声 (2)

 会議室は四角状に並べた長方形の机がド真ん中に鎮座する極めてビジネスライクな部屋である。
丁度裏手にプロデュース課がある壁沿いには移動可変式のホワイトボードがあり、新米の記憶が確かでまだ女子事務員たちが消していないのならばホワイトボードの裏側には昨日の夜まで残って行っていた対社長セクハラ対抗コミュニティ「極東機関」の作戦会議の内容が見るも無残に残っているはずだ。
丁度西側を向いた壁にはブラインドカーテン越しに沈みゆく太陽が映え、蛍光灯の人工の光に最後の力を懸命に絞って抗う太陽の光が東の壁にはしごのような光を映らせていた。
「…ええと、大丈夫?」
 そして、件の「天海春香」と思しき人物は丁度入った扉の左手奥側の机の裏側で頭を抱えて蹲っていた。
横を見れば「天海春香」の私物と思しきバッグの横で横倒しになったパイプ椅子が足元を何の恥じらいもなく晒していて、何かの拍子で椅子から転げ落ちたのならさぞかし腰辺りが痛かろう。
「…だ、大丈夫、ですぅ…」
 実際、新米の呼び声に反応する声には大丈夫さは欠片も感じ取れなかった。
痛くて仕方ありません、というその声に新米は慌てて天海春香の近くに駆け寄り、
「どこ打ったの? 頭?」
「頭と腰、打っちゃいました…。あいたたた」
 手を貸して何とか少女を立たせると、よほど強く打ちつけたのか少女は瞳に涙まで溜めてこちらを見上げてきた。
ちょっとドキッとする。確かにアイドル候補生になるだけあって整った顔立ちをしている。
「すごい音したけど、大丈夫? シップとかいる?」
「あ、あはは、大丈夫です。私そそっかしくておっちょこちょいだから、何にもなくても転んじゃうんですよ」
 そういうと、少女は今度はバツが悪そうにたははと笑った。表情のころころ変わる子だと思う。
なんだか小鳥先輩を見ているみたいだと思っていると、少女は唐突に思い出したかのように、
「す、すみません、騒がしかったですか?」
 急に態度を改めて俯きながらそう言った。
なるほど少女からすれば首に掛けた社員証はまるで獄卒の看守タグに見えるのだろうし、その手の緊張は新米自身去年嫌と言うほど味わったのだからその辺りはよく分かる。
「いや、そんな事ないよ。それより、怪我とか本当に大丈夫? アイドル候補生に怪我なんてあったら大変だ」
 そこで、少女はばっと顔を上げた。何だと思う間もなく少女は改めて新米の顔を見て、あ、と呟く。
「ひ、ひょっとして、面接官の方であらせられますでしょうか?」
「いや僕は面接官じゃ」
「し、失礼しましたっ! 私、天海春香と申します!! き、今日はよろしくお願いします!」
 誤解を解く間もなく少女―――天海春香はそこで深々と頭を下げた。
よく見ると太股の横に添えられた両手はギュッと握りしめられていて、新米は心の奥底で溜息をつく。
この子の緊張を解くのは相当に難しいのではないだろうか。
「えーと、天海、さん?」
「はいっ!」
「まずちょっと落ち着こう。はい深呼吸。はい吸ってー」
 はい、と言って春香は素直に両手を広げて空気を吸い込み始めた。
吐いてー、と言う声にはーと言いながら空気を吐く春香を見て、新米はずいぶん素直な子だなあと感心する。
吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、吸ってー、吸ってー、吸ってー、吸ってー、吸っ
「もっ、もう入りません!」
 そこで、春香は爆発した。
ゲホゲホとせき込みながら恨みがましくこちらを見る春香にごめんと笑いながら言い、倒れた椅子を引き起こして座る様に促す。
素直に春香が座ったのを見、新米もまた隣のパイプ椅子の背を引いた。
「落ち着いた?」
「あ、あの、はい、大丈夫です私、」
 試験官の方にご迷惑を、と言う春香に向けて新米は穏やかに首を振り、
「そこから始めようか。あのね天海さん、僕は試験官じゃないんだ。高木順一郎って知ってるでしょ?」
「あ、はい。765プロデュース株式会社の社長さん、ですよね」
 そう、と頷き、
「多分ね、僕は一般事務面接だったから自信ないんだけど、君の面接は社長がすると思うよ」
「あ、じゃあ、あの、あなたは高木社長じゃ、」
 心外だと顔に出たらしい。春香はそこで尻すぼみに「ない、です、よね…?」と言葉を繋げた。
僕ってそんなに老けてるかなと頬を掻くと、春香はそこで再び頭を下げた。
「すっ、すみません! 失礼しました!!」
「いや別に、知らなかっただけなんだから。もうちょっと落ち着いていこう、そんなんじゃ社長室行った時目も当てられなくなっちゃうよ」
 声をかけると、春香は真っ赤な顔をしておずおずと顔を上げた。
まったくころころと表情の変わる子だと思う。時計を見れば入室してから5分も経っていないのに、泣き顔から笑い顔まで全部を見てしまったような気がする。
「そ、それじゃ、あなたは…?」
 上ずった問いかけに新米はああ、と呟き、そういえばさっきの勘違い自己紹介で春香の名前は知ったものの自分の方は何も言っていなかった事に気付く。
「僕は一応765のプロデューサーなんだ。…まあ、今は見習いで事務員の扱いだけど」
「プロ、デューサー…?」
 そう来たか。何から説明を始めたらいいか新米は一度だけ黙考し、
「あのね、」



 単純にプロデューサーの仕事と言った時は、基本的にはアイドルユニットの営業活動一般を取り仕切る営業総括の元締めという説明で事足りる。
しかし残念な事に765のプロデューサーは他社ではまずやらない選曲やダンスの指導も行うし、オーディションなどに連れて行ったアイドルの緊張を解す付き人のような役割をも担う。
「付き人…ですか?」
「うん。まあ、アイドル達が本番で全力を出すために色んな準備をするんだ。ジュース準備したりタオル準備したり」
「それじゃ、プロデューサーさんはもう誰かの担当なんですか?」
「いや、僕は見習いだからまだ担当決まってないんだ。765プロには今のところ―――えーと何人だろう、とにかくアイドルがいるんだけど、1ユニットに必ず1人プロデューサーが付いて仕事のサポートをするんだよ」
 とにかく1プロデューサー1ユニットの原則を徹底的に守る765のプロデューサーのアイドル達の頭の先から足のつめまで面倒をみる業務の過酷さは他社のプロデューサーをして驚嘆せしめるほどだが、しかしだからこそ765は所属するアイドル達を軒並みAランクに引き連れてここまで自社ビルを大きくしたのだとも思う。
社の発展に貢献したプロデューサーたちはそれゆえに完全な少数精鋭であり、プロデューサー課に配属された新米は通し連番で10番目という扱いだ。
 そこで、心底不思議そうな表情の春香と目が合った。
「ひとつ、質問してもいいですか?」
「ああ、僕に答えられる事なら何でもいいよ」
 じゃあ、と躊躇いがちに春香は小さく息を吸い、
「あの、さっきからプロデューサーさん、ご自分の事見習いって言ってますけど、」
 なるほど今度はそこに来たか。新米はバツが悪そうに笑って頭を掻き、
「うん。あのね、偉そうなこと言ってるけど僕も今年の春に入社したばっかりなんだ。でも、僕も一応春からプロデューサーだしさ、大江さんが―――あー、僕の先輩が言うんだ、『アイドルの不安を取り除くのもプロデューサーの仕事のうち』って」
 すると春香は恐縮したように身を縮ませ、私まだアイドルじゃないですし、と小さく言った。
「まだアイドルじゃないってだけだよ。この面接を通れば君も晴れて候補生じゃないか。僕だってまだプロデューサーじゃないけど、ちょっとくらい早めに仕事したって罰は当たらないだろ」
 すると、春香は穏やかな表情でありがとうございますと言った。
なんだかケツがこそばゆい、実際のところ春香をスルーしようとしていた自分をこの部屋にけし掛けたのは大江なのだ。
先輩の手柄を横取りしたような気がして少しだけ気が暗くなるが、それを顔に出しては春香の不安を払拭するというプロデューサーとしての最初の仕事からコケてしまう。
 それは春香のために、出来るなら避けたい事態である。
「…私、アイドルになれますかね?」
 真面目腐った春香の声に、期せずして新米の顔に笑顔が零れた。
それを見た春香はぷうっと膨らみ、己の悩みを笑った寸足らずに顔だけで抗議する。
「あははごめん、別に君の事を笑ったんじゃなくて、」

―――そう言やこないだ経理が人が足りないって嘆いてたぞ。お前あっち回るか?

「僕も丁度今日、先輩に今の君とおんなじ質問したんだ。『僕はプロデューサーとしてやってけるんですかね』って」
「何て言われたんです?」
 春香の問いに新米は情けなく笑い、
「野郎を励ます気はないってさ。まったくひどいよな、後輩の悩みなんてちっとも真面目に聞いてくれないんだから」
 そういうと、新米は懐からすっかり冷えた缶ジュースを取り出した。さっきのベンダーで買った劇甘のコーヒーだ。
新米はテーブルに置いた缶を春香に向けてスライドさせ、視線だけで「飲むか」と尋ねる。
「だから何か放っておけなくてさ。ごめん、迷惑だったかな」
「そっ、そんな事ないです!」
 頭のリボンが跳ね飛ぶような勢いで春香は首を振った。
首の骨が折れるのではないかと心配したくなるほど派手に頭を動かすと、春香はそこでちらりと缶コーヒーに視線を投げ、
「…あの、私、小さいころから歌うの大好きだったんです。ずっと自分でも練習してたんですけど、公園で練習してたらスカウトさんに声かけてもらえて。アイドルって憧れだったから面接してもらえて凄く嬉しかったんですけど、」
 何だかここまで来たら本当に自分がアイドルになれるかどうか自信がなくなっちゃって、と春香は苦笑交じりに零した。
「あはは、僕も同じだよ」
 新米の返す言葉に春香はただでさえ大きな目を真ん円に見開き、「プロデューサーさんも、ですか?」と返す。
「うん。…情けない話だけどさ、」
 実際のところ、新米は会議室の前で「30分もすれば落ち着くから放っておこう」と言っている。
耳に痛いし苦々しい話ではあるが確かに先輩の言う通り自分はまだ「プロデューサー」としての心構えが出来ていないのだと思う。
久しぶりにマジになって怒られた事で新米は腹をくくって会議室で春香と並んで座っているわけだが、これでは確かに実践が覚束ないと言われても文句は言えない。
「4月まで時間もそんなに残ってないしね。これじゃ確かに経理に回れって言われても文句言えないよな」
「…そんな事、ないです」
 情けなくもあははと笑った新米に向かった春香の声は、しかしどこにも揶揄する響きはなかった。
驚いて春香の顔を見ると、春香は実に穏やかな表情で新米を見ていた。
「だって、…先輩に言われたからかもしれないですけど、プロデューサーさん私の事励ましに来てくれたじゃないですか。絶対プロデューサーさんはプロデューサーにならなきゃダメですよ」
「…励ますって言うか、一方的に愚痴っただけなんだけど。なんだかあべこべだなあ、励ましに来たはずが励まされてる」
 頬を掻いた新米に向かい、春香は再びぶんぶんと頭を振る。
視線を向けた先にある壁掛けの時計は間もなく午後5時20分を指そうとしていて、夕暮れに沈む太陽の上には夜の入り口の空気がぼんやりと陽光を覆っているように見えた。
「私は、励ましてもらったって感じましたよ」
「…そう、かな。だったら嬉しい。ちょっと緊張してたんだけどさ、君みたいな子と話したことあんまりないし」
 そこで春香はにこりと笑い、何だか元気出てきました、とガッツポーズを作った。
服の上からでは大して筋肉の隆起は見えないし何もこれから社長とガチンコの殴り合いをするわけではないのだからとは思うが、新米には何だかそれが羨ましかった。
「良かった。君と会うのは初めてだけどさ、たぶん君は元気な方がいいよ。見てる方も明るくなる」
「ホントですか!?」
 予想もしない大きな声を上げた春香に若干驚き、うん、と返事をすると、
「私、私の歌でみんなの事元気にできたらって思ってたんです。そうですよね、私が元気じゃなかったらそんな事できないですよね!」
 明るい子だ、と思う。
若干上がりの気があるのが不安材料ではあるが、それを克服できれば今在籍している765のアイドルたちにも引けを取らない立派な「アイドル」になれるのではないだろうか。
春香はそこでふと表情を変え、こちらをいぶかしむような眼をした。
「プロデューサーさんも、元気になりました?」

―――お前がそんなで来年から人引っ張っていけると思ってんのかよ。

 思わず苦笑が漏れた。
まったくもう、これでは本当にあべこべだし先輩の言う通りではないか。
プロデューサーの仕事は不安におびえるアイドルの悩みを取って本番で実力を発揮してもらう事がその本懐だ。
これじゃどっちがプロデューサーなのか分からないな、と新米は思い、
「…天海さん、これあげる」
「へ?」
 頓狂な声を上げた春香に向って新米が差し出したのは缶のコーヒーだ。
春香は目をぱちくりさせて缶と新米を交互に見て、
「元気出たよ。僕も頑張らなきゃな。やんなきゃいけない事は沢山あるんだけどさ、何とかしてやるって気になった」
 だからそのお礼、と言うと、春香は恐縮したように首を振り、
「い、いえ、私こそ偉そうなこと言っちゃって、その」
 そこで突然、会議室の扉が開いた。
ひょっこり顔を出したのは現在では事務員と言うよりは社長の秘書のような仕事をしている音無小鳥その人であり、
「天海春香さん、面接をしますので社長室に―――って、あれ?」
 そこで小鳥は弾かれたように硬直した春香と、本来ならばそこに居合わせるはずのない顔を見た。
小鳥は腰に手を当てて悪戯した子供を叱るような顔を作り、
「新人さん、面接前の子にプレッシャー掛けるのは感心しませんよ。まったくもう、大江さんったら全然机の上片付けないし」
 新人さんからもちゃんと言ってくれていいんですからね、と言う小鳥の顔は本当に辟易している。
なんだ先輩ちゃんと机片付けてないんじゃないか―――そう思い、新米もまた椅子から腰を浮かせる。
机の散らかりっぷりが最後に見た時のままなら、今日は確実に残業コースだ。
「あ、あのっ!」
 そこで、春香が声を上げた。何だと思う間もなく春香はそこで深々と頭を下げ、
「今日は本当にありがとうございました! 私、頑張ってきます!」
 夕暮れの光の生えた会議室の中、顔を上げた春香の顔には明るさがあった。
これが本来のこの子の持ち味なのだろう。
だとしたら、それを引き出せた自分の仕事には意味があったのかもしれない。
うん、と言ってコーヒーを差し出すと春香は首を振る。何が何でも受け取ろうとはしない春香に向けて新米は笑顔を作り、
「…いつかさ、君の歌聞きたいな。安っぽいけど、これ前払いチケットの代わりって事で」
 言葉に春香は一度呆けた表情を浮かべ、すぐにその顔に笑顔を戻し、
「…えへへ、デビュー前にファン獲得、ですね」
 新米の手からコーヒーを受け取った春香は大事そうに缶をバッグに仕舞い、もう一度ありがとうございます、と言った。




SS置き場に戻る     声に戻る                  その1へ       その3へ

inserted by FC2 system