声 (21)

 奇妙な事に、ここ1か月ほどで春香が転んだところを見たことがない。

 春香といえば転倒の代名詞である。
どのくらい転ぶかと言えば、ちょっと前の春香なら一日に転倒する回数が3回以内なら奇跡といえるくらいに転んでいる。
本人は「おっちょこちょいだし不注意だから」という心体の心の方をその原因と考えているようで、確かにプロデューサーの見るところ春香の両足の長さが如実に違っていたり、どこかしらの骨が歪んでいたり、体幹ジャイロに致命的な欠陥があったりということはなさそうに思える。
要は気の持ちようであり、だが不思議な事に気の持ちようで何か失敗を犯す人種というものは心配事がなければない程その手のポカをやらかすことが多い。
 ということは、最近の春香があまり転ばなくなったという事実を鑑みるに、その要因は2パターン考えることができる。
 ひとつめ。今年16になった春香にもようやく落ち着きが出てきた可能性。
これを考慮する場合、この間Dランクアップのご褒美に連れて行った満点堂のパフェの食い散らかしようを目の錯覚か何かだったという事にしなければならない。
ご褒美といっても別にプロデューサーが自発的に満点堂に連れて行ったわけではない―――ちょうど満点堂の近くで営業を行った帰り、春香は満点堂の商品陳列棚の前に貼りついて「そういえばまだご褒美貰ってません」とばかりにプロデューサーに視線で何かを訴えていたのだ。
5分ほど説得を試みたプロデューサーは結局春香に根負けして満点堂名物「フルーツ山盛りエベレストパフェ(1240円税込み)」を奢るはめになったのだが、その時の食いっぷりは落ち着き云々の前に何か人として大切なものが欠落しているのではないだろうかという壮絶なものだった。
春香のプライバシーを考慮して文面での様子の記載は控えるが、その時のプロデューサーの「もっと落ち着いて食べてもいいんだよ」という言葉に、「腹が減っては戦ができぬです」と元気に応戦した春香の言葉はあえて記載する。
 ふたつめ。何か心配事がある可能性。
プロデューサーが思うにこちらの方がよっぽど答えとして濃厚である。
先月Dランク昇格を果たした春香ではあったが、同日に受験していた『四条貴音』のステージは春香に何か重々しい衝撃を与えたようだった。
プロデューサーとしても春香に『四条貴音』を見せるのはいささか早計だった気はしなくもないが、しかしこのまま順当にIUを勝ち進んでいくのであれば恐らく確実にぶつかる相手だ。
早めに現在の相手の力量を見ておくのは決して悪い事ではないし、それに―――
 それに、いずれぶつかる相手のプロデューサーが大江なら尚の事だ。
 プロデューサーが知り得る限り大江は最高のプロデューサーである。
765に保管してあったプロデューサー史を紐解けば分かる、最初こそアイドル活動をCやDで終了させてしまっている大江はその後急激に業績を伸ばしている。
3年目に担当したアイドルをBランクに押し上げた後の大江の活動記録は華々しいの一言に尽き、1年に3人もの独立したユニットをAランクで終了させた7年目などはもはや人の業績を超えてしまっているかのように見える。
それでも大江は765の最後のプロデュース―――すなわち、大江が自分のOJTに着いていた最後の1年―――をAランクで終了させた時の大江の肩書は「敏腕」であり、大江が己の夢を叶える為に他会社に移籍した、という予想はかなりの確度のものだと思う。
 だが、夢を叶える為、という理由だけでよりによってなぜ961に移籍したのか、という根本的な部分は、プロデューサーには全く分からない。
 大江だって黒井社長のやり方には反感を覚えていたはずなのだ。
今でも鮮明に思い出せるあの冬の日のIU説明会、大江は確かに黒井社長を「ぽっと出のプロデュース会社」と言い切り、その営業方針について「うちはうちのやり方を貫けばいい」と言っている。
それこそが765の矜持であり、961とは全く異なる765の誇りであり、そんな志を持っていたからこそ大江は765でプロデューサーをし続けていたはずなのだ。
 なら、なぜ、
なぜ大江は961に移籍したのか。
なぜ営業方針が根本から異なる961に、アイドルを「個」ではなく「人形」として扱う961に移籍したのか。
社長室で気味の悪い体験をしたのちにプロデューサーは一縷の望みをかけて大江の携帯に電話をしているが、移籍に伴ってキャリアを変えたのか掛けた電話は薄気味悪い女の「おかけになった番号は現在使われておりません」という録音ボイスにつながった。
社長や他の先輩に聞いてみても大江の新しい電話番号を知っているものは一人とておらず、しかし小鳥に頼んでピヨネットを活用するという手段を取る気は露ほども起こらなかった。
 ピヨネットの売りは情報の早さと正確性だ。正確でしかも最新の情報はそれだけで希少な価値を持つ。
小鳥はそれを知っているからか情報の安売りは決してしないし、プロデューサーとしても小鳥のその口の堅さには救われた。
 もし小鳥に聞いてしまえば、ピヨネットを使ってしまえば、「大江は961に行った」という事実を認めざるを得ない気がしたのだ。

 この期に及んで、プロデューサーはまだ、「大江が961に行ったのは何かやんごとない事情があったに違いない」と考えている。

 そう考えなければ、到底立っていられなかった、というのは一面では事実だ。
大江から学んだ「プロデューサー斯く在れかし」は精神論に終始していたが、しかし大江は決して「自分の夢の為に人を裏切れ」とは言っていない。
もしそんな機会があればそう言ったのかもしれないが、しかしプロデューサーには大江がそんな事を言うとは到底思えない。
現状プロデューサーが「9:02 pm」を歌っている春香の目の前に立っていられるのは大江へのそんな思いからだし、もう一つ倒れられない理由はまさしく目の前で「9:02 pm」を歌っている春香がいるからだった。
 765の13階にあるボイストレーニングルームはそこそこの広さと防音性を有している。
前にエレベーターホールでも練習している春香の歌声が聞こえてきたのはまさにその防音性に由来する。
横に伸びる音を反射させて天井で吸収させる仕組みをとっている765のボイストレーニングルームは、その構造上横方向の壁には音を反射させる機能は期待できても音を吸収する機能はあまり期待できない。
これはすなわち「どこかしらに隙間があればそこから音が漏れてしまう」という構造上止むを得ない欠陥を表わしているが、これはつまり「隙間さえなければ壁に反射した音は天井が吸収してくれる」という事をも表す。
つまり、天井以外の壁の売りはその機密性と固さであり、要するに対して動きのないダンス程度ならボイストレーニングルームでも十分に行えるということを意味する。
 そんなわけで13階ボイストレーニングルームではもう2週間後に控えたIU3次予選の最後の仕上げに入っている春香が歌いながらダンスを踊っており、プロデューサーは腕組みをしながらそんな春香を見守っている。

♪ 逢いたい メールも携帯も ♪

 春香の歌はうまくなった、と思う。
女子高生に歌わせるには少々アダルティックな面があるかと思ったが、春香はゆったりとした歌を情感に富んだ声で歌いあげ、緩やかな腕の振りは健康的というよりもどこか蠱惑的な魅力を出している。
要は表現力の向上だが、それを可能にしたのは春香の今までの努力だとは本心から思う。

♪ 一秒だけでもいい 君を今 感じられたら ♪

 祈るような恰好で春香は止まり、最後のワンフレーズを歌いあげた。
CDの音源が途切れた10秒後まで春香はその格好のまま静止、13階のボイストレーニングルームに静寂が訪れる。

 静寂を破ったのは、「ぶはーっ」と今までの魅力を一気に失くした春香の声だった。

「プロデューサーさん! どうでした!?」
「ばっちりだよ。まだちょっと荒があるけど、2週間で十分直せるレベル」
 言葉に春香は一気に緊張をなくしたのかその場にへたり込み、プロデューサーが差し出した麦茶を一息に空けた。
見れば春香の額には大粒の汗が浮かんでいる。
歌っている最中は全く見えなかった汗の粒は大玉であり、極度の緊張が緩和された春香はそこでぐったりと床に伏せた。
もう間もなく10月を迎えるというのに、未だに夏の残滓は高い室温という形で二人を襲っている。
「…む、難しいですねこの曲」
「そうかい? 結構うまく雰囲気出せてたと思ったけどな」
「そうですか?」
 まさか女子高生から色気を感じました、などといったら極東機関に裁かれてしまう。
プロデューサーは曖昧に頷き、春香はそんなプロデューサーの様子に床に伏したまま難しい顔をして、
「『relations』はまだ直接的だったじゃないですか。動きも大きかったし、見せ場がはっきりしてましたから」
「ああ、まあそう言われちゃうとそうかも。『9:02 pm』は『relations』と比べるとはっきりした見せ場はないからね。全体的に魅せる必要がある」
「一瞬も気を抜けないっていうの、結構大変ですね。…あ! あのもちろん、今までの曲に気を抜いてたとかそういう意味はないですよ!?」
 分かってる分かってる大丈夫と言うと、春香はそこで顔までぺたりと床に押し付けた。
やはり春香が転ばなくなった原因の一つ目はプロデューサーの考えすぎだったらしい。
 しかし、ということは春香には現在何か悩みがあるという事になる。
プロデューサーの本懐の出番だ。
「そりゃあね、『ジェラシー』も『relations』も激しいところあったからなあ。練習中にあれだけ転んでおいて気を抜いてましたってことはないだろうさ」
 そんなに転んでません! と春香は膨らんで抗議する。
が、プロデューサーの数えたところ春香は『relations』の初期のダンス練習で一日に12回転んでいる。
春香の転倒の場合は気合が空回って起こることが大半だから練習に気を抜いていたということはまさかないだろうが、しかしこの回数をギネスに申請すれば通るのではないかと思う。
「でもさ、『9:02』の練習では春香まだ転んでないだろ?」
「…プロデューサーさんの頭の中では、私は転ぶ子ってことになってるんですね…」
「事実というのは非情なものだよ天海君。この間の数学のテストはどうだったかな?」
「ちゃんと平均点越えましたよぅ。答案用紙だって見せたじゃないですか」
 言いながら春香はのろのろと起き上がり、何か不安を湛えた瞳でプロデューサーを見上げた。
「『9:02』は動きも激しくないし、足のクロスもそんなに多くないですから」
「『ジェラシー』も確かクロスは多くなかったけどなぁ。何か引っかかることでもあるのかい?」
 努めて明るく声を出したプロデューサーは、そこで春香の驚いた顔を見た。
 何かに感づかれた、という顔をしていた。
「やっぱり、『四条貴音』はプレッシャー?」

 その言葉を聞いた瞬間、春香の体から力が抜けた。
 最近のプロデューサーはどこかおかしい。春香は本心からそう思う。
 おかしいと思うことその一。最近プロデューサーの机が乱れ出してきた。
話を聞くだにプロデューサーは去年先輩の机の絡みで小鳥に怒られた事があるというが、そのせいかプロデューサーの机はちょっと前までは奇麗に整頓されていた。
ところが最近プロデューサーの机の上は初期の頃から比べると確かに乱雑になっている。
春香がDランクに上がったことで営業と練習の比率は1対1くらいになってきたから必要な書類が増えてきたというのは動かしがたい事実だが、それにしてもここ最近のプロデューサーの机の乱れ具合は奇妙に思える。
 おかしいと思うことその二。最近のプロデューサーは何かを考えているように見える事が多い。
練習前にプロデューサーのところに行くのはEランクの頃から続けている春香の習慣だが、Eランクだった頃は顔を出せば仕事をしていたプロデューサーは最近顔を出すと難しい顔で遠くを見つめている事がままある。
Dランクに上がったことで営業の比率は増えたから最初は単に疲れかと思ったが、単に疲れならばあんなに難しい顔はしないと思う。
 さっきもそうだ―――春香は思う、多分プロデューサーは「9:02」を聞きながらも何かを一心に考えている顔をしていた。
Eランクのときはぼうっとしていると思えたその顔だが、しかし最近のプロデューサーは物思いに沈むことが多いと春香は思う。
 それもこれもあの日からだ。IU2次予選で見た『四条貴音』のプロデューサー。
確か大江とかいったその『プロデューサー』はプロデューサーの先輩社員であり、プロデューサーにその技を叩き込んだ恩師のようなポジションにいる人物であった、と記憶している。
2次予選後のミーティングは心ここに非ずといったプロデューサーがまるで寸瞬を惜しむかのような勢いで終わってしまったし、その3日後にDランクとして初めて出社した春香は初めて乱れたプロデューサーの机の上を見ている。
 『四条貴音』の存在は確かに『天海春香』にとってのプレッシャーではある。
しかし、2次予選で見た『四条貴音』は今の『天海春香』にとって単なるプレッシャー以上の存在になっていた。

 孤独な王様―――生の『四条貴音』の歌をあの時初めて聞いた春香は、臆面も何もなく『四条貴音』をそう思った。
どこまでも激しかったその歌詞からは考えられないほどの寂寥にあふれたその声は、まるで世の中の不幸を一身に背負っているかのように感じた。
何が『四条貴音』をそこまで駆り立てているかは分からないが、余りある孤独をその一身に背負って立つ『四条貴音』は余りにも寂しかったが、しかし確かに格好良かった。
 では『天海春香』は『四条貴音』のようになりたいか、と聞かれれば答えは勿論、

―――『四条貴音』じゃない、他のアイドル達でもない、『天海春香』の歌が聴きたいんだよ。多分ね。

 『天海春香』が『四条貴音』になる必要はない。春香は本心からそう思う。それに、

―――『四条貴音』と『天海春香』を単純に比較なんかできないんだし、する必要もない。春香は春香のままでいいんだ、ありのままで勝負すればいい。

 『天海春香』が歌を歌う理由など、今更思い出す必要もない。
『四条貴音』が何を思ってあんな歌い方をしているかは分からないが、しかし春香が歌を歌う理由ならはっきりしている。
こちとら庶民派だ、覇道などという物騒な道を歩む気など更々ないし歩みたいとも思わない。
「…四条さんはまあ、確かにプレッシャーですけど、」
「うん」
「でも、私は私らしく歌うだけです。プロデューサーさんじゃないですか、私は私でいいって言ってくれたの」
「そうだっけ」
「そうですよ」
 わざと膨らむと、プロデューサーは参ったとばかりに苦笑して頭を掻いた。

 そうだ、『天海春香』の歌う理由はプロデューサーによって肯定されている。
 『四条貴音』は「みんななど存在しない」と言った。
 プロデューサーは、「みんなは春香の歌が聴きたい」と言った。

 『四条貴音』によって否定された「みんな」に向けて歌を歌っていいんだと、プロデューサーはそう言った。


 自分が歌うただ一つの理由を、「歌を聞いてくれたみんなを元気にしたい」というただそれだけの理由を、プロデューサーは認めてくれた。

 だが、ただそれだけの理由で歌う歌が、すぐ隣にいるプロデューサーには届いていない。
最近のプロデューサーは初めて会った時のプロデューサーからは感じ取れない影が仄見える。
それは恐らく信頼していた先輩が961に移籍してしまったというショックから来ているのだろうが、プロデューサーはその事を春香に向けてはおくびも出さない。
そのあたりがなんだか残念な春香である。
「じゃあ、他に何か引っかかる事が?」
 プロデューサーの言葉に春香は思い切り溜息をつく。
どうせプロデューサーの事だ、こちらがストレートに「最近プロデューサーさん元気ないですね」と聞いたところで答えが返ってくるはずがない。
おそらく『春香の知っている』プロデューサーなら答えをはぐらかすだろうし、それが自分に不安を与えないためのプロデューサーなりの気遣いなのだろうと思いはする。
 思いはするが、少しだけ残念でもある。
「…そうですね、歌詞の意味が私の考えてるイメージで合ってるのかなって不安はちょっと」
「歌詞の意味?」
「はい。やっぱり大人っぽい曲だから。私の考えてるイメージで歌っていいのかなって」
 予想通りプロデューサーは顎下に手を当ててうーんと唸りだす。
まったく自分の事は棚に上げてこちらの心配はしてくるのだ、少しはこっちの気も察してほしい。
「ダメってことはないだろうけどさ。どこか引っかかるの?」
「ええとですね、」
 春香はそう言うと、おもむろにプロデューサーがこちらにも見えるように横にした楽譜の歌詞を指で追い、
「ここです、ここ」
 春香が指さしたのは、最後の「ずっと」という歌詞の部分だった。
音楽的に言えばしっとりと歌い上げる部分だが、歌手として言えば長音は歌い手のイメージが如実に相手に伝わる部分でもある。
どれと身を乗り出すプロデューサーは歌詞の最後をちらりと眺め、
「春香はどういう風に思ってるの?」
「大人の女の人が、恋人をずっと想い続けてるって。そう思ってるんですけど、」
「僕もそう思うよ。恋人を忘れないでずっと覚えてるって感じに見える」
 プロデューサーのその答えは、春香が思う『9:02』の歌い方の答えを示しているように思えた。
「あのプロデューサーさん、この歌詞の女の人ってやっぱり恋人と別れちゃったんですかね?」
 プロデューサーは楽譜から春香の顔に視線を移し、
「どうしてそう思う?」
「何となくなんですけど、まだ付き合ってるなら想い続けるも何もないじゃないですか。想い続けるって今はもう近くにいない人の事を想うってことですよね?」
 最初一人きりですし、と春香はつなげる。
「ああ、まあ確かに」
 感心したように頷くプロデューサーに春香は一度頷き、
「だとしたら、この歌もやっぱり失恋の歌じゃないですか。なんだか大人の失恋って感じの」
「そうだね。でも、春香はそういう風に歌ってるんでしょ?」
 それはまあそうですけど、と春香は唇を尖らせる。認めがたい歌だと春香は思う。確かにそういう恋もあろう。
いくら好きでも、いくら想い続けても届かない思いというものはあるのだろう―――認めたくはないが。
頭では分かっていてもそんな切ない感情を歌わなければならないというのはアイドルというのも因果な仕事だ。
「だとしたら、この人可哀想じゃないですか。ずーっと相手の事待ってるんですよね?」
「まあ、歌詞を読めばそういう解釈になるかな。『relations』みたいな激しさはないし帰ってくる気配もないけど、この手のバラード結構多いよ?」
 分かってます、と春香は膨らむ。
「でもでも、帰ってくる気配もないのにずっと待ってる人の歌なんですよね? ずっと信じて待ってる人の歌なんですよね? それなのに相手が帰ってきてくれないなんて、何だかそれ可哀想です」
 唇を尖らせたままそう言って、春香は楽譜をむくれた目で眺める。
「…ずっと信じて待ってる、か」
「そうですよ。何だか裏切りじゃないですかこれ。女の人がどんな気持ちで相手を待ってるか、」
 そこまで言って、春香はプロデューサーの顔を見て、

 息を飲んだ。
 プロデューサーの表情から、色が消えていた。

「…プロデューサーさん?」
「…あのさ、春香」
 あくまで歌詞の解釈だからね、とプロデューサーは前置きし、まるで表情の読めない目のままでこんな事を言った。

「もしさ、春香がこの歌で歌われてる人みたいになったらどうする? ずっと信じてた人に裏切られたら、春香だったらどうする?」

 これがプロデューサーの悩みなのだ、と春香は思う。
春香は脳みその全てから言葉を探し、一度うーんと唸り、まるで無表情なプロデューサーに向けて思うところを次のように述べた。
「…どうするかは、その時になってみないと何とも言えないですけど、」
 そうだよね、と呟くプロデューサーの表情には何の変化も見られない。
そんなプロデューサーに向けて春香はでも、と言葉を繋ぎ、

「でも、きっと相手の人にも何か理由があったんだと思います。自分じゃどうする事もできない理由が。この歌の場合は相手の人が女の人よりもっと好きになっちゃった人がいるとか、そういう理由だとは思うんですけど、」

 尻窄みに小さくなった言葉を最後に春香は床に視線を落とした。
この歌詞の女の相手にしても、別れた理由は何か必ずあると思う。
「それを聞いてみないと、どうしようもない、ですかね」

「―――そうだね。何か理由があるはずだね」

 声に顔をあげると、プロデューサーがへらりと笑っていた。
「理由を聞かないと何にもできないもんね。春香らしいや」
「む。どういう意味ですか」
 深部に触れられたと思った途端にこれだ。
プロデューサーは膨らんだ春香にへらへらとした笑顔を浮かべたまま、
「いや、春香がそう思うんだったら『9:02』もちょっとは救いのある歌になるのかなって。ひょっとしたら帰ってきてくれるって思える歌になるかなってさ。聞いた人がそう思えるんなら、それは歌い手の力だから」
「?」
 首を傾げた春香にプロデューサーは苦笑を洩らし、まるで諭すような声で、
「歌ってさ、歌う人によって聞こえ方が変わってくるんだよ。『9:02』にしたってさ、歌詞だけ見たら『帰ってきたらどうしてやろう』みたいな恨み事満載って取り方もできるわけじゃない。無茶苦茶ひねくれた取り方だけど。素直に取るなら『別れちゃった恋人の事をいつまでも想い続ける』っていう綺麗だけど寂しい歌だよね」
 それで? と視線だけで続きを促す春香にプロデューサーは一つ咳払いをし、
「でもさ、春香は相手に帰ってきてほしいんでしょ?」
「…そりゃあ、ハッピーエンドの方がいいじゃないですか」
「じゃあさ、『天海春香』はそう思いながら歌うこともできるわけじゃない。『帰ってきて』って願いながら歌うこともできる。この間の表情の話もそうだったけどさ、春香の歌い方一つで聞いてる人たちの印象も随分変わるんだ」
 ああ、と春香は思う。『ジェラシー』の練習中に確かそんな事を言われた。
あの時は表情が強張り過ぎて聞いている人に窮屈な印象を与えてしまう、というマイナスな話ではあったが、しかしそれをうまく使う事が出来れば歌詞の額面通りではない『天海春香』オリジナルの『9:02』を歌う事が出来るのかもしれない。
 それは誰でもない、『四条貴音』ではない、『天海春香』の歌になるのだろう。

「みんなを元気にしたい」『天海春香』の歌になるのだろう。
 その歌は、プロデューサーを元気にできるのだろうか。

 もちろん確証はない話だ。
 だが、トライする価値のある話ではある。
「私の歌う、私だけの『9:02』、ですか」
「そうだよ。さっき春香らしいって言ったのはそういう意味。春香がどう思うか、どう思って歌うのか。それが、『天海春香』のアピールポイントになる」
 そりゃあハッピーエンドの方がいい。
 エンドに至る道のりもハッピーな方がいいに決まっている。
 そして春香が春香だけの歌を歌うことでみんなを元気にできるのなら、プロデューサーが元気になれるなら、それはやってみる価値がきっとある。
「…わかりました。じゃあ、願いを込めて歌ってみます」
 そう言うと、春香はやおら立ち上がってゆっくりと屈伸をした。
汗まみれの体はしかしスムーズに伸屈を行い、春香は五体の調子に満足したのかそこでにやりと笑う。
「聞いててくださいね、プロデューサーさん!」
「もちろん。でもあんまり無理はしないでね、明日も営業なんだから喉潰さないように」
 分かってますと元気に言い、春香は『天海春香』の「9:02」を歌うためにコンソールへと向かう。



 何か理由があるはずだ、とはプロデューサーも思う。
 大江の移籍も、何かやむをえない事情があっての事だと思う。
 でなければあの大江が、961に移籍などするはずがない。
 765を捨てることなど、あるはずがない。
 火の入ったコンソールが「9:02」のイントロを奏でだし、春香はボイストレーニングルームの真ん中で目を瞑り、夏の残滓溢れる空気を肺いっぱいに吸い込んでいる。

 そんな春香の前で、プロデューサーはこう思う。
 往生際悪く、こう考えている。


 大江が、裏切るはずがない。



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