声 (42)

―――裏切ることと、信じない事は、何が違うのですか?

 1月の日暮れは早い。
丸一日雪を降らせ続けた雲は早々にもともと差してもいなかった陽光を夕闇の奥へと封じ込め、プロデューサーの車が病院に着く頃にあたりは丁度うす暗くなり始めたところだった。
一人で歩けない春香を病室に連れて行き、春香がレントゲンを撮られたり触診をされたりしている間にプロデューサーは別室で大江に殴られた右頬に大げさにも程があるでっかいバッチを当てられた。
何もこんなでかいものを顔に張り付けなくてもいいだろうと思うが、春香と自分への処置がひと段落したところで不意に覚えた尿意に導かれたトイレで見た自分の顔はバッチ越しにも分かるほど腫れていた。そんなに痛くないのになとぼんやり思うが、それ以上自分の顔に思考を割くのはやめにする。どうせもともと大した顔でもない。
 診察室で春香の足のレントゲン写真を見せられた。思った通り骨折ではなかったし、運がいいのかヒビも入っていないらしい。
どうやら捻挫で済んだようで無理をしなければ1週間ほどで運動も出来るようになると言われた時は途方もないほどの脱力感を覚えたが、念のため一晩は様子見の入院を勧められた。一応は代表の高木に電話で事故の経緯を伝えると、高木は何やら慌ただしそうに「良きに計らえ」と大差のないことを言って一方的に電話を切った。唐突に押し掛けてきて入院など出来るのかと尋ねたプロデューサーに、医者は「子供が『天海春香』のファンなんだ」と笑いながら言う。
 職権乱用ここに極まれりだが下手に春香を外に出さなくて済む点では非常にありがたい。おそらくはもう『天海春香』のトラブルはマスコミ関係者に漏れているだろうし、今は春香も自分も連中のしつこい質問にチャフやフレアをばら撒いてかわす余力はないだろうと思う。
一夜の宿を借りるか家に帰って休むかの二択を提示すると春香は小さく「早く治る方」と答え、どちらも大して変わりはないだろうと思いつつもプロデューサーは看護師から入院申請書を受け取ったのがもう2時間ほど前で、春香に宛がわれた個室病棟の位置と部屋番号を確認してプロデューサーが近所の青果屋から季節もののリンゴを買ってきて帰ってきたのが1時間ほど前の話だ。
 春香はこんこんと眠り続けている。経口摂取の痛み止めには睡眠成分も入っていたのか、春香はプロデューサーが出かけるときにはすでに軽いまどろみの中にいて、帰ってきたときには毛布がゆっくりと上下していた。
移動式の点滴スタンドとあの世とこの世の境をさ迷う徘徊老人の背を押して忙しげにリノリウムを鳴らしていた看護師を捕まえて春香は大丈夫なのかと改めて尋ねると、看護師からはとりあえず寝られる程度には痛みが治まっているのだろうという適当極まる回答を得た。
何かあったらナースコールを押してくださいねと決まり切った文句を吐いて「さーおじーちゃん行きましょーねーお手洗いはあっちですよー」と廊下の角を曲がっていった看護師の背中を眺め、プロデューサーはため息をついて春香の病室に舞い戻る。
 規則的に上下している毛布と窓の外をちらつく雪を除いて病室に動くものは何一つない。
病室の備品といえばベッドとサイドテーブルとイスとテレビとテレビ台であり、プロデューサーは壁伝いに設置されたベッドの丁度向かいにある椅子を音を立てないように持ち上げてベッドの横に移動させる。
 ひと時の危機を過ぎたのか、今の春香の顔色は悪くない。プロデューサーは一息をつき、なるべく音を立てないように青果店から買ってきたリンゴとフルーツナイフと紙皿をサイドテーブルに並べた。

―――この間も事務所に持って行きましたよ。あれ、プロデューサーさん、ひょっとして食べてないんですか?

 多分リンゴも梨も同じような形をしていたからだろう。脳味噌のどこか遠くの方からそんな春香の声が聞こえる。
春香はこんこんと眠っている。プロデューサーはサイドテーブルに並べたリンゴから一つ、うす暗い病室の中にあってなお赤いリンゴを一つ手に取って刃をヘタに当てる。
 あの時は春香の作ってきたというケーキを食いっぱぐれた、と答えた気がする。つい昨日のような気もするし100年も昔の過去のような気もするあの4月のトレーニングルームでの回答を掘り出すまでに、リンゴはすでに4つに分割されていた。
真一文字に結ばれた春香の口元を改めて見る。4分割では大きいかと思い、欠片のひとつひとつを更に二つに割る。この小さい口からよくもあんな歌を歌っているものだと思う。

―――ケーキ、焼いて来たんです。もしよければプロデューサーさんに食べてもらいたくて。

 そんな話をしたからだと思う。
確か11月の終わりに、春香は再びケーキを焼いてきた。
確か自信作だとか言っていた。塩と砂糖を間違えてはいないから。パウンドケーキを焦がしてもいないから。目の下に隈まで作っていた自分に元気になってほしいから、確か春香はそんなことを言っていたような気がする。
 俺は、何て答えたんだっけ。
 おかしいことに我ながら10月あたりからの食い物の消費に思考が及ばない。
そういえば家の冷蔵庫の中身もしばらく確認していないような気がする。何か食べるために時間を使うなら営業資料の一つも見ていたほうがましだなどと考えていたような気もするし、それ以外の心のリソースは全て対大江戦略に当てていたような気もする。
気違いじみた仕事の結果が人間の三大欲求の欠落にあたるのだとすれば生き物として間違っているような気もするが、その狂気の果てとして今病室にいる自分の中にはぽっかりとした大きな穴が空いている。
 底の見えない、大きな穴だった。
今までは大江への憎しみで蓋をしていた大きな穴が、その蓋をあけてぎょろりとした目で自分の事を見つめている。
大江への憎しみは一欠けらも風化してはいないくせに、その穴の目はまるで小動物をいたぶるかの如き視線でプロデューサーを見ている。

―――俺ぁ前に言ったよな、開演30分前のアイドルほっとくような真似をするなって。言わなかったか?

 うるさい。
裏切り者に言われたくない。俺はお前を倒せればそれでいいんだ。他のことなんて知ったこっちゃない。お前をぶっ倒せれば俺はそれでいい、その為に何を犠牲にしたっていい。どうせ無くすものなんて何もない、最後の最後に勝てれば俺はそれでいい、

―――そんで? お前はそれでいいとしてさ、春香ちゃんはどうすんだよ。

 信用していた奴がいた。いつかこうなりたいと追いかけた背中があった。
 信じていた奴に裏切られて、もう誰も信じないと誓った。ピヨネットの連中も、高木も、音無も、春香さえも信用せず、たった一人で戦おうと決めた。
 どうせ裏切られるのだから。どんなに信用したところで、最後に痛い目を見るのは自分だから。
 もう、あんな想いはしたくないから。自分はそう思った。

 では、春香は?

 あの電波は「裏切ることと信じないことは何が違うのか」と言った。
自分は大江とは違う、あんな裏切り者と一緒にはされたくない一心で「違う」と答えたが、今にして思えばその時の自分の顔はどうしようもなく引き攣っていたのだと思う。
 自分が誰も信じないと決めたことで、自分は春香の事を裏切っていたのではないか。
 信じる信じると馬鹿の一つ覚えのように言っていたこの能天気にとってみれば、自分は大江と全く同じなのではないか。
 自分は、あの裏切り者と同じなのではないか―――途方もない穴の奥底で、得体のしれない目が皮肉交じりに目を細めるのを感じる。
何を考えるのも誰を信じないのも自分の勝手だが、それは春香にしてみれば全く埒外の話であって春香にしてみれば「私はプロデューサーに裏切られ続けている」と捉えられても全くおかしくないのだ。
 全くおかしくないくせに、春香はひたすら「信じる」と言い続けてきたのだ。
 それは、なぜなのか。

「んぅ」

 冬眠から目覚めた樋熊のごとき声に顔を上げると、そこにはうっすらと目を開けた春香の顔があった。
ひとまずは安堵してリンゴを皿に載せると、春香の視線はサイドテーブル上のリンゴとプロデューサーの顔を行ったり来たりして、
「…プロデューサーさん、顔、どうしたんですか?」
 よほど麻酔効果の高い痛み止めらしい。春香は寝起き特有のぼんやりとした顔でプロデューサーの顔に手を伸ばそうとして、足をひねったのかすぐに顔を顰めた。
「痛むのか?」
 プロデューサーの問いに春香はようやく己の身に起きた事故を思い出したようだった。
そういえば足に怪我をしていたんだと悲しむでもなく痛むでもない事実だけを認識したような顔をすると、春香はすぐにプロデューサーから視線を外して透視するような目で自分の足を毛布越しに眺め、
「ごめんなさい」
「何が」
「いろいろ、です」
 春香が身じろぎを開始する。
足で突っ張れないからか布団の中でもぞもぞと動く春香の様子は傍から見ると人間大の芋虫であり、プロデューサーは春香の肩を抱きかかえるように上体を布団の中から引っ張り出して宮に凭れ掛けさせると、春香は薄ぼんやりとした視線を中空にさ迷わせ、最後にサイドテーブルに置かれたリンゴに目を向けた。
「…今日の営業の事なら気にしなくていい。あれは事故だ。春香のせいじゃない」
 声に春香は静かに首を振り、再び視線をさ迷わせた後に頭を落とした。プロデューサーの目には、春香は布団を通して何かを見ているように見える。
しばし黙した春香から視線を外し、眼を向けた窓の外にはうす暗い空から雪が深々と舞っているのが見えた。椅子から立ちあがり、暗い病室の中で唯一の光源になっている窓から眺めた下界は、まるで誰かが白い絨毯でも敷き詰めたかのように見える。
「…次は、私の番だったのに」
 窓からの光も弱くなってきた頃、春香はぽつりとそう漏らした。
「次は、私がプロデューサーさんの支えになる番だったのに」
 ゆっくりと振り返ると、灰色の病室の中で春香の肩が震えている。
プロデューサーは言葉を探し、空虚な穴にぽっかりと浮上してきた疑問をそのまま口に出した。
「…大江に、会ったのか?」
 数分の沈黙ののち、春香はぽつりと言葉を漏らす。
「前にケーキを持ってきた時のこと、覚えてますか?」

―――ばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!

「…覚えてる」
 言うと、春香はびくりと肩を震わせ、ややあって観念したような声が聞こえた。
「あの日、大江さんに家まで送ってもらったんです。『そんな顔で電車に乗るつもりか』って言われて、」
 やっと思い出せた。
あの時自分は、「そんなことはどうでもいいからちゃんと『天海春香』を演じてくれ」と言ったのだ。今にして思えば、あの時春香はすでに『天海春香』からは決別していたのだろうと思う。
「…ごめんなさい」
 ため息、
「怒ってないよ。あいつ何か言ってた?」
「お願いを二つ」
 春香はそこで項垂れていた顔を上げ、怒るでもなく沈むでもないプロデューサーの静かな表情を見てもう一度頭を落とし、長い長い葛藤の末にようやく決めたかのような、死刑囚がいまわの際に自分の罪を認めて白状するような声で、
「プロデューサーさんを、信じてくれって」

―――…お前、どんなプロデューサーになりたいの。

「あいつが? 俺を?」
 問うと、春香はプロデューサーを見ずにこくりと頷き、
「この計画を完遂させるにはどうしても私の協力が必要だって言ってました。『計画』っていうのがなんなのかは分からないですけど、」
 春香はそこで声を区切る。そうか、とだけ呟き、プロデューサーは再び背後を振り返って静かに降る雪を窓越しに眺め、黙考を開始する。
 大江の言う計画というのは恐らくは『アイドルマスター計画』なのだろう、と思う。目下のところ自分が知っている大江の動きといえばそれに尽きるからだ。
『アイドルマスター計画』の骨子とも呼べぬ柱は尽きるところ『四条貴音』の第1次IU優勝であり、自分や春香はその為の『モブ』である、あの時大江はそんな事を言っていた。
大江が春香に向けてそのようなことを言った真意は今のところ不明だが、根本に流れる胡散臭さを多少誇張してやればこんな取り方も出来なくはない―――『天海春香』には最低限Aランクになるまでは残ってもらわなければならないから、涙で目をはらした春香を激励することでAまでの繋ぎにする。
だが、それにしては妙な違和感がある。
 なぜ大江は「プロデューサーを信じてくれ」などという遠回しな激励をしたのか。
春香がAまで残ればいいなら何も「プロデューサーを信じろ」などという激励をする必要など欠片もない。
単純に「春香頑張れ」とでも言えばいいだけの話だし、そこにプロデューサーたる自分を絡ませる必要は今のところ思いつかない。
「…次は、私の番だったのに」
 思い付かないところで、再び春香はそんな言葉をぽつりと零した。
窓からの光で薄暗く見える春香の瞳は部屋のどこよりも暗く見え、その暗澹たる深淵は、今にして思う、恐らくは今日の営業をふいにしたなどという簡単な話から生じたものでないのだろう。
 春香は「いろいろ」と言った。今日の事故は、その「いろいろ」が積もりに積もって引いた最後の引き金だったのだろう。
「何が?」
 そうして、プロデューサーのその問いは、春香のマガジンを引き抜く一言だった。
「…大江さんに言われるまでもなかったんです。私は―――私が、誰よりもプロデューサーさんの傍にいたんだから。プロデューサーさんがしてくれたみたいに、今度は私がプロデューサーさんを支える番だったのに、それが出来なかった」
 なんだって?
 誰がいつどこで春香を支えた?
「俺が? 春香を支えた?」
 思った事がつい口に出て、春香は首の骨が折れるかのような勢いでプロデューサーの方を向く。
春香の瞳にプロデューサーが覚えている中では初めての批難の色が浮いている。まさか忘れたわけではあるまいなと問いたげなその視線を、プロデューサーは真正面から受ける。
「私は、プロデューサーさんが傍にいてくれたから頑張れました! 歌が好きで、『皆を元気に』なんて言ってるだけだった私の事を、プロデューサーさんがここまで連れて来てくれたんです! 一緒にレッスンをしてくれて! 夢を見せてくれて! 私の、歌を、」

―――…いつかさ、君の歌聞きたいな。

「聞きたい、って、言って、くれたのに、それっ、なのにわた、し、プロデューサーさっ、んが、変わって、いくっ、の、っずっと横でっ、見てるし、か、なくって、プロデュー、サー、さんが、つらっ、い、時に、わたし、何にもでき、できなく、」

 私は、プロデューサーさんが変わっていくのを、見ている事しかできなかった。

 それ以上意味のある言葉は春香の口から洩れず、春香はごめんなさいと言い続けながら泣いた。
窓の外に降る雪は一向に止む気配を見せず、風のない外に積もる白は途方もなく無邪気で、激情を隠そうともせずに泣く春香を慰めるでもなく見守るでもなく、プロデューサーは己の余りにも黒い身を思う。

―――わたしの、ぷろでゅーさーさんに、なにをする。

 信じていた奴がいた。いつかこうなりたいと思っていた背中があった。
 その背中は突然いなくなり、打ち倒すべき敵として目の前に現れた。
 あんなに信じていたのに、憧れていたのに、目標にしていたのに、そんな奴に裏切られて、世界から色が消えた。
 そうして、周りを見ず、ただ目の前の敵をうち果たすことだけを考えて仕事をしてきた。
 何を犠牲にして何を無くして何を得るのか、そんなことすら考えずに仕事をしてきた。

 その挙句がこのザマだ。

 自分は一体、何をしていたのだろう。
 なぜ、一人でやろうなどと思っていたのだろう。
 どうして、一番近くにいた人の事すら、信じようとしなかったのだろう。

 春香は今、他の誰でもない俺のために、泣いているのだと思う。

「…春香、俺はさ、『大江さん』に憧れてたんだ」
 身を切るような慟哭がすすり泣きに変わるころ、プロデューサーはベッドわきに移動させた椅子に再び座り、つむじしか見えない春香に向かってポツリと呟く。
春香は返事をしない。それでも構わないと思う。
「春香は知らないかもしれないけど、あの時のあの人はすごい人でさ。担当してたアイドルはどれも軒並みAランクでさ、全然名前の売れてなかった765を業界のトップまで持ってったのもあの人でさ。俺もいつかああなりたいって、去年の今頃は本当にそう思ってた」
 春香の顔が上がる。泣きはらした目でこちらをじっと見る春香の顔を、プロデューサーはおそらく一生忘れないと思う。
「いつかあんな風になりたい、いつかあの人と肩を並べられるようになりたい―――あの頃の俺は、そんなことしか思ってなかった」
 プロデューサーは目を閉じる。
もう10年も昔の事のように思える春の入り口のあの飲み会を、もう100年も前の事のように思える春香に初めて会ったあの秋の日の叱責を、もう1000年も前の事のように思える『後悔なんてない』と言った大江の顔を、プロデューサーは脳裏に思い描いている。
「ずっとずっとそう思ってた。あの人と同じ目線でアイドルを見てさ、あの人がやってたライブもいつかはこの手でやってさ。俺はあの人の後輩だから、あの人がやってた事はいつか全部やって、そうしたら、」

―――いつか、
いつか自分も、あんな風になれるだろうか。誹謗や中傷を笑いながら受け流してアイドルを支え、自分の信じる道を突き進む背中になれるのだろうか。
自分は765のプロデューサーであると、そう胸を張って言える自分に、なれるだろうか。

 そして、その胸を張れる765のプロデューサーは、まさしく大江だったのだ。
 大江、だったのに。

 春香が顔を上げる。プロデューサーは目を開けない。
音のない薄暗くて真っ白な病室の中、プロデューサーは心に浮かんだ声を一つ一つ出し続ける。

「そうしたら、俺も『プロデューサー』になれる。そう思ってた」

―――お前はお前の考えるプロデューサーになればいい。
―――…アイドルを、ちゃんと支えられるプロデューサーになりたいです。

 そうして、憎しみと怨嗟の果てに行きついた今の姿は、自分の考えるプロデューサーとは似ても似つかない、プロデューサーとは果てのないほど遠い『何者か』の姿だ。
 やっとわかった。
 自分は、『プロデューサー』ではなかったのだ。

「そう、思ってたのにさ」

 765のプロデューサーでよかったと、心の底から思えた一瞬があった。
大江の裏切りでとっくの昔に色褪せてしまったあの光景は、とっくの昔に色あせたくせに未だにその輪郭をはっきりと網膜に宿している。
 目を開ける。どこまでも静かな春香の眼は、その深遠で大きな瞳の中に余すところなくプロデューサーの姿を映している。
「大江さんが961に行ってさ、俺は裏切られたんだと思ったんだ。俺の理想が、俺の憧れが、俺の目標が、俺の―――俺の、一番信じてた人が、よりにもよって961に移籍してさ。今までやってた事は何だったんだなんて思ってさ。俺が追いかけてたあの人は、765を…俺を捨てて、ただ自分のためだけに遠くに行っちまった。そう思ったら、何て言うかな、」

 ぽつ、という水音を、春香は聞いた。
まさか雨のはずがなく、まさか雪が解けたわけでもなく、まさか廊下を歩く徘徊老人の点滴が外れて溶液がしみ出したわけでもない。
窓の外から差し込む雪光特有の凍てつくような逆行を浴びたプロデューサーの顎下に、光る透明な雫が見えた。

「…何て、言えばいいんだろうなぁ」

 人を信じる純粋な気持ちは裏切りとともに憎しみへと転じ、憎しみは心に巨大にも程がある穴をあけ、そうして辿りついた先がこの空洞な気持ちなのだと思う。
誰も信じない事で外界の何もかもを遮断して、大江よりも近くにいた春香の事すら信じようとせず、挙句の果てに『天海春香』などと言ういもしない誰かを駒に仕上げようとして、辿りついた先のこの気持ちは、まぎれもない、後悔だと思う。

「…大江を倒せればさ、『天海春香』が『四条貴音』を倒せればさ、俺はそれでよかった。でも違うんだ。『天海春香』なんていなかったんだ。そんな人形はどこにもいないんだ。俺は、そんなことすら忘れてたんだ」
 そうして、プロデューサーはようやく、春香に向かって深く深く頭を下げた。
「ごめんな、春香。俺は、―――俺は、春香の事すら信じてなかったんだ。誰も信じなかった。もう裏切られたくなくて、もうあんな気持ちになりたくなくて、一番近くにいた春香の事すら信じてなかったんだ」

 自分のために泣いてくれる、この最高の相棒の事すら、自分は信じていなかったのだ。
 そんな自分が『プロデューサー』を名乗るなど、おこがましいにもほどがあったのだ。
 そんな当たり前の事に、自分はようやく気付いたのだ。

 春香に謝ろうと思う。
こんな自分に付いて来てくれた春香に、こんな自分しか見せられなかった春香に、こんな自分をずっと信じていてくれた春香に謝ろう。
指をつめろと言われたら詰めよう。死ねと言われたら死のう。
許してくれなどとは口が裂けても言えない、自分で責任を取るなどと言う生ぬるい事などできはしない、春香の満足するように責任を
 その時、プロデューサーの頭に柔らかな何かが当たった。
入院着特有の薬臭に混じるのは仄かな石鹸と汗の香りであり、額に当たる感触は木綿の柔らかな感触であり、驚いて開けた視界に飛び込んだのは暗がりにもはっきりと分かる女性用入院着の薄桃色で、殴られた右頬のガーゼ越しに顔を挟むのは人の腕に違いなく、耳に障る感触は額に当たる感触とほぼ同じで、頭を包まれるようなこの暖かさは人の温もり以外の何物でもなかった。
 自分が春香に抱き締められているのだと、プロデューサーは思った。
「春香、」
 春香の腕に力がこもる。胸に頭を押し付けられるような格好のまま、プロデューサーは途方もない後悔を乗せて、
「ごめんな」
 そうして、歌が、

♪ もっと遠くへ 泳いでみたい ♪

 春香が歌っている。
プロデューサーを胸に抱きとめながら、両腕でプロデューサーの頭を抱き締めながら、もう10000年も昔の事のように思える歌を静かに歌っている。
プロデューサーは黙ってそれを聞いている。途方もなく暖かな春香の温度を感じながら、プロデューサーの脳裏に遠き日のあの思い出がよみがえってくる。

♪ 光満ちる 白いアイランド ♪

―――…大江さん、僕、ホントにプロデューサーになれるんですかね。
―――自信ねえの?
―――あったらこんな事聞きませんよ。あー止め止め今のなし、明後日大江さんが素面になってたらまた聞きます。
―――プロデューサーって、一人でなるもんじゃないからな。

♪ ずっと人魚に なっていたいの ♪

―――アイドルもだ。一人でアイドルになるんじゃない。
―――…どういう、事ですか。
―――小学生の頃、二人三脚ってやっただろ。あれと同じだよ。プロデューサーが半人前のアイドルを支えてさ、アイドルが未熟者のプロデューサーを支えんだ。他はどうか知らんがな、765のプロデューサーってのはみんなそうやってやってきた。

♪ 夏に 今 Diving ♪

 歌が終わり、静寂が戻った病室の中、目を閉じたプロデューサーの耳に、春香の声が降る。
「プロデューサーさん、」
 プロデューサーが顔を上げると、本当に鼻先が触れ合うような距離に、天海春香はいた。
「元気、出ました?」
 泣き腫らした目で、生涯一度も笑った事がないんじゃないかと思えるような不器用にも程がある顔で笑う春香を、プロデューサーは本当に、
 本当に、綺麗だと思った。

 やっと分かった。大江があの時行っていた言葉の意味が、今ようやく理解できた。
大江と交した最後の飲み会の席、酒に呑まれながらそれでもなお意味を失わなかったあの言葉が、今ようやく実感として腹の中に染みいるのをプロデューサーは感じた。

―――俺達に出来るのはな、担当のアイドルを信じ抜くことだけだよ。それだけ出来りゃ何も、

「…うん。元気出た。今なら何でもできそうだ。…あのさ、春香」
 本当に今なら何でもできそうだった。
どんな難解な営業でも何とかなりそうな気がしたし、どんな無茶な要求でもできそうな気がしたし、どんな複雑な事務でも処理できそうな気がしたから、どんな営業よりも要求よりも事務よりも難解で無茶で複雑なこの『声』を、春香に伝えようと決めた。
「はい」
 ごめん、ではなかった。
 もっともっと、春香に伝えるべき言葉が、プロデューサーの中で形を成した。

―――なにも、後悔なんてない。


「ありがとう」


 春香の両腕が、今度こそ明確な力を持ってプロデューサーの頭を抱きしめた。
 暖かな春香の胸の中で、プロデューサーはこう思う。
 春香を、信じよう。
 他の奴の事なんか知らない。小鳥やピヨネットが何を考えていようがどうでもいい。大江が961に行った事は許せないし、自分たちを貶めようとした高木の事も信じれないかもしれない。
 それでも俺は、春香の事を信じよう。
『天海春香』などではない、誰かを元気にしたいどこかの誰かではない、今自分を抱きしめてくれるこの暖かな少女を、今度こそ信じよう―――そう思った時、プロデューサーの中で凝り固まった憎しみが不思議と薄らいでいくのを感じた。
心の奥深くまでしみ込んでいた憎悪がじわりと浮き上がって消えていくような、形容のしがたい気持ちが腹の中に湧き、プロデューサーはようやく、本当にようやく、4カ月ぶりに人並の眠気を覚えた。



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