声 (37)

 普通ペンと言うのはペン先が重くできている。その方が筆記の際に重心が定まるからだ。が、このペンは不思議な事に、
「大江様、つかぬ事を伺いますが」
「ああ」
「この筆記具は、あまり書きやすそうに思えませんが」
 重心が後ろにある。というよりは中に何か詰まっていてそのせいで後ろが重くなっているように感じる。
ストラップなどが付いているのならそこに解を求める事も出来るのだろうが、流石に重心を動かしてしまうほどの大型のストラップは大江の趣味ではないらしい。
ペンの尻についているのはクリップタイプのアタッチメントのみであり、軽く振ってみても中で強化鉄製の円柱が前後に動く様子はなかった。
「まあ、書きやすいか書きにくいかで聞かれたら書きにくいよ。油断すると文字よれるし」
 何の悪びれもなく言う大江の手帳の文字は確かにミミズがのたくったような非常に前衛的な形をしていた。
読めと言われても貴音には読めない。何かの暗号ともとれるその文字を大江は再び量産し出し、貴音はゆっくりと頭を振った。
「書きにくいのなら他の筆記具を使えばよろしいのではないでしょうか。確か961のロゴ入りのものが支給されていたと」
「…お前、あれを本気で使いたいか?」
 貴音と大江の言う『961のロゴ入りペン』と言うのは大手筆記具メーカー謹製の3色ペンの事であるが、その『ロゴ』というのが金の派手派手しい『株式会社961プロダクション』という文言であり、それだけならまだしも余計なことに『株』と『ン』の両脇には7色に輝く星のマークが入っているという悪意が形を成したようななりをしている。
貴音の記憶しているところあのペンを使っているのは黒井以外に何人かという具合だったが、なるほど筆記具なのか趣味の悪い調度品なのか分からないあの物体を使うのは確かに気が引けるというのは分からないでもない。
 が、それなら、
「では、市販のものを使えばよろしいでしょう。使いづらいものを使って無理に仕事をなさるよりは良いのでは?」
「まあ、そりゃそうなんだが。パチった手前言うのも何なんだがな、これには思い入れがあるからさ」

―――それ見るとな、思い出すんだよ昔のこと。

 ふと、貴音の脳裏に手紙のダンボールから転げ落ちた765の社員証の映像が映った。
大江の弁によれば、大江が961に在籍してなお765の社員証を捨てない理由は一重に自戒のためなのだという。
その時は一度納得もしたし「そういうものか」とも思ったが、筆記具としては失格のペンを使い続けるのも大江に言わせれば自戒になるのだろうか。

―――あんたは大江にとって体のいい人形だ。

 何かが貴音の頭の中で蠢きだした。
ばらばらのピースのようだった大江の言動一つ一つが安っちい厚紙の土台に寄り集まって行き、何か大きな一つの絵を描きだそうとしている。
「…? 貴音、どうした? 練習しないならちゃんと上着着ろよ、風邪ひくから」
 怪訝な様子の大江の声に一瞬だけ虚を突かれ、貴音はうろたえるように一度たたらを踏んだ。
おい、と腰を上げそうになる大江を片手で制し、
「なんでもありません。少し、疲れただけで」
「…そうか? あんまり無理すんなよ、予選とは言え次も一発勝負だからな、ここで無理して本番でトチるなんて冗談じゃねえぞ」
 会話の糸口をつかんだように思う。
「大江様」
「ん?」
「先のてれびの際ですが、あの時の私を大江様はどう思われましたか?」
「貴音が水着着たくないって言ったおかげで俺はディレクターに呼び出しをくらってな。号泣までされてどうしていいか分からなかった」
 語弊があるので補足をしておく。
正月の特番の話であるが、例の水着アイドル全員集合的な馬鹿丸出しの番組に出演する際に貴音は強硬に水着を拒否、仕方なしに大江は『これも水泳に転嫁できる服装である』と薄いワンピース用の上着にスパッツというコアな服を貴音に着せた。
これも一部のマニアには大ウケの格好だったらしいが、煩悩の数が決して108を下らないテレビ局のディレクター以下スタッフたちは他のアイドル達がビキニを着て歌い踊る最中のスパッツに大層憤慨したらしい。
『あの乳を! あの乳を!!』と泣きながら喚き散らすADが実に気持ち悪くなって打ち合わせから逃げてきた大江である。
「いえ、服装の事ではなく歌の事です。あの時の私の歌は、大江様から見ていかがでしたか?」
 意識してこの問いかけをした事を悟られないように無意識を装った問いに、大江はしかし貴音の顔をまじまじと見て、しかし別段何か気を使う風でもなくこう答えた。
「…悪い、あの時はバックの絡みがひどくて聞いてない」
 食らいつく、
「全くですか? 何も聞いていなかったと?」
「いや、途中まで聞いたよ。すぐにそのあとスタッフに拉致られたから全部は聞けなかったけど」
「では聞かれたところまででも結構です。何か大江様から見て、問題のあるところはありませんでしたか?」
 この問いに、大江はこう答えた。
「最初の方? いや、よかったんじゃねえの?」

―――歌い出しの子音のミス、1番のマックスの時の左手の動き、2番に入る直前の左足の踏み込みと2番入ってから4小節目か8小節目、それに2番のクライマックスの5小節か10小節と最後の音伸ばしの声の張り。あと何かあったかな。

 初めて会ったとき、己すら気づかなかったミスを男はことごとく言い当てて見せた。
自分すら気づいた「まずい部分」を、この男が気づいていないわけがないと思う。
今更ウソをつく間柄ではないと貴音は思っている。
アドバイスをもらうなら『専門性の高いトレーナー』よりも『信頼できる素人』の方が望ましいと思っている。
 そして大江は、素人ではないはずだった。
「本当ですか? 本当に、良かったとお思いですか?」
 探りを入れるはずだった声に、意図せず本気の色が混じってしまった。大江は一度ぽかんとした顔をした後にへらりと笑い、
「何だお前自信ないのか? 第一次IUの頂点に立とうって奴がたかが水着程度でうろたえるなよ」
 違う、そんな事を言っているんじゃない、
「ほらいつも言うじゃんか貴音、『王とは』とかいう奴。あの中にいざとなったら腹括るみたいなのないのかよ」
 ダンボールから転げ落ちた765の社員証、あのヘタレの言い分、そして「思い入れがある」というヒヨコ柄のボールペン、『天海春香』とそのプロデューサーを見る時の大江の目、
「―――大江様は、」
 そして、大江を信頼していた自分、

「大江様はどうして、765を捨てて961にいらっしゃったのですか?」

 声の震えた問いに大江は貴音をいぶかしんだ目で見て、いつかのような意地の悪い笑みを浮かべた。
「だから内緒だって。何だ、俺が何かお前に隠し事してたらダメか?」

―――人形だ。

「『アイドルマスター』に、なるためですか?」
 大江は笑みを浮かべたままこう尋ねた。
「…どこで聞いたそれ。黒井のおっさんか?」
「今は大江様が961にいらした真意を伺っています。私が誰から何を聞いていようと、大江様の答えに影響はないかと」
 まあな、と大江は軽く、本当に軽く適当な相槌を打った。貴音は押し黙る。次は大江が口を開く番だった。
「俺がお前をプロデュースしてIUのトップに…要するにこの国のトップに立たせる事が出来れば、俺の目標はそれだけ近くなる。お前にだって悪い話じゃないはずだ。俺たちの利害は一致してる」
 違うか、と眼で問いかけられ、貴音は頷きそうになる自分の意志の弱さを叱咤した。
 大江の目的は『アイドルマスター』になる事だ。よかろう。
そのために『四条貴音』をIUのトップに立たせるのだという。よかろう。異論はない。
目的の達成のために大江が選んだ手段と言うのが961でのプロデューサー活動だというのならそれも文句はない。
 問題だと思ったのは、どうして自分が揺らいでいるのかは、
「事実お前はビギナーにしてはトップクラスだ。歌もダンスも間違いなく第一級品だ。後は俺が仕上げてやれば、晴れてお前はトップアイドル、晴れて俺は『アイドルマスター』だ。文句なんかないだろ?」
 ずっと疑問だった事がある。
どうして一介のプロデューサーにすぎない大江が自分のトレーニングの世話からメンタルケアまでを一身に行っていたのか。
どうして専門のプロに任せず、アイドル活動に必要なあらゆるケアを大江が行ってきたのか。
『専門性の高いトレーナー』よりも『信頼できる素人』を選んだのはこの自分だ。では、大江の側にその選択はなかったのか。
『専門性の高いトレーナー』にそれぞれの専門分野を担当させるのではなく、『一介のプロデューサー』であるはずの大江が前者のお株を奪うような仕事をしていたのは、なぜか。
『俺が仕上げてやれば』と言う大江の言葉に、その答えがあった。
「…では、大江様は『アイドルマスター』になるために、私をプロデュースしていたと?」
「俺の立場から見れば、そうとも言える」
 ここまで、大江の顔には笑み以外の何物もなかった。それの何か悪いのかと言っているようにすら見えた。
あのヘタレは自分を指して大江の人形だと言った。そして大江が961でプロデューサーをしていたのは大江の目的のためだった。
目的地は乖離しない。自分の目標の先に大江の目標があるというだけの話だ。大江が『アイドルマスター』となったところで、四条貴音には何の問題もない。
 四条貴音にとって問題なのは、
 あのプロデューサーが言っていた『人形』の真意は、つまり、

 大江にとって、自分は、代替の効く『アイドル』だったという事ではないか?

「大江様がプロデュースするのは、『四条貴音』でなくてもよかった、と?」
 ここにきてようやく、大江の顔から笑みが消えた。
まるで無表情を絵にかいたような大江の顔に貴音は一瞬自分が南極かどこかにいるのかと錯覚する。膝から下の感覚が抜け落ちている。
「そんな事ねえさ。さっきも言ったろ、お前は歌もダンスも一級品、天下取るにゃあ十分なスペックだ。自覚しろよ、お前はアイドルで俺はプロデューサーだ。それ以上でもそれ以下でもねえ。まさかお前、」

―――任せろ、お姫さん。

「俺が、四条貴音に惚れ込んで、四条貴音に天下取らせたくて、『四条貴音』をプロデュースしてるとでも思ってるのか?」

 問題。大江は何を考えているのか。
 回答。大江は『アイドルマスター』になる事だけを考えている。

 実にあっさりとした、慈悲など欠片も見つからない、温情のおの字が入り込む余地もない回答が、貴音の中で形をなした。



 1月の夜は早く、ともすれば16時を回るころには夕日が陰っていたりする。
社長の見たところ夕日にはどこから湧いたのか分厚い雲がかかっており、真っ赤な空に吉とは言えない薄暗い影を落としている。
 765プロ本社は社長室が9階という都心にある分には胸を張って高さを自慢できない高さしかないが、しかし高木社長個人としては別段その辺に何の引け目も感じていない。
そもそも背が高いから偉いというのは大きな勘違いであり、所詮人間は人間であって古来地下に広がる洞窟に住んで壁に意味のわからない抽象画を描いていた何千年も前の偉人の子孫が自分たちのはずだ。
という事は人間は地上にこそ住むべきであり、自分の住処がビルの何階にあるというのは即ち遠い祖先たちが長い年月を経て獲得した地上での自由を放棄しているようにしか思えない。
遠い祖先たちのそのまた遠い祖先は猿だという。猿は他の獰猛なる猛禽たちから身を守るために背の高い木に登って生活の基礎をなしたらしいが、という事は今自分たちは遠い祖先への道を辿っていく過程にいるのだろうか。これこそが先祖帰りと言うのだろうか。愉快である。
 その愉快な想像は、遠慮という配慮の見えないノックによって中断された。
入りたまえと言う前に入ってきたのは例によって例の如く音無小鳥であり、その手には女性の手にあるには随分と似つかわしくないノイズキャンセラーと妙齢の女性が持つにはいささか時代錯誤ともとれるテープレコーダーが自己主張をしている。
「ふむ。見たところ音響室の機材が壊れたというところかな?」
「…私一応社長の秘書的なポジションなので、その程度なら社長を通さずに経理で処理しちゃいます」
 一応社長の秘書的なポジション、と言う割に小鳥の足には敬意や畏敬の念は全くこもっていない。
あー重かったとこれ見よがしに来客用ソファー備え付けの机にノイズキャンセラーをどっかり置くと、小鳥本人はテープレコーダーを持ったままソファーにどっかりと腰を据えた。
「動きがあったかね」
「大江さんが仕上げを始めました。1月ですよ? 間に合いますかね」
「なに、仕込み完了までの猶予はあと1か月もある。大江君なら何とかしてくれるだろう」
 社長は小鳥の対面に座って懐に手を突っ込み、すぐにしまったという顔をしてそわそわし出した。煙草が切れたのだ。
そう言えば30分ほど前に吸ったのが箱に残った最後の1本で、視線を飛ばした先にある無骨で質素な事務机の上には中身を無くしたラッキーストライクが夕日を浴びて鈍く光っていた。
 小鳥が溜息を付いた。
「その大江さんの話で、遠藤君から報告あったじゃないですか」
「ああ、だが彼もそこまで馬鹿ではなかろう。すまんね」
 小鳥がポケットから出した封の切れていないラッキーストライクを受け取ると、社長はお預けを解除された犬のようにいそいそとプラスチックのフィルターを外す。
「『ここまで来て計画をやめるかもしれない』とまで言ってましたよ」
「すでにレールは敷いた。誰もかれもレールの上を走っている。電車が大きければ大きいほど止めるのに必要な労力はけた違いだ。そのあたりの計算は彼の最も得意とするところではなかったかね」
「連結器外すのも得意そうですけどね、あの人」
 違いない、と失笑する社長の前で、小鳥はノイズキャンセラーとテープレコーダーの接続を完了する。
「大江さんの持ってる盗聴器からの音声です。キャンセラーかけてようやくってところですけど、聞きます?」
「初めから聞かせるつもりで持ってきたのではないのかね」
「『会社が違ってもアイドルにひどい事を言うプロデューサーの音声なんか死んでも聞きたくない』って言われたら持って帰るつもりでした」
「ふむ。聞きたいか聞きたくないかで言われたら聞きたくなどないが、私にも責任のある事だからね。再生してもらおうじゃないか」
 のたまう社長の顔を見て、小鳥は一つ小さな溜息をつく。
「―――あーあ、私も嘘つきの仲間入りかぁ」
 何を今更という社長の非難の視線を気にすることなく、小鳥は再生ボタンを押そうとして、呟きに似た社長の声を聞いた。
「明後日は、雪でも降るかねぇ」



―――俺が、四条貴音に惚れ込んで、四条貴音に天下取らせたくて、『四条貴音』をプロデュースしてるとでも思ってるのか?



 地上23階地下4階、その最上階たる23階で、黒井はスピーカーに向かって全く惜しみのない拍手を送った。
満面の笑みである。まさしく追い求めてきたものが結実したような、長年の悲願が達成した瞬間に立ち会ったかのような笑みである。
そして、その輝かしい場にはもちろん黒井の姿だけという事はありえなかった。
「どうだ遠藤、感動的じゃないか。俺の経営方針が765にも伝わったようじゃないか」
「……そりゃ、ようござんす」
「何だ、あんまり嬉しそうじゃないな。だめだな、喜びは分かち会うものだ。これだけは万国共通、どこの世界を旅しても人と仲良くするにはこれが一番の方法だというのに」
 よほど嬉しいのだろう、黒井の口は先ほどから止まる事がない。
対照的に遠藤の口はと言うと社長室に呼ばれてから10本の指で数えられる程度しか開けられておらず、しかしその眼は憎々しげに成金丸出しの執務デスクの上に向けられていた。
机の後ろには何本ものコードが乱雑に伸びており、コードはバーカウンターの如き趣味を疑う内装の裏に隠された大型アンプに接続されていて、先の大江の言葉を幾度となく繰り返していた。
 執務デスクの上にはヒヨコのプリントが施されたボールペンがあり、正確性を期すならボールペンは見事に解体されていて、ケーブルはその部品と思しき黒い円筒形の物体に接続されている。
時折赤い点滅をする機器にはドッキング用のジャマーキャンセラーと出すところに出したら一発で電波法違反と分かる周波数用発信機が埋め込まれている。
 遠藤は別段拘束されていない。拘束されるどころか目の前のテーブルにはライム付きのジントニックが置かれている。リラックスを求められているのだろうが、遠藤的には口の中で勝手に分泌される唾液で喉を潤すには十分すぎた。
「…どこで、ですか」
「何が?」
「どこで、俺が、765の人間だって知ったんですか?」
「申し開きはしないのか? 俺は765なんて知らないって一言でも言えば、多少なりとも話は聞けただろうに」
「…あんたがどこまで知ってるか知らねえが、俺の親元がバレてんだから時間稼いだって無駄でしょ。馬鹿にすんのもいい加減にして下さいよ」
「いや、馬鹿にしたつもりはないさ。この俺をしてもお前が元765だなんてこと分からなかったし。書類の点で過去洗浄は完璧だったなぁ。あれどうやったの?」
「…」
 遠藤は黙したが、黒井は別段その辺はどうでもよかったらしい。
「最初に怪しいなと思ったのはな、高木がこの話を持ちかけた直後だよ。どう考えても961が得しすぎる。765のメリットが余りにも少ない。何か裏があるんじゃねえか―――そう思ってな、向こう5年分くらいにうちの傘下に入社した奴の履歴書を全部洗った。そん時は何も引っかからなかったし、高木もようやく目を覚ましたか程度にしか思ってなかった」
 遠藤にジントニックが給されているように、黒井の前にもまたウィスキーと思しき琥珀色のグラスがあった。黒井はそれを一舐めし、実に旨そうに眼を細めた。
「2度目は8月の資料室事件だ。あの時俺は間違いなく内部の誰かが資料室に忍び込んだんだと思った。考えてみりゃ妙な話だ、11階以上の高層階に入れる奴なんて961の中でも何百人といるわけじゃない。精々が100人ちょっとだし、そもそもIDカード式の資料室の入室記録なんて記録当たれば一発で分かる」
 遠藤の顔に、脂汗が筋を作った。
「サーバーにはな、大江の入室記録が残ってた」
 遠藤の顔を見ながら、黒井は楽しそうに笑った。
「俺の考えはこうだ。違ってたら突っ込んでくれよ。765はお前たちのような鼠を何匹か961に忍び込ませてこちらの動向を探ってた。何のためかは知らんが。あの日高木に言われたよ、『計画はフェーズ3まで進んだ、もう後戻りはできない』ってな。それで、お前たちは計画が意図した絵通りに進んでいるか確認をしたくなった。機密資料は社長室か資料室にしか置いてない。社長室は高木が探ればいいとして、では資料室はどうやって探すのか―――ってな」
 遠藤は話さない。黒井はなおも話し続ける。
「高層階に入れるIDはお前たち一般には与えてない。しかし、一般レベルでは入れないところに資料室はある。じゃあどうするか。―――簡単だ、誰かにIDを借りればいい。その誰かが大江だった。違うか?」
 沈黙を肯定と受け取ったのか、黒井はもう一度ウィスキーを口に含み、にやりと笑ってこう続けた。
「ところで、俺にゃ一つだけ分からん事がある。『アイドルマスター計画』については俺と高木主体でやってる。俺は高木の言う通りに大江を961に迎え入れ、大江が『アイドルマスター』になるために四条貴音を大江に付けた。あの時点まで、俺はお前らの計画に乗って話を進めてるし、向こうには逐一連絡を取ってはいた。じゃあ、」
 そこで、黒井はずいと身を乗り出した。
「じゃあ、何でお前らは、それ以上の情報を求めたんだろうな?」
 ジントニックの氷が、からりと音を立てた。
「簡単だ。お前らは、961が『アイドルマスター計画』通りに動いてくれないと困るからだ。なぜか? これも簡単だ。お前らは『アイドルマスター計画』に寄り添う形で何か違う話を進めてるからだ。俺の考えるところ、『アイドルマスター計画』が計画通りに行ってくれないとお前らの考える『違う話』も潰れるんじゃないか?」
 どうだ間違ってるかと眼で問われ、遠藤は首を縦にも横にも見える振り方をして、堪らないとばかりにジンをあおった。
喉が焼ける感覚は酒のせいか。
「でだ、お前をここに呼んだのは何もスパイ行為を糾弾するためじゃない。ボールペンバラして通信機をアンプにつなげるためでもない。765が961を乗せて始めた『アイドルマスター計画』の後ろで動いてる話が何なのか知りたくてね。知っているならご教授願おうかと」
「素直に、俺が、言うと?」
 つっかえながら言ったセリフに、黒井はあっさりと首を横に振る。
「思ってない。聞けたとしてもそれが本当かどうか俺には判断できない。が、今はっきりしてるのはお前が765の側だって話でね、僻地に飛ばす前に一応話を聞いとこうかなと思ってさ」
「悪いスけど、墓の下に持ってく話なんで」
「そうか。まあ仕方ない、無理に口を割らせようなんてスマートじゃない事は俺はしないんだ、高木と違ってな。じゃあ、都会で話す最後の話なんだし、何か最後に聞いておきたい事はあるか?」
「そうスか。じゃあお言葉に甘えて一つだけ」
 遠藤はそう言い、黒井の勝ち誇った笑みを斜め下から覗き込むような視線を送った。
何でもいいから聞いてみろ、と言わんばかりの黒井の顔に、遠藤は万に一つに可能性の話をする。
「8月の資料室で、あんたは俺たちを怪しんだんですよね」
「ああ」
「で、大江にも職質掛けたんスか?」
 即ち、8月の資料室入室履歴に大江の名前が載っていたのなら真っ先に疑われるべきは大江である。
という事は真っ先に職質をかけられるのは大江であるはずであり、休憩室で大江に煙草を渡したのはついこの間の話だが、今日も大江は出勤していたようだった。
 そこで、黒井は遠藤の予想に反して首を振った。
「別にあいつが何かしてても俺は一向に構わん。新興のうちにとって大江の技量はまさに宝の山だ。EやらFなら別に要らんが、Cランク以上の営業ノウハウはうちも持ってないからな。だから、大江が後ろで何企んでようが俺は別に構わない。構わないが、」

―――…悪ぃな、遠藤。

「じゃあ、俺が765の側だってアンタに話したのは、」
 黒井はそこで、先ほど大江の声を聞いたときよりももっと嬉しそうな、心の底からの笑みを浮かべた。
「どうだ? 裏切られた気分は」




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