声 (47)

 どこのどんな会社でも、従業員に対する福利厚生と言う奴がある。
有給休暇を始めとした福利厚生には様々な種類があり、メジャーなところでは住宅手当や提携している企業病院での診察費割引もそうだし、変わり種ではアミューズメントスポットの入場券割引などもそれに当たる。
では、最も日常的にお世話になる福利厚生であり、使う者と使わない者がはっきりと分かれる福利厚生と言えば喫煙室であろう。
 ところで、関東芸能界総会所属員にとってのヤニ部屋の評判はすこぶる悪い。
部屋が狭いとか空気清浄機がないなどと言うチンケな不評ではない。条件さえ揃えば会場の最上階にあって大都会の360度パノラマが楽しめるといえば聞こえはいいが、要は屋上フェンスのすぐ脇に灰皿がぽつんと置いてあるというだけの話である。
軒などという物はもちろん存在せず、雨が降ったらもちろん使えず、おまけに屋上までたどり着くような便利なエレベータは存在せず、とどめに19時を回ると防犯の都合というそれっぽい理由で施錠されてしまう真に残念な代物である。
 そんな屋上の灰皿の前で、大江は一人佇んでいた。灰皿の前で煙草を吸うでもなく、緑のペンキがはがれて久しいフェンスに両手を広げて体を預け、広がる膨大な数の入場できなかったファンたちを眼下に置きながら、その背中は何も考えていないかのように見えた。
 声をかけるのが憚られて黙ってその背中を眺めていたら、ふと大江の背中がもそりと動いた。
「…知ってるか? IU5次の入場券ってな、ネット予約開始2時間で売り切れたらしいぞ。最近の総会主催事業じゃレコードだってんで連中慌てふためいたらしくてな、端末の借入300台も増やしたらしい。あいつら自分たちのやってる事の影響力って考えたことないのかな」
「連中が搾り取られた残りカスだって話は何度か聞いてます。ろくでもない審査制度の事前連絡もなかったし、いい迷惑だしざまあ見ろだ」
 大江の背中が笑ったように揺れ、ようやく大江はプロデューサーに顔を向けた。
記憶にある最後の大江の顔は去年の10月のものだが、今の大江の顔はそれよりも幾らかやつれて見えた。
「よう、元気か? 風邪とか引いてないか? 顔の腫れも引いたみたいだな、2年近くやってみたプロデューサー課の居心地はどうだ?」
「…大江さん」
「小鳥さんも元気なんだろ? あの人相変わらず搾取占いやってんのか? ダンストレーニングルームのアンプの左側直ったか?」
「大江さん」
「高木さん元気か? あの人絶対煙草吸いすぎなんだよ、知ってるかお前社長室って出来たばっかりのときは壁真っ白だったんだぜ、今じゃ見る影もないけどな。ありゃ絶対高木さん将来は肺癌かなんかに」
「大江さん!」
 強い呼びかけに大江は黙し、黙ってプロデューサーに背中を向けた。
薄れる事のない憧れた背中は記憶の中で大きく、羊雲が僅かに浮かぶ2月の晴れ渡った空の下で見た大江の背中はあれから少し小さくなったように見える。
 1年は長い、とプロデューサーは思う。
 大江は、1年をどう思っているのだろうか。
「…茶番だよなぁ」
 大江はぽつりとそう漏らした。
「何が」
「茶番だろこんなの。お前も聞いてるよな、今回の審査員って3人じゃないんだぜ。音楽のおの字も知らないような連中に審査やらせるんだってよ。何聞いて評価すんだか。大体何だよキャンセルボタンって。誰が押すんだっつーのあんなの。だから総会の連中は」
「絞りカスなんでしょ。あんなの単なる人気投票だ。俺だったらあんな真似はしない、ネット投票か何かした方がよっぽど安上がりで混乱もない」
 大江はここで初めて笑った。久しぶりに見た先輩の笑みにプロデューサーもまたニヤリと笑う。
「気付いてたか」
「誰だって気付くよ。7番目のボタンはブラフだ、あんなもの会場で押す奴なんか万に一人もいやしない」
 大江もまたそう思っていたに違いない。もっとも、担当のアイドルをここまで連れてきた各社のプロデューサー陣もまたそんなお為ごかしに気づかないはずがない。
 事ここにきてようやくIUはその真価を発揮しようとしている。今までの結果だけが評価されるオーディションとは違う、舞台に至る過程が審査されるオーディションが階下で今まさに始まろうとしている。
「でも、だからこそいいのかもしれない、とは思うよ」
 プロデューサーの声に大江は目を僅かに開き、
「そりゃどういう意味だ。絞りカスの発案にホイホイ乗っちまうような後輩に育てた覚えはねえぞ」
 裏切り者が何を偉そうに。プロデューサーは破顔して大江の横に歩を進める。
会場を取り巻く群衆は無情無慈悲なコンピュータによって選ばれなかったまつろわぬ民であり、既得権益に閉じこもる富裕層を取り囲むデモ隊のようなファンの群れに笑みの交じった溜息をつく。
ちらりと見たIU決勝のパンフレット草案には会場に入れなかったファンのために関東近辺のドームを貸し切って超大型のプロジェクターを設置する構想があるようで、最後とはいえ予選でこの混雑なら決勝のその日総会は一体幾つのドームを貸し切る羽目になるのだろう。
「春香たちに、そんなキナ臭い話をしないで済む」
 大江は5秒ほど押し黙り、
「『IUは勝負の場だ。お前は他の4人を押しのけてトップに立たなければならない』―――そんな事を言わなくてもいい、ってことか?」
 プロデューサーはこくりと頷く。
大江の胸ポケットは昔のように四角く膨らんでいて、中身が煙草のボックスであるとすぐに知れた。プロデューサーは喫煙者ではないから分からないが、ヘビースモーカーだった大江には何か未練のようなものがあるのかもしれない。
「詭弁だろ。審査されるってことは勝ち負けがつくって事だ。誰かが勝てば誰かが負けるってことだ。自分とこが勝てばいいが、自分のところが負けた時お前はアイドルにどう言うんだ。まさか自分のところの悪かったところでも言うつもりか?」
 大江の表情はまるで鉄仮面のように固い。
それは1年もの間下について自分から学んだはずの後輩の不出来に憤慨しているようにも見えるし、あるいは何か他に言いたい事を我慢しているようにも見える。
「…そん時は謝るさ。『俺のせいだ』ってね。ここから先のIUは、アイドルたちのIUじゃない」
 ぽっかりと浮かんだ羊雲が南へと流れていく。2月の陽射しが暖かい。
 まるで10月のあの時のような会場の屋上で、プロデューサーはどこまでも気負わず、途方もなくまっすぐな視線で、大江に向けてこう言った。

「ここから先は、プロデューサー(俺たち)のIUだ」

 大江の視線が、その続きを促していた。



 裏切られたと思ったのは自分の心の弱さ故である。四条貴音は自らをそう分析している。

 IU5次予選および決勝の舞台となる全国芸能界総会は前述の通り関東では随一の規模を誇るコンサート会場である。
大小15の会議室と3万人の収容人数を誇るホールを持つこの会場は全国の芸能界の元締めたる総会の根幹をなす独占所有物であり、サッカーや野球などに転用可能なドーム型会場とは異なる純然たるコンサート用に建築されており、ではドーム型会場とコンサート型会場の何が最も異なるかと言えば特等席の位置である。
通常ドーム型会場におけるライブチケットはSやAAAと称される最上席が最もステージに最も近く、チケットとしては最低ランクのCクラスになると最もお空が近い座席となる。
が、これがコンサート型会場になると話は多少異なり、最も位の低いCランク席が最もステージから遠い席となるのは同じだが最もステージに近い席はBクラスの扱いである。
これはひとえにコンサート型会場がステージからの音の反響や壁面素材の振動吸収率を考慮されて作られているからであり、ではAランク席はどこかと言えば会場の真ん中あたりの一角となる。
現在そこにはあくまでも主力の審査員である歌田音・軽口哲也・山崎すぎおの3名が陣取り、決して広いとは言えない前席との間隔を逆手にとってはめ込むように設置された机の上に参加者の譜面を並べている。
すでにIU5次予選は小太りの中年の鳴き声で緞帳を上げられており、先ほどまであれほどうるさかったゲスト審査員たちは端末を片手に固唾を呑んで1組目のユニットの登場を待っている。
 そして、四条貴音は今、予選参加者に解放されたS席から、その会場を見下ろしている。
 ホールは構造上ステージの高度が最も低く、C席が最も高いという大型の映画館のような構造をしている。
しかしここは腐っても全国にその名を知られる全国芸能界総会の本部会場であり、ちょうどC席の真上にはボックスのような出っ張りがせり出している。
その出っ張りの一角にはホールと対面する壁面は胸程度まである高さの豪奢な手すりがついており、申し訳程度の机と申し分ないほどのスペースが取られた椅子がゆったりと並べられているこの出っ張りがこの会場におけるS席の位置となる。
一流のアーティストたちによるステージを見ながら飯でも食おうと言いたげなその構造には賛否両論あるにしても、今の貴音にとってこの席は思考のドツボに嵌るには十分すぎた。

―――そうは仰いましても、お顔色が優れません。手遅れになってからでは遅いのです、どうかお楽に、

 裏切られたと思ったのは自分が大江の事を一方的に信じていたからであって、大江は大江の考えで貴音のプロデューサーをしているに過ぎない。
事実大江は別にプロデュースするのは貴音でなくても、IUで優勝を狙えるだけの素質がある人物ならば誰でもよかったという旨の発言をしているし、貴音は貴音で目的のためにIUで優勝を狙っていただけである。
月が煌々と照るあの川岸のファーストコンタクトから大江と貴音が手を組んだのはお互いの利害が一致していたからに過ぎないし、貴音の目的とは別に大江が何らかの目的を持って『四条貴音』というIU優勝を狙える器を利用していたというのは理屈では納得できる部分である。
 貴音はそう思っている。
 階下がにわかに騒ぎ出す。一組目のユニットがけばけばしいスポットライトを浴びて袖から転がるように走ってくる。
すぐにイントロが掛かり出す、一部ユニットのファンと思しき連中がドラムの代わりのようなコールを上げ始める、ユニットが息を吸って発声を開始する、貴音は3秒だけユニットの歌を聞いてすぐに思考の作業に戻る。
 ならばなぜ、あの時自分は重ったるい諦観の念を感じたのか。
理由は明白である。自分は並の人生に一度あるかないかの壮絶な経験を持ってこの世の真理を会得したというのに、その真理を大江と過ごしたたった1年間に満たないアイドル生活の中で封印してしまったからだ。
最も悪いのは生きとし生けるもの全てが理解しておくべき真理を閉ざしてしまった自分であり、その意味では『みんなを元気にしたい』などと白昼夢真っ青な事を言っていた数ヶ月前の能天気を全く笑えない。
 しかし、である。
 であるのなら―――と貴音は思う。
 それならば、大江に非が全くないのかと言えば貴音はそうは思わない。
そもそも最初から大江が自分の事を単なる器として扱ってくれたのならば、自分とてそんなふざけた勘違いはしなくてよかったのだと思う。最初から教え諭すような口調ではなくモノを扱うような態度を取り続けてくれたのならば、自分とて真理を封印したりはしなかったのだと思う。家電屋で暴走した自分を諌めたりファンレターを大事な物だと言ったり『天海春香』が最終的な強敵になるから注意しろなどと言ったり執務室の掃除を嫌がったりらぁめんを一緒に食べに行ったりしなければ、自分ならそんな勘違いはしなかったのだ、と貴音は思う。
 感情で言えば納得できないと思うのは、果たして自分が間違っているからなのか。
 許す許さないで言えば許し難い裏切りである。泣いて謝るのなら考えなくもないが恐らく大江の事だ、泣いて謝るなどと言う選択肢など端からないに違いない。
泥棒にも3分の理有りであり、思った方はもちろん悪いが思わせた方も悪くないとは誰も言えないだろうと思う。
 ならば、なぜ、自分はあの時、大江の事を気遣うような発言をしたのか。
 真理は明々白々である。誰しもが目的を持って何事かを行っているのであって、それが自分にとってプラスに働くなどと言う保証は世界中のどこを探してもありはしない。
それは当然のことであり、だからこそ人は最後まで一人なのであり、だからこそ自分は「たった一人でIUを戦い抜く」と誓ったのであって、そこに大江という強力な助っ人が加わったにすぎない。
それでも裏切られたと思った事は間違いなく、それは許し難い行為であり、泣いて謝るなどという選択肢が存在しない相手を許容するなど無理だと貴音は思っている。
 それでも大江の事を心配してしまった。
 なぜか。それを考えるとき、貴音は真理を得たはずの自分をどうしようもないと感じる。
 大江の事を心配したのは他でもない、大江の事を自分が信頼しているからではないか。
 『四条貴音』という器ではなく、四条貴音そのものが大江を信用しているからではないか。
 そもそも『裏切られた』と感じること自体が元々貴音が大江の事を信用していた証左に他ならず、そして大江に裏切られた事を理解した今もなお大江の事を心配するというのは、四条貴音は心のどこかで大江の事を未だに信じているからではないのか。

 あれは、嘘だと言ってほしいのではないか。
 プロデューサー大江は、『四条貴音』などと言う器ではない、四条貴音そのものを見込んでプロデュースをしていると信じたいからではないのか。
 IUを狙える『四条貴音』というアイドルではない、四条貴音という個人をプロデュースしていると言って欲しいのではないか。

 いい気なものだ、人はどこまでも一人なのだと、ただ純粋に自分のために何かをしてくれる存在などこの世のどこにも居はしないと理解していたし口にも出していたはずなのに、自分自身でも知覚できない心のどこかで、そんなことはないと思っていたのではないか。
 大江は、自分のためにプロデューサーをしていると思いたいのではないか。
 自分は、大江の事を今でも信じたいのではないか。

 では、今を以ってなお、四条貴音は大江を信じる事が出来るのか。

 それこそが、自分の弱さなのではないか。貴音はその事を自覚している。
そしてそれこそが、『天海春香』と話してみたいと思った理由だ。
『天海春香』と話してみたい。彼女がどうして裏切り続けたあの阿呆を信じ続けられたのか聞いてみたい。あの強さはどこから来るのか聞いてみたい。どうしてあんな歌が歌えるのかを聞いてみたい。
 貴音はゆっくりと眼を開け、未だステージで歌い踊る一組目のユニットに眉を顰め、他の参加者にそれと悟られないように視線だけでS席中を見まわし、
 椅子を3つ挟んだ横で目を閉じて揺れる、天海春香を見た。
 春香は眼を閉じてゆっくりと頭を揺らしている。寝ているのかと一瞬疑うが、すぐに揺れがステージから聞こえる雑音のBPMを2倍したリズムを取っているのだと気付く。春香は何秒かに一度目を開けてステージを見、また目を閉じてリズムを体に刻むという一見意味不明な行為に没頭しているように見える。
 春香の行為の意味に一瞬遅れて気付く。
 春香は『歌』を聴いている。
 信じられないと思う。IU最終予選のS席と言うだけあってBGMと歌声の調和はしっかりと取れており、階下から聞こえてくる野太いタップに目を瞑ればそれなりに聞こえる歌を歌っているとは貴音も思う。
思うがしかしそれはあくまでも客観論の立場に立てばの話であって、四条貴音は事実開始3秒で『聞く』という行為を放棄している。
が、その四条貴音が認めるライバルである天海春香は、まるで聴覚と僅かな視覚以外の全ての感覚を落として「それなりの歌」から何かを聞きとろうとしている。
貴音がライバルと認めるのは春香であり、と言う事は貴音にとって春香は自分に匹敵した力を持つ実力派であって、その一翼たる自分が歯牙にもかけない歌声から、必死に何かを感じ取ろうとしている。
 なぜだ。
 何を聞いている。
 貴女は、何を感じている。
 貴音の脳味噌が余りにも現実から乖離した事象に混乱を覚える。
IUとは競争の場であり、戦いの場であり、弱きは駆逐され強きのみが残る闘争の場であり、自分以外は全て敵で、いかに相手よりうまく自分を表現するかのみを競うべき場のはずだ。
それなのに、春香は自分より劣るはずの相手の歌から何かを得ようともがいている。プラスに働くはずがない、事によってはマイナスにすらなりかねない何かを得ようとしているように思える。
貴音もまた春香に倣って目を瞑り、必死になって春香が感じようとしている何かを感じてみようとする。
が、分かるのは雑音にも等しい階下の声援とそれなりでしかない歌の不協和音であり、耐えかねて目を開けても未だに春香は目を閉じている。
 貴音はこう思う。
 春香は、何を感じているのだろう。



「大江さんだって気付いてるはずだ。IUは、もう他のオーディションとは全く違うものになってる」
 プロデューサーは大江の顔をまっすぐに見つめる。大江もまたプロデューサーの顔をまっすぐに見つめ返し、視線だけで続きを促す。
その目はまるで有利を疑わない検察が苦し紛れに答弁する被疑者を見る目つきのようであり、あるいは1年離れた後輩が何を言い出すかと期待しているようでもある。
「春香たちには悪いけどさ、この会場での勝負なんてもうとっくに決まってる。会場入りした瞬間に決まる。さっきも言った通り、単純に勝ち負けを決めるならウェブ投票でも何でもすればいい」
 プロデューサーは革靴で野ざらしの屋上の床を軽く鳴らし、
「ここで審査なんか行われない。ここでやるのは、単なるライブだ」
「そうだな。ここでやってるのは単なるライブだ。ちょっと気合いの入ったファンサービスにしかなってない」
 やはり気づいていた。
大江は無機質に答案用紙の回答に丸をつけるかの如き視線でプロデューサーに向き合い、灰皿の上に誰かが捨てた葉っぱの残る煙草の柄に未練ったらしい視線を投げて、
「じゃあ聞く。勝負はいつどこで、何で決まる?」
 気づいているくせに。
プロデューサーは笑い、大江は鉄面皮を全く崩さず、足元で何かが爆発でも起きたかのような歓声が弾ける。
「言ったろ。これは俺たちのIUだ。勝負は俺たちの土俵で決まる。俺たちの土俵は、ここじゃない」
「―――パイのデカさは決まってる。勝ちを拾うのはデカいパイを切り分けた奴だ」
「切り分け方は、この会場で決まるんじゃない。チケットが配られてパイが出来上がった瞬間に決まる」
 大江は表情を崩さない。プロデューサーはまっすぐに大江を見る。
「じゃあ、どうやればデカいパイを食える?」
 これは答え合わせだ。
 プロデューサーは思う。僅か1年前に憧れるだけだった背中が目の前に有るのだと思う。手を伸ばせば触れられるところまで憧れは近づいている。同じ問いを与えられた二人のプロデューサーが今、キャリアや経験を超えて同じ答えを導き出している。
「始めから、デカい切り込みを入れておけばいい」
 大江は僅かに笑う。
 事は単純なのだ。チケットが配布される3万人の中の春香のファンが他のアイドルの比率より高ければいい。7番目のボタンが何の意味もない偽装と判明している今、たったそれだけのことでIUの勝負は決まる。
「じゃあ、2つ目の問題だ。お前の言うデカい切れ込みは、どうやったら入れられる?」
 それこそがプロデューサーの土俵だ。要は、ファンの比率を増やすためにはどうしたらいいのかである。
答えなど単純だ。そしてそれこそが、IUはプロデューサーのものだと考える由縁である。
「営業活動。アイドルの認知度を高め、歌を聞かせ、アイドルの想いを伝えて、ファンを増やす。ファンを3万人の中にいかに増やせるかで、勝負は決まる」
 大江は先ほどよりも僅かに大きく笑う。プロデューサーもまたニヤリと笑う。
挑発的な笑みをかわしながら、大江は最後の問いを投げる。

「3つ目。そこまで気づいて、どうする? お前の言ってた765のバックアップは使えない。お前はたった一人で俺を含めた全国トップクラスのプロデューサーたちと戦わなきゃならない。たった一人で(・・・・・・)だ。お前はそこで、どうやって勝つつもりだ?」
 そして、これこそが恐らく、大江と自分を決定的に分ける問いかけだ。
大江の言っている事は至極最もである。IUは営業によって勝敗が決まる。そしてあの赤い封筒の中身が真実ならば、小鳥や大江が言っているように明日から社内のあらゆる協力がなくなるのであれば、IU決勝では勝負になどなりはしない。
 大江の言っている事が事実なら、である。
 今、プロデューサーは、大江の言葉の中の1点だけが誤りであることに気付いている。
 気付くのに1年かかった。

 この先どんな人生を送るにしても、これだけはきっと、プロデューサーは忘れない。

「一人じゃない」
 そして、大江の笑みは止んだ。
元の鉄面皮に戻った大江の鋭い視線に、プロデューサーは何一つ臆することのない視線を投げ返し、その論拠を提示する。

「春香がいる。俺は、一人じゃない」

 一人なら到底戦えないだろう。
さっさと尻尾を巻いて逃げだした方が利口だし、大江に教えられたままの自分ならきっとそうしただろうとプロデューサーは思う。
 だが、今は春香がいる。ただそれだけで、プロデューサーは『プロデューサー』でいられる。
 たったそれだけのことで救われるのだと、プロデューサーは僅かひと月前に身を持って知った。
 大江を含めたIU決勝に行きつくアイドル達のプロデューサーはどれも強力な営業力を持つプロデューサーに違いない。
バックアップもない、武器も万全とは言い難い、疑心暗鬼と権謀術数が入り混じる魑魅魍魎の中に身一つで突っ込んでいくのは狂気の沙汰だし良く言っても蛮勇にしかならないだろうことは他の誰よりもプロデューサー自身が良く分かっている。
 だが、春香がいるだけで、それでも前に進む事ができる。
 蛮勇だとしても、勇気の一種には違いない。
 その勇気は、春香の歌からもらったものだ。

 そして大江は、プロデューサーのその答えを否定も茶化しもしなかった。
ただ一言そうかとだけ呟き、プロデューサーから視線を外して2月の澄んだ青空を眺め、何かを探すように、何かを懐かしむように目元を細めて、もう一度そうか、と呟いた。
 やがて10秒ほどが過ぎ、大江は視線を下げてプロデューサーを見つめ、鉄面皮のままで最後の最後の問題を出す。
「お前は、勝負はここで決まるんじゃないって言ったな」
「ああ」
 鉄面皮の裏の表情は全く読み取れない。だが、プロデューサーは臆しない。
自分の答えが誤りだとは全く思っていない。人が聞いたら笑うかもしれないしプロデューサーの仕事がアイドルを支える事だとしたら業務逆転も甚だしいが、それでもプロデューサーは答えの正しさを信じている。
「ここでやってるのは単なるライブだって言ったな」
「言った。ここでやってるのはただのライブだ。勝負はここでやるんじゃない、ここに至る過程で決まる」
 プロデューサーの答えに大江は頷き、息を深く吸って吐き、
 プロデューサーの根幹にかかわるような、この1年を総括するような、1年間指導してきた集大成を見るような、最も根本的な問いかけをプロデューサーに投げた。

「じゃあ聞く。ライフ中に、俺たちは一体何をすればいい?」

―――あいつらは商品でも人形でもないからな。お前はお前の考えるプロデューサーになればいい。

 分からないはずがないだろう。プロデューサーは小さく笑う。
それこそが、その答えこそが、大江が一年にわたって自分に陰に陽に叩き込んだ『プロデューサー斯く有れかし』の部分ではないか。
大江から学んだ『プロデューサー』としての存在意義の中にその答えはあると、大江は分かっていて聞いているのだと思う。

「―――俺たちは、」

 これが、自分の考えるプロデューサーの仕事なのだと思う。
 これが、自分の答えなのだと思う。

「俺たちはここでは何もしなくていい。俺たちはただ、一番近くにいたアイドル達の歌を黙って聞けばいいんだ。最高の舞台で、最高の歌を歌うアイドルの歌を、一番最初にファンになった者として聞けばいいんだ」

 商品でも人形でもない。アイドルは人である。プロデューサーはそう思う。
 だから、歌には魂が宿る。何をしたいのか、何を訴えたいのか、何を伝えたいのか―――それを、プロデューサーはアイドルの歌から感じ取ればいい。
 それは、アイドルの成長を一番近くで見続けてきたプロデューサーだから出来ることだ。
 そしてそれこそが、『プロデューサー』の仕事であるのだと思う。

「そのために、俺たちはアイドルが最高の歌を歌える環境を整えればいい。アイドルたちが何の不安もないように、怖がって後ろを振り向かないように、開演30分前にはこう言ってやるのが俺たちの仕事なんだ」

 本当に長い1年間だった。
 でも、だからこそ答えが出せた。

「『俺は、君の歌が聞きたい』って、それだけを言えばいいんだ」

 大江の顔の鉄面皮が、目元だけ崩れる。
それはまるでプロデューサーの答えに満足したかの様であり、遠き日の懐かしく暖かい記憶を思い出したかの様であり、ずっと胸に閊えていた懸案が解消されたような、何か一つ大事な仕事を終えたかのような視線だ。





 非公開であったIU5次予選の結果を、ここだけの話として記載する。
 予選ではゲスト審査員たるファンの得票が一人につき1票の計3万票、レギュラー審査員が一人持点3000票の双方合わせて3万9千票にて審査が実施された。
結果は概略のみ総会ホームページにて公表され、各芸能事務所には素点が後日封書親展にて送付された。IU5次予選終了後総会ホームページに届けられたクレームと問い合わせの数は電話およびメールを合計して250件前後であり、この中には参加した芸能事務所からの問い合わせが2件含まれている。
総会事務方の予想通り、そのほとんどが今回の投票行為についての話であり、総会は後日ホームページと新聞およびテレビへのコマーシャル活動を通じ、謝罪とIU決勝への協力を要請している。
 肝心のIU5次予選の結果については、投票なしや2票同時押しなどの無効票は合わせて1,243票であった。残3万6,303票の内訳は、審査完了後の総会事務室での集計では下記となっている。

 6位、遠野プロダクション『UnderBar』、2,572票。
 5位、衛陶株式会社『スターリーブス』、2,697票。
 4位、株式会社ミタニ『アルファロメオ』、3,712票。
 3位、株式会社未来館『魔王エンジェル』、5,915票。



 2位、株式会社961プロダクション『四条貴音』、1万267票。
 1位、765プロデュース株式会社『天海春香』、1万2,594票。




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