声  (1)

 1.


颯爽と歩く大江の背中を追うのはなかなか難しい、と新米は常々思う。
もうちょっと後ろを気にしてくれてもいいと思うのに、先輩はなかなか後ろを見てくれない。
新米が入社したのは今年の春で、もう秋頃を迎えるが大江の足を引っ張りこそすれ手助けができたと思ったことは今のところ一度もない。
プロデュース業を伴う営業活動という歌い文句に引かれて入社したはいいが、この数ヶ月というもの大江の背中についてプロデュースの基礎を学ぶうちに新米は僕にプロデュース業が務まるのかと思う。
何せ超がつくほど多忙である。765プロデュース株式会社は今のところ一応は1プロデューサーが受け持つのは1ユニットという規定はあるが、何せ大江は3人のアイドルが加盟するユニットを受け持っている。
後ろにくっ付いている自分が目を回す程忙しいのだから当事者たる先輩はさぞ大変だろうと思うが、4月に初めて出会ったころから大江は忙しいとは一言も漏らさない。
では本当に忙しくないのかと思うとそんな事はなさそうで、営業先回りから帰って来た新米は先輩の机の上に今朝はうず高く積まれていた書類が雪崩を起こしているのを見ている。
飄々とした態度の先輩からは大したことじゃないというオーラが溢れんばかりに出まくっていて、ケツを追っかける後輩の立場からしてみれば「俺でも出来るかも」と思えたことはこれもまた一度もない。
それなりに人付き合いは出来る方だと思ってはいたが上には上がいると思わされ続けてきた半年である。とばっちりで小鳥から説教を食らった新米は不平たらたらの口調で休憩室のソファーに座った先輩に声をかける。
「…大江さん、もうホント片づけてくださいよ机の上。何で僕が怒らんなきゃなんないんですか」
「小鳥さんか。あの人ホントに片づけにゃ煩くてさ」
 へらへらと笑う先輩に向けて新米は思い切り溜息をつく。
別に新米だって片付けにはそれほどうるさい方ではないが、しかし雪崩を起こした机を見るに確かに小鳥に怒られるのは頷ける話だ―――怒られた方からすれば堪ったものではないが。
入社して間もなく「どこに大事な書類があるか分からないような机に座っているプロデューサーなどタカが知れている」と偉そうに語った口は一体どの口だっただろうか。
「何で大江さんの無精で僕が怒られなきゃなんないんです。割に合わないですよ、何か奢ってください」
 言うと、大江は財布から野口英世を引っ張り出した。黙って札を出してきたところを見ると多少は責任を感じているらしい。
休憩室には何社かのベンダーが恐ろしいほどの電力を食ってそれほど暗くはない休憩室を照らしていて、大江は煙草を吸いながら俺にも何かくれ、と言う。
「何かって何ですか。ドクターペッパー?」
「ペッパー先生もいいけど、コーヒーがいいかな。無糖でブラックじゃないやつ」
「売り切れです」
「ろくすっぽ見ないで言うなよお前。じゃあ…そうだな、何でもいいからコーヒー」
 自販機に英世を食わせて茶のペットボトルと劇的に甘いコーヒーのボタンを押すと録音された声に礼を言われた。
はいこれ、と渡したコーヒーを大江はまるでホルマリン漬けの実験標本を見るような目つきで一瞥し、
「…お前俺のこと嫌い?」
「これ飲んで糖分取って机の上片付けてきてください。僕その間に今日の営業の報告書書いちゃいますから」
「先輩をいたわる気持ちはないのかね」
「ええこれっぽっちも」
 茶のペットボトルを開けてひと舐めすると、大江はいらないとばかりにコーヒーをこちらに向けて差し出してきた。
期せずして思いきり溜息が出て、新米はホットの缶を一度は受け取って灰皿の載ったテーブルに置く。
「陰で溜息つくのはいいけどな、アイドルの前でやるなよ」
「アイドルの不安を取り除くのもプロデューサーの仕事のうち、ですよね。もう耳タコですよ何回言われたことか」
 新米の舐めきった口調に大江は口を弓型に歪めて紫煙を吐き出し、
「ところがどっこいやってみると結構出ちまうもんなんだよな。まあ心構えみたいなもんだ、気を楽にしたまえ新人君」
「―――僕は別に、」
 別にプロデューサーとしてやっていくことに不安があるわけではない、と繋げようとして新米は口を噤んだ。不安がないと言えば見事な大ウソだ。
金魚のフンとなって大江のケツにくっついていたこの半年で自分もプロデューサーとしてやっていけると思っていたのは本当に初期の初期、今では「なぜ高木社長は僕の事を採用したんだろうか」と考える毎日である。
それなりに人付き合いが出来ると自負はしているものの、別に教育学部でも何でもなかった新米は考えてみれば年端も行かない少女たちと触れ合う機会はあまりなかったと思う。
自分より歳が行っているはずの大江が何故アイドル達とああも上手く折り合いをつけていけるのかという疑問は常々頭の中にあり、その辺りが大江が敏腕たる由縁なのだろうとふと思う。
 敏腕、
「…僕、ホントにプロデューサーなんてやれるんですかね?」
「いや別にプロデューサーじゃなくたっていいんじゃないの? 事務方とか経理とかさ。そう言やこないだ経理が人が足りないって嘆いてたぞ。お前あっち回るか?」
「そこは励ますトコじゃないんですか」
「ふははは、女の子ならともかく野郎を励ます気はねえな」
 今さらだが何故この男がOJTなのかと思う。
入社して大江に面通りをしてからこの方、大江はこちらを励ますでもなくただひたすらに効率のいいプロデュースのやり方と事務作業しか教えてくれていない。
一応これでも4月からプロデュース業に足を突っ込むというこちらの立場は向こうも分かっているはずなのに、「プロデューサー斯く在れかし」と言った部分はほとんどが精神論に終始している。
 もちろんその辺りは分かってはいる―――765のプロデューサーは一口に「プロデューサー」と言っても営業だけでなくアイドルの付き人のような仕事も業務の範疇だ。
営業に王道などないと身をもって体感した半年ではあったものの、何か本質的な部分を未だに教わっていないような気は常々する。

 それが、プロデューサーとしてやっていけるのか、という新米の不安の根底を煽っている。

「…しっかし、右も左も分からなかったお前もプロデューサーになるのか。俺も老けたね」
「ちゃんとできるかどうかは別の話です。名乗るだけならタダですし。大江さんも新人の頃そう思ったんじゃないですか?」
「俺?」
 問いかけに大江は上を向いて紫煙を垂れ流し、ふと遠い目をして何かを呟き出した。
どうだったかな、と言う呟きは副流煙とともに天井の排気ダクトに飲み込まれ、ついでこちらを向いた大江の顔には遠い昔を懐かしむような郷愁の色がある。
「…そっか、お前こっちのビルに移ってから入社したのか」
 現在の765プロはそれこそ大きな自社ビルを構えているが、大江や小鳥をはじめとした765プロデュース株式会社の古株たちは今でも飲み会にたるき亭を使っている。
大江たち先輩の奢りで新米も何度か飲み会には参加しているが、たるき亭の3階にうっすらとこびりついた765のガムテープ後を見る度に「よくもまああんなにデカい自社ビルを建てられたものだ」と思う。
たるき亭の3階に765プロがあった時の話を聞くのは別に嫌いではないが、こと大江の新人時代に関して言えば聞くのはこれが初めてのような気がした。
「別にお前と大した違いはないと思うよ。俺も不安だらけだったしさ、14、5のガキンチョと話すなんて今まで経験なかったからな。ただ―――」
 そこで大江は言葉を区切り、肺に深く紫煙を入れた。
「やるしかなかった。事務は小鳥さんとちょっと、営業は俺と何人か。就職氷河期だったからな、会社潰れたらオマンマの食い上げだろう? 食いっぱぐれないためなら何でもやったよ」
 不安に思っている暇なんてなかったな、と言う言葉には棘が入っているような気がした。
新米はもう一度だけペットボトルを傾け、テーブルの上に置いたコーヒーの缶がようやく持っていて熱くない温度に下がった事に気が付いた。
「僕は、恵まれてますか」
「そうは思わないけどね。いつだって問題は当事者だけのもんだしな、あの時の苦労と今の苦労を単純に秤にゃ掛けられないだろうし。ただまあ、お前の心配も分からんではない、とは言っておくよ」
「励ましてはくれないんですね」
「甘えんなバーカ、お前も4月から励ます側に回るんだっつうの」
 にやりと笑って言った言葉はへらりと笑って返された。
先輩は遠まわしに「俺もそうだったからお前にも出来る」と言っている。
直接的ではない婉曲的な励ましは脳みそを使って解釈しなければならない難問ではあるが、しかしコミュニケーションとは結局のところ言葉と行動の一致から始まるものだ。
なかなか後ろを見てくれない大江が励ましてくれたように思えて、新米はふと気恥ずかしくなって照れを隠すかのようにもう一口茶を飲んだ。
「さて、吸い終わったら机片付けるか。営業報告書頼むな、何か分かんないところあるか?」
「報告書がどこにあるか分かりません」
「…俺の机の上だっけか。仕方ねえお前手伝え、今日はノー残業デーだからさっさと終わらしてさっさと帰るぞ」
「はいはい。まったく不出来な先輩を持つと後輩は苦労しますね」
「ははは今の言葉そっくり返してやるよこの野郎。ラーメン食って帰ろうぜ、いい店知ってんだ」



 目下のところ765プロ自社ビル内で煙草を吸えるのは6階社員食堂手前の休憩室と言うタコ部屋である。
新米たち営業部が入っているのは8階と社長室のある9階の東側で、大江は手早くエレベータに乗りこんで9のパネルをひと押しする。
全面ガラス張りのエレベータカーゴからは夕暮れ時の都心が赤く映えていて、実は新米はこの風景がちょっとだけ好きだったりする。
「…そういや今日だっけな、新しいアイドル候補生の採用面接」
「新しい子、入るんですか?」
「入るかどうかは社長次第だけどな。確か5時半から最終面接のはず―――っと、今何時だ?」
 時計の短針は間もなく5時を指そうとしていた。社員はノー残業デーなのに社長はそうではないらしい。
夏場ならまだ光っていたであろう太陽はビルに邪魔されて都心からはでこぼこに見える地平線の彼方へと間もなく埋没しようとしていて、大江は誰にともなく「ひょっとしたら見れるかもな、新しい子」と言った。
「見たいんですか?」
「お前は?」
「…見たいですけど、プレッシャー掛けるのもどうかと思うんですよ僕」
 今日が最終面接ならひょっとしたら新人の担当になるのは自分かも知れないのだ。
かもしれないなら確かにどんな子か見てみたい気もするが、しかし担当になるためにはその「新人候補生」が入社してくれない事には話が始まらないし、面接前に茶々を入れていらぬプレッシャーをかけるのはプロデューサー見習いとしての前に人としてどうかと思う。
ふーん、と大江は遠望を見つめながらぼんやりと返し、そこで地面から遠のく景色の速度が穏やかになった。
二人揃って後ろを見るとコンソールの右上の電子表示が「9」と表示している。
がこんとひと鳴りた次いでに「ぽーん」という情けない音を立てたエレベータはそこで完全に停止、さっさと降りろとばかりに腹の中にいる大江と新米に向かって「9階です」と言ってきた。
「耳タコだって言ってた割にゃ実践が覚束ないねお前。なんだ口だけかよ」
「僕、まだ誰の担当でもないんですけど」
 それもそーか、と大江はリノリウムの廊下を進む。
角を曲がってまっすぐ行くと重々しい木造りの社長室の扉があり、大江と新米が所属する営業部プロデュース課はその少し手前にあり、さらにその手前には安っちい会議室への扉がある。
 角を曲がったあたりで、新米はおやと思う。
 角を曲がってすぐの安っちい会議室への扉の前に、「765プロデュース株式会社 最終面接受験者控室」と書かれた案内板が立っていて、その下に貼られたA4のプリントには受験者と思しき名前が載っていた。
「えーっと、何て読むんだ。てんかい?」
 好奇心丸出しで江戸時代の坊主のような名前を口にした大江の胸元に無言の突っ込みを入れた。お前はガキかと思う。
「あまみ、じゃないですか? あまみはるか。たぶんそうだと思いますよ」
 新米がそう言った瞬間、扉の向こうでがったんというでかい音と「いったあーーーっ!!」という悲鳴が聞こえた。
扉の前で野郎二人はおもむろに顔を見合わせ、次いで二人揃って互いの左腕で光る時計を見た。
 まだ5時前だった。
「…なあ、」
「何ですか」
「上がってるだろ、向こう」
「多分そうでしょうね。大丈夫かな」
「お前ちょっと見てこいよ」
「いや何抜かしてるんスか先輩、僕らには机の片付けと書類と言う大事な仕事が」
 そこで大江はふぅと溜息をつき、実に剣呑な光をその眼に湛えた。
「お前何か耳タコだっつってたな。何が耳タコなのか言ってみ?」
 しかしよくよく見てみれば、大江の瞳には隠しきれない悪戯染みた色がある。新米はすぐにそれに気づき、
「先輩やめましょうよそういうの、たぶん今頃手に人って漢字書いてるんじゃないですか?」
「ほほう新人君、君はプロデューサーの非常に重要な仕事を押しのけてまで書類と格闘したいというのかね。実に素晴らしい勤務意欲じゃないか、来春は事務員として頑張りたまえ」
 この野郎。
「だから、あんまり僕らが茶々入れちゃマズいじゃないですか。30分もすれば落ち着きますって」

「―――お前、ホントにそんなんでプロデューサーやれると思ってんの?」

 次に大江から出た言葉は、どこを探しても悪戯の色はなかった。
え、と口ごもって大江を見ると、大江は実に何ともいえない表情で新米を見ていた。
「来年からプロデューサーだろ。本番30分前のアイドル放置すんのかお前。『30分もすれば落ち着く』なんてことあると思ってんのか。お前はあいつら一人で戦わせる気かよ」
「―――いや、だって僕まだ、」
 思わず口ごもった新米に、大江は冷え切った表情で再び口を開いた。
「だってもクソもねえ、お前が言ったのはそういう事だ。何が耳タコだ馬鹿野郎。ああそうだ、口で言うだけなら何だって言えるさ。やって初めて意味あるんだろうが。お前がそんなで来年から人引っ張っていけると思ってんのかよ」
「…」
 黙してしまった新人に、大江は静かに口を開いた。

「お前、プロデューサーやりたいんだろ?」
 そして、新米はこう答えた。
「やりたいです」

 そこで、大江は今までの怒気が嘘のような笑みを作った。
呆気に取られた新米に向かい、大江はへらへらと笑ってこう言った。
「書類は俺作っとくからさ、ちゃんと緊張取ってやれ。ひょっとしたら、」
 そこで大江は背中を向けた。
追いすがるような視線を感じたのか大江は手だけで肩越しに新米に向かって手を振り、懐から取り出したIC認証の社員証をポートに近付けながらこう言った。

「来春、お前が持つ子かも知れないだろ?」

「…大江さん」
「ん?」
 プロデュース課の喧騒が聞こえてくる。
自動ドアに誘われながらこちらを振り向いた大江に、新米は一瞬だけ言葉を探す。
「…僕、やってみます」
「おお。骨は拾ってやる、当たって砕けてこい」
 にかりと笑って親指を立てた大江に新米もまた親指を立てて応えると、大江の姿は曇りガラスの自動ドアに阻まれて見えなくなった。



 早鐘のように打ち鳴らされる心臓を落ちつけようと新米は息を吸う。
そうだ、何も別に自分の面接なわけじゃない。
なのにこんなに緊張しているのだから、きっと扉の向こうで社長を待っている「天海春香」はきっと自分の比ではないくらいに緊張しているに違いない。
 だったら―――思う、だったら『プロデューサー』である自分の仕事は「天海春香」の緊張を解してやる事だ。
 新米はもう一度息を吸い、会議室の扉に手を掛ける。




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