声 (40)

 夜更けまで降り続いた雨は未明に雪に変わり、凍った雨は雪を乗せて一面を白く汚している。

 種明かしを一つしておく。
一月の最終週に控える今日の営業は実のところIUの前哨戦の意味合いが大きい。
高木社長は『この営業には必ず参加しておくように』と言っていたし、そんな事を言われるまでもなくプロデューサーが出来るなら『天海春香』を参加させておきたいと思っていた今日の番組には『新人アイドル発掘!! 輝ける今年の大スター誕生!!』というエクスクラメーションが4つも付く面倒な名前が付いている。
出演するアイドルは新進気鋭の若手アイドルであり、新進気鋭のアイドルと言えば巷で話題のIU予選を勝ち進んでいるアイドルに他ならず、要は主観的に見て本人にはそのつもりもないが客観的には認められている『天海春香』や『四条貴音』クラスのアイドルがそろって参加する番組であり、今や20人を割り込むにまで減った第1回アイドル・アルティメット参加資格者が出演する番組と言えば知名度も相当に高い。
今日の番組内では優劣を競う場面は一欠けらすらも予定されてはいないが、市井の連中にとってみれば番組のディレクターの意図など何の助けにもならない事は火を見るより明らかで、実のところ数週間前から『新人アイ(中略)ー誕生!!』という番組名はミーハーなファンたちの間では挨拶に使われるほどの人気を誇っている。
やはりダントツ人気なのはその容姿や歌声から他の追随を許さない『四条貴音』であり、その後ろに株式会社未来館所属の『魔王エンジェル』、東海地方では抜群の知名度を誇る東野プロダクション所属の『UnderBer』なるユニットが続き、765プロデュース株式会社の『天海春香』は現在オッズ4番手に甘んじている。
が、このオッズは何もIU本戦でのオッズでないことにはもちろん注意しておく必要がある。
IU本戦まで生き残れるのは現在の20人弱からさらに減って僅か6人、5次予選で惜敗の涙を呑むアイドルのファンがいつ鞍替えして勢力図が書き換わるか分からない今のオッズ表はさながら下克上全盛の戦国期のような有様を呈している。
 しかし、どうも今回の番組に注目しているのは何も一般大衆だけではないらしい。
大江の見ていた限りこの会場の裏口には真っ黒いベンツが3台ほど停まっていたし、胡散臭いことにはベンツのドライバーはサングラスを掛けて出口をじっと見たままエンジンをふかしっぱなしにしていた。
何もIU制度にきな臭さを感じたのは今回が初めてでもなかったが、リハーサルで会場入りした際に大江のその疑問は一部氷解することになる。
 IU一次予選、『天海春香』が歌ったあの会場にいた、どこぞの政党の重役である。
「…?」
 リハーサルは基本的にテレビ関係者及び出演者だけで行うのが通例である。
トラブルが発生した際に視聴者がいたのでは迅速な対応などとれないし、ただでさえ馬鹿のように高い今回の会場の入場チケットに前段があったのではチケットの値段に影響が出るからだ。
ということは、あのオヤジは今回の営業の関係者ということになるのだろうか。
 大江は黙って手元の資料をめくる。
 そんなはずはない。全国芸能界総会は創立当時から「芸能界の独立と自主的な発展」を旨とする筋金入りの右であり、政治からはある程度の妥協をしつつも一定の距離を保つことを矜持にしていたはずである。
曲がりなりにも10年は765で総会の世話になってきた立場からすれば総会幹事以下に政党役員が入ったなどという与太話は耳にしないはずがないし、少なからず政治界からの寄付金などという駄賃が得られるのであれば総会もわざわざこんな競争の場を設けずとももうちょっと頭の回る策を弄するはずである。
 あいつ、何て名前だっけか。
 新聞を取らない大江の情報源は専らテレビのニュースか車のラジオか携帯のネットである。情報難民という言葉が一瞬だけ頭に浮かび、すぐに余計な情報を脳みそから削除して会場後ろ側に座る男の名前を頭の中から探しにかかる。
 見つからない。
 が、奴の職歴は思い出せた。確か今は野党の幹事長クラスの男のはずだ。
10年ほど前は与党だった男の政党は今や落ち目の部類だが、確かその10年ほど前に男は当時の与党の外相クラスだったはずである。
当時はまだ大江も新入社員だったから毎日新聞くらいは読んでいた。たぶん。思い出せない名前が面倒なので大江は脳内で実に適当に男に「ミッキーマウス」という千葉あたりからクレームの来そうなあだ名をつけることにする。
 ミッキーマウスの注ぐ視線の先、本番ではまずお目にかかることはないほどの照明が照らすステージには、出演する総勢20組弱のアイドルたちが幕間の座談の席順に腰を下ろしている。
 スケジュールの構成は実にチープであり、まずは20組弱のうち半数が前半戦でステージを披露、間を挟むように中盤では司会者のセクハラすれすれの質問に笑顔の受け答えが入り、後半では残りの10組が持ち歌を奏で、最後に出演者による今後の抱負という名前のどうでもいい10分間で締めとなる。
最初に当日のスケジュールを見た際には構成のあまりの垢抜けなさに脱力したものだが、こうして眺めてみれば確かにオッズは組みやすかろう。
大江は一度だけ首をゴキリと鳴らして再びミッキーマウスに視姦されている哀れなアイドルを見つける作業に戻ろうとし、戻る視界の中に10号を見つけた。
 10号は黙って腕を組み、斜に構えたような視線でステージを眺めていた。
 眺めている。特に何かに注目しているようには見えない。10号はまるで興味のない映画でも見るような目つきで舞台を眺めており、時折ポップコーンに手を伸ばすかのごとき動作でスケジュールを見ている。
大江はため息をつき、ミッキーマウスの視線をいったん置いて手元の『予定参加者』プリントを眺める。
『天海春香』は後半10組のトップバッターに任命されており、これは中間のどうしようもない座談会でダレた空気を引き締めるという大変名誉な順番である。
ディレクターがどういう采配でこの順番にしたのかは全くもって意図不明だが、トップバッターが『四条貴音』でトリが『魔王エンジェル』なのはおそらく局側に配慮した結果なのだろう。
中盤に『天海春香』を持ってきたのはおそらく視聴者のチャンネルロックを狙ったのだろうが、はたして鬼が出るか蛇が出るか、である。
 『天海春香』が鬼ならば計画は問答無用でフェーズ6だ。
 では蛇なら。
 ため息が漏れる。蛇なら蛇でやりようもあろうとは思うし鬼か蛇か判断するためにわざわざ楽屋まで同じにするようねじ込んだというのに、朝方大江と貴音が楽屋に荷物を置きに行った時にはすでに楽屋のロッカーのカギが二つ無くなっていた。
今回の収録はカメラが回る時間も長ければリハーサルも長く、全部ひっくるめれば朝早くから夜遅くまでかかるという長丁場である。
春香は以前に無理やり自宅に送り届けた際にプロデューサーの配慮から朝早い営業はあまりないと言っていたが、今回は例外の扱いなのだろうか。
 それとも、すでに10号の精神からはその手の配慮すらなくなったのだろうか。
 蛇ならやりようもあると思うが、鬼のほうが計画としてはよほど順調である。
もしも『天海春香』が蛇であり、10号が『天海春香』を蛇に仕立てていたのなら、その時自分の身の振り方をどうするか―――そのための『アイドルマスター計画』ではあるが、もし蛇ならば覚悟は決めなければならない、とは思う。

 思うが、心のどこかで「それでもいい」と思う自分も、確かにいる。

 情が移ったといえば多少聞こえはよいのだろう。
計画にとって『四条貴音』はまさしく計画達成のための重要なファクターではあるもののそれ以上では決してあり得ないし、その重要なファクターをファクターたらしめるためにわざわざ古巣を飛び出して961に移ったというのに、もはや『四条貴音』を単なるファクターとしてとらえることができない自分が心のどこかに確かにいる。
 いつからこうなった。
 自問する。
 IU予選前に家電屋でビデボタンを押して逃げ回っていた貴音を追いかけていた時か。
 『天海春香』の夢を手ひどくけなした貴音に笑った時か。
 夏の日の屋上で僅かながら地金を見せた貴音に「任せろ」と言った時か。
 汚いにもほどがある4畳半の巣の中で「信じる」と言われた時か。
 気の早い11月のクリスマス真っ盛りの街中で貴音の境遇を慮った時か。
 例の手紙を見て表情を硬くした貴音を見た時か。
 天海春香に「貴音の友達になってやって欲しい」と頼んだ時か。

 それとも、言えばどうなるか分かり切っていた言葉を発した時の、貴音の表情を見たからか。

―――…アイドルを、ちゃんと支えられるプロデューサーになりたいです。

 そうして情にほだされて、今まで築いてきた嘘を全部本当のことにして、何もかも捨てたら、多少は楽になれるのだろうか。

 大江は頭を振る。馬鹿な考えだと自分で自分を笑う。いずれにせよ今日が正念場だ。10号は知らない、この計画を知っているものならば誰もが知っている、そして誰もが腹を決めなければならない日だ。
はたして鬼が出るか蛇が出るか、そう言って楽しめる自分はギャンブルに向いているのかもしれない、大江はそう思う。
 しかし差し当たって現状では判定を行うことは不可能である。
判定は10号とアイドルとのやり取りの中から見つけるより他なく、その為に楽屋まで同じにしたのに最初の機会は不発に終わった。
もうまもなく訪れるであろう次の機会で判定は可能だろうか―――そこまで考え、大江は再びのため息をついてステージに視界を振った。
 セクハラ質問リハーサルがもうまもなく終わりを迎えるのか、ADと思しき若い男がアイドルたちの前でなにがしかの指示を出していた。
次はおそらく後半ひと組目の『天海春香』のステージリハなのだろう、アイドルたちがそれぞれステージ奥に設えられた椅子に向かって動き出す。
ただ一人ステージの真ん中に残った『天海春香』の表情は遠目には分かりかね、大江は三度のため息をついてミッキーマウスの視線を追うという不毛な作業を再開しようと何気なく後ろを振り返り、
 先ほどまでいたミッキーマウスがいない。
無闇に明るい客席に自然を装って視線を走らせるが、ミッキーマウスはどこにもいなかった。場違いにもほどがあるあのスーツの政治屋は一体どこに行ったのか、大江がそう思った時、ステージからの大きな声を聞いた。



 別に、駒はお前でなくてもいいんだ、と言われた。
 本番とは比べ物にならないほどの明るさのステージの上で、春香はADの指示を右から左へと聞き流している。
リハーサルなのに、あともう少しリハーサルをすれば本番だというのに、得られるファン数も馬鹿にならない数のはずなのに全く仕事に身が入らない。
「みんなを元気にしたい」などと能天気なことを言う『天海春香』が今日に限っては開店休業もいいところだ。あの能天気は一体どこに行ってしまったのか。
 ぼんやりした思考の春香は今、ADの指示によってステージに設えられた段差のような椅子に共演するアイドルユニットと一緒に腰をおろしている。
どいつもこいつも実に若々しい笑顔に満ちている中で呆けたような表情の春香ははっきりと言えば浮いており、先ほどからADの訝しむような視線がちらちらと向けられていることすら春香には分からない。

 別にお前でなくてもいい、と言われた。
 結局自分には何もできなかったのだと思う。表情に出さずに春香は心の中で思うさま自分に向けた侮蔑の笑みを浮かべる。
「みんなを元気にしたい」などという能天気から始まり、プロデューサー一人元気にできない奴が「みんな」などを元気にできるはずがないと考え、遂には結局自分には何もできなかったと思うに至ってしまった。
昨日までは何とかそんなネガティブな考えに抗いながら『天海春香』を演じてこられたが、今の春香には『天海春香』を演じるほどの精神力はほとんどない。

 別にお前でなくてもいいと言われた。
 正直に言えば、プロデューサーがそんなことを言った直後は何を言われたのか全く分からなかった。
プロデューサーが去った後に春香が意識を取り戻したのはかけっぱなしになっていた『まっすぐ』のイントロ版CDが終りに近づいていたときで、時計を見たら短信が10の長針が30を差していた。
半ば機械のような手つきで一体何周したか分からないCDを再び最初に巻き戻し、春香は全く表情を浮かべずにトレーニングルームのど真ん中で一つ息を吐いて練習を再開する。
注意するポイントは4つ、目の動きと指先の張り、足のポイント間の運びと声が揺れないようにすること。
何度やっても、最後のポイントだけがクリアできなかった。ダンスへのポイントチェック比率を下げても、どんなに歌に意識を振り分けても、最後に足を止めて歌だけを歌っても、声は揺れて震えて止まることはなかった。
しかしダンスやアピールポイントもまたファンに訴えかける強い要素であり、いつまでも歌だけに拘泥するわけにはいかず、持ち主の意図に反して震え続けるのどに嫌気すら差した春香は鏡の前で最後のダンスチェックをする前にいったん休憩をしようとプロデューサーが座っていたパイプ椅子によろぼい座り、そこでようやくその姿に気がついた。
 壁一面に広がる鏡に映っていたのは、四肢を力なく垂れ下げて放心した顔に涙を浮かべた天海春香の姿だった。
笑いが漏れる、なるほどこれでは確かにどんな練習をしようが声に張りなど出ようがない。
当然と言えば当然の理由に春香は脱力しきったまま乾いた笑いをもらし、いつしか乾いた笑いは湿った笑いに変わり、最後には泣き声すら消えた。

「  い、じゃあ   ゃさんからの質   リハー    じめます      」
 ADの言葉に意識が浮上する。
 若々しさとみずみずしさにあふれたこの壇上を想像してみる。
一歩客席側に離れてみてみれば、おそらく天海春香の姿だけがこの場にふさわしくないほどに浮いているのだろうと思う。
自分はおそらく、つい何時間か前に見たあの無様で無力な姿と何一つ変わらずにここにいるのだ。
何もできないのだと、何一つ豹変したプロデューサーに向けて出来たことなどないのだと、自分が天海春香である以上プロデューサーに何一つ返せないのだとはっきりと思い知ったあの格好のままでここにいるのだろう。
 ぶっちゃける。帰りたい。
 穴があったら入りたい。もはや無気力感と無力感と脱力感のトリオは意志の力でもADの声でも封殺し難く、腹の中からの自分に向けた悲嘆と嘲笑の声は質問者の声よりも大きく聞こえる。
何が「ひょっとしたら、努力は少しでも実ったのではないか」だ。思いあがるのもいい加減にしろ、お前に何ができるんだ。今すぐに胸に張り付いている分不相応なバッジを返してジャージを脱いで電車に乗れ、さっさと帰って台所にでも立って砂糖と塩を間違えた産廃のようなケーキでも作れ、そのほうがプロデューサーにとってもきっといい。
「では、質問リハーサルはここまでにします。この後は後半10組のリハーサル通しでやりますんで、天海さん以外の出演者はバックお願いしまーす」
 はーいと明るい声が聞こえ、春香と同じ段に座っていた連中が揃ってケツを上げる。
春香もまた周囲に自分を溶け込ませるように立ち上がり、周りに悟られないように小さなため息をついた。
事前に聞いていたリハーサルの流れではこの後は後半に当たる10組のアイドルユニットがそれぞれ一サビ分自分の持ち歌を歌って最後の配置を確認して終りの予定であり、10組もあればまだまだリハーサルは終わりそうもなく、しかし春香にとっての物煩う時間はいったん中止を迎える。
後半戦のトップバッターは紛れもない『天海春香』であり、今の春香にはステージど正面に準備されたスタンドマイクが絞首刑で使われる麻製の太い縄に見える。

―――この間の表情の話もそうだったけどさ、春香の歌い方一つで聞いてる人たちの印象も随分変わるんだ。

 何を思って歌えばいいのか全く持って分からない。
本日『天海春香』が歌うのは『まっすぐ』であり、女の子が大人になるために必要なまっすぐな気持ちを歌った歌である。
 不可能にも程がある。
 春香は助けを求めるようにステージ後方に下がっていくアイドルたちの背中に目を向ける。
いくらアイドルとはいえ彼女らも人間であって一瞬の休憩時間にはその個性を存分に発揮しており、これから再開される座りっぱなしの何時間かに思いを馳せている様子がよく分かった。
この後に控える自ユニットのリハーサルのために最後の歌詞チェックをしている奴がいて、自ユニットのメンバーと話している奴がいて、何も言わずにバックに向かう奴がいて、
 ただ一人、自分のことをじっと見ている奴の顔を見て、春香は一瞬息を呑んだ。
 春香と同じくらいにひどい顔をした、四条貴音その人だった。
硬く濁った心が驚く。こんなひどい顔をしているのは自分だけだと思っていたのに、貴音もまた一人ステージに取り残されたような顔をして自分のことをじっと見ている。
 ややあって、四条貴音は天海春香に背を向けた。

―――…貴音とさ、友達になってやって欲しい。

「天海さーん! すんません時間押してるんで準備できたらお願いしまーす!」
 先ほどから心ここにあらずの春香に見かねたのか、客席の最前列にいるディレクターからそんな声が飛んできた。
春香は後ろを向いたまま一瞬だけ目をきつく閉じ、小さく「はい」とだけ返事をして絞首刑台に上る。

―――君はプロなんだからさ、そういうところしっかりして貰わないと困るんだ。俺の事なんか気にしないでいいから、まずは自分の事をしっかりやってくれ。

 客席の上段、ステージから見て左手に座っているプロデューサーはステージを見てもいない。
ため息すら枯れ果て、春香はスタンドセットからマイクを抜き取る。まるで今から首を吊るかのような怖気が背中を這いずりまわる。
 どう歌えばいいのか全く分からない。感情を乗せるのがアイドルの歌だ。
みんなを元気にしたいのが『天海春香』なら、今の春香の感情は元気などという素晴らしい思いとは何百光年とかけ離れている。
台からマイクを抜き取ったことをスタートの合図と取ったのか、音響が無情にも「まっすぐ」のイントロを流し始める。
 逃げ場はなく、救いもなく、『天海春香』はいつまでたっても降りてはこない。

♪ 恋したり 夢描いたりすると ♪

 なるべく物を考えないようにしようと決める。
豹変する前のプロデューサーに支えられて培った『天海春香』の基礎力を頼りに、春香はテクニックと体にしみ込んだ反射を利用して機械のように歌を歌う。

♪ 胸の奥に 複雑な気持ちが生まれるの ♪

 注意するポイントは4つ、目の動きと指先の張り、足のポイント間の運びと声が揺れないようにすること。
ただそれだけを念頭に置いて、春香は機械のように歌う。
 想いも、感情も、天海春香の願いも、何一つ乗せない音階だけを吐き出して、春香は機械になろうと思う。

♪ 今 大人になる道の途中 ♪

―――歌いながら踊ったりしなきゃいけないから大変だけどさ、表情とかにも少し気を使った方がいいと思う。歌い方の問題じゃないんだ、表現の問題。

♪ あふれる初体験 毎日を飾る ♪

―――僕は春香のプロデューサーだから一般の人たちより春香の歌聞いてるけどさ、でもやっぱり春香の歌はいいと思うよ。聞いてて明るくなるのは『天海春香』の立派な武器だよ。自信持っていいと思う。

―――うん、自信持つのはいい事だよ。しぼんじゃってる春香なんて春香らしくないもんね。

―――ありのままの春香が壁に当たったら、ありのままの春香が壁を乗り越えられるように土台を作るのが僕の仕事。

 機械に、なろうと思う。

♪ だけどこの空が いつも私のこと見守ってる ♪

―――そうだよ。さっき春香らしいって言ったのはそういう意味。春香がどう思うか、どう思って歌うのか。

―――…だから、春香は春香の思うように歌っておいで。今までやってきたことは絶対に無駄にならない。

 思うのに、

―――うん。信じられるくらいは練習したと思うよ。大丈夫だって、その辺りは僕が保証する。

♪ もっともっと強く 励ましてる ♪

 歌の基礎を教えてくれたのは、プロデューサーだ。
 ダンスの注意点を教えてくれたのは、プロデューサーだ。
 アピールポイントをああでもないこうでもないと考えてくれたのは、プロデューサーだ。

 機械になど、なれるはずがない。
プロデューサーと一緒に歩んできたこの9カ月は、歌いだしてから2カ月に満たない「まっすぐ」の中に色濃く存在している。
機械になりきれない春香の想いが、本人の意思を無視して歌声に乗り始める。
混じりだしたその感情に、ステージ上と客席前部にいる関係者は瞬きを忘れたかのように天海春香に注目し始める。春香はただ歌う。
 ただの歌が、リハーサルのはずのホールを、本番のホールに変えていく。

♪ だから怖くない どこでも行きたいところに行ける ♪

 誰もが目を見開いている。誰もかれもが天海春香を見ている。
春香は何も見ていない。ただ記憶の中にある楽しかったプロデューサーとの思い出を見ている。

♪ 輝いた未来 まっすぐにね ♪

 この段階で、春香は関係者のほぼ全員に注目されていることになる。
 間奏が始まる。ここからは何秒かはダンスがメインの時間だ。
春香は意識を切り替える。無理をしてでも周りを見ないように努める。周りの連中の失意に満ちた顔など見たくないから、プロデューサーの顔を今は直視できないから。
注意すべきポイントは4つ、目の動きと指先の張り、足のポイント間の運びと声が揺れないようにすること。
うち一つは歌う際の注意点であるからして気をつけるべきは目の動きと指先の張りと足のポイント間の運び。
特に「まっすぐ」は不意打ちのように足のクロスがあるから気をつけなければならない。ポイント運びにミスがあると転倒の恐れがあるのだ。
 目をつぶるかのごとき薄目で客席をぐるりと睥睨、外部からの視覚情報をほぼ遮断して己の四肢にのみ意識を集中させる。
数秒の間奏に設定したチェックポイントをリスト通りに消化する。
両腕を緩やかに振り、しかし指先にまで集中させた神経が計算しつくされた動きに一瞬のたるみも許さず、ステージに張られたブレイクアウトの座席置き場のためのマーキングテープを足運びのポイント起点にして右足をバックさせ、体を残していた左足を起点にして体をくるりと回転させる。
 間奏が終わる。

♪ きっと うまく超えられると ♪

 目を開く。次のポイント起点となる反対方向の座席チェックマークの位置を確認し、春香は大きく足を踏み出して、
 視界に、プロデューサーの姿が入った。
プロデューサーは春香を見ていない。ステージすら見ていない。興味のない映画を見るかのような視線で手元の紙を眺めている。視界が一瞬滲む。どれだけ努力しようが無駄なのかもしれないと思う。

♪ happyな 思考回路で ♪

 声よ、揺れるな。
 春香はプロデューサーから視線を外さない。プロデューサーは顔を上げない。
構わない、今は本番ではないのだから、嘆けるのは今だけなのだから。
もう少ししたら、『みんなを元気にしたい天海春香』にならなければならないのだから、

♪ Let’s Go! ♪

 もうすぐ春香の持ち時間が終わる。プロデューサーは結局一度も顔を上げていないのだと思う。
春香の胸中に自分でもよくわからない感情が爆ぜる。プロデューサーの助けになれなかった自分が悔しくて、プロデューサーが一度も見てくれなかったことが悲しくて、自分の無力感にほとほと呆れて、それでもプロデューサーに見て欲しくて、途方もない色が複雑に入り混じった声が漏れそうになるのをブレスのふりをして止めてプロデューサーを見上げ、足を、

 踏み出そうとした左足が、右の膝裏に引っかかった。

 視界がコマ送りのようなスローモーションのように変わる。
客席の最前列に座るディレクターとそのアシスタントが目を見開いたのが分かる、マイクを差していたスタンドが本当にゆっくりと角度をつけていく、フラッシュライトの位置が視界の上から左へと位置を変えていく、後ろから誰かの声が聞こえる、顔も上げないプロデューサーの横で誰かが後ろを向いている、脳味噌の後ろ側で『転倒』のふた文字が躍る、生理的現象なのか右足が空中でばたつく、すでに両足とも地面についていないことに気づく、「転ぶなんて久しぶりだなぁ」などというのんきな感想がコンマ数秒の意識の中で合成され、投げ出された視界の中で、プロデューサーがようやく、

        こちらを、

 ステージに屑折れた瞬間、自分の右足首から、ビキ、という音がしたのを、春香は確かに聞いた。




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