埋めると、
「うーん。こう言っちゃうと、もう競争じゃないんですけど。
 亀だって歩いてるわけですし、だったら時間は掛かるけどゴールには必ず着けるじゃないですか」
 その足がどんなに遅くても、亀だって歩いている。
「そう…ですね。亀でも、歩いて、」



 鍵を開けて靴を脱いでシャワーを浴びてベッドに飛んだ。ボフ、という低い音とともにベッドの空気が一気に抜ける。
ベッドサイドの写真を見る。短大の卒業旅行で親友と撮った写真だ。
 あの頃は、何も考えずに笑っていられたと思う。
 1年でその周辺を爆発的に変えた親友は、あずさの目にはウサギに映った。
軽やかに飛び跳ね、実にあっさりと自分を追い越していく。
 負けた、とか、出し抜かれた、とか、そういった感情がゴチャゴチャになって、気づけば随分焦って走っていた。
亀の足で、敵うはずがないウサギに追いつこうと。
 ごろん、と仰向けになる。

―――あのさ、今度…結婚するの。

 その言葉を聞いた時、私と友美は、『ウサギと亀』ではなかったか、そう思ってしまった。
そう思った瞬間、どうしようもない衝撃があずさを襲った。まるでハンマーで頭を叩かれたような衝撃。
焦った。親友が手の届かないところに行ってしまうのではないか――そんな風に思って。
その挙句にNGをくらい、リテイクを行い、散々プロデューサーさんに迷惑をかけた。
 でも。
―――亀だって歩いてるわけですし、だったらゴールには必ず着けるじゃないですか。
 自分は、何を焦っていたのか。
 自分も、前に進んでいたのではなかったか。
 人が見たらいらいらするほどゆっくりと、のろのろと、
 しかし、確実に。
「…ふふ」
 笑みがこぼれる。
 亀だって前に進んでいる。
 前に進もうと思う。地に足をつけて、一歩一歩。
 人が見たらいらいらするほどゆっくりと、のろのろと、自分のペースで。
 プロデューサーさんと、一緒に。
 受話器を取ってリダイアルする。
電話帳など開かない、どうせ履歴は『友美』と『プロデューサーさん』で埋まっているし、
昨日の晩に友美に掛けてから誰にも電話していない。
 心の底から親友を祝おう。
この間言えなかった『おめでとう』を、今度こそ伝えよう。
コールが始まる。友美はコール音に気づくのがいつも遅い――人に言わせれば、それこそが私と友美が親友である良い証拠らしいのだが。
 幾回かのコールのあと、ガチャリ、という音が聞こえる。
「あ、もしもし、友美?」



 今日のオーディションは獲得ファン数7万人を誇る「Idol-Vision」である。
ずいぶん前から予定を入れていたオーディションであり、これをいきなりキャンセルする事はできない、のだが。
――大丈夫だろうか。
あずさが出社してくる前の765プロデュースの片隅で、プロデューサーはそんな事を思った。
最近の彼女は『らしく』ない。
無理に焦っている…最も、確信を持ってそういえる事ができたのはつい最近のリテイクラッシュの時だったのだが。
 落ちるかもしれないオーディションではある。
だが、例えば20%の可能性で落ちるのと40%の可能性で落ちるのでは意味が違う。
 ああどうしようどうしよう、いっそ棄権させてしまおうか――そんな事を考えていると、
「おはようございます、プロデューサーさん」
 そんな不埒な考えは、一気にどこかに吹っ飛んだ。
 そこにいたのは、紛れもなく『らしい』あずさであった。
どこか吹っ切れたような笑顔でこちらを見ている。
いつか見た機械のような面影はどこにもなく、その笑顔はまるでスズランを思わせる。
 これならば絶対に今日のオーディションに勝てる、そんな風に思わせるようなその笑顔。
「お、おはようございます、あずささん。よく眠れましたか?」
「はい、おかげさまで。…昨日は、本当にご迷惑をおかけしました」
 そう言って深々と頭を下げるあずさに狼狽し、
「大丈夫ですよ。大丈夫ですから頭を上げてください。それより――」
 なだめすかして頭を上げさせる。
「今日はオーディションですが…コンディションはどうですか?」
「ばっちりですよ〜。それより、もし今日のオーディションに勝てたら…お願いがあるんですが…」
「お願いですか? どんな?」
「そ、それは…今日のオーディションに勝てたらお教えします〜」
 そういって身をくねらせるあずさ。なんだかよく分からないが、そこにいるのは紛れもなく『三浦あずさ』であった。



 勝てたら教える、と言った。
 勝てたら教える、と言ってしまった。
 大きな口を叩いたものだと思う。それでも、今日はそれでいいと思う。
親友の新たな門出だ。これくらい大口を叩いても罰は当たらないだろう。
―――友美、遅くなっちゃったけど、おめでとう!
思い出す、昨日の電話での会話。
―――…うん、ありがと、あずさ。祝ってもらえなかったらどうしようかと思っちゃった。
―――ふふ。そんな事ないわよ?
―――ありがと。…それより、あずさの方はどうなの? 運命の人、見つかった?
―――私? 私は、うーん…
 亀だって歩いてるわけですし、だったらゴールには必ず着けるじゃないですか。
―――うん。見つけたかもしれない。
―――ホント!? おめでとう!
―――…ありがとう。ふふ、お祝いのつもりで電話したのに、あべこべになっちゃったね。
―――いいじゃない、おめでたい事が重なって。式の時に紹介してよ?
―――え、ええ。もちろん。
 大きな口を叩いたものだと思う。でも、それでいいと思う。
 あの人なら、きっと一緒に来てくれる。頭を掻いて、ちょっと照れくさそうに、でも一緒に来てくれるに違いない。
 オーディションの階段を登る。
 亀が一歩を踏み出す。
 『三浦あずさ』が、ステージに立つ。
 次の一歩を踏み出すために、大きく肺に空気を入れる。


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