声 (18)

4.

 無駄に元気だった遠藤に行き先を告げ、向かった先には途方もなくでかいビルがある。
765の本社ビルも高さだけなら負けはしないだろうが、たるき亭の3階から始まった今の765を鑑みるだに黒井の目立ちたがり屋な性格は一向になりを潜める気配などなさそうだった。
どこぞのモニュメントタワーの風貌を呈するビルの1階には「961プロデュース株式会社」と書かれたやはり大きな看板が鎮座していて、高木としては苦笑のような溜息を禁じ得ない。
ここに来るのは2度目だが、1度目は黒井の目の前で腹を抱えて笑ったせいで半ば本気で殴られた。
あの一発を貸しにして今の計画を進めているのだからチャラと言えばまあそうだが痛いものは痛い。
だがまあ―――高木は思う、この計画が完遂した暁には自分は一体誰から何発ゲンコを貰うことになるのか。
 エントランスホールを潜り、歌とダンスの才能があれば今日にでもデビューしてもおかしくなさそうな顔形の整った受付嬢に名前を告げると、受付嬢は黒井から渡すようにでも言われていたのか一欠けらの警戒心もなく「GUEST」と書かれたIDカードを渡してきた。
使い方はご存知ですかと問われ、高木はため息をついて受付に置いてあるサンプルスロットにカードを滑らせて見せる。
高層階用エレベータ内に備えてあるスロットにカードを流せば上層階へのロックが外れる仕組みだ。

 2回のエレベータ乗り継ぎを終えると、社長室に至る3つ目のエレベータが現れる。
見てくれこそ素っ気なさを形にしたようなカーゴのくせに、嫌味なことに昇降キーの上にはインターホンが備え付けてある。
黒井が日々の大部分を過ごす社長室に行くためには中から開けて貰わなければならないため、どうせ一言目には文句の一つも言われるんだろうなと社長は渋々呼び出しボタンを押した。
 一発で黒井が出た。
『―――会議なら今日はなしだ。資料が集まってない。鈴木に早く資料を纏めるように伝えとけ』
「それは残念だが、会議中止の原因を部下に押し付けても何も始まるまいよ。まずは自らが率先して動く、これがお前の美学ではなかったか?」
 インターホンの向こう側の雰囲気が如実に変わった。
『高木か?』
「961で社長相手に敬語を使わない部下がいるなら、私もお前を見直すのだがね」
 鼻息を一発した音がインターホン越しに漏れた。
『お前のところもそうじゃないか。何も961だけじゃないだろ』
「ワンマンの辛いところだ。誰にも指導を仰げない上に責任は一人で負わねばならん。さて、遠路はるばる来たんだ、そろそろ上げてくれ」
 いい加減突っ立っているのも嫌になった高木の言葉に、インターホンからこんな声が漏れた。
『お前本当に高木だろうな』
 どこかでモーター音が鳴った。
同時に社長は顔をあげ、高木の頭頂部を俯瞰に眺める天井に据え付けてあるカメラに強い視線を送った。
 溜息、
「カメラが付いているだろう。老眼でも始まったのかね」
『―――俺とお前が共同で行っている計画名、言ってみろ』
 どうやら黒井はカメラでは飽き足らなかったらしい。
暗号染みたやり取りに馬鹿馬鹿しいまでの脱力感を感じ、高木は周囲を緩慢な動作で見渡す。
22階のフロアには高木の見るところ誰もおらず、時計の針はもうすぐ8時を指そうとしている。
「『アイドルマスター計画』。これでいいかね」
 ばしん、という大げさな音がして、エレベータのロックが解除される。
さてはどれ程豪奢で悪趣味な内装が出迎えるかと思ったら、カーゴには何の装飾も付いていなかった。
ただ一点だけ、特筆するところがあるとすればエレベータの真正面にカーゴを切り取るようにつけてある窓が無闇に大きい。
すっかり日の暮れた都心の光が地上22階から蛍の光のように見える。
初めて来た時は会議室に通されたから分からなかったが、そういえば真正面から見たビルの壁面にはエレベータが上下できそうなガラスの空洞があった気がする。
 上昇するエレベータカーゴの中、離れていく夜景を足元に眺め、高木はその顔にどこか薄気味悪い笑顔を浮かべている。



「まあ座れよ。立ち話もなんだろ」
「そうさせてもらおう。まったく、このビルはエレベータが多すぎる。少しは利用者のことも考えたらどうかね」
 実に嫌味なことに、961プロデュース株式会社の社長室にはバーカウンターが付いていた。
所狭しと並んだカウンター奥の棚には何年物か全く分からない類のバーボンとウィスキーが並んでいて、酒に疎い高木はそれが酒ではなくアンティークに感じる。
「そう言うな。これはこれで結構気に入ってる。セキュリティの問題もあるしな」
 お前のところが無防備すぎるんだ、と言外に言われた気がして高木は口を噤み、グラスに注がれた琥珀色の酒を喉に流した。
どうだといわれて出されたバーボンは木樽の味がする。
 正直に言えばこの味の何がいいのかよく分からない高木である。
もうずいぶん昔、高木がまだ第一線で営業回りをしていたときに頻繁に飲んでいたビールは不味いの一点張りだったが、これはこれで別種のまずさと言えばそうなのかもしれない。
「セキュリティか。そう言えば、ここに人を通す時はいつもああなのかね?」
「ああって?」
「私かどうか確認しただろう。あれでは秘書たちがいつも大変ではないか?」
「ああ、」
 呟くと、黒井は氷の浮かんだグラスを傾けて苦味を押し殺すかのような顔をし、
「秘書たちにはそれほどでかい仕事はさせてない。あいつらが握ってる情報なんてタカが知れてる」
 特にこのヤマに関してはな、と呟く黒井の表情にはどこか疲労が見て取れる。
薄明るい光に照らされたバーのカウンターに落ちる黒井の影は、どこか自分の影より濃く見えた。
「何か問題でも?」
 高木の問いに黒井は実に大げさにも取れる溜息をついた。
「最近計画の件で誰かに嗅ぎ回られてる。総会の連中じゃないのは間違いないが、それにしては何か妙だ。今のところ計画の中身が漏れたってことはなさそうだが、誰かに調べられているのは間違いない」
 高木の視線が鋭くなる。
「証拠は」
「検閲資料の位置がずれてた。先週の話かな。秘書にも聞いては見たが、そんな資料知らなかったとさ」
 当たり前だよな、と黒井は呟き、高木は視線に鋭さを宿したまま曖昧に頷く。
秘書にすらタカが知れている情報しか流さない黒井がその辺りの資料整理を乱雑に済ませるわけがない。
ということは、黒井が把握しきれない誰かが計画の資料を盗み見た可能性が浮上する。
「従業員の足回りは洗ってあるんだろう。外部の線は?」
「なくはないが確率は低い。資料室は高層階にある。IDカードなくすなよ、俺はお前を見送る気はない」
「寂しい話だ。大学時代からの同期からも見送りは貰えんのかね」
 高木の言葉に黒井は実に渋い顔をして、ちびりとグラスに口をつける。
「お前が同期って言うのが俺の人生の唯一にして最大の汚点だ。ただまあ、」
 高木が差し出した煙草を手を振って断り、高木が紫煙の一口目を吐いた後に黒井は呟くようにこう言った。
「お前が『アイドルマスター計画』を持ってきたのは驚いたがな。忙しくはなったが、おかげで961はタダで『敏腕』のプロデューサーを手に入れた。大江の落とす営業ノウハウは確かに使える」
「1年間だけ、だがね」
 水を差した高木の一言にも黒井は全く動じる素振りを見せない。それどころか実に意地の悪い笑みを浮かべ、
「しかしどういう吹き回しだ高木。見返りも何もなく大江の身柄をこちらに引き渡すとは。しかも大江は計画の後も765に戻ることはないんだろう?」
 高木が回したグラスが、からん、と乾いた音を立てた。
「ああ。大江君は来年度から総会の方に籍を移す。最後くらい望みを叶えてやってもいいだろう」

―――疑うのも疑われるのも嫌いなんですか。どの口で言うんですそれ。

「―――『アイドルマスター』」
 全くだ、と高木自身思う。
この計画を遂行するにあたり、自分は一体どれほどの人間を騙しているのだろう。
一番の被害者は言うまでもなくあの二人だが、この分で行くと計画終了を皮切りに自分はサンドバック確定である。
 それがどこか、高木には救いに思えた。
「大江君は765立ち上げの時から随分貢献してくれたからな。親心だよ黒井」
「お前がどう思ってようが関係ないが。計画が終了した暁には961は労せずして『アイドルマスター』を手に入れる」

 黒井に説明した『アイドルマスター計画』の肝はまさにそこだ。
大江は765黎明期から第一線でプロデューサーとして活動し、今やその業績は業界で知らぬ者のいない程認知度を高めている。
もう10人以上のアイドルをAランクで終わらせられるまでに成長した大江は、しかし765に在籍し続ける限り総会の規定により「アイドルマスター」にはなれない。
総会が定める「アイドルマスター」への条件にはAランクアイドルの輩出に加えて『業界への多大な貢献』という極めて抽象的な文言があるためだ。
 そこに行くと961はまだまだ設立したての業界後発組である。
設立して僅かな企業からAランクアイドルが輩出されれば、これは総会の規定する『業界への多大な貢献』をクリアしたことに他ならないし、そうして「アイドルマスター」となるべくして業務を遂行する大江の手腕によって担当のアイドルがAランクになれば961の認知度も上がる―――高木は計画を始めるにあたり、黒井にこう切り出している。
 勿論黒井は最初この計画に難色を示した。
話だけを聞けば961には何のデメリットもないように思えるこの話は、つまり765側に何のメリットももたらさないように思えたのだ。

「そして765は『アイドルマスター』に至る下地を作った企業として業界に認知される。私としては―――765としては、それで満足だ」

 そして、高木が黒井を載せるにあたり語った765のメリットはそこだった。
大江が961で「アイドルマスター」になれば、765は「『アイドルマスター』になる素養を持ったプロデューサーを育成する手腕を持つ」という格好のアピールになる。
 961には一般消費者の認知を、そして765には業界の認知を得ることができるという格好になる。
これが『アイドルマスター計画』の基本的な骨子であり、黒井がこの計画に乗ったのは一重に後発たる961の世間認知度向上と、ここまで聞いてなお渋る黒井を説得するために高木がもう一つの条件を提示したことによる。
 ふと自分に注がれる視線に気づき、高木はグラスから黒井の顔に視線を移した。
「ふん。大江を『アイドルマスター』にするために新人を切るか。お前がそこまで冷酷だとは思わなかったよ」
「褒め言葉と受け取ろうか。何、彼がその事に気付くのは『天海春香』がAランクに上がった直後だろうさ」

 この計画を遂行し、大江が「アイドルマスター」になるためには勿論条件がある。
その中でも最たるものが、「大江が担当するアイドルがIUで優勝しなければならない」というものだ。
 勿論「アイドルマスター」になる条件として上記の文面はどこにも記載されていないが、「10人以上のアイドルをAランクにしなければならない」以上は単なるAランク程度でアイドルが活動を終了しても「アイドルマスター」の称号を得られる可能性は低い。
 そのために考慮すべき事は都合2つほど存在する。

 一つ。大江が担当するアイドルがIUで優勝できるほどの素質を持つ事。
いかに大江の指導が優れていようと、担当したアイドルがその辺の有象無象ならこの計画は腰砕けに終わる。
 二つ。IU決勝戦において、大江の担当アイドルが確実に勝つ保証がない事。
IU本戦は都合5回の予選を勝ち抜いた全国でも選りすぐりの猛者が集まる決戦の場であり、大江が「アイドルマスター」になるためにはそれらの猛者を担当アイドルが下さなければならない。
 一つ目の問題に対して黒井が配した対策は実に明快であった。
生まれながらに絶対的な気品と類稀な美貌、おまけに抜群の歌唱力を秘めた『四条貴音』を大江に宛がうことで、少なくともアイドル面からの不安は一応の解消を見た。
 二つ目の問題に関しては、高木が一枚も二枚も噛んでいる。
「…本当だろうな? 『天海春香』がAランクに上がった直後から、社のバックアップをなくす事」
「今更嘘を付いても仕方なかろう。『天海春香』がAランクに上がったら、765は『天海春香』のバックアップは一切行わない。念書だって書いただろうに」
 実に単純な話である。6人で行われるIU決勝の場において『四条貴音』が優勝するためには、ほかの5人を下さなければならない。

 これが、下さなければならない相手が4人に減ったらどうなるか。

 IU決勝は予選会と審査方法が異なる。
予選会は基本的にボーカル、ヴィジュアル、ダンスの3種を受け持つそれぞれの審査員が配点する点数の合計によって順位がつく仕組みだが、本戦に関してはこれにファンの投票が加わる。
IUはもともとファン感謝祭の性格を引き継ぐ位置づけという建前上総会も入れざるを得なかったファンへの措置であるが、高木と黒井はこの審査方法に目を付けた。
 いわく、本来『天海春香』に流れるはずの得票が『四条貴音』に流れればどうなるか、である。
本戦ともなれば出場するアイドルの実力は拮抗することが予想され、ファンの得票は審査員の点数に比べて配点が非常に大きなウェイトを占める。
という事はすなわちファンの得票配分はほぼ均等に分かれると捉えられ、ここに『天海春香』が本来得るはずだった票を得た『四条貴音』が―――つまり、2人分の票を得たアイドルが―――戦列に並べば、その勝利は揺るぎないものになる。
 勿論、話はそう簡単には終わらない。
他の4人のアイドルを受け持つ担当プロモーターがIU5次予選後本戦までの1か月にどのような営業をしてくるかは謎だし、5次予選まで残ったものの本戦への出場は叶わなかったアイドル達のファンを取り込むためには2月の5次予選から3月の本戦までの間のドサ回りは極めて重要な意味を持つ。
 そこで、765はその間『天海春香』への会社としてのバックアップを行わない事にする。
こうすることで『天海春香』が行える営業活動は大幅に制限されるし、その間に『四条貴音』が主だった売り場への営業を行ってしまえば浮動票を吸収できる可能性が高い。
 大江の手腕はここでも役に立つ―――すなわち、961に移籍した大江が765で培ったノウハウを生かして1ヶ月間の営業回りを行えれば、未だ大江の影におんぶにだっこの新米率いる『天海春香』を抑えることくらいは造作もない。
「どうだか。俺はそこまでお前を信用していない」
「疑われるのは結構。好きではないが慣れている。だが黒井、この話は我々765にも益のある話だ。そうそうお前を裏切ることなどないよ」

―――社長は! …社長は、なんとも思わないんですか。大江さんが僕たちを…その、裏切った事。

 ふと彼の声が脳裏によぎり、高木は口角を歪めた。
「そういえば、961で直接彼に接触したものはおらんかね?」
「大江と貴音以外はいないはずだ。961で計画のことを知ってるのは俺と大江だけだ。何かあったのか?」
「いやなに、さっき彼に『アイドルマスター』へのランクアップ条件を聞かれたものでな。そちらから水漏れがあったかと思ったが、私の思い過ごしかもしれん」
「痛くない腹を探られるのは気分のいいものじゃない。大体、961のセキュリティの固さはお前も身をもって体験しただろう」
 高木は苦笑を洩らす。確かにあのエレベータの数や接続の仕方は異常だ。
だが、それにしては、
「それにしては誰かに計画を探られているんだろう? 敵はどこにでもいるものだ」
 今度は黒井が苦笑を洩らす番だった。
すっかり氷の解けたバーボンを喉に流すと、黒井はしばらく黙ったのち、
「新人もそう思うだろうな。一番信頼してた奴が最後の最後で裏切るんだ、従業員を大切にする765の頭が聞いて呆れる」
「それも褒め言葉と受け取っておこう」

 その後3分ほど無言の時間が続いた。
黒井はその間ひたすらに酒を飲み続け、高木はその間ひたすらに煙草を吹かしていた。
 不毛な180秒を5秒ほど過ぎたあたりで、黒井は唐突に口を開いた。
「で? お前が今日来た理由は何だ?」
「旧友との凍りついた交友を取り戻すためと言ったら?」
 果たして黒井は笑った。
実に豪快な笑い声が961の社長室に響き渡り、やがてその声はぴたりと止まる。

 高木を見据える黒井の目は、全く笑っていない。

「今更だろう。俺はお前を許す気はない。今回はたまたま961にも利があった話だから乗っただけだ。勘違いするな」
 だろうな、と高木は静かに言った。
「お互いに利用しあうだけだ。お前のところはプロデューサー育成の実績、俺のところは社名認知度の向上。それ以上はないし、それ以下もない。詰まらない事を言ってないで早く本音を話せ」
 高木の瞳に一瞬だけ寂しさが浮かび、しかしその色はすぐに事務的な冷たい色に塗りつぶされた。
「計画はフェーズ3に入った。これから先は後戻りできん。それを、言いに来た」
「『天海春香』もDランクか」
 ああ、と高木は呟く。
「さっきも言ったが大江の営業ノウハウは使える。FやらEやらの営業ノウハウなどD以降のそれに比べりゃ大したことはない。せいぜい利用させてもらうさ」
「言質はとったぞ」
「こっちには物証がある」
 高木の脅しのような文句に黒井は全く動じることなく『アイドルマスター計画』のファイルを見せた。
もういい歳の二人は顔を見合せて実に気持ちの悪い笑顔を見せあい、おもむろにグラスを手に取った。
「遅くなったが、再会に」
「乾杯」
 薄暗い夏の夜、961の社長室に備え付けられたバーカウンターで、高木と黒井の持ったグラスがきん、という乾いた音を立てた。



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