声 (31)

 自宅の場所をしつこく聞いてくる大江に根負けして住所を伝えると、大江はまるで珍獣を見るような目つきで春香を見た。
「片道2時間か。何つーか春香ちゃんも大変だなぁ。なに、朝一の営業だったりしたらどうすんの?」
「…朝早い営業はあんまりしたことないです。プロデューサーさんも私の家が遠いこと分かってくれてるので」
 話しかけてくる大江は馴れ馴れしい事この上ない。初対面のはずなのに会ったその瞬間から自分の事は「春香ちゃん」である。
まだプロデューサーが変質する前に確か大江はその道何年のベテランだと言っていたような気もするが、プロデューサー業という畑に何年も足を突っ込んでいるといつの間にかこんな風になってしまうのだろうか。
「あーそっかそっかなるほど。道理で朝の生放送とかで春香ちゃんの事見ないわけだ。しかし2時間なぁ。俺も学生の頃は結構学校までの道遠くてさ。通うのタルくなってゲーセン荒らしたりとかしたもんだ。ダチと一緒に電車乗って隣町まで遠征とか言ってな。春香ちゃんはそういう事やらない?」
 やるかバカ、
「いやああれも社会勉強ってやつでさ、学生なんて貴重だかんなー? 一日サボり倒しても誰も文句言わないしさ。あーあ、俺も学生とかに戻りてえやな」
 春香とて多少は歳の離れた大人と会話したことくらいはある。
大抵大人というのは自分のような年齢の学生とは会話の糸口がないのを知っていて、しかし沈黙に耐えられないとなると自分の過去の話をして茶を濁そうとするのだ。
学生に戻りたいなどというのは典型的な会話の失調であり、春香は何かあったら噛みついてやろうという野獣の心情の奥底でひょっとしたらこの男も会話に困っているのかも知れないと思う。
「しかしま、春香ちゃんみたいな普通の子は逆にいいのかもしれん。貴音なんて平日からぶっ通しで練習してたりするからな。貴音、日本の日常生活にちゃんと慣れてんだろうか」
 ?
「…四条さんは、お幾つなんですか?」
 大江はにやりと笑う、
「いくつだったかな。17とかその辺じゃないかと思ったが。でも学校行ってないしなぁ。うちの事務所の連中以外に友達とかいるのかな」
 国道をのろのろと進みながら、大江は器用にもハンドルを握ったままヨヨヨと泣き崩れる真似をした。
言っちゃあ何だが気持ちが悪い。春香は汚物を見るような目つきで大江を見、大江はまるで痛くもかゆくもないという表情でハンドルを握りなおす。
 会話が途切れ、春香はぼんやりと窓の外を見る。
すでに繁華街は離れ、現在春香の乗る大江の車は春香の実家方面に向けて国道をひた走っており、時折ドライブイン代わりのコンビニが夜道を照らす以外の光源と言ったら時折雲に隠れる月と時たますれ違う対向車のライトくらいである。
 今更思うが自分は余りに不用心だと思う。
いくらプロデューサーの話をちらつかされたと言っても相手は961のプロデューサーであり、春香や春香のプロデューサーにしてみれば紛う事なく立派な敵だ。
よくよく考えれば自分は甘言に乗せられて敵の懐に飛び込んでしまったようなものではないか。
「…別に何にもしやしねえって。小鳥さんに俺の自宅の住所抑えられてるから、春香ちゃんに何かしたらマジでドーザーが家に突っ込んでくる」
 本気なのか冗談なのか分からない口調で大江はそう言い、
「小鳥さんといえばさ、春香ちゃん小鳥さんの占いって知ってるか?」
 無言で首を振ると大江は途端に破顔して、
「小鳥さんボランティアで趣味占いしてんだよ。天気占いと運勢占いと…あとそうだ、春香ちゃんくらいの年なら恋占いなんか好きなんじゃないか?」
「小鳥さんが?」
「ああ。でもあれボランティアじゃないのかな。占いはしてくれるんだけどさ、結果を知るためには何か貢ぎ物をしなきゃならないんだ。小さなものはチロルチョコ、果ては虎屋の羊羹までな。天気占いは全く当てにならないんだが、運勢占いと恋占いは結構当たるって評判だったな。今も続けてるのかな」
 そう言えば―――思い出す、昼休みなどにプロデューサーを訪ねて事務所に行った時、女子社員がコンビニの袋を片手に小鳥の机に屯していたのを何度か見たことがある。
春香自身は余り小鳥と話したことはないが、年の頃30を迎えても女子は女子ということなのだろうか。
かく言う春香も年相応に占いの類は好きだし、朝学校に行く前は結構な頻度で朝のニュースの最後に流れる占いを見ていたりする。
「当たるんですか?」
 会話に食らいついたと思ったのか、大江はちらりと春香を横目で眺め、
「それがさ、例えば恋占いなんかだとだな、ゴールが近ければ近いほど破局っていう結果が出るらしいんだ。ありゃ僻みか何かだなきっと―――俺じゃないからな、俺は占ってもらったことないぞ」
 疑惑一杯の目をくれてやると、大江は慌てたように否定し出した。
20秒ほど大江はあわてたように首を振り続け、しかし20秒後には居住まいを正すかのようにひとつ威厳もへったくれもない咳払いをして、
「まああれだ、春香ちゃんも興味があるなら聞いてみるといいかもな。どうだ、あいつとの仲を占ってもらったら」
「わ、私とプロデューサーさんはそんなじゃありません!」
 思わず大きな声を出し、次の大江の表情にしてやられたと思う。大江は実に気味の悪い笑顔を浮かべている。
「あっれぇ? 俺ぁ別に春香ちゃんと君のプロデューサー君の事を言ったんじゃないんだが。そうかそうか、あいつも隅に置けねぇなぁヒヒヒ」
 ぶん殴ってやろうかと思っていると、意外なほどに静かな声で大江はこんな事を言った。
「そうだ。春香ちゃんはその方がいい。泣いてたらせっかくの美人が台無しだ」

―――春香は春香のままでいいんだ。

「…あいつと、何かあったのか」
 ようやく、車に乗り込んだ意味が成立しようとしていた。
「…あの人に、何て言ったんですか」
 問いに大江は正面を向き、ハンドルを握っている手がウソのようなぼんやりとした視線で遠くに見える信号が黄色点滅をしていることを確認し、やがてこんな事を言った。
「教えてやるって言ったのは俺だけどさ。聞いてどうする」
「どうするって、」
 言葉に詰まった。聞いてどうすると言われれば確かにどうしようもない。
 自分はプロデューサーの支えになりたいと思っているのだ。
そのために、プロデューサーがおかしくなってしまった原因である大江の発言を知らなければならないと思う。
 思うが、ではいざその内容を知ったところで具体的にどうやって自分がプロデューサーを元に戻せるというのだろうか。
発言の中身を知ればおのずと身の振り方もわかるような気はしていたが、改めてそう言われると確かに具体的な方法は何も、

―――春香がそれを探すの、手伝えるとは思うんだ。僕はまだ半人前だけど、一緒に悩んだりする事くらいはできると思う。

 思い出す、4月のあのダンスレッスンスタジオ。
あの時プロデューサーに「Aランクになったら何がしたいか」と問われ、あの時の自分ははっきりとした答えを返せないでいた。
結局のところあの時の春香にしてみればアイドル活動の目的は「Aランクになる」ということであって、「Aランクになる」ということは手段ではなかった。
毎日のようにテレビにその身を晒して歌うことになるとは、今更白状すればあの時は想像もできなかったし、最近ではプロデューサーの様子が気になって自分がもうすぐBランクをかけたIU予選に出場するなどという事は日常の大部分で脳内から揮発している。
 とどのつまり、自分はあの時と何一つ変わってはいない。
変わったのは自分ではなくプロデューサーだと思う。
今のプロデューサーに「Aランクになって何がしたいか分からない」と言ったら、果たしてプロデューサーは何と答えるだろうか。
 またあの時と同じように、一緒に探してあげる、と言ってくれるのだろうか。
「―――2つ、頼みがある」
 黙考から顔を引き上げて大江を見ると、大江はまるで今までのおふざけがウソのような表情を読ませない顔で正面を見ていた。
春香は我知らず唾を飲み込む。フロントガラス越しに見える道にはコンビニも最早なく、対向車のライトすらまばらの国道をひた走る車内は奇妙なほどの緊張に包まれる。
「俺があいつに何て言ったかは教える。だから、春香ちゃんも俺の頼みを聞いてほしい。…なに、そんな難しい―――あーいや、ひとつは難しいかもしれんが、多分春香ちゃんなら大丈夫だと思う」
 月明かりと運転席のライトにほの暗く照らされる大江の横顔には一欠けらも笑みがない。
まるで今から人生を賭けた選択をおこなうような糞真面目な表情で、大江は緊張感を漲らせた春香に横目を投げる。
「…私が嫌だと言ったら?」
「それもありだ。別に嫌だっていってもここで春香ちゃんを放り投げるような事はしないし、何か君に危害を加えるような事はしない。ただまぁ、あいつの口を割らせるのは相当骨だとは思うがね」
 ずるい、と思う。
大江は春香の知りたい事を知っている。そして、言いぶりから察するに大江はおそらく春香が大江の頼みを聞かずとも損はしないのだろう。
条件的には圧倒的に春香の不利であり、春香は妥協案を口にする。
「聞いてから判断する、ってありですか」
「それでもいい。考えてみりゃ今の俺は君たちにとっちゃ敵も同然だからな。取引を持ちかけたのは俺だし、そのくらいは当然だろうよ」
 大江はあっさりと春香の申し出を受諾し、その後ハンドルを握ったまま何と切り出したらいいか考え始めたようだった。
相変わらず対向車は一台も通らず、じれったくなって春香が条件を問おうとした瞬間、大江は諦めたようにひとつ溜息をついた。

「ひとつは…貴音とさ、友達になってやって欲しい」

 虚を突かれた。
てっきり765の内部事情を流せとか言われるものだと思っていたので目を丸くしたら、大江は春香のその表情をどう解釈したのか慌てて二の句を継ごうとして、
「その、だからだな、えーと、」
 どうやら失敗したらしい。大江はそこまで言ってがりがりと頭をかきむしり、やがて言葉を選ぶという文化的な行為を放棄したのか、
「さっきも言ったが、貴音は今学校にも通ってない。どうやら田舎で学士の資格かなんか取ったみたいでさ、日中もひたすら練習してんだ。ウィークデーなんか毎日サラリーマンみてえに会社来てるしさ、17やそこらでそれどうよって話で、」
「イナカ?」
「あ、知らなかったか。あいつ生まれは日本じゃないらしい。そのせいか日本語がちょっと変な時あるし、…言っていいのかな、最初はテレビのつけ方も知らなかった」
 およそ未開の人物のようである。
珍妙な目つきで大江を見ると、大江は「今の聞かなかったことにしてくれ」と今更な事を言い、
「貴音は、一人なんだ」

―――誰にも頼らず、誰にも与えられず、ただひたすらに自分から与えようとするその姿勢は、まるで、

 呟くような一言に、春香の脳裏に2次予選の時に聞いた貴音の歌が蘇る。
正直に言えば、あの時の貴音はおそらく人であって人でなかった。
あの時の高みに上がるためには一体どれ程のものを捨てなければならなかったのか。
あのとき感じた途方もない自己犠牲と気高さにも程がある孤高の精神は、どうやら自分の買い被りではなかったらしい。
 大江は言う、
「俺はプロデューサーで、貴音はアイドルだ。上司と部下みたいなもんだ、どうしたって友達にはなれない。これは俺の力不足でもあるんだが、」
 大江はそこで一呼吸置き、次の言葉は後悔を噛みしめるような無力感に満ちていた。
「貴音は自分が背負ってるものを話そうとはしない。おそらく『アイドルとプロデューサー』の関係には関係ないと思ってるんだろう。実に正しいしプロデューサーがアイドルの内面にどこまで踏み込んでいいかっていうのはこの商売の命題でもあるんだが、貴音は腹ん中に隠した最後の一線だけは俺に話そうとしない―――突き崩す材料はまぁ、あるんだが」
 最後の一言は実に苦々しそうに言い、春香が突き崩す材料とやらに言及する前に大江は口を開く。
「貴音は多分、腹ん中じゃ一人なんだ。誰に助けも求めないし、多分誰が救ってくれるとも思っていない。相手が俺なら尚更だ。普通なら『プロデューサー』にとって『アイドル』は数字出してくれればいいんだし、おそらく貴音はそう思ってるんだろう」
 寂しい話を聞いた。
大江も自覚しているのか、澄んだ眼はどこまでも遠い感情に満ちている。
 春香は思う、春香のプロデューサーも同じ事を思っているのだろうか。
自分には数字と結果のみを求め、自分が何を考えているかなど関係ないのだろうか。

―――君はプロなんだからさ、そういうところしっかりして貰わないと困るんだ。

 そんなはずはないと思う反面、そうなのかもしれないと思う。
だとしたら、自分のこの思いは、プロデューサーにとっては大きなお世話なのかもしれない。
「…でも、だとしたら貴音は潰れる。アイドル業は過酷だ、貴音が何を抱えているかは知らないが、誰かが支えてやらなきゃアイドルは潰れていく。そして多分貴音は…俺にその役目を求めていない」
 一体何を思いだしているのか、果てのないほど遠くを見つめているような大江の目からは何の感情も読み取れない。
「私に、その役目をしろって事ですか?」
「別に貴音が何考えてるか聞き出せって頼みじゃない。ただ、貴音が何のしがらみもなく話せる相手になってやって欲しい。このままじゃ貴音は、腹の中に一物抱えたまんま何もかも受け入れるような人形になっちまう。それだけは、」
 その時の大江の表情を、春香はおそらく忘れることはないだろうと思った。
そこにいるのは敵でも味方でもなく、ただアイドルである前に少女である四条貴音を本心から気遣う、途方もないまでのうらぶれた大人の姿だった。
それだけは(・・・・・)認めるわけにはいかないんだ(・・・・・・・・・・・・・)

―――…でもそうだなあ、アイドルに対する姿勢は掛け値なしに真剣だったと思う。

 だからこそ、プロデューサーはこの人を目標にしていたのだと思う。
「これが一つめ。こっちが難しい方なんだが、…頼めるか?」
 そして、プロデューサーは、この人に裏切られたのだと思う。
「…努力はします。保証はできませんけど、」
 それを聞き、大江はハンドルを握る手を緩め、まるで長年の懸案が解消されたかのような疲労困憊の笑みを浮かべた。
「それでいい。ありがとな、少し肩が軽くなったよ。…それで、もう一つなんだが、」
 そこまで言い、大江は先ほどに輪をかけて言い辛そうに周囲を見回し、そこに救いとなるコンビニも対向車もない事に毒気付いた溜息を吐き、やがて絞り出すような声でこう言った。

「あいつ、元気か?」

 大江の言う『あいつ』が誰を指すのか、春香は一発で分かった。
「そんなにプロデューサーさんを心配するなら、どうして765を出て行ったんですか?」
 春香の問いかけに大江は口を閉ざした。何台かの対向車がセダンの脇を通り過ぎ、設置間隔を大幅に引き延ばしたコンビニを3店も過ぎるころ、大江ははっきりとこう言う。
「すまない、まだ言えない」
「…さっき、あなたは私も巻き込んだって言ってました。まだ言えないってことは、いつか教えてもらえるってことですか?」
「そう思ってもらっていい。春香ちゃんを信用してないわけじゃないが、今は大詰めの時期でさ。いつか時期が来れば必ず春香ちゃんも分かる」
 春香は暗い車内で押し黙る。
大江は一言「すまない」とだけ言い、その後言葉を探すかのようにハンドル上の指をせわしなく動かす。
「俺を、信じてくれるか?」
「2つ目の条件って、何ですか」
 はっきりと言えば信じられない。大江はプロデューサーの敵であり、ということはすなわち自分の敵であり、しかし敵本人が提示した2つの頼みごとのうち1つはプロデューサーに何か被害を加えるものではなったが、2つ目の頼み事を言う前にプロデューサーの様子を尋ねたということは頼み事とやらはプロデューサーがらみの事なのだろうし、もしプロデューサーに何か悪い影響を与えるような頼み事なら車内から逃げ出してやろうと春香は心に決める。
 そして、大江の頼みとは、春香の予想とは逆方向にベクトルを向けたものだった。

「…あいつをさ、支えてやってほしいんだ」

 この人は一体、何を言っているんだろう。
「今のあいつが春と変わっちまったことは知ってる。それが俺のせいだってことも十分に分かってる。元々俺が始めた事だしな、あいつが俺の事を恨むのは別にいいし俺がこんな事を頼むのも筋違いだってことは重々承知の上だ。それを承知の上で、これが2つ目の頼みだ」
「…どういう、事です?」
 春香の問いかけに、大江は遂に、春香がIU4次予選から今まで求めていた答えを言った。
「『お前に味方なんかいない』。俺はあいつにそう言った」

―――ああやっぱり僕は765に入ってよかったって、あの時久しぶりにそう思った。

 余りに短いその言葉を目標としていた男から聞いた時、プロデューサーはどう思ったのだろう。
「俺は、俺があいつにそう言う事で、あいつがどうなるかの予想はしてた。で、今日春香ちゃんは泣いてた。多分あいつは俺の予想通りになったんだろう。あいつは今、世の中の誰一人として信用しちゃいない。小鳥さんも、高木社長も、765の連中も、そしておそらくは」
 春香ちゃんのことも、という言葉が、どこか遠くから聞こえた。
「俺の予想が当たってるなら、あいつは今疑心と猜疑で頭ん中一杯のはずだ。俺が…あいつにしてみりゃ裏切った事で、俺を打ち倒そうと躍起になってるだろう」

―――なんでだ、大江さん。

「最近の春香ちゃんの営業履歴な、可能な限り調べさせてもらった。随分頑張ってるみたいだし、それがあいつの指示だろうってことは知ってる。春香ちゃんを巻き込んだって言うのは、そういう意味さ」
 そんなことは些事だ。どうでもいいと春香は心の底から思う。
ただ一言、この車内の会話において自分が知りたかった唯一の一言である大江の言葉だけを聞いたなら、春香は思う、おそらくは自分はきっと大江の事を完膚なきまでに打ち倒すべき敵と認識しただろう。
が、それにしては大江の言い分は妙だ。
プロデューサーを奈落の底に突き落とすような事をいいながら、自分にはどん底のプロデューサーを支えてほしいという矛盾した頼みをしている。
 これは一体、何を意味するのか。
「…どういう、事です?」
 全く意味が分からずに尋ねた春香に向けて、大江は本当に疲れ切った笑みを浮かべた。
「さっきも言ったが、あいつを確実におかしくしたのはこの俺だ。春香ちゃんには、墜ち切ったあいつを支えてほしい」
 頭が煮沸するのに、3秒もいらなかった。
「どうして、」
 そんな頼みをするくらいなら、何で、
「何で、何でそんなこと言ったんですか!? プロデューサーさんは、あなたを目標にしてっ!!」
 激した春香に、大江はどこまでもどこまでも静かな言葉を紡いだ。
「悪い事してると思ってる。春香ちゃんにも、765の連中にも、…あいつにも。でも、これは俺の最後の我儘なんだ。この計画を完遂させるためには、どうしても春香ちゃんの協力が不可欠だ」
 大江が何を企んでいるかなど知らないし知りたくもない。
ただ春香にとって大事なことはプロデューサーが大江の一言によって完全に破壊されたのだという事実の追認一点のみである。
「無茶苦茶な事を言ってるのは百も承知だし、そのために春香ちゃんに負担をかけるのは正直俺としても心苦しい。ただ、あいつの事を憎からず思っているなら、頼む、」
 激した気分は、どこまでも静かな大江の声に一気に冷まされた。
「あいつを、支えてやってくれ」



 遠くに、春香の地元の光が見えてきた。
このままならあと30分もせずに自宅に着くだろう。
大江の最後の一言ののちに一言も会話を洩らさなかった二人はお互いに溜息をつき、国道から脇道にそれた車の窓からはようやく人が生活していそうな穏やかな光が見え始める。
 あれほど渇望していた答えを聞いた今も、では具体的に自分が何をしなければならないのか、という肝心な部分に関しては全く見えてこない。
春香は車内に入って何度目かもわからない溜息をつく。
 大体にして無茶苦茶な話だ。
そもそも自分がプロデューサーをおかしくしておいて自分にその尻拭いをさせるというのは一体どういう神経なのだろう。
大江の言いぶりからすると「本当は自分がやりたいのに諸般の事情からできない」という印象は拭えないし、だったら大江が春香に向けて何をどうしろ的なハウトゥを教えてくれてもいい気がする。
「…春香ちゃんの家ってこの辺か? 悪い、街中の詳細な地理はわかんねえ、ナビってくれると助かる」
「そこのスーパーの角を左です。突き当ったら右に曲がって、お豆腐屋さんを左」
 了解、と大江は呟き、黙ってスーパーいしはらの角で左のウィンカーを上げる。
「私にプロデューサーさんを支えろって、具体的には何をすればいいんですか」
「…俺が何かしてほしいって言った時点であいつは春香ちゃんに俺の気配を読み取るだろうから、酷な話だが春香ちゃんに具体的にどうしてほしいって話はできない。すなまないが」
「もういいです」
 スーパーの角を曲がるとそこには実に明快なT字路があり、大江は右にウィンカーを上げてのろのろとブロック塀の交差を折れる。
50メートル先には豆腐屋と看板を下ろして久しいと思しきパチンコ屋が廃墟のような居住まいでそこにあり、窓を開けたらカレーの匂いとともにどこからか夫婦喧嘩の声が聞こえる。
 豆腐屋の角を右。
「で、この次は?」
「コンビニに駐車場があります。そこで降ろして下さい。そこからなら歩いて5分くらいですから」
 生活道丸出しの道を30メートルほど行くと、大家が隠居後の生活費を稼ごうとした魂胆が丸見えのアパートの陰に煌々と灯るコンビニの明かりが見えた。
大江は粛々と白線内に車を入れ、コンビニのクリスマス丸出しな装飾にゲンナリとした溜息をつく。カレーの匂いが付近に充満している。
 沈黙を破ったのは、春香の方だった。
「最後に1つ、聞かせて下さい」
 これ以上何を聞くのかという大江の顔がこちらを向いた事を確認し、春香は質問を大江に投げる。

「大江さんがやってる計画って、プロデューサーさんにとってはいいものですか?」

 問いに、大江は顔を顰めた。
難しい質問を投げたつもりはなかったが、どうやら向こうにとってはこの上ないほど難しい問いだったらしい。
「答えなきゃならんか」
「『それもあり』なんでしょう?」
 返す刀に大江は再び押し黙り、黙って運転席の扉を開けてコンビニの自動ドアを不毛に開閉させ、遊ぶ金欲しさにバイトをしているのが丸わかりな店員に金を払ってホットのコーヒーを2缶買って再び運転席に潜り込み、春香に一本を渡してこう言った。
「俺が思うにな、物事の判断基準としては2つの評価要素がある」
 プルタブを開けながら、大江は呟くように言う。
「ひとつは結果だ。望んだ結果通りにならなくても過程の最終段階として現れる結果こそが評価であると考えるなら、これは恐らく『いいもの』だ。あいつにとっても765にとっても春香ちゃんにとっても」
 眼だけで飲まないのかと問われ、春香は改めて渡されたコーヒーのラベルを眺める。
 いつか見た激甘のコーヒーが、ラベルだけ変わっていた。
「もうひとつは過程だ。どんなアプローチをして結果に結び付いたかって観点だ。ただ、いくら過程が良くても結果が悪い事なんて世の中腐るほどあるし、終わりよければすべてよしなんて言葉もある。過程を評価するのなら、春香ちゃんが思ってる通りだ」
 つまり、最低と捉えていいのだろうか。
 春香はゆっくりと助手席のロックを外す。
クリスマス直前の夜の空気は肌にしっとりと寒く、春香は20点ほどの星空を眺めて白い息を吐き出す。
「―――春香ちゃん」
 声に視線を戻すと、まるでこれから竹槍でB29を落とすかのような冷たい決意に満ちた大江の顔があった。
「ひとつだけ、俺が君に話せる『してほしい事』がある」
「なんです?」
 問いに大江は一度目を瞑り、何かを覚悟したような、何かを諦めたような、何かを捨てたような、そんな表情で春香を見た。

「―――あいつを、信じてやってくれ」

 握った缶コーヒーの熱さは、一切感じなかった。
 頼みをきかなくても、大江は痛くも痒くもないのだろうと思っていたのに。
「俺が頼めるのは、それだけだ」
 大江の言う『計画』とは、一体何なのか。
 ようやく春香は、プロデューサーを中心とした底の見えない陰謀に触れた気がした。
「この『計画』は、春香ちゃんの協力がなければ成り立たないんだ」



 次はIUの4次予選で会おうと言った大江に礼を言って別れ、家までの5分の道のりの間、春香は悶々と考え続ける。
大江が何かを企んでいるのは明白だ。そして、大江の『計画』にはどうやら自分もはっきりとした役割があるらしい。
それが何なのかは分からないが、変わってしまったプロデューサーをどうやって元に戻すかまでは教えてもらえなかった。
否定的に解釈すればそれは自分で考えろという身も蓋もない回答に行きつくのだろうが、しかし肯定的に考えるのなら、自分の役割とは即ち『自分がやりたいようにやっていい』という事になろう。
自分が行うべき役割の唯一の指針はそもそも大江に言われるまでもなく実践することだったし、という事は『天海春香』は『天海春香』のままでこの命題に取り掛からなければならない事になる。
 上等である。

―――春香は春香のままでいいんだ。

 では、天海春香がすべき事とは、何か。
考えるまでもないがしかし、そのカギとなる思考はとどのつまり「自分が何をしたいか」に行きつく。
 考えてみれば自分はいつもそうだ。
『何になりたい』とか『何をしたい』ばかりが思い付き、その先にある『そうなったらどうする』というポイントはいつも考えていない。
Aランクに上がった後にどうしたいと問われた時もそうだったし、今の今まで欲しがっていた回答である「大江がプロデューサーに何と言ったのか」という点においても「言った事を聞いてどうするのか」に関しては真っ更なままだ。
 玄関が見えてきた。
 しかし、こうも思う。
前者の解答については未だぼんやりとした回答の片鱗が見えているに過ぎないが、後者の問題に関しての解答は容易である。
『天海春香』は自分を励まし続けてくれたプロデューサーが変わってしまったことに耐えられない。
ならば、『天海春香』はプロデューサーが元のプロデューサーに戻ってもらうために手を尽くす他ない。
具体的に何をしなければならないかは分からないが、大江に言われるまでもなく実践しようとしていた心構えを実践に移そうと春香は固く心に誓う。

 あの人は、自分を信じて励まし続けてくれた。

 玄関までたどり着き、春香はふと鞄から携帯電話を取り出した。
待ち受け画面には師走らしく赤い悪趣味な服を着た中年がズダ袋を背負って歩く全く不要なフラッシュの後にカレンダーが表示される仕組みで、春香は赤い丸でマークされた日曜がもうすぐそこに近付いている事に気づく。
 次はIUの4次予選で会おう、と大江は言った。

 今度は、私の番だ。

 IU4次予選は、次の日曜に控えている。





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