声 (15)

 あれから、プロデューサーさんの様子が少し変だ。
 春香は思う。見てくれこそプロデューサーはいつも通りである。
今朝も書類の提出遅れから小鳥に怒られていたし机の上は綺麗だし冗談も言うし時々真面目な事も言う。
車の中に入っているコーヒーもいつも通りの銘柄だし左折するときに側面確認しない悪癖もいつもの通りだ。
ぱっと見たところ、プロデューサーの様子にIU1次予選から今までに変わったところなどないように思える。
 だが、本当に時々プロデューサーはどこか上の空になる時がある。
時折ふと視線をどこか遠くに飛ばし、一心不乱に何かを考えているときはちょっとやそっとの衝撃では意識をこちらに戻すこともない。
 ほら、こんな風に、
「プロデューサーさん、青ですよ?」
「……」
「プロデューサーさん?」
「…え、ああ、えーと、呼んだ?」
 春香の代わりに後ろのトラックがクラクションを鳴らした。
弾かれたような様子でプロデューサーは信号を確認し、青になっていると分かるや否やケツを蹴られた馬のようにアクセルを踏み込んだ。
今日は相当に燃費の悪い営業回りだ。ある程度走ったところで、プロデューサーは横目を春香に向けた。
「それで、えーと、何だったかな?」
「…もぉ。青ですよって言ったのに、プロデューサーさんが全然聞いてくれなかったんですよ」
 そっかごめん、とプロデューサーは情けなさそうに頭を掻き、カーナビも何もあったものではない車の中に置いて唯一の救いであるCDソケットのイジェクションボタンを押した。
出てきたのは2次予選を抜けた後に春香が歌う事になっている「relations」であり、春香はそこでふと溜息をつく。
「次の歌、難しそうですね」
「そうだね。春香の声帯だと多分サビの部分が高いかな。その辺りはファルセット使って綺麗に見せないといけないから、難易度的には『ジェラシー』より高くなると思う」
『ジェラシー』と言うのはもちろん、今春香が持ち歌にしている『太陽のジェラシー』である。
「あああ、私地声とファルセットの繋ぎ苦手なんですよ」
「発声的には難しい分野だからね。『ジェラシー』だとファルセット使わなくても歌えるし。その辺はまあ、要練習かな」
 Eランクに上がったことで、いよいよ春香のアイドル営業も本格的になってきた。
Fランクだったころはひと月に1度営業があれば仕事をした方だったのだが、Eランクに上がったことで営業の比率もわずかではあるが徐々に上がってきている。
実家近くにある高校に通う春香が都心にある765プロに朝から晩まで顔を出せるのは土日だけなので、一日中動き回ることができる週末は目下のところ営業活動をメインとしている。
 では練習の比率が落ちたかと言えばそんな事はなく、最近の春香はウィークデーに1、2日は本社ビルに顔を出して自主練習に励んでいる。
手の空いているときはプロデューサーも練習監督に駆けつけるのだが、やはり1日ぶっ続けで練習できたFランクの頃と比べれば技術力向上の速度は格段に落ちているなと思う春香である。
 その上、次の「relations」はプロデューサーの言ったとおり難しい曲だ。
もちろん他に候補として挙げられた曲の中に簡単な曲などなかったが、結局春香は自ら「relations」を選んでいる。
選んだ時は何となく格好いい曲だなあ、という漠然とした印象だったが、事自分で歌うとなれば話は別だ。
「何だかすごい曲選んじゃいましたね、私」
「あはは、『ジェラシー』とは全然毛色が違うからね。でもさ、これも考えてみればよかったのかもしれないよ?」
「へ? どういう事です?」
 そこで赤信号につかまった。プロデューサーは白線が見えなくなるまで車をゆるゆると前進させ、
「いやさ、『ジェラシー』は明るく楽しく夏満開だったじゃない。歌ってたのは春だったけど。でも今度のは…そうだね、いうなれば失恋なわけじゃない」
「失恋ですか」
「うん。今度のは曲の感情的には切なさとか寂しさとかそういうの出さなきゃいけないから。歌える曲の幅が広がればさ、表現力の向上にも繋がるし」
 赤信号をいい事にこちらを向いてへらりと笑うプロデューサーに、春香はほんの少しの安堵をおぼえる。
プロデューサーの様子がおかしいと感じたのはこちらの思い違いかもしれない。
 そうだ、プロデューサーだって人間である。怒られもするし笑いもするし泣き顔など見たことはないが疲れることくらいきっとある。
 自主練習の前には必ずプロデューサーのところに挨拶をしに行く春香は、その都度机に齧り付いて『天海春香』の今後のプロモーションのために資料を漁ったり電話を掛けたりしているプロデューサーを見ている。
時折はいないこともあるが、その時は基本的に営業活動のための外回りに出ているのだと小鳥が教えてくれている。
『天海春香』が活動していない時もプロデューサーは仕事をしているのだと思うと、春香としては頼もしいやら申し訳ないやらである。
「切なさとか寂しさ、ですか」
「うん。なんて言うんだろなこういうの、ギャップっていうのかな? 『天海春香』は元気な曲だけじゃなくてこういうのも歌えますって言えれば、新しいファンの獲得にもつながるし」
 それが引いてはAランク入りに近づいて行くステップになるんだよとプロデューサーは言い、青に変わった交差点を抜ける為にブレーキべダルから足を話した。
白線前に止まる時と同じ速度で走りだした車にアクセルペダルでゆっくりと火を入れ、車はさっきの急発進が嘘に思える滑らかさで営業先へと近付いて行く。
「でも、歌えるかどうかは次の予選次第ですよね」
「まあね。不安かい?」
 春香はプロデューサーに気取られないように唾を飲んだ。
ここで「不安です」と言えば恐らくはプロデューサーの事だ、「春香なら大丈夫だよ」と言ってくれるはずである。多分―――いや間違いなく。
プロデューサーとの付き合いはまだ4カ月程だが、何となくプロデューサーはそう言う気がする。
プロデューサーの底が浅いと言ってしまえばそれまでのような気もするし都合がいいと言えばそうも聞こえるが、何故か春香にはそう思えた。
 だから、こう言ってみる事にする。
「…そりゃあ、ちょっとは不安ですよ」
「春香なら大丈夫だよ。平日だって練習してるんだし、たぶん練習量も他のアイドルに負けないとは思うよ」
 やっぱり。
 やっぱり、プロデューサーはただ単純に疲れているだけなのだろう。最近様子がおかしいのもそのせいなのだろう。
 考えてみればもうIUの2次予選まであと2週間を切っているし、週末しか動けない『天海春香』のプロモーション先も吟味に吟味を重ねたところだと言うのは何となく肌で感じる。
まだEランクと言う事もあってか派手派手しいテレビ回りは2週に一度あるかないかだが、これから向かう先も昨日の営業先も関東圏では大手と呼んで差し支えないレコードショップだ。
 だとしたら、プロデューサーの不調の原因は少なからずこちらにあるような気がする。
「…プロデューサーさん、最近疲れてます?」
「え?」
 横目をこちらに向けてきたプロデューサーに春香は小さくなって、
「だって、最近プロデューサーさんぼーっとしてる時ありますから。さっきの信号の時もそうですし」
 そうかな、というとぼけた返事にそうですよと返す。
「ちゃんと栄養あるもの食べてます? 夜はしっかり寝てますか? 朝起きて鏡を見たらゾンビがいたなんて事ありません?」
「…どんなホラーだよそれ。大丈夫だって、心配いらないよ。春香こそ大丈夫?」
「何がです?」
「IU予選まであと2週間ないからさ。今から緊張してたら本番まで体持たないからね」
 何だかあべこべだ。心配しているのはこっちだと言うのに。
春香はどっかりとした溜息をつき、夏真っ盛りの青空に浮かんだ入道雲をフロントガラス越しに眺める。
「私なら大丈夫ですよ。この間の予選通過でちょっとだけ自信つきました」
 事実、6月の1次予選通過は春香自身にとっての励みになった。
1次とは言え予選通過によって「四条貴音」にはけちょんけちょんに貶された自分の夢が公に認められたような気がしたし、「天海春香」のプロモーションの方向性は決して間違ってはいなかったと証明された様な気がしている。
だからこそ、今後も二人三脚をお願いしたいプロデューサーの不調は春香にとっても心配の種だし、「みんなを元気に」したい「天海春香」のすぐ横にいるプロデューサーが元気ではないというのは何だか締りの悪い話である。
 それに―――

―――その意思がある限り、あなた様は私に勝つ事はできません。

 そんな事は断じてあり得ない、と思う。
 なぜならプロデューサーがそう言ったのだから。
「目標を追い続けることの何が悪いんだ」とプロデューサーは言ってくれたのだから。
 自分が歩いている道が覇道などという物騒な道程であるとは春香は露ほども思ってはいないが、もし仮にそうなのだとしても「天海春香」は決して自分のやり方を曲げたりはしないと思う。

―――春香がそれを探すの、手伝えるとは思うんだ。僕はまだ半人前だけど、一緒に悩んだりする事くらいはできると思う。

 なぜなら、横にプロデューサーがいるのだから。
 一緒に悩んでくれるプロデューサーが、横にいるのだから。

「うん、自信持つのはいい事だよ。しぼんじゃってる春香なんて春香らしくないもんね」
「夢を見ることも、目標を追いかけることも元気がないとできませんから。プロデューサーさんだってそうじゃないですか」
「僕?」
 再び赤信号につかまった。
プロデューサーは物も言わずに穏やかに車を止め、ぼんやりと前に止まるトラックのテールランプを眺めている。
「法定速度遵守、お先にどうぞ」と書かれたバックロックを視界の正面に捉えたまま、プロデューサーは呟くように、
「僕の目標、か」
「前に言ってたじゃないですか。いつか先輩に認められるようなプロデューサーになりたいって」
 プロデューサーは春香の声にぼんやりとした視線をバックロックに放り、次いで差しっぱなしになっていた缶コーヒーを少しだけ喉に流し込み、
「…そう、だね」
 春香の眼に映るプロデューサーの瞳が、そこでどこか遠くへ飛んだ。
その瞳に色はなく、まるでいつかの遠い過去を思い出しているかのようなプロデューサーの瞳にはどこか危なげな印象すら持った。
「…ねえ、春香」
 そんな事を思っていたら、突然プロデューサーが声を掛けてきた。
プロデューサーは春香の方を見ていない。まっすぐに正面を向いたその瞳には何ともいえない複雑な色が見える。
「変な事聞いていいかな」
「あ、はい。あーでも、テストの結果以外でお願いします」
 わざとふざけた口調でそう言うと、プロデューサーはすぐに瞳に浮かんだ何色とも言えない色を消して春香に訝しんだ視線を投げ、
「テスト駄目だったの?」
「あ、あはは、私数学苦手なんです…ってプロデューサーさん、そう言う話じゃないですよね?」
「法定速度遵守中」がのそりと動き出した。
視界の隅でそれを確認したのかプロデューサーは苦笑いしたかのように首を振ってブレーキを外し、
「いやそういう話。丁度いいや、『天海春香』がDランクに上がる前に一回学校にもご挨拶に行かないとと思ってたし。3者面談でもしてもらおうか?」
「…プロデューサーさんって時々凄く意地悪ですよね」
 膨らんだ頬を見るプロデューサーの表情はいつもとまったく変わりがなかった。心の奥底で安堵のため息をつく。
 そうだ、私はきっと考えすぎなのだろう。
この間『四条貴音』に言われたことがどこか頭の隅の方にでも引っかかっていたのだろう。
何でもそうだ、そういうフィルターを掛けてみれば世の中はフィルターの色に塗れて見える。
恐らく不安や心配と言ったフィルターが知らないうちに目にかかっていて、そのせいで一番身近なプロデューサーの表情も曇って見えたのだろう。
「それか、そうだね、もしくは宿題でも出そうか。数学の問題集とか」
「え゛、じ、冗談ですよねプロデューサーさん?」
「冗談なもんか。アイドル活動のせいで学業が遅れちゃったらまずいじゃないか。トークのためにも学は必要だよ春香」



 僕は、一体何を言うつもりだったんだろう。
春香に軽口を叩きながらプロデューサーはふと思う。
 大江の今の所在について社長に問い合わせてみたが、社長は知らぬ存ぜぬを付き通していた。
あの様子だと本当に知らないのだとは思うが、しかし経験豊富な社長のことだ、何か知っていて腹の中で情報を殺すことくらい造作もないことだろうとプロデューサーは思う。
「大江という名前のプロデューサーなど他にいるかもしれない」という話で一応は引き下がったが、もうちょっとつついてみれば何か有益な情報が得られたかもしれない。
確かに「大江」という苗字は別に珍しくもなんともないし、プロデューサーの知っている大江が貴音の話に出た大江とは全く違う人物であるという可能性はないわけではない。
 しかし、それにしては引っかかることがある。
961における『四条貴音』の売り出し方だ。
 振興の961プロが765プロの売り出し方を真似た、というだけの話ならプロデューサーとてそれほど『四条貴音』の売り方など気にしない。
気にするべきは『四条貴音』の実力のみであり、その売り方を気にするのは現段階では早すぎる。
しかし、IU1次予選の段階での『四条貴音』のアピールの仕方は完全に『個』を売りだすそれであり、これはIU制度説明会の時の黒井社長の言い分と矛盾する。
商品の特質に合わせて売り方を変えたと言われれば確かにその通りではあるしあの時はそれで納得はしたものの、その後の貴音の弁に合わせて考えるとどうしてもプロデューサーはその可能性を否定できない。
 大江が961に移籍した、という可能性である。
横で頭を抱える春香に気取られないようにプロデューサーは小さく首を振る。
 それはない、あり得ない。
敏腕たる手腕を業界に響かせる大江の名前は広く知れ渡っているし、プロデューサーの知らないところで大江の引き抜き工作があったというのは今では笑い話の類だ。
最も笑えるのが大江を引き抜くにあたって競合他社から示された条件が「今の給与の2倍を出す」という話で、大江はその話を持ちかけられた際に鼻で笑って契約書を縦に破り捨てたらしい。
目の前で契約書を破り捨てられた競合他社の交渉役はどうやらその引き抜きに絶対の自信を持っていたらしく、引き裂かれた契約書の片割れを手にしばらくその場で立ち往生していたという話だ。
何だか交渉役が可哀想な気がしなくもないが、しかし件の引き抜き工作をした会社は一度でもテレビを見たものなら名前が浮かぶような大手だったらしい。
環境的にも決して765に劣るはずはないが、それでも大江は首を縦に振ることはなかったという。
 この話をはじめて聞いた時のプロデューサーの反応は純粋に疑問の形をしたもので、当時新米と呼ばれていたプロデューサーはアホ面丸出しで大江に「なぜ移籍しなかったのか」と尋ねている。
今考えれば絞首刑間違いなしの疑問ではあったが、しかし大江はこの時プロデューサーに「お前も1年765で飯を食えばわかる」と答えるに留めている。
 そして、プロデューサーは1年を経たずに大江の真意を悟る事となった。

―――あいつらは商品でも人形でもないからな。お前はお前の考えるプロデューサーになればいい。

 それが、大江の答えなのだろう。
恐らく大江もまた「大江の思うプロデューサー」になるために765に居続けたのだろう。
 大江が765を去った原因は未だ謎に満ちているが、少なくともその時の大江の答えはそこにあったに違いない。
だからこそプロデューサーは「プロデューサー」としての目標を大江の背中に定めたのだし、そこに嘘や偽りはない。
 だから、それはない、あり得ない、という結論に至る。
 ここで、「961における『四条貴音』の売り出し方」という最初の疑問に戻る。
実のところ現段階において『四条貴音』のメディアへの露出度は春香と大差がない。
765が競合他社のスパイに細心の注意をしているように、どうやら961側も自社アイドルの情報流出を警戒しているようで『四条貴音』の最近の動向は一向に流れてこないが、それでも何度か見た『四条貴音』の売り方やダンスの振る舞いなどはプロデューサーの見る限り大江の指導の影がちらついている。
それに、『四条貴音』がデビューしたのは今年の4月だ。そして、大江が765を退職したのは今年の3月末付けである。
 それはないしあり得ないとすら思うのに、プロデューサーは頭に渦巻いたその疑惑を払拭できずにいる。
 ありえない可能性の最も小さいものとして、大江がもし仮に、本当に仮に961に活動の拠点を移しているとしたら―――。
プロデューサーはそこで春香に気取られないように今度はため息をついた。
「? どうしたんですかプロデューサーさん、溜息なんてついて」
「ああ、いや別に。春香の学校になんて挨拶しようかなって」
「…やっぱりその話に行くんですか。プロデューサーさんのイジワル」
「何をおっしゃる春香さん。Dランクに上がったら学校欠席して貰うことだってあるんだからね、挨拶もなしに学校休ませる事なんてできないでしょ」
 気取られた。
曖昧に話を合わせ、プロデューサーは意識の4割を春香との会話と運転に、残りの6割を腹に巣食った疑問に割り当てる。
 961と765ではアイドルの売り出し方において決定的な相違が見られる。
765が伝統的にアイドルの「個」を重視してプロモーションを行っていくのに対し、振興の961は黒井社長の言い分を素直に受け取るのなら「ファンに受け入れられるアイドルを生産する」ことをその旨とする。
もし仮に大江が961に移籍したのなら、大江はアイドルを「人間」としてでなく「商品」として扱う事にしたということになりはしないか。
 何よりも、あれほど765に忠誠心の高かった大江が765を捨てて961に寝返ることなどあり得るのか。
高木社長を、小鳥を、営業部プロデュース課の面々を裏切ってまで961に身を落とすことなど、あの大江が有り得るのか。
 自分の信じた大江が、あれほど「アイドル」と真剣に向き合っていた大江が、「プロデューサー」としての目標たる大江が、765を裏切ることなど有り得るのか。
 それでももし、大江が961に移籍していたとしたら。
 ここで、ようやく「僕は一体何を言うつもりだったんだろう」に帰ってくる。
「だ、大丈夫ですよ3者面談なんてしなくても。まだ1年生なんだし、勉強だって頑張れば今からでも追いつけますよ。…た、多分」
「確証が欲しいね。結果っていうのは非情だからさ、やっぱり出たものは出たものとして腹括っていかないと」
「す、数学ですか」
「いや具体的に春香の点数が何点だったかは分らないけど、次回のテストもダメだったらアイドル活動に加えて勉強会を」
「もーっ! プロデューサーさん、信じてくださいよー!」
 信じて、という言葉に、プロデューサーの脳裏に思い出が蘇った。
 思い出す、去年の5月の飲み会の席のビールの味と心の奥底に巣食った罪悪感。
 自分は一体、何を言うつもりだったのか。
夢を追いかけ、希望を叶える為に頑張る春香に向けてそう問いかけるつもりか。
 頑張ることが自分の夢を叶える唯一の方法だと信じている春香に、自分はそう問いかけるのか。
「もし信じていたものに裏切られたら、君だったらどうする?」と、自分は本当に問いかけるつもりだったのか。
 プロデューサーの仕事の本懐はアイドルがその活動に打ち込めるよう、誠心誠意をもってアイドルの不安を払拭することだ。
 それを、根本から覆そうというのか。
「…いや、冗談だよ。そうだよね、信じるよ」
「本当ですか!?」
「本当だよ。僕が今まで春香に嘘ついた事なんてあった?」
「…この間の自主練習の時、プロデューサーさん来てくれるって言ったのに結局来てくれませんでしたね」
 むくれた春香の表情にぐうの音も出ない。
素直にごめん、というと、春香はそこでにぱ、と笑い、
「冗談ですよ。でもほんとに次のテストは頑張ります。見ててください、ちゃんといい点取ってきますから」
「…うん、楽しみにしてる」
 任せといてください、と元気に言う春香にプロデューサーは己の頬が緩むのを感じた。
 たぶん、貴音の言う「大江」はプロデューサーの知らない「大江」なのだろう。プロデューサーはそう思う。
あの大江が、プロデューサーの目標たる大江が、アイドルは人形なんかじゃないと言い切った大江が、961に行くはずがない。
 社長を、小鳥を、営業部のみんなを、プロデュース課のみんなを、765のみんなを、
自分を、裏切るはずがない。

―――私は信じます。プロデューサーさんの事。

 春香が自分の事を信じてくれるように、自分もまた大江のことを信じよう。
そう考えたら、何だか今まで考えていたことがあまりにも小さく思えた。
「さて、そろそろ営業先が近くなってきたね。今日の予定はCDのセールストークだけど、話すことは纏まったかい?」
「ある程度は…ですけど。新曲のことも言っていいんですか?」
「IU2次予選を通る自信は?」
 プロデューサーの問いかけに、春香は満開の笑みで返事を返す。



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