声 (36)

 目下のところ『四条貴音』の目標はIUでの優勝であり、2月に控える第5次IU予選は記念すべき第1回IUの最後の予選であり、そして予選に出るためには前回の予選を抜ける事に加えて特定数のファンを獲得しておかなければならないのは前にも述べた事実であり、ではファンを獲得する方法はといえば流石にBランクともなればレコード屋のドサ回りよりも効率のいいやり方というのが存在する。要はテレビである。
なるほどレコードショップをドサ回っているよりテレビの方が獲得できるファンの数は桁が1つ2つは違うらしく、以前に大江から見せられたファンの数はテレビに出るようになった夏の終わりくらいから右肩の上がり具合は以前に増して急勾配を描くようになった。
4次予選以降のしつこいマスコミの事をあまり好きになれない貴音ではあるが、“テレビ”の力というのは偉大なのかもしれないとは思う。
郷里にいた頃には馴染みなどなかったものではあるが、大江の言う通り後で自分の出演した番組を真摯な目で見返してみれば弱点ともなりうる「まずい部分」というのははっきりと分かるものだった―――余人がどの程度それに気づいているかは別にしても。
 そんな貴音が今いるのは地上23階地下4階建の961プロダクション株式会社本社の中程にある多目的ルームであり、社長たる黒井の成金丸出しな調度品に目を瞑れば強固な鉄骨と豊富なクッション材によってある程度以上の激しいトレーニングをしても外部に音が漏れないこの部屋はまさにアイドルにとっての理想的なトレーニングルームには違いない。
貴音がそんなプチ体育館にいるのは一重に昨日のテレビで見た「まずい部分」を矯正するために他ならず、初めて見たときは余りのスイッチの多さに本社ビルが変形でもするのではなかろうかと思えたサウンドコンソールに向かって慣れた手つきで手を伸ばす貴音の表情は明るくもなければ暗くもなかった。
 貴音が、サウンドコンソールに、手を伸ばしている。
 この一カ月というもの、大江は殆ど貴音のトレーニングに付き合っていない。
961プロは資金力で他社を圧倒してはいるが、ポッと出の新興プロモーション会社というレッテルは未だ覆せざるものがあるのか目下のところ大江はそちらの調整に回っている。
聞いてみれば正月に持って来られた水着の仕事も961の経験のなさから足元を見られた話だというし(大江が「まあいいじゃん、これも経験」とニヤニヤ笑いながら言っていたのはあえて特記しておく)、単なる実力勝負では世の中など回っていかないなどという事は貴音とて17年の生涯で納得はしていないが理解はしている。
どこに行っても政治は付きまとうのですね、という歳に似合わない感想を溜息とともに空気に混じらせ、貴音は冬の寒気に縮まった両手両足の腱を伸ばすかのようにゆっくりとしたストレッチを開始する。
最も、その辺は大江に言わせれば『この辺りがプロデューサーの醍醐味』らしく、似合いもしない業務スマイルを顔面一杯に張りつけた威嚇のような表情で営業先に乗り込む大江はまるで水を得た魚だと思う。
 『プロデューサーの醍醐味』。
 要するに、『プロデューサー業』というのものはそれが本来の仕事なのだろう。ここだけの話、大江のように営業先との調整だけでなく担当アイドルのコンディション調整や新曲の斡旋やトレーニングを一手に引き受けるプロデューサーというのは961内部でも異色である。
プロデューサーというのは読んで字のごとくアイドルのプロモーションリクルーティングを行うのが本来の仕事であり、言っちゃあ何だが大江の行っている業務内容は本来のプロデューサー業務からは大きく逸脱している点が多くある。
他の会社はどうか知らないが961にはメンタルコンディショニングや新曲の卸しやトレーナーは専用のスタッフが多く常勤しており、プロデューサーがプロデューサー業を行う上でのサポート体制と言ったらそこらの老舗が舌を巻く程度には961は充実している。
 では大江に頼らずともしっかりとしたトレーニングができるのではないかと問われれば、疑問の余地なく貴音は肯定の返事が返せるはずである。
 もちろん、どこにでもペテンというものは存在する。
 常勤するスタッフがいる事やそれらスタッフの個々の技量が大江を上回るであろう事はもちろん貴音にも予想はつくが、それは単なる事実にきわめて近い予想という話であって貴音がそれらのスタッフを使わなければならないという理由はもちろんない。
要はアイドルがそれらを『使う』か『使わない』かはまた別の問題であって、貴音は一重に大きく3つの観点から前者を伏せて後者を選択している。
 理由そのいち。それら専属のスタッフの力量および連携の緊密度が不明確。
 前述のとおり、あれこれと手を出している大江に比べれば専門性に特化したスタッフの方が純粋な専門性力量の点からすれば技量があるだろうという事は予想がつくが、ではどの程度大江よりも優れているのかと問われると貴音には返す言葉がない。
そもそも『アイドル』という職種は個人の能力に依って立つところが非常に大きく、通り一遍の指導によってド素人がある程度の技量に達する事が出来てもそこから先―――アイドルの専門性―――に対する指導がどれほど優れているかは未知数である。
ド素人をそこそこに押し上げる能力がいかに優れていようが貴音が現在立っているフィールドは既にその先であり、そこから先が期待できるか、という点において素直に首を縦に振る事が出来る可能性は果たしてどれほどのものか、というのが貴音の本音である。
さらに言うならば、それぞれのスタッフの言い分が競合する可能性すらある。
専門スタッフたちがどの程度密にコミュニケーションをとっているかは謎だが、例えばダンス専用トレーナーから理論を諭された後にボーカル専用トレーナーから根性一発決めて来いと言われれば「どちらに従ったほうがよいのか」分からなくなる可能性だってある。
そうなった場合は結局のところ貴音本人がどちらを優先するか判断する必要が生じるのだが、正直に言えばそのために脳味噌の一部分すら使うのは面倒だと感じている。要は、貴音自身がそれら専門のスタッフを信用していないのだ。
 理由そのに。貴音自身が自分の歌に人から何かを言われる事を好まない。
 暴露してしまえばこれは貴音の性分である。幼少のころより専門性の高い歌を心身にたたき混まれてきた貴音にとって『歌』はある種己のアイデンティティとも呼びえるポジションを占めており、ひょっとしたらそこらの専属トレーナーよりも本格的な音楽をやってきた期間は長いかもしれないとは何の憶測もなく思う。
言ってしまえばそんなにわかトレーナーに何かを言われたところで貴音にしてみれば不快でしかなく、これが即ち大江が961に来るまで貴音が一人でトレーニングをしていた理由である。
最も―――これも理由そのいちに通じる点だが、要はそのいちもそのにも『信用できない奴に自分のアイデンティティにちょっかいを出されたくない』という直接的な理由にあれこれと脚色を加えたに過ぎず、この国に来てからただ一人孤独を友として過ごした歪んだ8年間の弊害と言えるのかもしれない。
暖房完備の豪奢なトレーニングルームの床に小さくない胸を押しつけながら、貴音は肺に残る息を溜息の形に変えようとして、

 それでいい。

 貴音は暗く笑う。
もしも床が一面鏡張りになっていたら恐ろしいほど真っ暗な笑顔の17歳が視界に映っているはずである。
 それでいいのだ。それこそが王族の矜持というものだ。
父や母、祖父に何か落ち度があったとは今にしても全く思わないし、街角で多数決を採れば十中八九はこちらに賛同するはずである。
あれは、要はテロだったのだから。何の落ち度もない父や母や祖父は、同じく何の落ち度もない多数とともにあの夜に天に召されたのだから。
 だから、あの夜の出来事は悪い夢だと言い聞かせる事が自分の責務だと思ってきた。
逃げ延びた者たちに『あの夜の出来事は悪い悪い夢だった』と言い聞かせる事が自分の責務だと思ってきた。
早く忘れて、きっとあるであろう次に向けて歩を進めてほしいと、そう願ってきた。
 はずなのに。
 この考えを大江に聞かせたら、はたして奴は何と言うだろうか。

 自分に同情するか? するだろう。
 では、自分の考えを認め、是として協力してくれるか? するかもしれない。
 では、あの手紙を見せた後、同じ問いに大江は何と答えるか? ―――。

 ここ2カ月ほどの貴音の考えはいつもここでクダを巻く。
大江には自分の考えを知ってほしいと思う反面、知られたらそこで終わりだろうとも思う。
クダを巻くとき、貴音の脳裏にはいつもIU1次予選後の、6月の屋上のあの時の叫びが蘇る。

―――忘れんな、お前は一人じゃねえんだ。誰でもいい、俺じゃなくてもいい、キツくて辛くてどうしようもなくなったら誰でもいいから頼れ。

 頼ったところでどうなるというのか。考えなしに大江に全てを話して半端な同情を買ってどうするというのか。
そんな重責を大江に負わせて、自分は一体何をするのか。
 ここまで考えて、貴音は今度こそ息を溜息に変えた。
変形を厭わずにぺったりと床に胸を押しつけ、あろうことかついでに頬まで床につけ、貴音はさもおかしそうに口元をゆがめた。
 何の事はない、詰まる所これが理由そのさんだ。要は『四条貴音』が抱えた問題をうっかり口走ってしまおうかと思うくらいに、四条貴音は大江というプロデューサーを信頼しているのだ。
どうせ有難いアドバイスをもらうなら『専門性の高いトレーナー』よりも『信頼できる素人』の方が好ましいのだ。
それで潰れるなら仕方ないと思えるし、事実『四条貴音』は1月も終わりに近づく今になってもアイドル活動ができているのだから大江にも実績はある。従う理由は十分以上にある。
 だからこそ、

―――あんたは大江にとって体のいい人形だ。

 だからこそ、あのドヘタレの言う事が気になる。
あのヘタレが言う分には自分は大江がアイドルマスターなるプロデューサーの最高峰に上り詰めるための駒だという。
正直に言えばだからどうしたという感じではあるし、彼が自分をプロデュースした果てに『アイドルマスター』になるのなら貴音としては一向に構いはしない。
目的地が僅かに離れているというだけで、目指すべきポイントが大きく乖離しているとは思えない。
思えないからこそあんな啖呵を切ってきたのだし、その時のあのヘタレの顔と言ったら面白すぎて笑いも起きなかった。
 上体を起こし、貴音は両足を前に投げ出してケツを床につける。つま先をぐいっと引っ張って上体を倒し、前屈して脛の腱を伸ばす。
 起きなかったが、捉え様によってはあのヘタレの言い分は随分と深い意味を帯びる。要は結果と過程の入れ替えである。
あのヘタレの言い方だと、大江は「あくまでもアイドルマスター」になるために961でプロデュース業をしているのであって『四条貴音』のプロデュースはその手段という事になる。
この理屈でいくと、手段の部分に入るのは『四条貴音』である必要は実のところない。
大江のプロデューサーとしての手腕は確かに確かな部分があるのだし、『四条貴音』ではない何物かをプロデュースしたところで大江ならばそこそこのところに行くのだろう。
もちろん貴音だって大江がわざわざ自分をプロデュースするために961に来たなどという夢想を語るつもりはないが、では大江はなぜ『アイドルマスター』になる手段として『四条貴音』を選択したのだろうか。
 それ以上に気になる点がある。今までの『天海春香』とヘタレを見る大江の表情である。
 現状までの大江は『天海春香』やヘタレに一定以上の眼差しを注いでいるのは最早疑いのない事実である。
が、単純に大江が『アイドルマスター』になるために961に来たのなら765のあのペアは敵以外の何物でもない。
曲がりなりにもIUを4次予選まで勝ち抜いてきた『天海春香』は初期の思想はさておくにしても大した実力者だったのだろうし、にもかかわらず先んじて芽を摘むような行為をしないのは野望のような夢を持つ大江の思想とは相合わないような気がする。
 思考が再びドツボに嵌る。貴音はゆっくりと立ち上がり、軽く跳躍して足の筋繊維がほぐれた事を確認、ひらがなで“すたぁと”と書かれた幼稚園児教育用とも思えるシールに人差し指を当ててぐいと押しこむ。
ボイストレーニング用の間延びした音が流れ出し、貴音は肺に空気を入れてロングトーンを開始する。
 そう考えれば不思議なのだ。単に『アイドルマスター』を目指すだけなら―――即ち、『四条貴音』をIUで優勝させるだけなら―――あのヘタレどもに気をかける必要など全くない。
対象を敵と捉えて即物的に潰してしまえばよい。IU3次予選での屋上がそれにあたったのかもしれないが、あろうことかヘタレは奮起一発、最近の『天海春香』ファンクラブの人数は『四条貴音』のそれに負けずとも劣らない。

 問題。大江は一体、何を考えているのか。

 961の内部にあって獅子身中の虫となるのなら『四条貴音』がここまで生き残る事はなかろうと思う。
歌にアイデンティティを求める程度に貴音は己の歌に自負があるが、それがプロモーションを伴わない限り自分は単なる『歌のうまい人』で終わる。その程度には自己分析出来ている。
そんな自分が『歌のうまい人』ではなく『四条貴音』として歌を歌っているのは紛れもなく大江の功績だ。
この点で、大江が765に利する行為をしていないのではないか、という推測が立つ。あるいはしていてもそれと知れない方法でやっているのか。
 しかしいずれにしろ出口のない問いかけではあり、貴音がそれらの疑問に対して用意できる回答といえば己を高めることしかない。
大江が何を考えているかは知らないが奴の目標が『アイドルマスター』である以上は自分の協力こそが不可欠であり、そして自分もIUのトップに立って『忘れろ』と言うためには大江の協力が不可
「貴音、それピッチ上げ機な。音量ならシール張ってある奴」
「いひゃぁっ!」
 喉の裏が引っくり返ったような声が上がり、飛び去るように後ろを見ると大江が驚いた顔をしていた。
「…何だお前藪から棒に。そんなに驚かしたか俺?」
「い、いえ、何でもありません」
 そーか、と大江は気のない返事で室内を見やり、壁に掛けてあったパイプいすを一瞥する。
のんびりとした足取りでパイプいすに近づいていく大江をどこかぼんやりと観察していると、はたして観察対象がこちらの好奇の視線に気づいたかのように声をかけてきた。
「…どうした? なんか悪いもんでも食ったか?」
 動物園のゴリラに心配された気分になった。
「いえ。大江様こそお疲れのご様子。何かあったのですか?」
 大江は鷹揚に首を振り、
「いや。…次の営業な、明日の昼からだ。今日と明日の午前分は取れなかったんだが、まあ今までの貯金があるからな、大丈夫だろう」
 次の予選は一ヶ月後か、と大江は懐から手帳を取り出し、上着の胸ポケットに腕を突っ込んでヒヨコ柄のボールペンを取り出した。
いかついとは言わないが大の男がヒヨコプリントのボールペンというのはなかなかシュールであり、貴音はボリュームと勘違いして上げてしまったピッチ抑揚機のトーンを下げる。
「かわいらしい筆記具ですね」
「やらねーぞ」
「不要です」
 それきり顔を上げずにスケジュール帳とにらめっこを始めた大江の存在が気になって練習を続ける気にならず、貴音はぼんやりと窓の外を眺める。
地上23階地下4階の中程にある多目的ルームの窓からは新年を迎えた街の様子が芥子粒程に見える。
「どうした貴音、練習はもういいのか」
 大江はまるでこれから万馬券でも買うかの如き真剣な表情で手帳と向き合ったまま貴音に声をかけていた。
知らずに溜息が出て、貴音はゆっくりと大江に歩み寄る。
手帳を覗き込むと1週間に4回は「テレビ」のテが踊っており、今日は珍しく何の営業もない日であるらしかった。
「大江様のご趣味など知る由もありませんでしたが、大江様は可愛らしいものがお好きで?」
「いわゆるギャップ萌えか。うん、非常に俗っぽくていい感じだが―――」
 言うと、大江は貴音にペンを手渡した。
眺めてみるとインカムと思しき物体をつけたヒヨコが歩いているという何とも言えない趣味のペンであり、貴音は興味深げにペンをしげしげと眺める。
「これは別に俺が自腹切ったもんじゃないぞ。昔765にいた頃にパチったもんだ」
「ぱちった?」
「あー…借りて返してないんだ。正確には765の備品なんだろうが、まあ今のところお咎めはない」
「窃盗は罪です。自習するなら付き添いをしますが」
「ああ、罪深い俺」
 演技派染みた大江につまらなそうな笑みを浮かべ、貴音はペンを大江に返そうとして、ふとある事に気がついた。




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