声 (14)

 爆笑である。それ以外の表現はない。

 IU1次予選のアイドル控室手前廊下で『天海春香』と果たしたファーストコンタクトの様相を伝えると、大江は上記のような反応を返してきた。
外聞も何もないほどに笑い転げる大江からは敏腕プロデューサーのびの字も読み取ることができず、伝えた貴音も貴音にあるまじきことに大江の豹変に驚きの表情を見せている。
現在大江が笑い転げているのは961プロデュース株式会社本社14階にあるプロデューサー専用の個室の左から数えて2番目であり、今後の営業の日程を大江と打ち合わせるためにやってきた貴音はただただ腹を抱えて笑い転げる大江に「何か悪いものでも食ったんじゃないか」と言う視線を投げて、
「大江様、あの、私は何か間違ったことを申しましたか?」
「…っ! いやっ、何も、言って、ねえ、よっ!!」
 ほんの数十秒前に伝えたファーストコンタクトの様子には、何も面白いことなどなかったはずだ。面白いどころか不快な記憶である。
何が「みんな」だ。何が「元気にしたい」だ。
大江に言われてからどうやら自分は自分でも意識できない深い部分で「天海春香」をチェックしてしまっていたようだが、蓋を開けてみれば何のことはない、「天海春香」の正体はひと山いくらのジャリもいい所だった。
大江は一体何を持って「天海春香」が覇道への障害になるなどと言ったのだろうか。
 そうだ、そもそも何が悪かと言えば大江が悪い。あんなことを言われてしまったら意識するなと言う方が無理ではないか。
大江に言われて敵視して、蓋を開けてみたら障害にすら値しない―――そんな感想を言っただけで笑われたのだ。
 ムカ。
「…大江様、私は何か面白い事を申しましたでしょうか?」
 少しだけ温度の下がった貴音に大江はようやく笑いをひっこめ、しかし顔の端の方に笑いの余韻を残しながら、
「それで何? 貴音はあいつらに覇道のなんたるかを指導してきたのか?」
「―――『みんな』など存在し得ません。そのような抽象的な存在など考慮に値しません。王はただ一人、覇道を歩むもただ一人です。もし仮に『みんな』が支援者の方々を指すのなら、覇道を歩む道筋において一人また一人と取りこぼしていくはずです。そのような甘い考えの持ち主を障害とは思えません」
「えらく狭い道なんだなそれ」
「支援者の方々を置き去りにするという意味ではありません。ですがIUは戦いの場です。私はただ、覇道を歩み抜いた先で支援者の方々に夢をお見せすることが私たちに課せられた使命だと思っています」
「―――まあ、間違っちゃいないと思うけどさ」
 間違えているはずがない。貴音は心の底からそう思う。『みんな』などと言う存在など存在しえない。『元気』などという抽象的な主張などありもしない対象に届くはずがない。
 そこにいるのは名も顔もある一人ひとりであって、その一人一人に夢を見せることが己の使命だと思う。
そして、夢を見せることは覇道を歩み抜いたただ一人だけが行うべき義務である。
 そうとも、
 だからこそ、自分はIUの頂点に立たねばならない。自分を慕う一人ひとりに向けて『()』を伝えなければならない。
それこそが王の義務であり、四条貴音の存在意義であり、そして―――
「しかしお前、歳の割にドライな考えしてるね。実は俺より年上でしたなんてオチはねえよな?」
 からかいに期せずして途方もないため息が出て、貴音はおもむろに大江の机に置いてあったリモコンに手を伸ばした。
テレビと言う名前の生活家電が家に鎮座するようになってからこの方、貴音はリモコンに限らず事務所内のありとあらゆる家電に手を伸ばしては大江の疲労を増やす日々を過ごしている。
ちょっと前までは家電音痴だった貴音も最近ではようやくリモコンの操作に慣れたのか、ありとあらゆるリモコンの電源ボタンを押しては何が動くか確認して回るという悪癖が付き、目下貴音が目標としているのは地上デジタルに対応したテレビのリモコンを弄くり倒してその動作を確認することである。

 ところで、961プロデュースは豊富な資金にものを言わせる成金大国のような性格を持ち合わせている。
大江や貴音がくだを巻いているこの個室も、何もミーティング用に特別に借りたわけではなく前述のようにプロデューサーたる大江に宛がわれた個別の事務室である。
40平米もあろうかという大本の部屋をブロックごとに区切った個室はプロデューサールームに全部で18個あり、4畳ほどの広さの半分を占める机の上にはそれぞれラップトップとVHSプレイヤーがモニタ兼用のテレビにつながれていて、貴音によって火を入れられたテレビの右上には「ビデオ1」という紫色の文字が躍っていた。
「…また、『天海春香』を見ていらしたのですか」
「ああ。相手を研究するのも俺の仕事のうちだ」
「と言う事は、あの殿方は仕事をなさっていなかったのですね」
 言った瞬間、大江は再びこらえきれないとばかりに笑いだした。
ファーストコンタクトの話をし始めた時の会話は「向こうのプロデューサーはこちらが既に1次予選を通過していたことを知らなかった」から始まったが、そう言えばその辺りから大江は見ていて気持ちの悪い笑い方をし始めたように思う。
リモコンの下の方にあるビデオ再生用の三角形を押し込むと、2画面に分割されたテレビに二人のアイドルが踊り出した。
左は「天海春香」、右は貴音だ。
「―――大江様」
「何」
「大江様が『天海春香』を傷害と認識する理由を、お教え頂けますか」
 そこでようやく、大江は顔から一切の笑みを消した。
「ああいう手合いはな、一度食らいついたら離れねえんだよ。何が何でも自分の夢をかなえなきゃ気が済まない―――そう言う連中は一番厄介だ」

―――…みんなに、元気になってって、

「とにかく粘る。どれほど相手と差が開いてようと縮められると信じて疑わない。這ってでもついてこようとする相手を蹴り倒すことほど骨の折れることはない。それに―――」
 大江はそこで口を噤み、いまだ垂れ流されている2画面分割のテレビに視線を投げた。
ビデオの設定なのか音の一つも漏れ聞こえない画面の中では二人のアイドルが狭い画面の中を踊っており、素人目にもあまりにも開きのあるダンスをしかし、右の画面の寸足らずは笑顔満開で踊っている。
 ここで、貴音はある事に気が付いた。
 日常生活の動作とダンスを明確に切り分けるものは、一言に言えば「キレのある動き」である。
指先にまで神経を行き届けなければならないこの動きは日常の動作とダンスを切り分ける一線であり、動きの節々にほんのわずかながら明確に存在する「停止」こそがテレビに映るダンスの見栄を良くする―――大江と何度か行ったダンスのトレーニングにおいて、大江は常に貴音にそう言い含めている。
幼少のころからダンスをたしなんできた貴音にしてみれば何をいまさらという感じではあるが、今の「天海春香」の動きはまるで、
「大江様、テレビ映えのするダンスとはやはり明確な指導法があるものなのですか?」
「気付いたか」
 基礎力のない者に画一的な指導を行えば、その結果はバラけると相場は決まっている。
しかしある程度見る目があれば、そこに仄見えるのは同じ指導を受けた影である。
「―――漠然とですが、要所は私の動きに似ています」
「ああ。『天海春香』のプロデューサーが俺と似たような指導をしてるんだろうな」
「大江様は、もとは765の、」
 そこで、大江は先ほどとは別種の、笑みと言うには余りにも色の薄い笑みを見せた。
「今、『天海春香』のプロデュースをしてるのは俺の後輩だ。要マークってのはそう言う意味さ。あいつはそれなりに出来る男だぞ、たまに抜けてたりするけどな」

 ふと思う。
 大江はなぜ、古巣の765を捨てて敵対企業たる961にやってきたのだろうか。

「大江様は、なぜ961にいらしたのです?」
 心に浮かんだ疑問をそのまま口に出すと、大江は意地の悪い笑顔を浮かべ、
「内緒」
 一気に馬鹿らしくなってしまった。
現状大江が『天海春香』を敵対視する理由として挙げたのは、『天海春香』の性格的特質とそのプロデューサーに起因している。
が、どちらもIU一次予選控室前廊下においてどちらも取るに足らない存在であると感じた貴音にとって、大江の心配は貴音の心配たりえない。
しかし、初めて会った時には見たこともないような楽譜を引用してまで貴音のミスを指摘した大江である。
何かもっと深い考えがあるのかもしれない、そうは思うが、それを詮索するには余りにも肩の力が抜けてしまった。
 脱力ついでにビデオを止めて、代わりに画面にテレビの画面を出力させた。
画面では収録後に合コンにでも行くのではなかろうかと思えるキメキメのスーツを着た女性キャスターが昨今の政局の未曾有の混乱を報じている
―――今国会の補正予算審議会はなお一層の混迷を呈しており、与党が予算に盛り込もうとしている大型補助資金への反発はいまだ野党間で根強く、タカ派の議員たちは8月を前に内閣を解散して国民に信を問うべきであると主張しています。タカ派の主張の陰には先月に行われた日米首脳会談のテーマである難民問題の影が見え、解散を主張するタカ派の議員たちに固められた外交筋のある幹部は「解散主張には難民問題の影響も多分にあるのではないか」と言う声も、
「お前ね、慣れて弄るのが楽しいのは分かるが研究も大事なんだぞ。研究も俺の大事な仕事なんだっつの」
「所作が似ているというだけの話です。基礎力のないものが指導を受けたところで、すぐに何かができるとは思えません」
―――続いては国外のニュースです。先日G7で話し合われた核拡散抑止問題ですが、7カ国のうち6カ国が賛成した対外圧力法案は現在までロシアの反対が根強く、7カ国合意にはまだまだ問題が山積しています。外交筋によるとロシア反対の背景には資源輸出と技術販売という経済的問題があり、ロシア外交大使は依然「経済制裁を含む国家間包囲はなお一層の審議を経るべきである」という姿勢を崩してはいません。では、ここでG7による臨時議会が開かれた経緯について、軍事問題を専門に研究している国際政治研究家の皆本氏にお伺いしたいと思います。皆本先生、今回のロシアの強硬姿勢の背景には何があるのでしょうか。
「すぐに何か出来るとは俺も思わねえよ。だけどな、IU本戦までまだ半年もあるんだ。向こうが何かで化ける可能性だってないわけじゃないだろ」
「IU本戦まで半年があるということは、私にもまだ半年の期間が残されているという事です。何より、私には『天海春香』が本戦まで残るとは考えられません」
―――皆本です。まずですね、今回のG7は『北』の軍事勢力が今まで国際社会に協調していた親和政権をクーデターにより倒した事に端を発しています。先日の潜入取材では軍事勢力が「第3機関」と言う名前で呼ばれていることが判明しましたが、軍指導部は「核保有は大国としての位置づけである我が国の武力の要であり、これを非難する者はいかなるものであっても敵対勢力ととらえる」という極右的な主張があるようです。第2種保護区域に指定された『北』はそれまでの親和政策によって国際社会からの援助を得ていましたが、その見返りとしてプルトニウムの軍事生成施設の破棄を受け入れるという提案は軍事政権にとっては許容しがたいものだったんですね。そもそも『北』軍部が今回のクーデターに着手したのは先日同じように軍部クーデターによって政権が転覆した北欧の
「だから言っただろ、ああいう手合いは気をつけといて損はないの。どうすんだこれから山篭りとかして滅茶苦茶レベルアップしてたら。あんまり上ばっかり見てると足元すくわれ―――おい貴音、どうした?」
 貴音の顔から表情が消えている。
その真っ白を通り越して真っ青な顔からは体温が感じられない。
感情のない瞳でテレビの画面を見続ける貴音はまるで糸の切れた操り人形のようだと思う。
 不審に思った大江が貴音の肩に手を置こうとしたその瞬間、貴音はまるで熱湯に触れた手を反射的にひっこめるかのように椅子から立ち上がった。

その時、貴音はまるで、決して逃れられない捕食者を見た哀れな獲物のような眼をしていた。

「―――貴音?」
「は、いいぇ、ぁの、」
 一体何が起きたのか、貴音は大江の言葉に身のねじ切れんばかりの動揺を見せた。
「どうした? 何かあったのか?」
 大江の驚いた表情は貴音の瞳に映り、貴音はそこでひくっ、と喉元を引き攣らせてこう言った。
「…少し、少しだけ、疲れました。風に、」
 4畳の個室の出口に向いた貴音の表情を、大江はその時改めて見た。
 檻の中にいる捕食者の恐怖は決して消えることはない―――貴音の表情は、大江にはそう感じられた。
「…風に、当たってまいります」
 そう言い残し、貴音は4畳の個室から姿を消した。



『みんな』などいはしない。そこにいるのは名も顔もある一人一人だ。
『元気にしたい』などと甘えた事を言う事は許されない。そこにいるのは明日も見えない仲間たちだ。



 961プロデュース株式会社は都内の一等地に建つ恐るべき高さの高層ビルをその本拠にしている。
地上23階地下4階建、おまけに屋上にはヘリポートまであるビルの最上階には成金趣味の黒井社長が一日の大半を過ごす社長室があるが、地上1階のエントランスから社長室へと入ろうと画策する者は都合3度ほどエレベータを乗り継がなければならない。
高層階と呼ばれる地上11階から22階までを行き来するエレベータは搭乗の際に社員ID付きパスカードの提示を求めてくるが、こざかしい事にID登録された権限の幅によっては途中でエレベータがそれ以上の上昇を拒否することもある。
厳重なセキュリティに守られた961の15階から上に進めるのは15階から21階まである961アイドル専用の練習スタジオに入出を許されたアイドルとそのプロデューサーを含むごく少数だけであり、ここからさらに社長室に向かうためには22階にある専用エレベータ脇のインターホンで黒井社長の許可を得なければならない仕組みだ。
 が、もちろん抜け道もあるにはあって、実は22階の北西に人目をはばかる様に存在する非常階段のカードスリットは誰のIDカードでも開場する仕組みになっている。
これは災害時に止まってしまうエレベータの構造上止むをえない非常階段ゆえの特質であるが、つまり、それは22階まで上がることの許された者はわざわざ23階を経由せずともヘリポートのある屋上まで行く事は不可能ではない事を意味する。

 そして貴音は今、非常階段を抜けた先にあるヘリポートつきの都心一等地の屋上のフェンスにもたれかかり、暮れゆく夏の夕暮れを眺めている。
その表情に色はなく、その瞳に映るのは7月末の太陽ではなく、ましてその胸に去来するのは、
「…『みんな』など、存在しない」
 23階建ての屋上が勿論ノーガードのはずはない。
上空から見ると真中に○で括られたHの字がある長方形型の屋上はその4辺を貴音2人分くらいの高さは優にあろうかというフェンスで囲まれており、貴音はその西側、丁度短辺のド真ん中でそう呟く。
「…『元気』など、」
 今更『夢』だの『希望』だのを口にする気は更々ない。そんなものは安全距離にいる連中の発想だと思う。
いい気なものだ、誰一人として世界の裏側で起きた過去の出来事などに気を払う事もなく、その日のテレビに映ったニュースで世の中の動きを知るのが関の山で、それすらも日常で何か直接事件に遭遇すれば忘れ去られるに違いない。
猫が一匹捨てられていたとか、どこそこで誰が食い逃げしたとか、そんなレベルで忘れられてしまう日常の中で貴音はいまだに一歩も動けずにいる。
 嘆かわしいとは思わない。
腹を立てることももう止めたし、むしろ―――むしろ忘れて欲しいとすら思う。
 自分が歌を歌う事で『忘れて』貰えるのなら。
 せめてひと時だけでも悲劇の記憶から同胞が自由になれるなら。
 安住の地を失い、明日をも見えない細々とした日常の中、せめて僅かな時間だけでも己が身を襲う途方もない理不尽から自由になれるのなら、
「―――よく、ここがお分かりになりましたね」
 背後から聞こえた僅かな足音に、貴音は振り返ることもなくそう言った。
「いや、正直に言えば探し回った。社外にも出たしレッスンルームは虱潰しに探したし、警備室行って録画も見せてもらってな」
 でも結局映ってなくてさ、諦めてここまで来たトコだ、と大江は素直に暴露した。
振り返らないまま貴音は頬をゆがめる。まったく正直な男だと思う。
「なあ貴音、何かあったのか」
「別に…何でもありません。ただ少し疲れが出ただけで」
「嘘つけよ。疲れた程度であんなに顔青くなるか。お前もともと色白い方だからな、顔色変わると一発で分かるんだよ」
 無遠慮を絵に描いたような歩みでフェンスにもたれかかると、大江はそこで改めて貴音の顔をまっすぐに見た。
貴音は一度だけ大江に虚ろな瞳を向け、すぐに視線をそらして再び太陽を見つめる。
「なあ、本当に何かあったなら言ってくれよ。俺でよければ相談に乗るぞ」
 相談、という言葉に、貴音は大江に顔を向けないまま力なく笑った。
「…人は、常に一人です。慣れ合いは弱者の特権、私には―――その資格は、ないのです」
 そして貴音は、改めて大江の顔を見上げた。
糸の切れた虚ろな瞳はまっすぐに大江を見上げ、その横顔には夕暮れの橙が薄明るく光っていた。
 大江には、その顔がまるで何もかもを諦め切った老人のように見えた。
「…あのな、貴音、」
 大江はそれだけを言い、貴音に向けていた顔をフェンス越しに見える太陽に向け、頭をガリガリと掻きむしり、息を吸う前に一言耳を塞いでいろとだけ言った。
貴音が言われるままに耳を塞いだ事を横目で確認し、フェンス越しに見える太陽を睨みつけ、大江は最後に赤く染まった空を見上げ、
 叫ぶ、

「下らね――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 驚いたのは貴音である。
突然至近距離で叫ばれた事に目をぱちくりさせ、まるで物狂いを見るかのような目つきで肩で息をする大江をまじまじと眺めている。
 やがて息を整えた大江は、先ほどの叫びが嘘に思えるほどの声で、
「お前が何を背負ってるのかなんて知らねえ。俺はお前じゃないしな、お前が言いたくないならそれでいい」
 燃え盛る緋色の世界で大江はため息をつき、
「でもな、何でもかんでもお前一人で背負いこむんじゃねえよ。何のために俺がいると思ってんだ。言ったろ、俺はお前の盾だ。お前を天辺に立たすために俺がいるんだ」

 覇道とはたった一人で歩む道だ。多くを捨て、多くを諦め、たった一人だけで極めるべき王への道だ。
 そう、思っている。

「忘れんな、お前は一人じゃねえんだ。誰でもいい、俺じゃなくてもいい、キツくて辛くてどうしようもなくなったら誰でもいいから頼れ。一人で潰れんな。誰も、」
 驚いた貴音が見ている前で大江の瞳にあった明確な怒りの色は消え、代わりに貴音はそこに浮かんだ正反対の色を見た。
 大江の瞳には、まごう事ない寂寥の色が浮かんでいた。
「誰も、そんな事望んじゃいない」

 そう、思っているのに。
 たった一人で歩み、多くを捨て、多くを諦め、たった一人で極めるべき道だと思っているのに。

 もう良いのではないか、と貴音は思う。
この男に全てを話してしまっても、この男と全てを分かち合ってしまっても、何もかも洗いざらい話して泣いてしまっても良いのではないだろうか。
 多くは無理だと思う。『みんな』を連れて覇道を歩むことなど不可能だと思う。
 でも、もう一人くらいなら良いのではないだろうか。そんな道があってもいいのではないだろうか―――

 いや(・・)

「―――大江様、」
 呼びかけに貴音を見た大江は、そこに貴音の笑みを見た。
 穏やかな、寂しげなその笑顔は、まるで見えているのに手を伸ばせない宝物を見たような、そんな風に見えた。
「では、一つだけ、お願いがございます」
「ああ」
 そして貴音は笑顔を浮かべたまま、願いを口にした。
「私を、Aランクに連れて行ってください」
「ああ」
「必ずです。逃げることは許しません」
「誰が逃げるか」
 その言葉に、貴音はほっそりとした右腕を出して掌を一度広げ、小指だけを残して手を握った。
「約束です。私を、大江様の手でAランクに導いてください」
 夏の夕暮れの屋上で、貴音はそう言って大江に微笑む。
大江はそんな貴音に一度獰猛な笑顔を浮かべ、その小指に己の小指を絡ませた。
「任せろ、お姫さん」




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