声 (39)

 誰もが夢を持っているはずなのだ。
『みんなを元気にしたい』という『天海春香』の夢想を夏のあの日にただの一言でぶった切ったあの女王様にも、Aランクになって何かしたい事があるはずなのだ。
「四条さんが?」
 鸚鵡返しのような春香の問いにプロデューサーは黙し、それ以降言葉のないダンストレーニング室にアナログ時計の秒針音以外の音が混じり出す。雨の音が聞こえる。そう言えば今週はずっと雨の日続きだと今思い出した。
「どうしてですか?」
「知らない。春香はラジオの周波数から流れてる曲が何か分かるのか?」
 何の話をされているか分からない。うっかり溜息が洩れそうになる口元に汗が入り、春香はおもむろに袖口で口元をぬぐう。
 が、こちらとしても四条貴音には会ってみたいと思う。あの銀髪の化け物が一体何を考えて雲霞を食ってあの体を維持しているのかは興味がある。
歌を聞いた感じでは四条貴音は完全に一人ぼっちの世界で何かをなさんとしているようだったが、あの底の知れない強靭さは一体どこから湧いてくるのだろうか。
「いつの話です?」
 プロデューサーは顔も上げず、
「…第2週の日曜。春香が直帰した日だ」
 この間の4本収録の日だ。
あの日は撮影が長引きに長引いて疲れ果てた上に営業先が自宅の近くだったからプロデューサーに勧められるまま直帰を選択したのだが、もし意地でもプロデューサーについて言って締めのミーティングをしていたらプライベートな四条貴音に会えたのだろうか。
いや―――春香はそこで頭を振る、あんなふらふらのよれよれな状態で会われても向こうも迷惑だろう。
「…何だったんでしょうね、要件」
「興味もない」
 会話が続かない。
春香は今度こそ溜息をつき、四条貴音が世間一般の思惑はさておいて本人は頑なにそうと信じているどこにでもいる普通の文科系女子高生に会いに来た理由に想いを馳せてすぐやめた。
理由など知れ切っている。他の可能性などないに等しい。
 4次予選で自分がやった、ど素人丸出しで感情剥き出しなあの歌だ。幸か不幸か知らないがIU3次予選からこちら四条貴音には随分と買われた気がするが、それは向こうが全く名誉なことに『天海春香』は『四条貴音』が討ち果たすべき敵だという物騒な認識をしてくれたせいであり、という事は下手をしたら失格かもしれなかったあんな歌い方をした『天海春香』を責めに来たのかもしれない。
それはそうだ、何を考えているのかは考えもつかないが向こうはIUに全てを賭けてしまったかのような化け物だし、化け物も人間である以上は自分のごとき不純な動機の歌を歌ったパンピーなど向こうにとっては目障りでしかないのだろう。
さては文句の一つでも言われるのかと思った瞬間、先ほどの疑問が更なる疑惑の色を帯びた。
 問題。四条貴音は、何を目指しているのか。
「…私が、何かしたからですかね?」
 声色の10%程度を自己に向け、残りの90%にプロデューサーに向けての質問の色を混ぜると、果たしてプロデューサーは胡乱な眼で春香を眺めてこう言った。
「何かしたのか」
 心が一つ波打った。
「…はい。とっても、とーっても大事な事を」
 そうか、とプロデューサーは言い、再び書類に顔を落とす。
努力不足だとは思わない事にしているし努力は欠かさずしてきたし、IUの大舞台ではたった一人に向かって歌を歌ったというのに、その本人はそんな事を欠片も気にしていないらしい。
下手をしたら失格になっていたのかもしれないのに、下手をしたら今後IUの予選に出られなかったかも知れないのに、下手をしたら今後の営業活動にも響くかもしれないのに、下手をしたら『天海春香』の活動もそこで終わってしまうかも知れないのに。
下手をしたら、もう、一緒にいられないかもしれないのに―――

―――あれ、今、

「…春香」
 思考が吹っ飛んだ。今何かとても大切な事を考えていた気がする。
プロデューサーの声に強制的に意識を引き戻され、春香は蛙が潰れたような返事し、次の瞬間目を疑った。
 プロデューサーが、春香に向けてタオルとジャージの上着を差し出していた。
「練習しないなら汗拭いて着てろ。風邪引く」
 ひょっとしたら、努力は少しでも実ったのではないか。



 たかがタオルと上着を渡した程度で、単純な駒は非常に喜んだようだった。
表情を表に出さないように書類に目を向け、プロデューサーは腹の中で駒をあざ笑う。
簡単なもんだ、多少大人びてはいるといっても所詮は16のジャリなのだろう。
今更駒を乗せることに何の罪悪感があるわけでもない、精々あの男率いる『四条貴音』を潰すまでは有効に活用することにする。
 時計を見ればもうすぐ夜の22時で、確か駒の家はここから片道2時間で、という事は今から家に帰しても駒が家に着くのは日付が変わる前後になる。
高木も敵とはいえ今のところは従順な振りをしておかねばならないし、という事は駒にはさっさと帰ってもらって明日に備えてもらわなければならない。
重要な駒ではあるが、そこまでの面倒は見切れない。
「春香」
 素直に汗を拭きながらこちらを見ている駒に、努めて静かに声をかける。
駒はすぐさま顔からタオルを離し、座敷犬のような瞳でこちらを見つめている。
今なら何だってしてやるとでも言いたげなその瞳がうざったい事この上ない。
「頑張るのもいいが、もうすぐ10時だ。早く帰って明日に備えてくれ」
 瞳を小さく傾げさせ、駒は生意気な事を言う。
「あ、でも、ちょっとだけ練習したいんです。もうちょっと声が揺れないようにしないと」
「春香、」
 言うが早いか駒は飛ぶようにサウンドコンソールに走り寄り、ここに来た時がウソのような素早い手捌きでディスクトレイを押しあけてトレーニング用のディスクを引っ張り出す。
すぐさま明日歌う予定の『まっすぐ』のサントラ盤CDをトレイに飲み込ませ、こちらの制止も全く聞かずに再生ボタンを押す駒の動きにはまるで淀みというものがない。
言う事を聞かない駒だ。
「…休む時は休むのも仕事の内だ。切りよくなったら切り上げろ」

―――あのね、休む時は休むのも大事な仕事なんだよ。何も今日が本番じゃないんだし、今日無理して明日喉が潰れたらどうするのさ。

「…えへへ」
「? 何がおかしい?」
 駒の笑いに若干の不快を感じながら尋ねると、駒は今までの疲労を感じさせない笑顔を向けてこちらに向き直る。
何がそんなに楽しいのだろうか。
「思い出して。そう言えば1次予選の前にもおんなじこと言われたなぁって」
「…そうだったか?」
「あ、ひどい。覚えてないんですか?」
 いちいち覚えているはずがないが、はっきりと覚えていないと言ったら駒はすねるだろうか。
面倒な事この上ないが、プロデューサーは幾通りかの応対の脳内シミュレーションの上でこう答える。
「すまん。覚えてない」

―――…私、あの時のコーヒーの味、今でも覚えてますよ。

「いいですよ別に。私が覚えてますから」
 駒の表情は安堵に満ちている。
まるで今までの出来事が全て悪い夢だったような顔をしている。
そんなはずはないのに。大江に裏切られたあの日は、決して夢ではないのに。
「名誉なことだ」
「それだけじゃないです。プロデューサーさんが教えてくれたことも、私に言ってくれたことも、私は全部覚えてるんですよ?」
 サントラCDはとっくに1番のイントロを流し終わり、BGMと化した『まっすぐ』の1番が歌い手のないトレーニングルームに垂れ流されている。
駒は歌わない。夢と希望に満ちあふれていたあの日々とは違う穏やかな光を湛えた瞳を、あの日々とはまったく違ってしまったプロデューサーに向けている。
 いや、自分は前に、駒のこの眼を見た事がある。どこで見たんだっけ。
「辛いこともたくさんあったけど、全部プロデューサーさんが励ましてくれたから頑張ってこれました。ほんとですよ?」

――――――私は――――。プロデューサーさんの事。

 いつだったかはもう、思い出せない。
「俺の仕事の内だ。春香に何か恩を着せようとしてやったわけじゃない。気にしないでいい」
「絶対忘れません。こういうのは言われた方の感じ方ですから。プロデューサーさんが忘れても、私は絶対覚えてます」
 こういう時の駒は非常に頑固だ。そう言えば駒は初めて会ったときからずっとこうだった。
口には出さないし顔では恭順を示すものの、自分でこうと決めた事はニコニコしながらやり通すのだ。
あの日だってそうだった。6月の頭のトレーニングルームで、昼飯すら食わずにボイストレーニングに打ち込んでいた。
 あれからもう7カ月も経ったと思ったし、あれからまだ7カ月しか経っていないとも思う。
いい気なものだ、駒は駒であって駒以上でも駒以下でもなく、ただ駒は駒として己の先兵として向こうの先兵である『四条貴音』をうち果たすだけが目的のはずなのに、この駒はそんなことすらも分からずに未だに『天海春香』でいようとしている。
「そうか」
「そうです。だから、私は今まで頑張ってこれたんです。IUの予選で泣きそうになってた時も、四条さんに初めて会った時も、全部そうですよ」
 駒が何を言おうとしているのか分からない。
脳味噌の5%程度を使って駒の意味不明な言動に適当な相槌を打ちながら、残りの95%を使用して駒の意図の理解と解釈に努める。
使い捨てならそんな事をする必要もないのだが、厄介なことにIUは5次予選と本戦が残っている。
本戦まで何とか駒を御していかなければ大江に勝てないのだ。
「…ああ。でもまだ終わりじゃない。来月の中旬には最後の予選が待ってるし、それを抜けたらいよいよAランクでいよいよIU本戦だ。まだ思い出を懐かしがってる余裕はないぞ」
 Aランクという言葉に駒が反応した。
一瞬だけ駒の瞳に郷愁の色が宿り、すぐに元の穏やかな光に戻る。思考の95%が一瞬気を取られ、駒の次の言葉に対する反応が遅れる。
「…プロデューサーさん、覚えてます? まだ駆け出しだったころのトレーニングルームで、私が言った言葉」
「…」
 だから、いちいち覚えてないって言っているだろう。駒はこちらの回答を待たない、
「Aランクに上がって何をしたいかって聞かれて、私はあの時全然分かりませんでした。Aランクになるなんてあの時は夢のまた夢で、今でもそうですけど、ただ皆に元気になってほしいって思ってるだけの『天海春香』はAランクでどんな事をするのかも分かってなくて」

―――プロデューサーが半人前のアイドルを支えてさ、アイドルが未熟者のプロデューサーを支えんだ。

 ふと、頭の中に声が浮かんだ。これは誰の声だったか。
 駒は諦めたような、悟ったような声で続きを言う。
「今考えたら四条さんに言われた事って本当に単なる夢だったんだなって思います。『みんなを元気にしたい』なんて言ってて、その『みんな』が誰なのかなんて全然分かってなくて。ただ歌を聴いてくれる人が元気になればいいなんて無責任な事考えてて」
 それは要するに、『四条貴音』を認めるということか。
大江の下にいる大江の駒を、認めるという事なのか。あの人形を認めるという事なのか。
駒が何を考えていようが構いはしないが、その敵を認めると等しい思考を認めていいのか。
「今は、違うのか」

―――プロデューサーさんは、本当にそう思ってるんですか?

「はい。今は、…違います」
 決定打だった。ここにきてようやく思い知った。
今プロデューサーの目の前にいる『天海春香』の形をした駒は、『天海春香』と同じ容姿をした全く見知らぬ何かだった。
「『皆を元気にしたい』のは、アイドルの『天海春香』なんです。それは私ですけど、でも私じゃない。Aランクに上がってメディア露出が増えてアイドルの『天海春香』の歌を聴いてくれる人が増えて、結果として元気になった人が多くなったら、それはアイドルの『天海春香』がAランクに上がってやりたい事が出来たってことになるんだと思います」
 じゃあ、今ここにいるお前は、一体なんだ。
「…それは、今のお前はアイドルの『天海春香』じゃないという事か?」
 駒は静かに頷いた。
「じゃあ、今のお前は何なんだ? アイドルの『天海春香』じゃなければ、今俺の目の前にいるお前は誰なんだ?」
 『天海春香』に利用価値があるのは『天海春香』であるからなのだ。
アイドル『四条貴音』と対等に戦い、そして『四条貴音』を打ち負かすために存在するのが『天海春香』でなければならないのだ。
そして駒である『天海春香』は天海春香と表裏一体のはずで、天海春香が『天海春香』でないのなら駒としての利用価値がない。

―――わたくしは私であり、私がわたくしである事をやめない以上は私です。

 あの時、大江の人形は自分の事をそう言った。
『四条貴音』が四条貴音である以上は四条貴音は『四条貴音』であり、それをやめない以上は『四条貴音』であり続けると言った。
そして駒は、先ほど四条貴音を認めるが如き発言をした。
 それはつまり、『天海春香』では戦えない、と言う事を意味する。
「私は、私です。アイドルの『天海春香』じゃない、ただの天海春香です。多分きっとこれからもずっと、プロデューサーさんの事を信じる、天海春香でいるんです」

―――裏切ることと、信じない事は、何が違うのですか?

 もう充分だった。聞きたい事は全部聞いた。
プロデューサーは薄ぼんやりとした視界に壁かけの時計をおさめ、もうすぐ22時を回る事を知った。
 これ以上は時間の無駄だと思う。
「そうか」
 誰も信じないと思っていた。
誰も信じず、誰の力も借りず、『天海春香』を使って大江を打ち倒す気でいた。
誰も信じず? 笑わせる、お前は自分で『天海春香』を使ってと言っていたではないか。
それは要するに『天海春香』の力を借りるつもりでいたという事ではないか。
笑わせるな、何が誰の力も借りずだ、『天海春香』と表裏一体のはずの天海春香ただ一人でさえ、お前は満足に使えていないではないか。
 駒一つ御せずに何が誰も信じずだ。天海春香もまた四条貴音と同様に意思を持つ一人の人間であったという事に気がつかなかったのか?

 御せない駒に使い道などない事を、お前は気づかなかったのか?

「…プロデューサーさん?」
 問いかけにプロデューサーは頭を振り、ゆっくりと出口に足を向けた。
 これ以上は時間の無駄だったし、これ以上ここにいる事に何の意義も見出せそうになかった。
「好きなだけ練習していけ。お前がそう思うなら俺に言える事はもう何もない。別に、」
 あるいは、この声を聞いた春香の顔を、自分は見たくなかったのか。

「別に、俺はお前でなくてもいいんだ」



『別に、俺はお前でなくてもいいんだ』
 全部お前が始めたことだ、と言われた。全くその通りだったのでその時は黙って聞いていた。
 血反吐を吐こうが何をしようが、この計画にかかわる全ての事象にお前は責任を持たなければならないと言われた。その通りだったのでその時も黙って聞いていた。
 そして、大江はその言葉を、株式会社961プロダクションの休憩室で聞いた。
大江の方耳には単線のイヤホンが収まっており、単線の親側には名刺入れサイズの小型無線傍受気がある。
電波の親回路は765の社長室にあり、特定の人物の社員証にはキャッチャーとして音を外部に漏れさせる仕組みがあるという事は765内でも限られた人物しか知らない社外秘中の社外秘だ。
もちろんこんな盗聴まがいの機能は普段から使用されているはずもないが、1月第4週に予定されている共演の日はフェーズ5からフェーズ6への移行判定となる重要な日である。
控室まで同じにしたのは少々ねじ込みが過ぎたのではないかと思いはしないでもないが、いつまでも10号に張り付いていられるわけではあるまいと事前の情報収集も兼ねて小鳥に親回路の電源を入れてもらうよう頼んだのは紛れもないこの自分だ。
 そして、計画通りなら聞かねばならなかった、そして決して聞きたくはない声を、単線の無線傍受気はものの見事に傍受した。
 正直に言う、吐き気までした。責任の重い仕事は別に今までやってこなかったわけではないし、殆どギャンブルに近い営業だってしたこともある。
しかし、今回の話は今までの『責任の重い仕事』とはわけの違う話だったし、いずれ立ち向かわなければならないと思ってはいたがここまで胃に来るものだとは思わなかった。
 懐をあさるとマイルドセブンの箱が顔を出した。まだ欧州にふっ飛ばされる前の遠藤からせしめた煙草である。
胃のよじれるような不快感の中で震えながらボックスの箱を開けると、葉の粉にまみれた2本のマイルドセブンが頭を覗かせていた。
 一本つまんで咥えて火をつけ、次の瞬間盛大にせき込んだ。
久しぶりな上にミリまででかい。あいつ何ミリ吸ってたんだと今更気になって箱を横に眺め、次の瞬間喫煙時特有の酩酊感に襲われた。
思わず煙草など放り出して便所に駆け込みたくなり、大江はその場にうずくまって衝動をこらえる。
 全部お前の始めたことだ、と言われた。
 全部お前のせいだ、と言われた。
 その通りだと思ったし、事実その通りだし、だからこそ今まで耐えて来られたのだと思う。
 だからこそ、この計画は最後まで完遂させねばならない。
 全ては明日だ。明日の控室で、フェーズ5は最大の山場に向けて一気に加速を始めるはずだ。
 そして、自分が10号に何かできるのは、明日が本当に最後なのだ。

―――まったく不出来な先輩を持つと後輩は苦労しますね。

 計画の最後に10号に全てを話したら、あいつは果たして何と言うのだろうか。




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