声 (11)

 通常のオーディションとIUの大きな違いは、一言に言うのであればオーディションが単発かそうでないかという部分に尽きる。
通常のオーディションがマスメディア関係番組への出演をかけた勝負であって継続性がない事に比べると、IUは継続性の性格が強くなる。
 これは最終的に「第1期アイドル・アルティメット」出場のための権利を獲得するため、と言う予選会の性質からすれば極めて当然の話なのだが、ではそれ以外に何か大きな違いがあるかと言えば傍聴席という不思議な席が確保されているという点である。
傍聴席というのはIU予選会参加者以外の業界関係者が予選会を見学するための措置であり、この席を創設するに当たって全国芸能界総会の広報担当は「IU制度を活性化するため、他社参加者の研究に大いに役立てていただく」のが狙いだと説明している。
が、よくよく周りを見回してみればその辺りにきな臭さが見え隠れする―――大江の記憶が正しければ上席の左から五列目にいるのはテレビで見たことのあるような政界人だったりするし、その周りを取り囲むように座っているスーツの連中の左の脇腹は膨らんでいたりする。
どうやら噂は本当なのかもな、と大江は薄暗い客席で貴音に悟られないように細く長い息を吐く。
 勿論明確たる証拠のある話ではないし、誰かが尻尾をつかんだという話は浮いては沈む風評のようなものではある。
大江の知っている「噂」と言うのはIU制度の設立に関するもので、資金繰りが悪化した全国芸能界総会が年に4回行われていた金食い虫のファン祭典をIU制度という都合のいい――そして総会にとって低コストな競争の場に仕立てたというものだ。
 去年まで行われていた年4回の祭典は基本的に総会のケツ持ちで開催されていた。
参加者に課せられるエントリー料もそれほど高額なものではなかったし、あくまでもあの祭典は「ファンたちへの感謝祭」という建前で動いていたはずである。
 が、アイドル全盛期と比べて今の芸能界は多様化している。
芸能人、と言えばアイドルを指したあの時期からすれば現在の消費者たる視聴者たちの好みは多種多様であり、もともとプロモーション会社が共同出資して創られた協会の縛りは多様化するファンたちの要望を満たすためには障害でしかない、と考えるプロモーション会社は総会の皮算用より多かったらしい。
確かにここ5年ほどで総会を通さなくても獲得できる営業の幅は増えた―――以前ならば総会の仕切りであるアイドルランクが必須の出演条件だった人気テレビ枠にも多少のコネと営業力があれば出演できるようになっているし、そうでなくても小規模なプロモーション会社が跋扈するようになった現在において、それらの会社が毎年馬鹿にならない額の上納金を総会に納めるという規定に背を向けたと言うのは大江でも分からない話ではない。
 そこで、総会は己の生き残りをかけてケツ持ちの各部門を見直すことにした、らしい。
まず、好みが分かれて以前に比べチケットの売れ行きが芳しくなかったファン祭典を廃止する。
もちろんただ廃止しただけでは律儀にチケットを買っていたファンたちを裏切ることになり、これはすなわちファン離れを加速するという事象とイコールになる。
そこで、総会はどこの馬鹿が発案したか分からないIUの制度に飛びついた。
その制度上アイドル・アルティメット決勝は最も人気のあるアイドル6人のガチンコ対決となるから、その暗部をさて置いても通年4回だった感謝祭を1度に集約して感謝祭を低コストに抑える、という効果においては確かに抜群の意味を持つ。
 加えて、総会はどうやら政治屋との関係も持ちたいらしい。
全世界が電波と直線で繋がれた現代において日本の芸能界もまた海外の芸能界情勢と競合するという恐ろしい命題に直面しているが、それらのグローバリズムと戦闘を繰り返しているのは何も芸能業界だけの話ではない。
そこらの町工場だって低賃金の他国の見知らぬ労働者と明日の見えない競争を繰り返しているし、視線を上げれば大江達一般人とは隔絶された空間においても競争は行われている。
大江の記憶が確かなら上席の左から5列目に座っている男は確かどこぞの政党の重役だったはずで、早々に目星を付けたアイドルがIUの頂点に立った暁には他国に向けた広告塔に使おうと言う腹が透けて見える、と思うのは大江の考えすぎだろうか。
「…大江様? 如何なさいましたか?」
「何でもねえ。それよりどうだ、他の連中の出来は」
「比較になりません。私にはここにいることが時間の無駄に思えます」
 貴音はそれだけを言い、まるで舞台に興味を失くしたかのように大江の横顔を見上げた。
大江は苦笑する、確かに―――確かに、手前味噌ではあるが今の貴音が他のアイドル達を見ても何の肥やしにもなりはすまい。
先週の日曜日早々に1次予選をぶっちぎりの得点で通過した貴音にとってみれば今の時間は退屈以外の何物でもないだろう。
「ま、そう言うな。どんな奴からだって学べるものはある。他山の石って諺知ってるか?」
「―――土くれで宝石が磨けるのなら、今すぐにでも土業家は宝飾業に転業すべきです。せめて石ならばまだしも」
 蟻をふみ殺すのに像の足など必要ない―――貴音は言外にそう言って大江に非難じみた視線を投げた。
大江は薄暗い客席に座ってガリガリと頭をかきむしる。
「何焦ってんのお前」
「…焦ってなど」
「へえ」
 大江はそこで舞台に視線を投げた。貴音も黙ってそれに倣う。
舞台の上では明らかに今年デビューした新人がマイクを握り締めて審査員に必死のアピールをしている。
視線を横に転じれば客席の隅付近で暗闇にも目立つリアクションをしている奴がいて、あれがアイドルのプロモーターだろうか、とぼんやり思う。
 あれでは駄目だ。表情に力が入り過ぎていてこちら側に何を伝えたいかが分からない。
必死なのは分かるが、重要なのは必死さ以上にメッセージ性である。
「勝ちを確信した奴ってのは、もっとニヤニヤ笑って見てるもんだと思うけどな。違ったか?」
「…」
 勝てる自負と余裕のある者はわざわざ「時間の無駄」などという言葉を使わない。
「こんな事をしているくらいなら他にもっとやることがあるだろう」と言うニュアンスの言葉など使うはずがない。
という事はつまり貴音は「ここにいるくらいなら何か別な事をしたい」と言っているに他ならず、そして大江には一つ心当たりがあった。
「そんなに気になったか、『天海春香』」
 薄暗い客席の中で、貴音の表情が強張った。
「痴れ事を。私が何故『天海春香』など気に止めねばならないのです。もし気にしていたとしたら…大江様が、以前にそう仰られたからではないですか」
「かもな」
 大江は実にあっさりとそう言うと、あらかじめ傍聴客席に配られていた今日の出演者の名簿に視線を落す。
貴音は大江の手元を覗き込んで溜息をつくと、
「…しかし、確かに『天海春香』は本日の出演者の中では群を抜いていました」
「古巣を褒められると悪い気はしないね。戦えるか?」
「大江様」
 強い口調の貴音の瞳には、陰鬱に揺らめく黒い炎があった。
「私は王です。挑まれれば誠意を持って勝負をします。…ですが、相手にもし目があるのなら、絶対に勝てない相手に牙を剥くことなどあり得ません」
「相手に目がなかったら? 自暴自棄だったら? 勝てねえって分かってて突っ込んでくる相手なんてこれから掃いて捨てるほどいるぞ」
「己が力量もわきまえずに勝負を挑まれるのなら、私も全力で応戦せざるを得ません。その場合は粉微塵にして差し上げます」
 ふ、と大江の顔に笑みが零れた。
貴音はそんな大江の表情に面食らった顔をして黙りこみ、大江の表情に浮かんだ挑発にも取れる笑みを見つめる。
「せめて石なら、だよな」
「はい」
「土は粉微塵に出来ないもんな」
「それが何か」
 そこで大江は挑発の笑みを隠さずにこう言った。
「って事は、『天海春香』は少なくとも石だったって事か」
 貴音の表情に「しまった」と出た。大江はそれを見逃さない。
「元が土なら中身なんて知れたもんだけどよ、石なら話は別だ。割ってみたらダイヤが入ってっかも知んねえぞ」
「…大江様は、本当にいけずな方です」
 膨らんだ貴音に苦笑して、大江は腕時計のバックライトを光らせた。
同時にステージに向けて控えめな拍手が送られる。どうやら5人目の演目が終わったらしい。誰かが出入り口を開けたらしく、真っ暗な客席に下界の光が送られる。
「会ってきたらどうだ? 『天海春香』に」
 下界の光に照らされた貴音の顔が一瞬こわばり、閉められた扉が再び客席を闇に包んだ。
「なぜ、私自らが出向かねばならないのですか」
「これから先お前に『天海春香』を引き摺られると困るんだよ。一回お前がその眼で確かめて、中に詰まってんのが砂なのかダイヤなのか見てくればいいじゃねえか」
 ざっくばらんにそう言うと、大江はゆっくりと客席から腰を上げる。貴音は大江の突然の行動に目を丸くして、
「大江様、どちらへ?」
「便所。終わったらエントランスにいるから、その気があるなら行ってこい。その気がないならエントランスで待っててくれ」
 そう言うと、大江は全く後ろを振り返らずに出入り口に向けて歩き出した。



 出演を終えたアイドル達は結果発表まで控室で待たされることになる。
控室の正面には朝着た時は影も形もなかった大形のロールモニターが引き出されていて、出演を終えたアイドル達はそこで他の参加者たちの演目を目を皿のようにして見ている。
春香もまた疲労困憊な視線をモニターに投げており、プロデューサーはそんな春香の横で他のアイドル達から学べるアピール方法をメモしている。
「プロデューサーさん、何してるんです?」
 春香の問いかけにプロデューサーはボールペンをテーブルに置き、
「他のアイドル達のアピールポイントをメモしてる。何か活かせることがあったら次に使えるようにさ」
「次…あるんでしょうか」
 春香の表情には、大学受験を終えたばかりの学生のような色がある。プロデューサーはうーんと一つ唸り、
「春香ってさ、テスト直前より結果発表の時に緊張する方?」
「あ、あはは、あんまりテストの事聞かないでください」
 察するに6月はテスト期間があるようだ。
この分でいくとプロデューサーは春香の勉強の面倒も見なければならないかもしれない。
「…問題解いた時の感触によります。これは上手く出来たって言うのはあんまり緊張しませんし、全然だめだったって時も緊張はしません。緊張するのは―――」
「うまく出来たか全然だめだったか分からなかった時」
 プロデューサーの言葉に春香はこくりと頷き、プロデューサーから渡されたタオルで額を拭った。
確かに緊張からか普段の春香より顔はこわばっていたが、実のところプロデューサーはそれほど春香の出来に不満があるわけでもない。
予選とはいえこれは一次であり、ここで落ちるようならおそらく最初から高木社長は春香の事を採用したりはしない。
当の春香が自身を信用していないのはプロデューサー的に一つのネックだが、しかしそれを取り除くのはプロデューサーの本懐である。
「春香、ちょっと廊下に出ようか」
 春香が頷いたのを確認し、二人は連れ立って廊下に出る。
しんと静まり返った廊下はまるで病院の霊安室前を思わせる重苦しい雰囲気である―――当たり前だ、今日の出演者は6名、そして合格者は2名である。4人はここでIU選抜参加資格を剥奪される。
IUに落ちたからと言って即引退はいくらなんでも強引だとはプロデューサーも思うが、社として1次予選すら通過できないアイドルに投資することを拒否するところは少なからずあると聞く。
「…多分大丈夫だと思うよ」
 そして、プロデューサーは静かな廊下で、万が一にも漏れ聞こえることのないような小さな声で春香に言った。
「そう、ですかね」
 そして、春香はそんなプロデューサーを全く感情のない目で見つめた。
「うん。他のアイドル達の動きも追ってたんだけど、何て言うかな、何が言いたいか分かんなかったって言うか」
 春香はプロデューサーの弁に疑惑一杯の表情を浮かべる。プロデューサーはそんな春香にへらりと笑い、
「みんな必死だったと思うよ。でもさ、みんな『私は必死なんです』って言ってるだけなら評価に違いはないでしょ。大事なのはそれ以上の何かだよ。何を伝えたいか分からないんなら、それこそ評価のしようがないよ」
「―――はあ、そう言うものですか」
 そう言うもの、とプロデューサーは肩を竦める。
確かに荒削りではあるしややもすれば伝わりにくい部分もあるにはあるが、プロデューサーがIUを戦い抜く戦法として春香の「個」を売り出す方向に狙いを定めたのはこれが目的である。
 春香の本心からの願い―――「歌を聞いた人たちを元気にしたい」という願望はそれだけで十分に鋭い武器になる。
ファンたちの琴線を動かすもの、他のアイドル達との競争に明確な差を生みだすもの、そして審査員の票を獲得する方法として最も有効な手段としてのこの武器をしかし、春香が自覚していない事が今のところ最大のネックである。
 だが、それも今回の合格を勝ち取ることが出来れば立派に有効な武器であると春香に自覚させることができるだろう。
わざわざプロデューサーが早めのエントリーをしたのはそう言う意図もあった。
「春香はさ、歌を通して何を伝えたい?」
「…みんなに、元気になってって、」
「僕は春香のプロデューサーだから一般の人たちより春香の歌聞いてるけどさ、でもやっぱり春香の歌はいいと思うよ。聞いてて明るくなるのは『天海春香』の立派な武器だよ。自信持っていいと思う」
「今日の歌、プロデューサーさんは元気に?」
「疲れが吹っ飛んだね」
 多少大げさな表現かもしれないこの言葉に、春香は弱々しくも明るく笑った。
「…そうですよね。私の武器は明るさですもんね。これっぽっちでくじけちゃ駄目ですよね」
 うん、と一つ大きく頷くと、春香もまた大きく頷いて明るい笑顔を、

 ぴたりと、凍らせた。

「―――それが、あなたの覇道ですか」

 声を聞く。振りかえる。
右回りに振り返ったプロデューサーの五臓が恐ろしいくらいの締め付けを感じる。物凄い圧力。
視線を少しだけ下に下げる、目に入るのは銀に輝く長い髪、端正な顔に埋め込まれた2つの眼が恐ろしいまでの迫力と冷徹なまでの眼光でプロデューサーと春香を射ぬいている。
「…四条、貴音」
「控えなさい下郎、名を許した覚えはありません」
 年下のはずの貴音の圧力に、プロデューサーの足は意図せずに後ろに下がった。
プロデューサーが下がったことで貴音の視界にまるで悪い夢でも見ているかのような春香の表情が映り、貴音はそこで、

 怖気を振るうほどに冷徹な微笑みを作った。

「貴女様が、『天海春香』ですね」
 びくりと春香の肩が飛びあがった。まるで蛇に睨まれた鼠のようだとプロデューサーは思う。
春香の様子を問いかけへの回答と受け取ったのかそこで貴音は目礼し、
「まずは、この度はおめでとうございます、と申し上げておきます」
「…何の、事ですか」
 春香の絞り出したような声に貴音は微笑みを崩さず、
「異な事を。一次予選の通過、おめでとうございます、と申し上げました」
「…まだ選考の結果は出てない。君だってまだ出場してないんだろ?」
 ようやく口を開いたプロデューサーの言葉には虚勢が滲んでいる。
貴音はそんなプロデューサーに向けてまるで汚物を見るかのような横眼の一瞥を投げ、ついで春香に向けて、
「『みんなを元気にしたい』。立派な意思をお持ちですね」
「…それが、何か」
 春香の声に僅かな、本当に僅かな怒気が混じった。貴音はそんな春香に少しだけ眦を下げ、
「その意思がある限り、あなた様は私に勝つ事はできません」
 言うと同時、あの恐ろしいほどに強烈な圧力が春香とプロデューサーを襲った。
たまらずに一歩下がる春香とプロデューサーに向け、貴音は氷の微笑を浮かべたままで口を開く。
「誰でもない『みんな』など存在し得ません。貴女は夢を見ている。人はただ一人、己のために歌うのみ」

 不快であった。
今までに感じたことのないようなどす黒い感情が貴音の腹の中を渦巻いている。
 さっきまで見ていたステージを思い出す。
緊張もあっただろうし恐怖感もあっただろうが、それでも春香は客席に向けて何かを伝えようとしていた。
他の土くれ共とは違う、何か明確な意思をもった春香は確かに大江の言葉を借りるならばダイヤではないが石ではあった。
割ってみれば中身はダイヤかもしれない、媚びる事なく揺らぐ事なく、ただ己のメッセージを愚直なまでに打ち出す春香の中身がダイヤであればいいと思っていたのかもしれない。
 割ってみれば、中身を見てみれば、「みんな」などと言う曖昧な対象に向けた「元気」などと言う曖昧なメッセージを伝えようとするただの石に過ぎなかった。
 失望もしたし落胆もしたが、それ以上に何よりも許せないのは―――
「覇道とはただ一人の者のみが歩める、ただ一つの道です。多くのものが夢を見、多くのものが全てを捨てて歩む道です。貴女のように多くを求める者は、いずれ道を踏み外す」
―――ひょっとしたら、『天海春香』は『四条貴音』の敵になるかもしれない。
 いつか腕を競い合い、いつか真剣な勝負をする事になるのかもしれない。
 そう思ってしまった、自分自身だ。
「夢は眠ってから見るもの。警告をしておきます、貴女がIUの頂点に立つ事は…覇道を極めることは、決してありません」
「…ちょっと待てよ」
 そして、貴音の言葉に反応したのは春香ではなかった。
プロデューサーはそこで改めて貴音に向き合い、腹の中に燻ぶった若い怒りをほんの少しだけ口にする。
「夢見て何が悪いんだ。誰だって持ってるじゃないか、こうなりたいとかこういう事がしたいとか。夢って言葉が悪いなら目標って言い変えたっていい。何で全部捨てなきゃなんないんだよ。目標を追いかける事の何が悪いんだ」

「…!」

 春香の息を呑む音が、凶悪なまでの静けさの廊下に響いた。
「目標を追いかけることの何が悪いんだ。理想を追い続けることが何で悪い事なんだよ。君にだってあるだろ、目指す自分の姿がさ」
 プロデューサーの脳裏には、あの時に見た背中がある。
いつか追いつきたい背中が、いつか並び立ちたいあの背中がプロデューサーを支えている。
 そしてその夢は、春香の夢を叶える道につながっている、プロデューサーはそう信じている。
 そして貴音は、胡乱な眼でプロデューサーを一瞥した。
「たとえダイヤであったとしても―――お悔やみ申し上げます、このような殿方と共にいらっしゃれば、貴女の輝きもまた汚れるでしょう」

「…四条さんが何て言っても、私のプロデューサーはプロデューサーさんしかいません。私はプロデューサーさんを信じます」

 そして、春香はそこでようやく貴音に向かって意志のある瞳を向けた。
まっすぐな視線をその身に受けた貴音はまるで痛くも痒くもないという顔をして、
「ならば、来るべきIUで勝敗を決しましょう。貴女と私、どちらが覇道にふさわしいのか。どちらが頂に立つのか。決着がつけば、貴女の夢は所詮枕事であったと気付くでしょうから」
 そう言うと、貴音はくるりと春香に背を向けた。
もうこれ以上何もいう事などないと言わんばかりのその背中に春香はぐっと下唇を噛みしめる。
 そして貴音は、後ろを向いたまま別れの言葉を口にする。
「―――大江様に言われるまま意識してしまった私が愚かなのかもしれません。ごきげんよう、『天海春香』」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。




      今、貴音は、何と言った?




 貴音が去った後もプロデューサーは廊下を動かない。
ただ眼を大きく見開き、開いた口から空気だけを垂れ流し、まるで悪夢でも見たような眼で貴音が曲がった廊下を見ている。
「…プロデューサーさん」
「…」
 春香はそんなプロデューサーの視線の先を追い、しかし誰もいない廊下に再び視線をプロデューサーに戻し、腕を揺すって悪夢を見続けるプロデューサーに声をかける。
「プロデューサーさん?」
「…夢を、目標を追いかける事は、絶対に悪い事じゃない」

―――だがまあ、お前がこうなりたいってんなら止めねえよ―――お前なら、大丈夫さ。

 あの言葉は、確かに大江の口から聞いた言葉だ。
プロデューサーとして一人前になり、いつか大江に認められ、いつか肩を並べられる存在になりたい。
 プロデューサーはそう願っている。

 大江の退職は、一身上の理由、と聞いた。
 では、大江は、今、何をしているのか。
 大江の退職の理由である「一身上の理由」とは、一体何なのか。

「夢があるから、目標があるから、人は前に進めるんだ」
 プロデューサーは春香を見ない。
プロデューサーの口から出た言葉は、春香を励ましているとも、己の信を己に言い聞かせているようにも見える。
「そうだろ、春香?」
「…はい!」
 プロデューサーの声に、春香もまたまっすぐに貴音の消えた廊下を見続けている。
 意志の宿った瞳と疑惑に満ちた瞳が、『四条貴音』の消えた廊下を見続けている。



 ひよこのワッペンを付けた男だった。
 大江がエントランスから出ると、ひよこのワッペンは足早に大江に近づいてきた。
いつか見たことのある男はそこで大江に何事かを耳打ちし、大江が頷いたのを確認すると男はやはり足早に駐車場に向けて走り去る。
 懐に手を入れた大江は、そこでずいぶん前に煙草を捨てた事を思い出した。
苦笑してスラックスのポケットに手を突っ込んで二つ折りの携帯電話を取り出す。
短縮番号3番に掛けると、2度ほどのコール音の後に誰かが受話をする気配があった。
「―――俺です。はい。―――ええ」
 電話の会話は聞こえない。しきりに相槌を打っている大江の表情にはまるで旧知の輩と話しているような雰囲気がある。
幾度目かの相槌と応答の末、大江はついに電話の目的を口にする。
「―――はい。計画はフェーズ2に移行です。あと一つ仕込めば、フェーズ3まで行けますよ。社長にもよろしく伝えてください」
 一言分の空白ののち、大江は電話を切る前にこう言った。


「―――はい。じゃあ、小鳥さんも元気で」




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