声 (46)

―――若いの使って何枚か5次予選のチケット取ってあるから! あ、Bの18席から23席で旗振ってるのいたらうちのだからさ、手とか振ってくれたら嬉しいな。

 基本的な話として、IU予選とはあくまでもIU本戦に出場するアイドルをふるい分けるための、文字通り予選としての機能を期待されている。
いかに予選後に通過したアイドルによるエキシビションが行われているといっても所詮それは選別行為そのものの残滓であって選別行為ではなく、そして総会に限らずショービジネスの経営者とはリハーサル行為を客に見られる事をひどく嫌う。
ビジネス的な観点からすればリハーサル行為を公開してしまう事で本番の参観料が値崩れする可能性があるからだ。
だからこそ大抵のショービジネスではリハーサルを部外者厳禁の環境で行うのだし、珍しくもリハーサルを公開するときは演目を通しでやらない、事前の期待値が高い出演者はリハーサルに出さないなどの措置を取る。
それらは全て本番の成功のために行われている経営上の判断であり、今回春香や貴音が参加するIU5次予選の場合の経営上の判断を下すのは全国芸能界総会の関東支部である。
 関東芸能界総会はその理事を始めとした重役たちが揃って全国芸能界総会幹部に名を連ねる総会各支部の内もっともコアな支部であり、来月に控える記念すべき第1回アイドル・アルティメットの会場が関東支部会場で行われることになるのはある種自明の理であり、その会場はといえばプロデューサーが一昨年の秋に世にも情けない顔を大江に披露した全国芸能界総会総本部である。
総本部は大小15の会議室と3万人規模の客席を備えるビジネスコンサート会場であり、関東近辺のコンサート会場としては最大級の規模を誇っており、目下総会の上部構成員たちは来るべき1カ月後のアイドル・アルティメット本戦に向けたアナウンスに並行して当日に予想される混雑をいかに回避するかという事に頭を悩ませる日々を送っている。
注目すべきは予想される混雑という点であり、最早自業自得というほかないこの悩みは本性が『資金繰りが苦しいから年4回あった大型ライブを集約してコストパフォーマンスを向上させる』という事であっても建前上『分散していた大型ライブを集約することでファンたちの満足度を向上させる』ために発生したものであるからして不可避であり、ではピヨネットの言うアホの子飼いたちがどこに悩んでいるかといえば『ファンの満足度向上』の点である。
 前述の通りアイドル・アルティメットはお題目としてファンの満足度を掲げており、この点で連中は従来のライブパフォーマンスに注目した。
従来のライブパフォーマンスとは一人のアイドルないし複数名で構成されるアイドルユニットが壇上で歌舞を披露し、ファンはそれを『見て満足する』という構図である。
従来であればこの現象に逆転はなく、要するにアイドルからファンへという一方的なコミュニケーションの場としてのみライブパフォーマンスは機能する。
翻ってアイドル・アルティメットはその本質として選別の意味合いを含むが、従来型パフォーマンスはその一方通行性ゆえにファンは満足または充足を得こそすれ、選別者とは成りえない事で本質的には『アイドル・アルティメット』への参加者ではない。
いわばファンはあくまでも『観察者』であり『傍観者』であるのだが、ここにギミックを加えることでファンにもアイドル・アルティメットに参加してもらおう、という無謀にも程がある発想をアホの中の誰かがした。
 つまり、従来は十分な経験と知識のある審査員によって行われていた選別行為の片棒をファンにも担がせようという腹である。
来場したファンにはあらかじめ一人一票の投票権を与えておき、アイドルたちのライブパフォーマンスを一通り見た後でファンによる投票を実施する。
判定は審査員による得点にプラスしてファンの投票によって決定し、それにより第1回アイドル・アルティメットの覇者を決める、というものだ。
ファンにしてみればお気に入りのアイドルに一票を投じるもよし、ステージを見て心動かされたアイドルがいるならそれに投票するもよしであり、従来型にはない『参加感』を与えることで満足度を向上させようとするこの試みはしかし、その投票行動および投票方法の選択如何によっては恐ろしいほどの混雑が予想された。
すでに全国で開催されているIUの予選は爆発的な知名度をもって世間を圧倒しているし、曲がりなりにも5回もの選別行為を経て本戦へと出場するアイドルたちはどれも粒ぞろいには違いなく、間引きと淘汰によって数を減らしたアイドルのファンたちは生き残った猛者たちの後援者と合流している。
紙とペンで平和的な投票行動が行われるのなら政治紛争は存在せず、ボールとバルーンで勝者を決めるにはIUは余りにも規模が大きくなり過ぎた。
 そこで、アホどもは頭をひねる。
 そもそも混雑が想定されるのは今までやった事のない事を行おうとしているからだ。
混雑して当然である、何せ初めての試みなのだから。
そして、全国芸能界総会の役員に名を連ねる重役たちが掌握する関東芸能界総会の主催において、『初めてだから失敗しました』などというお粗末な結末はまかり間違っても許されるものではない。
ならばどうするか。

「アホの結論はな、最初じゃなくしちまえばいい、ってことだった」
 大江はそう言って、階下で騒ぎに騒ぐ『審査員』たちの嬌声に眉をしかめた。
貴音は一つだけ頷き、ビリビリと不快な振動を与えてくる床下にうんざりとした視線を投げる。
本部に大小15ある会議室はホールの真上に位置しており、そのうちの6つは現在出演者たちに個別の控室として提供されていた。元々が会議室だったせいか鏡台もロッカーもない控室には特設の鏡が据え付けられており、本来ならば部屋を四角く取り囲む折り畳み式の机は現在足を折られて壁に立てかけられている。
「…つまり、今回はIUの5次予選であると同時に本戦のテストケースである、という事ですか」
 今回の『四条貴音』の出番は3番手であり、今までのIU予選では3番手といえば昼くらいに会場にいれば十分予選に参加するための余裕は見れていた。
が、今回に限っては総会から「全参加者は予選開始時刻より会場にて待機」という命が下っており、大江と貴音が何事かと思いつつ会場に来てみれば今までとは明らかに毛色の違うファンたちがいたという話である。
大江はすぐさま運営委員の詰め所に行って事情を聴きだし、貴音は貴音で衆目に触れないように裏手からの会場入りを余儀なくされた。が、よく見れば表門の混雑を回避して会場入りをしようと考えていたのは何も貴音だけではないらしく、ちらりと見た後姿はどこかで見たようなリボンを二つ頭に着けていた。
 貴音の相槌にそういうこと、と大江は頷き、
「今回の会場の客席にはボタンが7つの端子が配布されてる。右から順に1から7までの番号が振ってあってな、気にいったアイドルの番号を押せばそれがそのまま投票になる仕組みだ。もちろん今回はテストケースだから得票配分としては低いし公表もないんだが、それにしたって票には違いない」
「…要は、ファンの…審査員の皆様に、媚を売れ、と?」
 もちろん自分に非がある事は十分すぎるほど承知しているが、貴音の言葉に滲んでいるのは棘だと大江は思う。
10号を取るか貴音を取るかの設問には未だに回答が出ておらず、時間は無情にも進んでいき、遂にはIU5次の本番を迎えてしまった。おまけに昨日のカミングアウトで大江は余り寝ていない。

―――亡国の王女を無き祖国に戻す。我々はそのために、『四条貴音』をデビューさせたんだからな。

 コイツ、どんなお姫様だったんだろうか―――大江はそう思う。
「そう言うつもりはないが、だがまあ言葉を飾らなきゃそう言う事だ。今回のターゲットはあの3人だけじゃない。愛想振りまくのも大事なことだ。…お前だって分かってるんだろ?」
 我ながらどうしようもないブラフだと思う。
不敬極まりない言い方であるが、大江にとっての天ちゃんの仕事はアルカイックスマイルで肘から先を左右に動かすことである。
あれを愛想と言っていいのかどうかは微妙なところだが、しかし大江にしてみればあの一家の仕事はそれ以上でもそれ以下でもない。
 そして貴音は大江の言葉を聞き、笑ったのか笑っていないのか判断に困る表情を浮かべ、
「―――王は、常に孤独なもの。いかに余人が私を持ち上げようと、それはあくまで『四条貴音』という個人の表層に過ぎません」
 あるいは国政などというキナ臭い環境に貴音はいなかったのかもしれないし、よしんばいたとしてもその時の貴音の仕事はおそらく大仏とどっこいどっこいの代物だったのかもしれないとは思う。
思えば自分は貴音の正確な年すら知らないが、恐らく貴音は17やそこらなのだとは思っているし、という事は8年前の貴音は10歳行くか行かないかのガキであって、貴音の血筋がどこの神仏に保証されたものであっても10のガキに国政というのもなかなか明るくない話ではある。
貴音の言う「孤独なもの」というのは大江の考えるところ所詮は理想論であり、大抵政治というのは愛想笑いと袖の下という二重三重のトリックを使って回していくものであって、どこかの教科書で学んだかのような理想論を振りかざして距離を置くやり方で統治がうまくいくのならば出版業界はこの世の覇者であるはずである。
 しかし、それにしては、
「だから言っただろ、裸の王様にゃ誰も付いちゃ行かねぇよ。世の中っつーのは一人で回していくもんじゃねぇ」
 それにしては、である。
貴音の言う「一人」には随分と実感がこもっているような気もしないでもない。
黒井やあの松本とか言う男は貴音の祖国が「8年前に無くなった」と言っていたし、ひょっとしたら貴音の言う「一人」にはそのあたりの事情が絡んでいるのかもしれない。
 溜息をついて言葉を継ごうとした時、貴音は静かに口を開いた。
「少なくとも、ステージで歌うのは私です。なれ合いや妥協で残った参加者たちの後塵を拝するつもりは毛頭ありませんし、」

―――私に―――プロデューサーなど、必要ありません。

 大江は腹の底で静かに溜息をついた。
一時期丸くなっていた時もあったが、やはり四条貴音は骨の髄まで四条貴音なのだろう。
昔の貴音の事は知る由もないが、今の貴音にとっては周りの人間は全て「ライバルかそうでないか」なのだろう。
自分を高みに導く者か、それとも自分の足元に蠢く歯牙に掛ける必要もないその他大勢に属する者かという2極でのみ、今の貴音は人物評価を下すのだろう。
 そして、一時期とはいえ丸くなっていた貴音を再び角ばらせてしまったのは他でもない、自分なのだろう。

「大江様もまた、私と共に歌っているわけではありません」

「…そうか。そうだな」
 貴音を取るか10号を取るか。
その単純にして途方もない二者択一の選択を延ばしに延ばした先にあるのが、今の貴音の棘なのだろうと思う。
貴音の鋭い眼光に臓腑を抉られるかのような感覚を覚え、大江は湧き上がりかけた衝動を無表情の仮面で潰し、喚き散らしたくなる喉元に焼き鏝を押しつけて、非情な発破を貴音に掛ける。
「だが、俺の仕事はお前をトップにすることで、お前が俺の事をどう思ってようがそれだけは絶対だ。たかが予選だがされど予選だ、こんなところで落ちねえようにこっちの指示はきっちり見とけよ」

―――…それで、あんたは自分の夢を追いかけることにしたのか。765を捨てて、人形作って、『アイドルマスター』になるために961に行ったのか。

「……」
「貴音?」
「…ええ、承知しております。大江様の仕事は『四条貴音』をトップに―――この国の頂に立たせること。それ以上でもそれ以下でもなく、それは『四条貴音』の望み」
 どこか頭の後ろの方で、10号の声が聞こえた。
あの時の10号の表情は網膜に焼き付いている。10月のウソ臭いほど晴れ渡った青空の下、雲ひとつない晴天の下にある自分を見つめる後輩の非難と虚脱に満ちた眼差し、裏切り者を糾弾する口調にしては今一つ迫力に欠けたその表情は紛れもなく、信じ切っていたものに裏切られた絶望を体現していた。
 あの顔は、たった今貴音が見せた表情に酷似していた。

―――…貴音とさ、友達になってやって欲しい。

 俺は、一体何をしてるんだ。
 春香に貴音の友達になってほしいと頼んだのは、貴音に逃げ道などない事を感じていたからではなかったか。
貴音が骨の髄まで天涯孤独であると感じていたからこそ、ライバルたる春香にそう願ったのではなかったか。
矛盾している。貴音を人形として扱う事で表面的とはいえ黒井からの信用を得て961に潜り込んだのは『第10号プロデューサー育成計画』のためだ。
そのために、俺は貴音を最後までモノとして扱う事を決めたのだ。
そのためだけに、古巣を抜けだして奔走してきたのだ。
 なのに何だこのザマは。あいつの表情が貴音の表情に重なっただけでこうまで後ろめたく感じるのなら最初からやらなければよかったのだ、ともにプロデューサーとしてあいつと手を取って戦っていればよかったのだ、矛盾している、俺は決めたんだ、最後まで計画を進めると腹をくくったんだ、ならばなぜ遠藤を売るような真似をしたんだ、俺は、

「―――江様、大江様?」
 声に顔を上げると、顔を覗き込むようなアングルの貴音と眼があった。
脳髄のどこかに残るめまいの残滓を振りはらい、大江は一言「何だ」と呟く。
「何だ、はこちらのセリフです。大江様、体調が優れないのでしたら横になっていてください。まだ私の出番までには時間があります」

 止めてくれ、

「ああ、いや、大丈夫だ。昨日も遅かったからな、多分寝不足が響いただけだ」
「…体調管理は私たちの最も基本的な仕事だとおっしゃったのは大江様です。横になれば多少なりとも違うはずですが」

 止めてくれ、

「、ホントに大丈夫だよ。この程度大した問題じゃない。お前が5次を抜けたところ見たらゆっくり寝るさ」
「そうは仰いましても、お顔色が優れません。手遅れになってからでは遅いのです、どうかお楽に、」

 頼むからやめてくれ。
 心配なんかしないでくれ。
俺はお前に心配されるような奴じゃない、俺は、お前を利用しているだけなんだから。
別にお前じゃなくてよかったんだから。お前じゃなくても、961の誰かならよかったんだから。
お前である必要なんかなかったんだから。
 お前にそんな顔をさせたのは、俺なんだから。
 お前に信じてもらえる資格なんか、最初から持ってなかったんだから。

「…そう、だな。じゃあ少し横になるよ。多分うるさくて眠れないだろうが、もしスタンバイ時間になっても起きて来なかったら俺の事は放っておいて先に行ってくれ。俺も―――」
 『後から必ず行く』。
たったそれだけの言葉が、大江の口からは終ぞ出て来なかった。
貴音は大江の顔を30秒ほど眺め、やがて意を決したかのような表情で口を開きかけ、しかし結局何も言うことなく大江に背を向けて、「水を取ってまいります」と言い残して控室を出て行った。


 矛盾している。
 上着を緩衝材代わりに頭の下に突っ込むと、階下からの騒音がほんの僅かに小さくなった気がした。
大江は混雑した頭を整理しようと人のいなくなった会議室の空気を肺いっぱいに飲み込み、しかし吐きだしたところで頭はまるで整頓できず、寝返りを打ったところで頭にガツンと何かが当たった。
何かと思って上着のポケットをあさり、出てきたものは劇薬だった。
「あー………」
 昔の自分が何をしたかったのか、今の自分が何をしたいのか、その劇薬は無言のうちに大江に語りかけてくるようだった。
 劇薬の名前は、マイルドセブンと言う。



「…じゃあつまり、今回の予選の審査員はたくさんいるって事ですか?」
 うんそう、とプロデューサーは頷き、春香は春香でうーんと呟いて足元から響いてくる歓声に感慨深げに耳を傾ける。
今回の春香の出番は5番手であり、これはプロデューサーにしてみれば当日に降ってわいたトラブルである。
 どんなライブでもコンサートでも、盛り上がるのは大抵最初か最後だ。
歌う方が人間なら聞く方も人間であり、そして人間に限らず生物とはある一定期間に区切られた活動をする場合必ずいつかのタイミングで手を抜く瞬間が生じる。
要は中だるみという奴だ。出演者は一人一曲だから中だるみなどしようがないが、この方式の審査員は忍耐と集中をトレーニングしたわけでもない普通のファンたちである。
ツンデレオカマヒップホッパーの3人はあれで場数も経験も半端ではないから予選の最初から最後まできっちりとした審査をしてくれるのだろうが―――そう願いたい―――、あれと同じクオリティの審査を一般人にまで期待するというのは端から酷ではある。
「あれ? でもIU予選って6組しか参加しませんよね」
「うん。春香と『四条貴音』とあとどこだったかな。ドタキャンとかはさっきの時点では何も報告されてないみたいだったから、倍率3倍のオーディションだね。いつもと同じ」
 来て早々の混雑に度肝を抜かしたプロデューサーは、春香とともに裏口から会場入りした後、控室代わりの会議室に春香をおいて運営に混雑の原因を確かめに行っている。
そこで聞き出した審査方法の変更と会場の混雑に対する謝罪を春香にそのまま伝えると、春香は極めて安直に「今回の審査員は3人ではない」と言うところで理解したらしかった。
運営に掛け会った際に見た壁かけの出演者情報表には一人分の空欄もなく、プロデューサーの視線の先を見た古株の運営委員は溜息をついて「師弟揃って同じ質問をするのか」という趣旨の発言をしている。
「で、各ユニットにつきボタンが一つ割り振られてるんですよね」
「そうだよ。会場の審査員たちはアイドルのステージを見て、気にいったらそのアイドルのボタンを押すんだ。一人一票って話だったけど、今回のファン投票は発表されないからね。結果は最後のお楽しみだ」
「じゃあ、7つ目のボタンって何なんですか?」
「ああ、キャンセルボタンだってさ」
 春香は首をかしげ、プロデューサーは運営に配布されたパンフレットをめくり、
「そもそも、この投票方式って一人の持ち分が一票なんだよ。だけど投票するタイミングは完全に任意なんだ。だから投票行為を一旦無効にするギミックを設けることで、投票の公平性を担保する狙いがあるんだって」
 春香は首をかしげる。プロデューサーは相変わらず足元から響いてくるさっさと開演しろコールに溜息をつき、
「例えばさ、春香が今日ファンとして会場に来たとするよ。で、最初のユニットの歌を聞いて、いいなーと思ってそのユニットのボタンを押す」
「はあ」
「これで一票だ。もうこれ以上春香は他のユニットには投票できない。で、2番目のユニットの歌を聞いて、正直最初の方がよかったなって思ったとする。その時は最初のユニットに投票した事を後悔したりはしない。問題なのは、3番目が最初より良かった時」
 春香は「ああ」と頷き、
「3番目に投票したくても、出来ないですね。もう自分の票は無くなっちゃってるし」
「そう。その時に7番目のボタンを押す。そうすると最初のユニットに入れた票が戻ってきて、春香はもう一度投票するための機会を得られる」

 現実には恐らくありえない話だろう―――プロデューサーはそう思う。
当たり前の話だが、「ちょっと面白そうな事やってるから覗いてみよう」程度の根性で取得できるほどこの会場のチケットは安くない。
この会場に詰めているファンたちのほぼ全員が「誰かお目当てのアイドルがいるファン」であり、当然のことながらそれらの票はお目当てのアイドルに注がれる。
要は浮遊票など望むだけ無駄であるという事であり、ではキャンセルボタンがその効力を発揮するのはどのタイミングであるかと言えばファンが『浮気』したその瞬間である。
 つまり、元々お目当てのアイドルがいるファンに向けて、僅か一曲で元のお鉢を動かすようなアピールをしなければならないという事になる。
だが、面白そうだから覗いてみよう程度の根性で取得することなど到底できない会場に集まったゲストたちの心を動かすようなアピールを、僅か5分に満たない会場で行う事が果たして現実的かどうか。
 恐るべきことに、この選別方法はアイドルが会場に入る遥か以前から審査が開始されている。
投票権を得られるのは会場にいるファンのみであり、会場にいるファンはその大多数が「誰かお目当てのアイドルがいる」。
要するに勝敗の確率は会場入りできるファンが決まった時点でほぼ決定しており、この点で審査の妥当性に陰りがみられる。
妥当性の担保をどのように確保するかという明確な案は資料を見る限り見つけられないし、レギュラー審査員3人とゲスト審査員たちの配票にどのように重み付けをするかという説明も一切なされていない。
純粋にファンの数の勝負になる―――プロデューサーはIU5次予選、そしてアイドル・アルティメット決勝の事をそう考えている。
「まあでも、やる事はいつもと一緒だよ。春香は春香の想いを歌う。審査員たちはそれを聞いて、春香がいいなと思ったら春香に投票する。テクニックだけじゃない、春香が何を伝えられるかが勝負だ。…それは、得意でしょ?」
 では、この審査方法で勝ちを拾うために必要な事は、何か。
 入場チケットはコンピュータによる厳然たるランダム抽選であり、ここに組織票や恣意を挟む余地がない事は資料に明記されている。
ならば―――アイドルが会場入りする前から勝負が始まっているのなら、アイドルが会場入りする前から勝負を仕掛けておけばよい。
要は会場入りできるゲストの中にこちらのファンがいればいるほど有利なのであり、しかし誰が会場入りするかを操作できるものは存在しない。
ならば、コンピュータに選ばれるファンが春香のファンであればよく、結果選ばれた幸運なゲストの中の春香のファン比率が高ければ高いほど勝ちを拾える可能性は高くなる。
 では、「コンピュータに選ばれるファンが春香のファン」である可能性を高める方法は何か。
IU予選会場の外及び、IU予選・決勝のチケット販売前に天海春香の事を知らしめる手段とは何か。
 それこそが営業活動であり、プロデューサーの最も重要な業務である。
 つまり、今後のIUは全て普段の営業活動の結果が当日の結果に結びつく。
どれだけの営業活動をこなせたか、どれだけの営業活動を効率的に行う事が出来たか、どれだけの営業活動を通して春香の事を売り込めたかが勝負であり、それは『アイドル』の勝負ではなく『プロデューサー』の勝負である。
「…プロデューサーさん、それってつまり、皆に私がいいなって思わせる事が重要ってことですか?」
 そんな事を思っていたら、春香からそんな問いかけが来た。
要はファンに媚びろという事か―――春香のそんな言葉には若干の非難が見て取れる。
なるほど、もしキャンセルボタンが効力を発揮するのであればそれは紛れもなくファンの『浮気』を期待しての事なのだろうし、春香にしてみれば他のアイドルのファンを奪うような真似をしなければならない事に抵抗があるのかもしれない。
「…うん、そうだね。一面ではそれも事実。勝負だからね、誰かが勝つなら誰かは負ける」
 春香はそうですかと呟き、足元から響く嬌声に視線を投げ、次いで透視するような目つきで壁向こうを凝視する。
会議室は並列に並んでおり、この薄壁一枚を隔てた両サイドには春香と同じステージに立つライバルたちが来るべき本番に向けて最後のミーティングを行っているはずである。
あと30分もしないうちに関東芸能総会の偉方がステージで華々しく口上を垂れ、そしてIU5次予選の幕は切って落とされる。

―――来年からプロデューサーだろ。本番30分前のアイドル放置すんのかお前。『30分もすれば落ち着く』なんてことあると思ってんのか。お前はあいつら一人で戦わせる気かよ。

 溜息のような笑いが出た。
「でもさ、春香。春香はそんな事考えなくていいんだ」
 え、とこちらを見た春香の表情にプロデューサーは笑う。
 今までの予選と今回の予選の本質的な違いは審査員がファンであるという事に尽きる。
であれば、勝ち残るためにはファンを味方につけなければならない。ファンを味方につけるという事は即ち、春香のではない他のアイドルのファンをも春香のファンに取り込まなければならないという事を意味する。
それは純粋なファンの「奪い合い」であり、今までの審査方法からすると今回の審査は極めて粗暴と言えるのかもしれない。
勝負の色合いが前面に出てしまっており、春香にとってはそれが余り好ましくはない事なのだろう。
 だが、
「どういう事です?」
「勝負だからとか、IUの5次予選だから、とか考えなくてもいいってこと。春香はいつもの通り歌えばいいんだ」
「いつもの、通り」
 呆けたような春香に笑いかけ、
「そう。いつもの通り。天海春香が考える歌を、ゲスト審査員にそのまんまぶつければいい。それを聞いてファンたちが何を考えるのかはファンたちの裁量だし、ファンの考えがどうなってもそれは春香のせいじゃない」
「―――そう、でしょうか」
「そうだよ」
 そうだとも。
 プロデューサーは思う。雪の降るあの病室で聞いた『太陽のジェラシー』には、勝ち負けなど足元にも及ばない途方もない優しさがあった。
「皆を元気にしたい」と言う春香の願いの体現があそこにはあった。勝ち負けに復讐を乗せた自分を正気に戻したあの歌は、まぎれもなく春香の心の歌だったのだと思う。
 春香の歌は勝負や何かで消費されるべきものではない。
春香だけではない、恐らくはこの会場に集った6組のアイドルの歌は、勝ちや負けで図られるべきではないとすら思う。
 春香の歌が聞きたいという根本に気づいた今、プロデューサーにとってIUはそのための舞台に過ぎない。
 第一、勝ちや負けなどと言った俗的な勝負の場は、今のこの会場ではないのだから。
「会場にいる春香のファンはね、きっと春香の歌が聞きたいんだ。IUの予選だからじゃない、天海春香の歌が生で聞きたいからここにいるんだよ。きっと他のアイドルのファンたちもそう。だから、春香は歌でその想いに応えればいい。IUだから何かしなくちゃって事は絶対にないんだ」
「……」
「―――…春香? あれ、俺何か変な事言ったか?」
 呆けたような春香の表情に次第に赤みが増していく。
何か変な事を言ったか―――自分の発言を顎に手を当てて考え出したプロデューサーを見、春香はふと力を抜いたようにへにゃりと笑って、
「プロデューサーさん、覚えてます? 私がまだ『太陽のジェラシー』を歌ってた頃」
「? ああ、覚えてるよ。IU1次のちょっと前だよね」
 春香はこくりと頷き、
「あの時もおんなじこと言われたなぁって。プロデューサーさん言ってたじゃないですか、『ファンの皆は天海春香の歌が聞きたいんだ』って。私のファンの人たちは、他の誰でもない、私の歌を聞きたいんだって。それを、思い出して」
 そんなこと言ったっけ、と思い切り顔に出たらしい。春香はぷくりと膨れ、
「あ、プロデューサーさん忘れてましたね。私結構その言葉に救われたのに」
 必死に記憶を引っ掻きまわすが脳味噌からそんな言葉はおくびも出て来ない。
最近は資料との各党ばかりしていたから海馬に残っているのはアポの取り付け方だけだ。古いトラクターのエンジンのような音を立てて唸りだしたプロデューサーを見つめ、春香はふと穏やかな笑みを浮かべた。

「―――おかえりなさい、プロデューサーさん」


 春香の事を卑怯だと初めて思った。
 そんな顔を見せられたら、この後どうやって春香と接すればいいのか。

「何考えてんだ俺しっかりしろ俺はプロデューサーで春香はアイドルなんだぞ春香はまだ16歳で今年17歳になるんだぞ5つ以上俺の方が年上なんだぞうろたえるな俺ここはIUの会場なんだぞしっかりしろ俺」
 小便を垂れながらぶつぶつと何事かを呟くプロデューサーはまさしく精神病を疑われる様子である。
結局あの後すぐに春香から「顔赤いですよ?」と言われてトイレに逃げてきたはいいが、早足で抜けてきた廊下では道行く大会関係者何人かに振り返られた。
自分にはこの後春香のステージサポートという大役が待っているのにこのザマは何だと思う。社会の窓を閉めてハンカチを口にくわえ、蛇口をひねるその瞬間に鏡越しに見た自分の顔はまだ赤い。
 これは一旦表に出て頭を冷やすべきではなかろうか―――そんな事を考えた瞬間、鏡越しによく見知った背中を見た。

 かつて追いかけた背中が、鏡越しに遠くなっていくのが見えた。

 大江の背中は、ひどく丸まって見えた。



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