声 (38)

―――それは、貴方様が裏切られたと感じた、大江様の行為と、何が違うのですか?

 違う。俺はあいつとは違う。絶対に違う。何を賭けたっていい、天地神明に誓ったっていい。
俺はあいつなんかとは違う。俺は誰も裏切っちゃいない。裏切りようがない。俺は、誰も信じちゃいないんだから。

―――どう違うのですかと申し上げました。

 うるさい。何が違うのか? 俺は誰も信じちゃいなかった。
あいつは散々人に偉そうに講釈垂れて俺たちを捨てた。俺たちを裏切った。
だから報いを受けさせなくちゃならない。あいつが『アイドルマスター』になるために961に行ったのなら、俺はあいつを『アイドルマスター』になんかさせない。
どんな手段を使ってでも、どんな事をしてでも、俺はあいつを『アイドルマスター』になんかさせない。
俺は、あいつを許さないから、春香を使って四条貴音を打ち負かす。
春香はそのための、駒なのだから。
 何だってしてやる。俺は何も信じない。高木も、音無も、ピヨネットとかいう得体のしれない連中も、俺は誰も信じない。
だから、俺は春香を使ってあいつを倒す。あいつを許さない。それがプロデューサーとしてあるまじき考えだってことなんか百も二百も承知してる。
それに、大江を下すという事は間違いなくIUの頂点に立つという事だ。Aランク中のAランクになるという事だ。
それは春香がトップに立つという事だ。それは『天海春香』の目標と何も矛盾しない。『天海春香』の目的にも外れちゃいない。

―――裏切ることと、信じない事は、何が違うのですか?

 お前に何が分かる。うるさい。黙れ。もう喋るな。口を開くな。
俺は大江とは違う、俺は大江なんかとは違う、あんな裏切り者と一緒にするな、俺は、俺は、春香は、俺は、春香は、あれ、

―――アイドルになりたいって、ずっと思ってました。みんなに元気になって貰えたらって。…でも、Aランクに上がったら――――――――――――。

 あの時、春香は、何て言ってたんだっけ。



 週初に聞いたピヨネット天気予報では向こう1週間の天候は大荒れの模様であり、ところにより竜巻が出るという話だった。
ピヨネットの大荒れ天気予報が現実の天気予報とリンクする事は滅多にないが、やはり週初に見たテレビの週間天気予報は向こう一週間の天候が大荒れであると言っていた、ような気がする。
プロデューサーの記憶している最新版の天気予報が『週初に見たテレビの週間天気予報』で止まっているのは単純にプロデューサーが自宅に帰っていないからで、小鳥からこれ以上の残業は体に触るからもう帰れと言われてからは残業申請もせずに仕事をしていたプロデューサーの顔にはガン末期の患者のごとき精気のない濁った瞳が穴に二つ格納されている。
最近ではプロデューサー課の誰もがプロデューサーの正面に立つ事を避けているし、プロデューサーも自分が結構な顔をしているのだという事は先ほどトイレで髭を剃っている最中に気がついた。もう時間がない。
 1月の第4週である。
いかにピヨネットのネットワークが強大だといっても所詮は社外の人間の情報網であり、社外かつ暇人の集まりであるピヨネットがどれほど規模の大きな営業案件を持ってきたところで結局それを処理するのは社内の人間であり、要は高木の子飼いのはずだ。
その意味で大手たる765に在籍している事のメリットはよく見積もって2月第2週に控えている第5次予選―――第1回アイドル・アルティメット最終予選までであり、それ以降独力での営業活動を余儀なくされる『天海春香』のプロデューサーにしてみれば今のうちに稼げるだけ稼がなければならないというのは今に始まった事ではないプロデューサーの考えである。
春香もまた『天海春香』としてこの1週間ぶっ通しで営業活動をしていたし、多少なりとも稼げたかと思う反面まだ全く足りないのだろうとも思うプロデューサーである。
 足りないといえば、あのクソ親父には配慮のはの字もないのだろう。
スポンサーがどうとか言って木曜日に渡された営業資料には大手テレビ会社の名前がはっきりと印字されており、普段滅多に『天海春香』の営業方針に口を出してこない高木は珍しく『この収録には必ず参加するように』と言ってきた。
確かに書かれている社名は大手中の大手だし、見込みとは言え5次予選前に獲得できるファン数の大きい番組だし、高木から変な事を言われなくても出られるなら何をおいても『天海春香』を参加させる腹積もりだったプロデューサーにしてみれば事の是非はおいて渡りに船のような営業ではあったが、予定参加者の中にある名前を見つけた瞬間プロデューサーの腹の中にあった気力は一気に萎えてしまった。
『予定参加者』の筆頭には、『株式会社961プロダクション 四条貴音』の文字がはっきりと書いてあった。
 『四条貴音』が出てくるという事はもれなくあの裏切り者も付いてくるという事だし、そうでなくとも1週間とちょっと前に本社裏手の公園で意味の分からない事を言われたプロデューサーとしては大江だけでなくあの電波の国のお姫様にも会いたくないというのが本音だ。
『天海春香』は共演することになってしまうから春香と電波が顔合わせをするのは仕方ないにしても、ならばせめてそれ以外のところでは奴らの顔を見なくて済むように隅の方でおとなしくしていよう―――そう思ったプロデューサーは『予定参加者』の次のプリントで萎えた気力を一気にへこませることになった。
 『控室案内』には会場での混乱を避けるために参加者の控室をマップで示してあり、『765プロデュース株式会社 天海春香様』と書かれた『天海春香』の控室は3階12号室で、『株式会社961プロダクション 四条貴音様』と書かれた『四条貴音』の控室もまた3階12号室である。
こんな部屋割をしておいて何が大手か―――そんな事を思っていたら、詫び状代わりかマップの下には小さく『本社改装中につき大変申し訳ありませんが宜しくご理解頂きますよう』と書いてあった。爆破してやろうかと思う。



 ボイストレーニングルームは16階建ての765プロ本社の13階にあり、12階から14階までは所属アイドル専用のトレーニングルームとなっている。
では12階や14階には何が納められているのかと言えば14階にはビジュアルトレーニングルームであり、12階にはダンスの専用トレーニングルームがあったりする。
ダンスの専用トレーニングと言えばどこのスタジオでも大抵はバレエのレッスンルームのようなフローリングの床にでかい姿見のような鏡がある壁があり、その姿見のちょうど後ろには壁かけの時計があって、春香は鏡越しに今の時間が15時15分であると知った。
 頭を振る。そんなわけがない。
今日の昼の15時と言えばラジオの公開録音に参加していたし、あの時へらへらしながらふらふらした回答をDJに返していた記憶はまだ鮮明だからあれが昨日の出来事だったとは思えない。
よくよく考えてみれば今自分は鏡越しに時計を見ているのであり、時計の表記を左右正反対にしてみると今の本当の時間は21時45分だった。
今日は20時くらいに締めのミーティングをしたはずだから、あれから2時間弱は体を動かしていた事になる。
 額から流れる汗を拭こうとして、春香は自分の腕を重く感じてしまう事に気がついた。
 4次予選からこちら、まさしく馬車馬のような勢いで働いた。自分が学生なのはウソではないのかとすら思う。
一日2本の収録はザラであり、1月第2週の日曜などは4本の収録があったために営業先直帰を選択したが、一日3本までの収録の日はプロデューサーとの締めのミーティングが終わった後は必ず12階から14階のどこかのトレーニングルームにいたような気がする。
締めのミーティングで「ああ」とか「うん」とかしか言わないプロデューサーの顔を見るだに自分の無力感が嫌でひたすら踊って歌ってポーズを決めてとやってきたが、帰りの電車の中での脱力感はいかんともしがたいものがあった。
が、帰りに9階のプロデュース課を覗くといつ見ても出口の一番近くの座席にはスーツの背中が座っていたし、今日もまだプロデューサーは机の上でああでもないこうでもないと営業の作戦を練っているのであろうことを思えば自分が弱音を吐くわけにはいかないと思う。今一番つらいのはあの人のはずなのだから。
 あれだけやってもダメだった、とは思わない事にしている。
プロデューサーの様子が大江のせいで変わってしまったのは去年の10月、プロデューサーにバカと叫んで大江から致命的な一言を聞いたのはその一カ月後の事で、あれからプロデューサーはもう四半期近くはどす黒い顔をしている事になる。
あれやこれやと工作してどうにかプロデューサーに元気を取り戻してほしいと頑張ったつもりではあるし、IUの4次予選ではアイドルとして失格のような歌を歌ったりもした。
結局プロデューサーの様子は今に至るまで改善の兆しが見えないが、それは自分の努力不足なのだと思う事にしている。
 あれだけやってもダメだったなどと思ってしまったが最後、自分はもう立ち上がれないような気がする。
 そう思ってしまったら、『プロデューサーは自分の事を信じてはくれない』などと言う夢想が、現実になってしまう気さえする。

―――春香がそれを探すの、手伝えるとは思うんだ。僕はまだ半人前だけど、一緒に悩んだりする事くらいはできると思う。

 これも、努力不足なのだろうか。
 FランクのときにAランクに上がって何がしたいかと問われ、もうとっくにAに手が掛かるところにいるというのに自分は未だにAで何をしたいかが見えてこない。
あの時から考えればよくもまあ自分のごとき普通の文科系女子高生がBランクなどと言うトップアイドル圏内にいるものだとは思うが、春香の目から見ても他のBランクやAランク達は毎日が輝いているように見える。
連中が毎日何を食ってそうなっているかは謎だが、恐らく連中にはAランクになってやりたい事の一つや二つはきっとあるのだろう。
夢なき者や目標なき者には決してやさしくないのが芸能界だというのはこの数カ月で骨身に染みて分かった事だが、ではなぜ自分のごとき『やりたい事が分からない』者が未だに雲霞を食って生きていられるのかは春香自身不思議で仕方がない。
 自分は、何がしたいんだろう。
 結局はそこだ。とどのつまりはそこだ。プロデューサーが変わってしまってから4カ月弱、最近の春香はプロデューサーの事を考えるとそんな事に意識が飛躍する。
この4カ月弱と言うもの、春香はひたすら『プロデューサーにもとに戻ってほしい』とまでは言わずともせめて『プロデューサーに元気になってほしい』と願ってアイドル活動をしてきたし、プロデューサーに殺人的な営業スケジュールを組まれても文句も言わずに取りかかってきた。
『あいつを信じてやってほしい』と大江に言われたのは11月の終わりの話であり、そんな事はわざわざプロデューサー曰く『裏切り者』に言われるまでもない事で、春香自身は今までひたすらにプロデューサーが元気になる事を信じてやっていたのだと思っている。
が、この4カ月弱の取り組みはひたすらに糠に釘を打ち込むような日々だったし、春香の落胆を尻目に右上がりで上がっていくファンクラブの人数は溜息を腹の底で押し殺すには余りにも現実的ではなかった。
 自分は一体、何がしたいんだろう。
 『天海春香』の目的はAランクに上がる事だ。
独り歩きした『天海春香』の目標はAランクに上がる事だ。
輝かしい銀幕の中で踊り、ゴールデンタイムでは毎日のように歌が流れ、ドラマやバラエティーには引っ張りだこで、いつか田舎の文科系女子高生のサクセスストーリーとかで日曜の昼にいつみても波瀾万丈な芸能人の半生を振り返って感動を呼ぶのが『天海春香』の仕事だ。
『みんなを元気にしたい』のが『天海春香』の目的なのだ。

 では、天海春香の目的は。

『みんなを元気にしたい』のは『天海春香』の目的であって、天海春香の目的はすでにそこから離れてしまっているのかもしれないとは思う。
少なくともこの4カ月弱の天海春香は『みんな』ではなく『プロデューサー』を元気にしたいがためにエネルギーを消費していたような気がする。
 次は私の番だと思ったのに。
 結局自分は何もできないのだろうか。
プロデューサーがいつか悟りのような境地になって『そんな事もあったねえあはは』とか言えるようになるまで時間を費やすしかないのだろうか。
 自分はそれほどまでに無力なのだろうか。
そんな自分が、ステージの上で輝くように歌う他のトップランカーたちと肩を並べる資格は本当にあるのだろうか。
『四条貴音』と戦う資格が、本当にあるのだろうか。
 Aランクに上がって、自分は一体何がしたいんだろうか。

 頭を振る。意識を強制的に切り替える。
今やらなければならない事はさしあたりダンスの強化であり、明日に予定されている大手番組では生歌を披露することになっている。
一緒に誰が出てくるかはまだ聞いていないが、誰が出てきたところで自分のやる事は一つだ。
まずは明日歌う事になっている『まっすぐ』の歌詞を再度読み直し、次にCDを掛けながらダンスの動きを頭の中で思い描く。
注意点を描きながら何度か頭の中でダンスをし、自分の体だけではなくて回りの情景まで描けるようになれば後は体を動かすだけ。
注意するポイントは4つ、目の動きと指先の張り、足のポイント間の運びと声が揺れないようにすることで、前の3つはともかくとしても最後の一つはもう少し腹筋を鍛えなければならないかもしれない。
もう明日だし間に合わないかもしれないが、今からでもプロテインを

 ダンストレーニングルームの扉がノックされ、今まさに文科系女子高生としてあるまじき考えをしていた春香は慌てて壁かけの時計を見る。
もう22時近い時計はかっちこっちとアナログな秒針を動かしており、春香はこの時間まで残って仕事をしている人に心当たりは一人しかいなかった。
「プロデューサー、さん?」
 死人が扉を開けた。
何日徹夜をしたらこうなるのかと思しき窪んだ目でプロデューサーはサウンドコンソールにへばりついたような春香を一瞥し、「まだ帰ってなかったのか」と呟きに似た一言を洩らす。
「ぷ、プロデューサーさんこそまだ帰ってなかったんですか?」
「まだ仕事が残ってる」
 かすれた声でぶっきらぼうにプロデューサーはそう言い、春香に向けて茶封筒を差し出した。
受け取ろうとしてサウンドコンソールから上体を上げ、プロデューサーの近くに歩み寄ろうとしてがっくりと力が抜けたことに気がついた。疲労のせいか、膝から下に力が入らない。
壁に手を這わせてふらふらと近寄ってくる春香にプロデューサーは温度の低い視線を向けると、プロデューサーは時間が惜しいとばかりに封筒から何枚かのプリントを引っ張り出した。
「それ、何です?」
「…次の営業の資料。参加者と控室割」
 言葉少なにプロデューサーはそう言い、春香に見えるようにプリントを手渡した。
 眺めて驚愕する。
「…四条さんと、同じ番組?」
 珍しい。四条貴音と同じ番組に出るのはせいぜいがIU予選くらいだった春香にとって、勝負事でない収録で貴音と共演するのはひょっとしたら初めてかもしれない。
おまけに控室まで同じ部屋だ―――そこまで見て、春香はようやくプロデューサーの窪んだ瞳が死人に見えた理由を悟った。
『四条貴音』と同じ控室という事はどうやったところであの寸足らずと顔を合わせなければならないという事だ。
この微妙な時期に一体誰がこんな仕事を振ってきやがったのか、という疑問は顔に出ていたらしいが、プロデューサーは何を勘違いしたのか壁かけの時計を見上げてぼんやりとこう呟いた。
「…四条貴音が、春香に会いたがってた」



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