声 (35)

 国交省役人として日頃通りドがつくほど真面目に業務をこなし、家に帰ると5歳の娘と気立てのよい妻がいて、今日の晩飯はカレーライスで、飯を食らって娘を風呂に入れて今朝読み半端にした新聞を読んで、21時を回るころには娘がもう眠いと言い出して寝かしつけてから煙草を一本吸い、ラップトップに火を入れたあたりで最近腹の膨らみが目立つようになってきた妻が風呂から上がってきてテレビをつけ出した。
二人目の子供は男の子の予定であり、一姫二太郎という日本の良習を引き合いに出して喜んだ木村に妻はクスリと笑って『何それ?』と言ったのはもう半年も前の話だ。今は帰化しているが、妻は日本人ではない。
 広くもないが狭くもないリビングの窓際に鎮座するテレビは上半期のボーナスで買った大きめのテレビであり、テレビの前のソファーは最近の妻のお気に入りのポジションで、木村はと言えばカレーライスの香りが未だ残るテーブルに座ってウィンドウズの起動を待っている。
最近とみにませてきた娘は最近自分と風呂に入る事に多少のためらいを覚えたようで、これが成長というものかと喜ばしく思う反面少々さびしい気もする。あと5年もしたら『パパとはお風呂に入りたくない』とか言い出すはずで、さらにもう5年したら家の洗濯機は娘の我儘を叶える為に日に2回お役目を果たすようになるはずである。
 もうすぐ、大江から送られてきたメールの解読が完了する。
おそらく妻ならば木村が言語ソフトを使ってちくちくメールを翻訳せずとも一発で読めてしまうのだろうが、妻の母国のネットワークは出自が故か妙に厚い。余計なところで余計なトラブルを起こさないために、木村はメールの内容どころかその存在すら妻には知らせていない。
「ねえ、あなた?」
「ん?」
 いい加減何度も見て飽きたと思しきドラマのオープニングを眺めながらの妻の問いかけに、木村は短く応じる。
モニタの中には「ようこそ」という味もそっけもないブート画面が表示されており、味もそっけもないブート画面の次に表示されるのはまだ親父と風呂を共にすることに何の抵抗もなかった時の娘の顔のどアップである。
「まだお仕事? 最近忙しいみたいだけど」
「仕事…うん、まあ仕事だね。あんまり急ぎじゃないから頑張る必要もないんだけど、いつまでも頭の中に残しておくのもなんだか気持ち悪いし」
 大江からは『本業が空いたときでいい』と言われている。しかし読解達成率のウィンドウによれば全体の分量の10分の9くらいは解読の終わったメールをこのまま残しておくのが気持ち悪いというのは木村の偽らざる本音である。
 『天海春香』のBランクアイドル昇格に伴って計画はフェーズ5まで駒を進めた。
この計画はフェーズ7までで完遂を見る予定であるが、フェーズ7になればピヨネットとしても慌ただしくなる事は間違いないし、フェーズ7といえばピヨネットがいよいよ実動部隊として配置される段階であるからしてフェーズ6は仕込みに大わらわのはずだ。
面倒事は先に潰しておいた方がいい、というのは木村が役所に勤めて得た貴重な経験の一つである。
「テレビ消した方がいい?」
「いや、僕が好きでここにいるんだからいいよ。君こそ湯冷めするなよ、智子はあれで弟の事を結構楽しみにしてるみたいだ」
「そうね。私も楽しみ」
 ラップトップから顔を上げると、ドラマが始まっているにも関わらず暖かな顔をした妻がこちらを見ていた。
全く、今のこの顔は8年ほど前―――付き合いだした頃からは考えられないほど穏やかだ。
「なに、私の顔に何かついてる?」
「…いや、別に。健一の顔は僕に似てるといいなって思っただけ。智子は君に似たからね」
 妻は意地の悪い笑みを浮かべ、
「あら。嫉妬?」
「男親のささやかな楽しみ。僕としては健やかに育ってくれればどっちに似てもいいんだけど」
「そうね。だから『健一』って名前にしたんでしょ?」
「うん」
 765で戦争のような日々を過ごしてきたわが身からすれば、この団欒は天国にも等しい。
最も戦争という一点からすれば妻の方はもっとリアルな体験をしたはずで、そのあたりについてどう思っているのか聞こうと思ってすぐやめた。妻の顔が回答を雄弁に物語っている。
 解読用のソフトが多すぎるメモリ消費を伴って起動した。起動と同時に例のメールを自動でセットし、中断されていた解読を再開する。
このアプリはメモリの消費とCPUのリソース消費が半端ではないから本業中に起動する事は出来ないが、ある程度の文面を一度インプットして解読してからアウトプットしてくれるお陰で生半な知識では歯が立たない文法上の機微や連語表現も相当に高い読解率を誇る。
765が海外に打って出るという話がにわかに社内で活気づいたときに拝借してきたシロモノだ。
「あーあ、早く生まれないかな。結構重いのよね」
「子供とは言え人一人抱えてるわけだからね。負担?」
「それもあるけど、」
 そこで妻は言葉を区切り、ドラマそっちのけで木村の真正面の椅子を引いた。
腹をいたわるようにゆっくりと椅子に座ると、穏やかな顔のままで膨らんだ腹に手を添える。
「早く顔を見たいじゃない。どっちに似てるのか、気にならない?」
「僕だよ」
「私よ」
 お互いに譲らないが、その顔にはまさしく新婚のころから変わらない愛情に溢れた笑みがあり、まさしく幸せを絵にかいたような一時の団欒は突如として木村のパソコンがぽーんという実に場にそぐわない音をたてた事で中断された。
空気の読めない奴め、と木村はラップトップのモニタに視線を這わせる。
どうやら残りの10分の1は簡単な時節の挨拶と署名で終わっていたらしく、やれやれようやくこの仕事も終わったかと解読結果をモニタに表示させ、木村は署名として書かれた名前を見た。
 まさかと思った。
「…ねえ、」
「なあに?」
「変な事聞いていいかな」
「? どうぞ」
 妻の返しに木村は少しだけどう話を切り出そうか考え、ややあってこう尋ねた。
「あのさ、765の『天海春香』っているじゃない。アイドルの」
「ええ、それが?」
「君さ、『天海春香』の事どう思う?」
 突飛な質問に妻は少しだけ不審な目で夫を見やり、しかしその質問の背後にうごめく木村の疑惑に気づくようなそぶりもなくうーんと首をひねり、ややあってこう答えた。
「そうね。いいと思うわよ明るいし可愛いし。智子もお気に入りみたいだしね」
 ほっとして胸を撫で下ろす木村に「変な人」と妻は笑い、次いでテーブルに肘をついて溜息のような息を吐き、「でもね、」とつなげた。
「でも私は、『天海春香』より『四条貴音』の方がいいな」

 、

「どうして?」
 声が震えないでほしいと木村は思う。
「どうしてって、そりゃあ―――」
 そして妻は、その綺麗な瞳の奥底に途方もない郷愁の色を浮かべ、こう答えた。
「もう無くなっちゃった、私の国の―――お姫様だもの」



 新参の961の仕事とてそう楽なものではない。
事実として遠藤の同僚たる営業部の連中は週の半ばだというのに揃いも揃って土気色の顔色を隠そうともしなかったし、休憩室の隅にある『カン・ビン』というパウチのかかったゴミ箱に近付けばユンケル皇帝液とリポビタンDがブレンドされた何とも言えない毒々しい臭いが鼻につく。
どいつもこいつも若いくせに、と遠藤は呆れ半分憐れみ半分のような視線をゴミ箱に投げ、近くのベンダーにマックスコーヒーを見つけて120円をぶち込んだ。
礼を言われて吐き出されたマックスコーヒーを拾い、遠藤は喫煙者にとって唯一のオアシスである空気清浄機に凭れかかるようしてプルタブを開ける。
 カネにモノを言わせた961の仕事の採り方には辟易するものの、961での遠藤の仕事はあくまでも大江のサポートであり、しかし当然遠藤の「本当の仕事」については961の誰にも話すわけにはいかず、疑われないように遠藤が職務を遂行するためにはそれなりに仕事をこなさなくてはならない。
夜も8時を回ると仕事も大抵の社員たちは帰宅の途に就いており、では遠藤がなぜ未だに社内でゴミ箱を眺めながら馬鹿甘いコーヒーを胃に落としているのかといえば一重に『疑われないようにするため』というその一点に尽きる。
 最も、765の黎明期を支えた一員の目から見れば961何するものぞというのが遠藤の偽らざる本音である。
ひどい時は2徹どころか3徹も何週か続いていたし、ある日突然夜食を買いにコンビニに出向いたはずの小鳥が『寿』と書かれた一升瓶のポン酒を買ってきてラッパ飲みし始めた段には全員で小鳥を取り押さえた事もある。
今考えればあれは立派な3Kの現場だったと思うが、それでも楽しかったと思うのは記憶の回想であるからなのか。
 どいつもこいつも若いくせに。
 遠藤は自嘲じみた溜息を吐く。同期内でも若さ筆頭のあの男の立てた計画はまさに若さのなせる業であり、奴が自分から961にもぐりこむと言い出さなければ遠藤はこの計画に賛同するつもりなど端からなかったのだ。
結局のところ発案期には全くの夢物語でしかなかった計画を始動させたのは大江の総会入りが避ける事のできない事態になってしまったからだが、それにしても765の『プロデューサー』にかける投資の額は半端なものではないと今更ながら思う。
2月から3月というアイドルにとっての総決算期には、『ピヨネット』のほぼ半分の構成員が実動部隊として計画に参加することになっている。
 血でも何でも吐いたらいいし、計画完遂の暁にはボコボコにされてしまえ、とは今でも思う。
遠藤は胸ポケットに挟まっているヒヨコのイラストが施された明らかに小学校低学年向けと思しきボールペンを手の平でくるくると回す。
 大江の言動の一つ一つは『ピヨネット』側でもモニターしている。
会員特製の小型発信器兼盗聴器が収まっているヒヨコプリントのボールペンを胸のポケットに忍ばせているのは奴も了承済みの話ではある。
小鳥をはじめとした765が計画のフェーズ更新を把握できるのはこの発信器兼盗聴器の仕事を抜きにしては語れないし、それ以上に未だに大江がこのボールペンを使っているのは今をもってしても『本来ならば765側』という奴の意思の無骨な表示方法なのだろう。
さしもの黒井社長も個人の持ち物について何か言及しているような様子もないし、そもそもいいところのボンボンには疑われるような行動をとらなければ怪しまれる事もないだろうというのが高木社長を除いた765側の一致した見解だ。
 以前に資料室に忍び込んだ事を社長から言われた以外、今のところ肝を冷やすような事態には陥っていない。
遠藤は少しだけ忌々しげに961の社員証を指で弾く。
 最近の懸案事項の一つに、大江の対象への入れ込み具合がある。
元々趣味が仕事のような男だったから奴の勤務態度には一点の曇りもないのだろうが、最近の奴の『四条貴音』への入れ込み具合はややもすると765時代と大差がない。
フリだと言われればそうなのかもしれないが、遠藤はどうしても「大江が『四条貴音』に駒扱い以上に入れ込んでいるのではないか」という疑惑を払拭しきれずに、
「―――よう」
 声に顔をあげると、今まさに考えていた男がにやにやしながら立っていた。
「…おお、大江…さん、まだ仕事ですか?」
「よせ気持ち悪ぃ。どうせ誰もいねえんだ、いつもどおりに行こうじゃねぇか」
「『961の社内じゃ俺とお前は赤の他人』って言ったのはお前だろうが。そんで? まだ仕事してんのかお前」
 遠藤と大江の繋がりが961内で判明すると色々と不都合が生じると言い出したのは大江である。
961でのプロデューサーは『プロデュース部』という立派な肩書の部署がしっかりとあり、対する遠藤は単なる『営業部』で、この辺りは営業部の下部組織としてプロデュース課があった765との明確な違いである。
部署が違えば一般的な交流がないのはどこの世界でも同じ事で、765に在籍した過去を抹消したうえで961に在籍している遠藤にしてみれば確かに大江と繋がりがあるのは客観的に見ておかしい。
組織が大きいからなのか、961には765のように定期的な部署交流の催しは行われていない。接点のないはずの二人が親しげに話しているのは明らかに不審だろうというのは二人が961に入ってから大江が言い出した事だった。
「おお、まあな。さすがBランクってか、仕事はおかげさんで多いよ」
「…まあ、『計画』が順当に行ってる証拠か。おめでとうフェーズ5」
「ありがとうフェーズ5。ピヨネットが仕事すんのっていつからだ?」
「こないだ木村がプロデューサー君に接触した。フェーズ5くらいならまだ多少多めに営業データ回すくらいじゃないか?」
「仕込みはフェーズ6くらいか」
「お前の見立てが正しいならな」
 そうか、と大江は興味なさげに相槌を打ってケツのポケットから財布を取り出し、ふと遠藤の手に握られたマックスコーヒーの缶に露骨に嫌な顔をした。
「うげ、お前よくそんな甘いの飲めるな」
「ばーか、この味は選ばれた者にしか分からんのだ。お前みたいな不浄が飲んだら浄化される事間違いなしだ」
「中二病め」
 言うと、大江はくつくつと意地の悪そうな笑みを浮かべてベンダーのボタンをぽちりと押した。
ブラックの缶コーヒーが採り出し口に吐き出され、大江は意地の悪い顔のままプルタブに指をかける。
「何笑ってんだよ」
「いや、思い出してさ」
「何を」
 問われた大江は、顔に意地の悪さ半分懐かしさ半分という、非常に難しい笑みを浮かべた。
「いやな、春香ちゃんが入社する前にさ、俺とアイツで営業終わって休憩室でヤニ吸ってた時さ、あいつ言ったんだよ『大江さんのせいで小鳥さんに怒られたから机の上片付けろ』ってさ」
「お前、本当にダメな先輩だったんだな」
「うるせ」
 大江はそう言い、休憩室の真ん中にある空気清浄機をぐるりと回って遠藤の正面に立った。
「んでさ、流石に申し訳ないと思って飲みモンでも奢ったろうと思って千円渡したわけよ。俺にも何かくれって言ってさ」
「それで?」
「そしたらアイツマックスコーヒーよこしやがってさ。一緒に何て言ったと思う?」
「『死ね馬鹿野郎』?」
 大江は笑い、
「『これ飲んで糖分取って机の上片付けてきてください。僕その間に今日の営業の報告書書いちゃいますから』って。笑えるだろ、コイツ成長してんなぁって思ってさ」
―――こいつまさかひょっとして、
「だからこそお前はこの『計画』を始める気になったんだろ。後輩君が成長してさ、お前がいなくても大丈夫なようにって『計画』を始めたんだろ」
 それを聞き、大江は薄らと笑って「そうだな」と言った。
「なあ大江、俺はお前から『本当の計画』を聞いたときに最初に言ったよな、お前本気かって。本気でやるつもりなのかって聞いたよな」
「ああ、聞かれた。『最後までやるつもりか』とまで聞かれて、俺は『やる』って答えた」
 遠藤は腹の底で蠢きだしたその疑惑を払拭するように話す。
「お前の事だからやるって言ったら聞かなかっただろうしな。だから俺はお前に乗った。お前をサポートするために職歴洗浄して961に潜った。それが765のためになると思って、俺はこの『計画』に乗った」
「ああ、感謝してる」
「計画もフェーズ5まで進んだ。もう『天海春香』も『四条貴音』もBランクだ。後戻りなんかとっくに出来ないところまで来てる。だから、大江、もう一度聞かせてくれ」
 そして遠藤は唾を飲み、こう尋ねた。
「お前は、この『計画』を、最後までやるつもりなんだな?」
 対する大江は、まるで昨日の天気は晴れでしたとでも言うような何気ない口調でこう言った。

「ああ。それが765の為になる」

 どこかでガチャリと扉が開いた音が聞こえた。
遠藤は半分ほど残っていたマックスコーヒーを一気に胃に入れ、リポビタンDとユンケル皇帝液の臭い漂う『カン・ビン』のパウチのかかったゴミ箱に新たな匂いを混ぜ込んだ。
「―――そっか。悪かったな、変な事聞いた」
「いや。別にいいさ。行くのか?」
「『営業部一真面目な遠藤君』には、残念ながら仕事が残ってる」
 そうか、と大江は呟き、プルタブを開けたまま飲んですらいなかった缶コーヒーの飲み口に口をつけ、思い出したようにこう言った。
「あ、そだ。なあ遠藤、お前さ、」
 振り返った先に、遠藤は大江の顔を見た。
 何かふっ切ったような、晴れやかな笑みがそこにあった。
「煙草持ってねえ?」

―――あいつ昔から一番ヤバいところは言わないところあるし。

「…ああ、ほら。どうせ2本しか入ってねぇ、箱ごとやるよ」
「お、悪ぃな。サンキュ」
 子供のように顔を輝かせてマイルドセブンを受け取った大江に、遠藤はふと思い出したような呟きを口にした。
「いいのか? 『四条貴音』は煙草嫌いなんじゃなかったか?」
「嫌いって言ってたな。でも貴音はもう帰ったし。いいじゃん久しぶりに一本くらい」
 わき出した疑惑が鎌首をもたげた事を、遠藤ははっきりと知覚した。
「いいけどさ別に。精々スーツに匂いが残らないようにするんだな」
「気をつけるよ。…悪ぃな、遠藤」
 その『悪い』は、はたして何に対する謝罪なのか。遠藤は肩をすくめて休憩室の扉をくぐり、一路営業部へと足を向ける。
 今更だろうと思う。今更大江が何を言おうと『計画』の全体は止まらない。
それでもなお、遠藤の脳裏にこびりついた疑惑は頭の隅から離れない。
あいつは昔からそうだ、一番ヤバいところは誰にも言わないところがある。『四条貴音』への大江の最近の入れ込み具合は765時代の奴がアイドルに接する態度と殆ど見劣りがしない。
 『計画』の全体は、大江が今更何を言っても止まらない。
 止まらないが、『計画』の要は大江だ。
「…こりゃあ、小鳥さんに相談した方がいいかもな」
 遠藤は誰にともなく一人呟き、IC認証つき社員証を認証機にかざし、営業部への扉を潜る。




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