声 (32)

 IU4次予選のその日は、大変残念なことに朝から壮快なほど晴れていた。
4次予選ともなれば選考に参加するアイドルたちも広く知られた顔が多く、しかしそんな連中の顔色はテレビで見るときとは打って変わった緊張感が色濃く感じられる。
いい気なもんだ、大江はそう思う―――どいつもこいつもテレビに出るときはそんな生き死にが決まるような鯱鉾ばった顔など微塵も見せないくせに、テレビに出る前段階としてのIU予選やその他のオーディションの前はどいつもこいつも決まって年相応に不安丸出しの顔を見せる。
ファンの誰もが知りたがらないアイドルの裏の顔である。
誰もがオーディションを勝ち抜いたアイドルを称賛して大きな声でファンだと言うくせに、誰もそのオーディションを抜けるためにアイドル達がどれだけの努力をしたのかなど知りたがらない。
 大江は行き場のない思考に溜息をつき、回りのアイドル達の様子を伺うふりをして横に視線を泳がせる。
 晴れ渡る空を出演後アイドル控室の窓越しに眺める貴音の様子は、今までとどこが違うのかと問われると返すのが難しい。
確かに今朝だって今までと同じように挨拶したし、本社を出る前の発声練習もいつも通りの完璧な出来だった。
ただ、奇妙な事に今日の貴音には3次予選までに見せていた絶対殲滅的雰囲気はみじんも感じられない。
貴音の事だからまさか4次予選の雰囲気に当てられたなどという事はないだろうが、窓の外を眺める貴音はどこか心ここにあらずといった様相である。
 再びの溜息。
答えはあの手紙だと思う。スキャニングした手紙は小鳥経由で木村に渡っているはずだが、昨日聞いた時点ではようやく半分程度の解読に成功したという話だった。
ピヨネット一のインテリをしてまだその程度しか解読できていない手紙など大江にはどう逆立ちしても読めたものではなく、そして手紙の解読を待ってくれるほどIUは甘くはない。
1次予選の時には月に6回もあった予選回数も4次を迎えるころになると回数は激減しており、今日を逃すと年末の営業に響いてしまうのだ。
 そして、どうやらそう考えているのは何も大江だけではないらしい。
3度目の溜息をつき、大江は手元の参加アイドル名簿を手繰る。
貴音の出演は本日の2番手であり、そして『天海春香』の出演は貴音の次の次である。連れ立って入ったラーメン屋で何気ないふりをしてその事を伝えても当の貴音は「そうですか」の一言で会話を終了させてしまったし、心ここにあらずな貴音に「『天海春香』のステージでも見に行くか」と言ったところでどれほど興味を示してくれることか。
控室のスクリーンには『天海春香』のひとつ前のユニットが画面越しにも分かるほど膝を震わせてステージに上がっており、大江はままならない思考の中で「勝った」とぼんやり思う。
 一つも嬉しくない。
 はて、と大江は思う。計画では『四条貴音』はAランクに上がれば用が足りるのだし、この場においては『四条貴音』は2位通過でも構わない。
事実としてステージ上の貴音は歌もダンスも完璧だったし、これで選考から漏れるようなら審査員はさっさと国に帰れとすら思う。
が、3次予選まで大江は一度も「勝った」などと思った事はない。
『天海春香』を除いた他のアイドルはせいぜいが喉自慢のレベルであり、計画遂行の観点から安心はしても勝利を確信するという精神状態になった事がない。
 では、なぜ「勝った」と思ったのか。なぜ「一つも嬉しくない」などという感情を持ったのか。
 自嘲の笑いが口から洩れた。
 次の「いい気なもんだ」という思考は、偽らざる己への蔑視の感想だった。
961まで巻き込んだ大江の計画において、『四条貴音』は最重要にして大江が直接コントロールする『駒』だ。
大江が961に移ったのは計画を完遂させるために『四条貴音』をAランクアイドルにするのが必須という条件の一つを満たすためにすぎないが、つまり計画の完遂だけを狙うなら『四条貴音』をIUで優勝させる必要はない。
要するに計画の観点からは大江は現状『四条貴音』がIU予選を抜ける事だけを考えておけばいいのだし、つまり「勝った」などという味方を気取った感想など持つ必要はかけらもない。

―――…貴音とさ、友達になってやって欲しい。

 どの口でそんな事を言うのか。
情が移ったといえば多少聞こえはいいのだろうが、あれは単純に大江が罪悪感に耐えきれなくなっただけだ。
内容は不明にしろ貴音も手紙の一つで一喜一憂するれっきとした人間なのだし、そして自分はそんな事も忘れていたのだろう。
因果な仕事だ、大江は溜息をつく。
「なにが、因果なのです?」
「6人も綺麗どころがいて選ばれるのはたった二人ってところ。お前はそう思わないのか?」
「己のすべてをかけて勝負に挑んでいるのは私も同じ。敗れるのであれば、覚悟が足りないのでしょう」
「必至こいてやってても越えられない壁ってのは誰にだってある。お前もそうだろう」
「…」
 呟きを聞かれたのか、適当に返して横を見ると貴音はぼんやりと大江の顔を見ていた。
生気の抜けた顔でよくも覚悟が足りないなどと言えたものだとは思うが、スタンダードの違いだといえばまあそうなのかもしれない。
「己を知るのは大切なことです。誰にとっても、何にとっても」
 貴音の視線を追うように背後を振り返ると、先ほどモニターで死刑執行前の囚人の如く震えていたアイドルが鼻水まで垂らしながら控室に戻ってきたところだった。
励ますように寄り添っているのは彼女のプロデューサーなのだろうか。
「まぁな。お前の言う通りではある。『敵を知り己を知れば』ってのは誰だったかな」
 貴音はちらりと大江に視線を投げて「孫子です」とだけ言う。
「ただま、お前ももう分かってると思うがIUはヒヨッ子が生き残れるような世界じゃない。芸能界ってのはそういうもんだ。あの子も4次まで残ったんだ、覚悟がないわけじゃないだろうよ」
「覚悟と実力は比例します。ここで敗れるのなら、それまでの覚悟だったという事」
 先ほどまでの様子はどこへやら、貴音は厳しいともとれる発言をする。
2次予選くらいから気付いていた事ではあるが、貴音はどうやら勝負事となると熱くなるタイプらしい。10代とは思えないサラリーマン並みの出社記録も負けん気の強さに由来するものなのだろうか。
「そして己の力量さえあれば、相手の力量もまた推し量れるものです。相手が見えずに勝負を挑むなど無謀以外の何物でもありません」

―――あんたには、絶対負けない。

 ふと、肩の力が抜けた。
「相手の力量が分かってて、自分の力量も分かってて、それでもなお挑まなきゃならなかったとしたらどうだ?」
「?」
 まったく本当に、どの口でこんな事を言うのだろうか。
「負けんのが確実で、でも何かしたい事があって、そのためには当たって砕けろって感じで勝負しなきゃならん時もある。残酷な話だが、世の中にゃそういう事もある」
「何かしたいこと、ですか」
 大江は穏やかな表情で貴音を見据えた。
出番を終えて戻ってきたアイドルは机に突っ伏してわんわんと泣きだし、プロデューサーと思しき男は横に座って静かにアイドルの背を摩り続けている。
「そう言う事もあるよって話だ。ただ、何もせずに何かが得られるほど世の中は出来ちゃいない。何かアクションを起こさなきゃ結果は生じない。あの子も―――多分トップアイドルになってさ、何かしたい事があったんじゃないのかな。だから負けて泣くほど練習してさ、ここにいるんじゃないのかな」
「…」
 何か感じるところでもあるのか貴音はしばらく黙って震える背中を眺め、ややあって強い口調でこう言った。
「したい事があるのなら、それ相応の対価を支払うべきです。夢を見続けるのは自由ですが、夢にみあった努力をしなければ夢は夢で終わります。それこそ、己を知らなかったという事ではないのですか?」

―――私を慕う者たちのため、私を拾ってくれた黒井殿の恩義に報いるため。私は、必ずやトップに立たねばなりません。

 じゃあ、お前は何のためにIUの優勝を狙うんだ―――大江はそう思い、ふと思い付くものがあった。
この場において「拾ってくれた黒井の恩に報いる」は恐らく答えではない。
 大江の見たところ、貴音のモチベーションはあの意味不明な言語で書かれた手紙にリンクしている。
黒井がわざわざ自社ビルにいるアイドルに手紙を書く理由などないだろうし、であれば貴音のモチベーションの大なる部分は「慕う者たちのため」というところに行きつく。
貴音の常軌を逸した練習時間は、その「慕う者たち」のために捧げられているのだろうか。
「『みんなを元気にしたい』って夢も、努力なくては夢のまた夢、か」
 貴音の瞳が大きく揺れた。
「…天海春香が今もそう思っているかは私には分かりません。ですが、彼女は事実としてここまで生き残っている。であれば、彼女もまた相応の対価を支払ったのでしょう」
 今回の予選を抜けられるだけの対価を支払ったかどうかは分かりませんが、と呟くように付け足した貴音に溜息をつき、大江は袖をまくって時計を露出させた。
IUのステージ間のインターバルは30分だ。先ほどのアイドルが泣いて帰ってきたのが5分くらい前だから、今からステージに向かえば二人分の座席くらいなら確保できるかもしれない。
「んじゃあ、『天海春香』がどの程度の対価を払ったのか見に行ってみるか?」
 大江の言葉に貴音は一瞬だけ悩んだ素振りを見せ、やがて素直にこくんと頷く。



 流石にこれを抜ければトップランク圏内という意識もあるのか、IUも4次予選を迎えると出演後はともかくとして出演前のアイドルには控室として個室が割り当てられる。
防音の機能も十分に備わっているという主催側の事前説明の通り控室の壁は穴だらけの防音壁で、入念な発声練習を終えた春香は現在化粧台の前で最後の歌詞チェックをしている。
4次予選突破をかけて選曲したのは「まっすぐ」であり、女の子が大人の女性になるために必要なまっすぐ突き進む気持ちを歌った曲であり、春香は己の「まっすぐ」をどう歌ったらいいか何日もかけてシミュレーションした結果を脳内スクリーンで放映している。
 もう少し声量を上げて、メインは気持ちを込める事で、この曲はダンスもそんなに難しくないからどちらかといえば歌を聞かせる感じで、ビジュアル的な見方は後ろにカメラが張り付いてる事を意識して、足運びは昨日の練習の通りにやればよくてだからつまりえーと、
 ガチャリと控室の扉が開き、脳内スクリーンは一瞬でお開きとなる。
驚いて振り返ると、無機質な顔をしたプロデューサーが茶封筒を片手に部屋に入ってきたところだった。
「プロデューサーさん。会議終わったんですか?」
「ああ。春香、喉の調子大丈夫か?」
「ばっちりです」
 そうか、と気のない返事を返すと、プロデューサーはおもむろに控室隅の椅子を引いて茶封筒から何枚かの書類を取り出した。
春香は少しだけ眉根をよせ、しかしすぐに元の表情を戻すとプロデューサーに問いかける。
「それ、何です?」
 歩み寄ってきた春香に歌詞のチェックは大丈夫かとプロデューサーは聞き、春香が頷くと見ていた書類を渡した。
「Bランクアイドル登録申請用紙」と書かれたその無骨な書類には華やかな職業を微塵も感じさせないほど人情味のない印刷で「765プロデュース株式会社 天海春香様」とご丁寧にも春香の名前が印字してあり、下の方には「一、総会の規約を遵守し、総会の発展と貢献に努める」と書き出された誓約書のような文言が浮いている。
「Bランクアイドルとしての登録書。これを総会に提出すると、Bランク相当の仕事が斡旋される仕組み」
 ぶっきらぼうにそう言い、プロデューサーは他に何か質問があるかとでも問いたげな視線を春香に投げた。
全身が総毛立つような緊張が春香の身を襲う。
「…4次予選を抜けたら、私もBランクアイドルですね」
「不安が?」
「少しだけ」
 春香のすがるような視線にプロデューサーは目の奥で薄く笑う。
3人目までを聞いた感じではほとんどのアイドルがトップランク圏内への関門を前に緊張でやられている。
あの『四条貴音』も3次予選までの精彩を欠いた歌を歌っていた。
 何があったか分からないがチャンスである。プロデューサーの分析によれば『天海春香』は他のアイドルに引けを取らない程度の実力はあるはずであり、つまりここでいつも通りのステージをこなす事が出来れば春香の4次予選突破の確率は高いと思っていいはずだ。
プロデューサーは最近全く浮かべなくなった柔和な表情をする。
「大丈夫だよ。春香だって今までちゃんと練習してきただろう? 君が今までやってきた事を信じればいい」
「そう、ですかね」
「そうさ」
 そうだ。『天海春香』には是が非でも4次予選を突破してもらわなければ困る。
精彩を欠いたといっても流石は『四条貴音』であり、貴音の歌は確かに3人の中では一段上のレベルだった。
このままいけば『四条貴音』の4次通過は確実であり、という事は『天海春香』もまた4次を通過しなければ自分の復讐はそこで終わってしまう。
 そうとも、春香には何としても4次予選を通過してもらわなければならない。
 そうしなければ、大江とタイマンが張れないから。
 そうしなければ、大江の息の根をこの手で止められないから。
 そうしなければ、大江に復讐ができないから。
 春香は、そのための、
「きっと大丈夫だよ。自信持ちな、『春香は春香らしくやればいいんだ』」

 春香はそのための、駒なのだから。

「私は、私らしく」
 春香は一度口元で復唱すると、困ったような切ないような表情を浮かべてプロデューサーを見る。
あれ、と思う。今までの春香なら、こう言えば持ち前の明るさで前を向いてくれたはずなのに、今の春香はそんなマジックワードが効かないかのように自分の事をじっと見つめている。
「…どうした?」
「いえ、あの、…」
 春香はそこで一度口を噤んで下を向き、ややあって顔を上げ、こう言った。
「…プロデューサーさんが思う『私らしく』って、どんな風な私ですか?」
 時計を見ると、袖に待機しなければならない時間は刻一刻と迫っている。
こんな禅問答をしている時間は実のところそうはなく、プロデューサーはいつかの答えを引用した回答を口にする。
「そりゃあ、春香らしくって言ったら明るいところだろ。『俺はそう信じてるけど?』」
 言いながら、プロデューサーは腹の中で笑いを殺した。
何が信じているだ。そう言って信じた先に何があるかなど、自分はわずか2カ月前に身をもって知ったというのに。誰かを信じる事がどれだけの危険を孕むかという事を、おぞましい結果をもって知ったというのに。
 そして、答えを聞いた春香の切り返しは、プロデューサーの腹の中の笑いを完膚なきまでに叩きのめした。

「そうなんですか?」

 春香は一体、何を言っているのだろうか。
お前は『みんなを元気にしたい』んじゃなかったのか。そのためにAランクに上がりたいのではなかったか。
そのために、IUで優勝を狙うのではなかったか。
「違うのか?」
 疑問と疑問の応酬の中、春香は縋るような瞳を向け、プロデューサーにこう問うた。

「プロデューサーさんは、本当にそう思ってるんですか?」

 回答は出てこなかった。
ただ時間だけが刻々と過ぎ、もうまもなくIU4次予選の4回目のステージの幕は上がり、そこで『天海春香』は己のトップランク圏内入りをかけて今年最後の大勝負に挑む。
春香にここでコケられては困る。それは自分の復讐が果たせず終わる事を意味する。
 ではその忌むべき事態を避けるためにはどう答えればいいのか、最も適切と思える回答は残念なことに脳のどこを探しても出て来はしない。
「…俺はそう思うけど、でももし違うとしても、」
 出て来ない回答を探す時間が惜しかった。
プロデューサーは腹の中に眠る冷徹な意思を、それと悟られないような柔和な言葉で春香に伝える。
「君はアイドルだ。それをステージで歌えばいい」
 4次予選突破をかけて選曲したのは「まっすぐ」であり、女の子が大人の女性になるために必要なまっすぐ突き進む気持ちを歌った曲である。
「君が自分の事をどう思っているかは知らない。でも、それは今までやってきたように歌で表現すればいい。俺としては君が4次予選を抜けてくれればいいんだし、それ以上は求めないよ」
「で、でも、プロデューサーさんは、私の事をどう、」

 なおも言いすがる春香に、プロデューサーは、
開演30分前にビビっているアイドルに向けて『30分もあれば落ち着くだろう』と言うに等しい回答をした。

「俺が君の事をどう思っているかはこの際重要じゃない。大切なのは君が4次予選を抜ける事だ。俺なんかより、今まで練習してきた自分を信じてもいいんじゃないかな?」
 その言葉を春香がどう受け止めたのか、春香はぽつりと一言、わかりました、とだけ答えた。
時計を見るともう控室を出なければならない時間だ。
「そろそろ出なきゃな。春香、準備はいい?」
「はい。………もう、大丈夫です」
そう言って、春香はゆっくりと扉に向かう。

 誰かを信じた結果は、2か月前に身をもって知った。
 信じた結果は裏切りだった。忘れはしない、あの夜の闇に落ちた真っ暗な社長室の赤い封筒、中に書かれていた動かし難い裏切りの証拠と屋上で大江に言われた一言。
お前に、味方なんかいない。
 そうとも、俺に味方なんかいない。すべては復讐のための道具だ。
春香も、ピヨネットも、765も、総会も、すべてが自分を裏切った大江を潰すための道具にすぎない。
励ます事など造作もない。うわべを取り繕うのは自分の得意とするところだ。
 春香を先行させ、控室に残って忘れ物の確認をしながら、プロデューサーは低く笑う。
 そのためなら、使えるものは何でも使ってやる。
 プロデューサーはこの時、そう思っている。



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