声 (49)

―――…貴音とさ、友達になってやって欲しい。

 さてはどんな「静かなところ」に連れて行かれるのかと思ったら、連れて行かれた先は古びたアンティークが跋扈する時代に取り残された感のある喫茶店だった。
カフェというよりは喫茶店といった方がしっくりとするその店構えはアンティークのくすんだ茶色が跋扈する異次元の空間だ。
蔦のカーテンのお陰で長くなったはずの陽の光はうっすらと煙って見え、そのくせこの手の喫茶店に一つや二つはありそうな灰皿がどのテーブルにも見当たらない。
壁に掛けてある振り子時計は重要文化財になっていないのが不思議なくらいの年季物で、狂っているのか壊れているのか16時の鐘は3回しか鳴らなかった。
 定年前からこの仕事をやっていると思しき店主にアイスコーヒーを二つと注文し、出てきたグラスに浮かんだ氷を貴音は少しだけいじる。春香は貴音に連れてこられたこの古代の建物に圧倒されており、貴音が何かを言いたそうにそわそわしていることに5分以上は気付かなかった。
「氷が融けると味が薄まります。ここのコーヒーはおいしい、どうか味が落ちる前にご賞味ください」
 貴音に促されてテーブルを見ると、貴音に給されたグラスの中身もほとんど減ってはいない。
春香が飲むまでは断固として飲むものかという強い意志のようなものが見え隠れする貴音の視線に促され、春香はおっかなびっくりストローを口にくわえる。
「…あ、おいしい」
「でしょう。この国での私のお気に入りの場所の一つです」
 そういう貴音の顔は今の今まで見たことのないような穏やかな表情をしていた。
春香の飲みっぷりに貴音はもう一度眼を細め、ショートケーキを二つ追加注文する。
「サイフォンの水出しだそうです。コツはあせらずに水を入れることだとか。私も何度か自分で試してみましたが、この味はなかなか出せません」
 ちょっと意外に思う、
「四条さんってコーヒー好きなんですか?」
「美味なるものに労を惜しんでは一流になれません。人の体とは食したもので形作られるのです」
 要は旨ければ何でもいいということか。春香はクスリと笑う。こうして話す貴音はIUの大舞台で接するよりも随分と親しみが持てるし、ひょっとしたらこれが貴音の地なのかもしれないと春香は思う。
そうこうするうちにコーヒーは底をつき、ショートケーキを持ってきた店主は黙って新しいグラスのコーヒーを持ってきた。
椅子にコーヒーといえば駅前のチェーン店だった春香にとってこの手の店の盛衰は分からないが、16時を回った今の時間でも店にいるのは自分たち以外に数人しかいない。
その数人も奥の方に引っ込んでしまっていて何をしているかまでは分からず、人目を忍ぶアイドル業の自分たちにとっては格好の隠れ家のようだった。
「…むむ、このショートケーキもなかなか」
 出されたショートケーキを一口含み、春香はまるで論評家のような口調でそう言った。
甘いが砂糖に頼り切った甘さではなく、生クリームの僅かな甘みとイチゴの酸味が入り混じった妙味は自分で散々菓子を作ってきた春香をも唸らせる味で、貴音はそう言えばとつぶやく。
「765プロデュース株式会社のほぉむぺぇじを見ました。天海春香、貴女はお菓子作りがご趣味だと」
 もぐもぐごっくん、
「趣味だからあんまり味は良くないですけどね。お菓子好きだから。あ、でもだからプロデューサーさんにはよく注意されます。食べ過ぎると衣装のサイズが合わなくなるぞって」
 貴音の眉がほんのわずかに動く、
「例えばどのようなものを?」
「例えば? えーっと…そうですね例えば、最近だとチョコケーキとかマフィンとかバタークッキーとかかな。貴音さんが学校に来るちょっと前にも作ってたんです。あの、学校の授業で」
 まさか自分の趣味を問いただすことが目的ではないだろうが、貴音はふんふんと神妙に頷いている。手元にメモでもあれば勢いよく何かを書きだしそうだ。
そう言えば―――思い出す、プロデューサーにバカと言って大江に自宅近くまで送られたあの日、大江は確か聞き捨てならないことを入っていた。
「あの、四条さん」
「はい」
 まさかどストレートに「四条さんて学校行ってないんですか」とは聞けなかった。
春香は何とか婉曲的に貴音の氏素性を聞き出そうと一瞬のうちにあれこれと考えをめぐらせ、
「変なこと聞いていいですか」
「構いません。私でお答えできる事なら」
 ワンクッションの質問をすると、貴音からはいかにも貴音らしい返事が返ってきた。
ええと、とさらにノーワーズで思考の時間を稼ぎ、まずは当り触りのない質問で外堀を埋める作戦に出る。
「あの、四条さんっておいくつなんですか?」
「私ですか? 今年で…確か、18になるかと」
 自分よりたった一つしか違わないことに春香は瞠目する。
僅か365日くらいでここまで威風堂々たれるものなのかと思うが、しかし貴音の真摯な表情を見るだに嘘とは思えない。
が、考えてみれば貴音は先ほど「日本の学校は狭い」なる旨の発言をしているし、大江もまた貴音の生まれは日本ではないと言っていなかったか。
スケールのでかい話ではあるが、貴音の生まれ故郷では飛び級に次ぐ飛び級が可能で、あるいは貴音は大江の言うとおり田舎で学士かなにかの資格を取得しているのかもしれない。
 であれば、ふと疑問に思う。
飛び級できるくらいの頭を持つ貴音が、なぜ日本でアイドルをやろうと思ったのだろうか。
「…あれを学校と呼んでいいのかどうか分かりかねますが、私も故国で教育を受けました。日本語が話せるのもそのためです」
 春香の疑惑顔を読み取ったのか、貴音は春香のシンカーとカーブとフォークを織り交ぜたような投球の一本目でいきなりホームランを放ってきた。
赤くなって俯く春香に貴音は顔を上げるように促すと、春香が気を休められるようにとの配慮かストローを加えて2杯目のコーヒーを少しだけ口に含めた。
このやり取りで春香は貴音に嘘はつけないと悟る―――もともと嘘が得意な方ではないし、顔に出るから春香は分かりやすいとは良く言われている。
「…大江さんが、四条さんの事心配してました。毎日毎日会社に来てトレーニングばっかりやってて、サラリーマンみたいだって」
「大江様が?」
「前に送ってもらったんです。…あの、四条さんに言うことじゃないと思うんですけど、ちょっとショックなことがあって、泣きながら帰ろうとしたら大江さんに会って、『そんな真っ赤な目で電車乗るのか』って」
 しかし、である。
どれほど今の貴音が親しみ安かろうと貴音が他社の、それも961のアイドルであることは疑いのない事実であり、ここで大江の名前を出してしまったのは失策だったかもしれないと春香は思う。
事実貴音の表情は何かを考えているようだし、春香だって貴音からプロデューサーの話が出たら面白くないだろうな、と思う。
「ああ、あの、送ってもらったって近所までです。自宅まで送ってもらったわけじゃなくて、」
「…天海春香、」
「はいっ!!」
 思わず大きな声で返事をした春香に店主が怪訝な視線を投げる。
貴音は一度だけ店主に向けて大したことじゃないと手を降り、それを見た店主はすぐにアイドル2人に興味を無くしてグラスを磨く作業に戻った。
「私は貴女に、お伺いしたいことがある、と申しました」
「あの、大江さんとはほんとにそれだけです。誓ったっていいです」
「いえ、大江様とはまた別の話です」
 慌てふためいて早口で大江との関係を否定した春香に、大江のことなどどうでもいいとばかりに貴音はあっさりと言い放って、
「もしかしたら、貴女の言うそのショックなこと、に関係する話かもしれません。私にも人に尋ねられて不快に思うことはある、これからの話でもし貴女がそう思われたのならご容赦ください」
 ひょっとしたら貴音はものすごく育ちがいいのかもしれない、と春香は思う。
言葉づかいもそうだが、普通この手の話で不快に思った時は表情やしぐさから初めて「ごめん、嫌な話だった?」と詫びを入れるものだと思う。
それを前置きとして入れておく貴音のやり方は「これからあなたの内面を抉り込むかもしれないけどごめんね」という意思表示の表れだ。
が、その割に貴音からはこちらが身構えるに足るプレッシャーは微塵も感じられない。まるでどうしても聞きたくて仕方がなかったんだといわんばかりの貴音の表情に、春香は腹の中でIU予選出場レベルの気合いをこめる。
「…貴女様は、IU5次予選のあの時、何を聴いていたのですか?」
「IU5次予選の…あの時?」
「出演者に解放されたあの席での話です。むき出しのボックス席で、目の前に落下防止用のロープが張ってありました」
 貴音の入っているのはS席の事だろうか。
プロデューサーが言うにあの席はあの会場で最も音の混ざり具合がいい席であり、プロデューサーがトイレに行っている間に始まってしまったIU最後の予選を見るために春香は一人であの場所まで出向いている。
その後戻ってきたプロデューサーには控室でなぜか謝られてしまったが、春香にとってはあそこでプロデューサーがなぜ自分に誤ったのか未だに謎だ。
「…、あ、ひょっとして貴音さんもあそこにいたんですか?」
「隅の方でしたから、お気づきにならなくても仕方ありません。しかしそのようなことは些事です。私には、あの場での貴女様はひたすらに他の出演者の歌を聴いているように思えた」
 それはなぜだ、と問われているのだと、春香はすぐに分かった。
 そう言うということはあれか。貴音にしてみれば「あの席で歌を聴いているのはおかしい」と言っているのだろうか。
「もう一度訪ねます。天海春香、貴女はあの場で一体何を聞いていたのですか?」
「何って…いや、あの、他の人の歌ですけど、」
 貴音は「やはり」と「信じられない」という顔を器用にも半々に混ぜた表情を浮かべ、
「なぜですか? 失礼ですが、貴女の歌は他の出演者に比して抜きん出ている。他の出演者から吸収できる利点があるなら合理的な行為だと思いますが、私が聞いていたところでは貴女より優れた歌い手は他にいなかった」
 要するに、貴音はこう聞いているのだ。
IUとは勝負の場であり、勝ちか負けかを決める場である。その場において行うべき事は己のスペックをフルに発揮することであって、他の出演者の演目を見て何かを得ようとする行為はそのものが行うべき事を阻害する可能性があったはずである。
であればなぜ天海春香はあの時そのような行為を取ったのか、という話だ。
「あの、えーと、」
「…失礼、追求する気は私にはありません。しかし、私にはあの時の貴女が不思議でしかたなかった。ご教授いただけるならば是非教えていただきたく、」
 さらに加えて言うのならば、ひょっとしたら貴音は物事をものすごく難しく考える人なのかもしれない。あるいは行動の裏に流れる思惑をきっちり追求しないと気が済まない人なのかもしれない、と思う。
あるいは―――あるいは、ひょっとしたら、「人が感情で動く」などということは考えない人なのかもしれない。
「…あの、笑わないで聞いてもらえます?」
「質問したのは私です。笑うなどという無礼はいたしません」
 貴音がそういうのなら笑わないのだろう。春香は安堵感を覚え、腰の位置を直すかのように椅子に座りなおすと、
「プロデューサーさんが教えてくれたんです。歌には想いがあるんだって」
「…IU3次予選の、あの時の貴女の歌。貴女の歌った歌で言うのなら、あれがそうだということですか」
 IU3次予選の歌といえば『9:02 p.m.』だ。思えばあの時も貴音には「なんであんな歌い方をしたんだ」と尋ねられた気がする。
あの日の夜からプロデューサーはおかしくなり、そして約半年の間プロデューサーは狂気に魅入られたような眼をしていた。
「そう言ってもらえるとうれしいです。でも、あの時の私は結局無力で、プロデューサーさんが辛い時に何にも出来なかったんだって思いは今でも一緒です」
 貴音は一度だけ眼を閉じ、次いで僅かに氷の解けたコーヒーを一口含むと、
「IU4次の歌も拝聴させていただきました。私の思い違いでなければ、貴女はあの時、私に向けて謝罪をしている。違いますか?」
 2か月飛んだ話に春香は記憶をフルに引っ張り出す。IU4次といえば『まっすぐ』を歌っていたころだ。あの時は自分の何が『まっすぐ』かと思っていたものだが、確かにあの時自分はステージから貴音に向けてごめんなさいと呟いた気がする。
「…そうですね。言いました」
「解せません。私は貴女に何かされた覚えはありません。謝られる筋合いではないと言ってしまえばそれまでですが、少なくともあのときまで私は貴女に無礼を働かれた覚えはありません」
 正確に言えば、無礼を働くも何も3次予選のあのときまで貴音にとって春香は人ですらなかった。
夢ともいえない夢を恥ずかしげもなく語る春香は貴音にとっては路上の石ころにも等しい存在であって、程度の差こそあれ石に「じゃまだ」という感想を抱くことはあっても「失礼なやつだ」という感想など抱きようがない。
割ってみたら中に入っていたのはダイヤの原石ではあったが、3次予選から今の今まで春香に何かをされた記憶は貴音の覚えているところない。
 いや、あるいは、
「あるいは…勝負の場に、勝負でないことを持ち込んだことに対する、謝罪と受け取ればよろしかったのですか?」
 IUを神聖視しているのは何も恐らく自分だけではないだろうと貴音は思うが、神聖視している連中の中でも特別な思いを抱いているのは恐らく自分だけだろうとも思う。
あの時の春香の歌は明らかに「勝負」には似つかわしくない歌を歌っていたし、春香にしてみれば自分が文字通り「神聖視」している勝負に似つかわしくない歌を歌うこと自体が失礼にあたることだと思っていたのかもしれない。
 そして春香は、貴音のその問いに首肯した。
「アイドル失格ですね、私」
 貴音は思い切りため息をつき、
「IU4次のあの歌、あれは貴女のプロデューサー殿に向かった歌だった。そうですね?」
 春香はこれにも頷き、貴音に倣ってコーヒーを一口含む。
喉が渇いていたわけではないが、飲み込んだコーヒーは元の味よりも尚旨く感じた。
「…私には分からない。私の見立てが謝っていたら訂正してください、」
 貴音は静かに、春香をここにひっぱり込んだその「聞きたいこと」への扉を開けた。
春香もまた貴音のその雰囲気に本題が始まると感じたのか、居住まいを正すかのようにテーブルに乗せていた両手を引っ込めて膝の上に乗せる。
「貴女のIU3次の歌、それにIU4次の歌。あれは間違いなく、春香、貴女のプロデューサー殿に向けた歌だと認識しています。IU3次では貴女の想いがにじみ出た歌、そしてIU4次では貴女の無念がにじみ出た歌。歌には想いがあると貴女に教えたプロデューサー殿なら、貴女の歌に込められた想いにだって気付いてしかるべきです」
 3次で気付かない可能性はあるかもしれない。だが4次で気付かなければこの業界で生きていく資格はないだろうと貴音は思う。
もし3次で気付かなかったとしても、春香が捻挫したあの頭の温かい番組名のリハーサルは4次予選の後の話だ。
それでも、あの控室につながる廊下で聞いたプロデューサーの声は明らかに春香の想いを無視していた。あるいは気付いていて無視していたのかもしれないが、それであれば気付かない以上に悪質である。
「貴女は、どうして、」
 これこそが自分がずっと聞きたかったことだ。
 これこそがずっと、自分が答えを求めていた問題だ。
 貴音は春香の眼をじっと見つめ、遂にその問いを口に出した。

「どうして、そこまで、プロデューサー殿を信じられたのですか?」

 2か月以上に渡って己の想いを封殺し続けたあの男を信じ続けていられたのはなぜか。
『別にお前でなくてもいい』と言い切ったあの男を、天海春香はなぜ信じ続けられたのか。
 どうして、裏切り者を信じ続けることが出来たのか。
 そして春香は貴音の問いに眼をつぶり、黙って天井を仰いだ。

―――春香がそれを探すの、手伝えるとは思うんだ。僕はまだ半人前だけど、一緒に悩んだりする事くらいはできると思う。

「とっても怒られるかもしれないんですけど、それでもいいですか?」
 切り返しの問いに貴音は虚を突かれたように眼を開き、しかしすぐにこくりと頷いて続きを促す。
「四条さんって、どうしてアイドルになったんですか?」
「私が、アイドルを、志した理由、ですか?」
 今度こそ貴音は完璧に虚を突かれた。まさか春香からそんな事を聞かれるとは思っていなかった。黙した貴音に微笑み、春香は言葉を紡ぐ。
「きっとあるんだと思います。四条さんには、Aランクアイドルになってやりたいことが」
「―――貴女の夢、は、『みんなを元気に』する事では?」
 そして春香は静かに笑った。
それは何か面白い事があって出た笑いではなく、もがいて足掻いて、結局は手に入らないものを見ていたような、そんな表情だった。
「そうですね。『天海春香』はそうでした。みんなを元気にしたいのは、『天海春香』の夢でした」
 そしてそれは達成しつつあるのだと貴音は思う。
自分の思惑はどうあれ、『天海春香』の夢は着実に実現に近づきつつある。それの何が不満なのだろう。
「…『天海春香』の、夢」
「そう、私じゃない、『天海春香』の夢です」
 アイドル『天海春香』の夢は今を以てしても『みんなを元気にすること』だ。
 では、アイドルではない天海春香の夢は。
「…では、貴女の夢は?」
 春香は三度コーヒーを口に含み、幾許かの逡巡ののち、静かに微笑んでこう言った。
「プロデューサーさんがね、言ったんです。春香はAランクになったら何がしたいんだって。私は、その時、そんなこと考えてもいなかったんです。Aランクになんて上がりたくて上がれるものじゃないなんて思ってたし、私自身ここまで残れるなんて思ってもいなかったから」
 天海春香は今、すさまじいことを入っているのだ、と四条貴音は思う。
IUにしろ通常のオーディションにしろ、この業界は途方もないほどの欲望に彩られた獄卒の門だ。夢もなく希望もなく進める世界では断じてない。
貴音自身それは日々をこの業界で過ごして嫌というほど分かっていたし、それでも貴音がドロップアウトしないのは貴音自身の目的がこの道の果てにあると信じるからだ。
 では、天海春香は、自分の作り出したアイドル『天海春香』の夢を実現させるためにここまで来たというのだろうか。
「貴女自身には、夢などないと?」
 そして春香は、その問いに首肯した。
 信じられなかった。夢のない者がIU5次予選を抜けられるものだろうか。
夢とは原動力だ。努力を促し、達成を与え、事によっては生きる意味すらをも与えるのが夢だ。
それがないというのは、一体どういうことなのか。
 何よりも、そんな人物に、IUで見せた数々のあの歌など歌えるものなのだろうか。
「…信じられません。貴女に言うべき事ではありませんが、私にも夢…のようなものはあります。それがなくここまで続いてこれるなどあり得ない」
「多分、私一人じゃあり得ないでしょうね」
 そして春香は照れ臭そうに笑い、貴音はそこに途方もないほど大きな何かを見た。

「プロデューサーさんがね、言ってくれたんです。一緒に探そうって。今はまだ分からなくても、一緒に悩んで見つけていこうって」

「プロデューサー殿が、そのようなことを」
 春香は今、つい昨日あった楽しい出来事を思い出すかのような表情をしている。
いつかの自分がしていたであろう表情を、四条貴音が8年も前に焦土と化した故国に置いてきた表情をしている。
「ああ、って思ったんです。夢なんかなくてもいいんだ、今から探していけばいいんだって。救われたような気分でした。足元ばっかり見て探すんじゃなくて、前を見ていいんだって言われたような気がして」
 そうして前を見続けた天海春香は、『天海春香』との二面性を保ったままIU決勝への扉をこじ開けたのだろう。
貴音は思う。一体この少女は、どれほどの膂力と熱力を保ったまま矛盾を内包し続けたのだろう。
 そしてそのカギこそが、あの寸足らずだというのだ。
「…だから、私にそう言ってくれたプロデューサーさんが変っちゃった時、私は嫌だなって思ったんです。私にそう言ってくれたプロデューサーさんがどこかに行っちゃうのが怖かった。だから、繋ぎとめようと必死だったのかもしれません」
 それがIU3次の、IU4次の歌だったのだろうと貴音は思う。
同時に、自分は途方もない思い違いをしていたのだと思い知らされる。
 春香は決して超人ではなかった。ただプロデューサーに導かれ、導いていたプロデューサーの変質におびえ、必死でプロデューサーを元に戻そうとしていたにすぎなかった。
 そしてその力は、プロデューサーから与えられた思い出に端を発していた。

「私には何もありません。夢も、目標も、歌のうまさもダンスの切れも。でもだからこそ、私は、」

 春香は超人ではなかったが、ある意味でやはり自分の考えは間違っていたのかも知れない。貴音は思う。
『それしか知らない』という歌を春香は歌っていた。
 だが、それは『それしか知らない』の歌ではなかったのだ。

「私の夢を一緒に探してくれるって言ったプロデューサーさんを、何があっても信じようって。そう思ったんです」

『それだけはやめない』という歌だったのだ。
そして事実、春香はそれを成し遂げたのだろう。尋ねなくても分かる、IU5次のあの歌を聴けば分かる、あの安堵と優しさの入り混じった歌は間違いなく、天海春香の心の歌だったのだと思う。
 それがやはり、四条貴音にとっては、途方もなく、
「…天海春香、私は、」
 途方もなく、
「私は、」
 貴音の手が、春香の頬に触れた。
まるで宝物に触れるかのようなおっかなびっくりな手で春香の頬を撫で、突然の貴音の行動に固まった春香はびくりとしてされるがままになっている。

「私は、貴女様が羨ましい」

「四条、さん?」
 貴音は泣きそうな顔をしている。
ずっと探し続けた大事なものを見つけて思わず涙腺が緩んだかのような、そんな表情をしている。
『天海春香』が化けると言ったのは大江だ。そして自分もまた『天海春香』は化けたものだと思っていた。
 しかし違った。自分も大江も、もっともっと根幹の部分で天海春香を見ていなかった。
 変わらない者の強さを、大江も自分も見落としていたのだと思う。

 その時、骨董品の時計が鐘を4つ鳴らした。貴音と春香が揃って時計を見ると、短針は5の字を差していた。
てっきり30分も話していないと思っていたが、もうかれこれ1時間はこの場所にいたらしい。
「…実に有意義な時間でした。天海春香、ありがとうございます」
 貴音はテーブルに肌の切れそうな福沢諭吉を置くと、音もなくすっくと立ち上がる。
春香はあわてて貴音の背中を追いかけ、蔦の生い茂る扉を開けた先に橙の太陽を見た。
「四条さんはこれからどうするんです?」
「IU決勝まで時間がありません。この後は961に戻り、営業活動が予定されています」
 貴音の視線を追いかけると、どうやってこの細い路地に入れたのかあの胴体の長いリムジンがドアを開けて待っていた。
乗っていきますかと視線だけで問われ、春香は黙って首を振る。
「…もうおそらく、こんな機会はないと思います。天海春香、最後に貴女とお話しできてよかった」
 夕日に照らされながら振り返った貴音の顔は、ひどく穏やかに見えた。
貴音がまるでどこか遠くに行ってしまうような気がして、春香は思わず大きな声で、
「四条さん!」
 貴音は振り向かない。黙々と歩を進める貴音はすでに春香と5メートルは離れており、春香は追いかける足を動かさずに再び大きな声を張り上げる。

「私たち、お友達になれますか!?」

 春香の言葉に、貴音はゆっくりと振り返り、決して声を張り上げるでもない、しかしはっきりと聞こえる声でこう言った。

「IU決勝が終わったら、今度は紅茶の美味しいお店に心当たりがあります。また二人で参りましょう。…では、」
 そして貴音は、来た時と同じように「ごきげんよう」といい、リムジンに入って行った。



「充実してましたか」
 ドライバーに尋ねられ、貴音は「ええ」と頷く。
貴音がよく使うこのリムジンには専属のドライバーが付いていて、普段ドライバーに話しかけるのは決まって大江である。
寡黙な男ではあるが大江の声には律儀に受け答えをしており、貴音はいつも聞くことなしに男二人の会話を聞いていたものだった。
「そりゃようござんす。あたしらくらいの年になるとね、友達と会うってのもなかなか時間がなくて出来ない。今だけですよ」
 いつになく饒舌なドライバーではあるが、貴音はそれを不快に思わない。
何よりもドライバーという第三者に友達と言われたことが貴音は正直に言ってうれしい。考えてみればこの国に来て初めての友達ではないだろうか。
立つところに立てばライバルではあるが、それも切磋琢磨し合う関係だと思えば悪くはなかった。
 ここ最近沈むことが多かった貴音にしてみれば春香に会えて本当に良かったと思

―――…大江さんが、四条さんの事心配してました。

 ふと思い出す。
そう言えば春香はそんな事を言っていた。
今更大江が何を考えていようが知ったことではないが、あれは一体いつごろの話だったのだろう。
ショックな事というのがプロデューサーの変質のことを差しているのは十中八九間違いないことだからIU3次から4次の間のいつかのタイミングの事だとは思うが、いずれにしても大江は最初から『四条貴音』という器を使ってアイドルマスターになるために活動をしているはずだ。器の心配など大江がするものだろうか。
「ドライバー殿、お伺いしたいことが」
「なんです?」
「…大江様は、私のことを何か仰っていましたか?」
「大江さんが? いや、あたしは良く分からないですけど」
 ルームミラー越しに見えるドライバーの寄せられた眉は嘘をついているようにも思えない。
 貴音はそうですかと一言言い、
「申し訳ありません、妙なお話を」
 ドライバーは前を向いたまま鷹揚に手を振り、やがて何かを思い出したのかそう言えばと呟く。
「何か?」
「いやね、あたしも要件は聞いちゃいないんですが、」
 車がトンネルに入った。夕日は山の斜面に消え、夕日と似ても似つかない薄暗い明りが車内を照らす。
「さっき黒井社長から電話あったんですわ。普段ない事なんで忘れてたんですけど」
 そしてドライバーは、まるで世間話をするかのような口調でこう言った。


「本社に戻ったら社長室に来てくれって四条さんに伝えてくれって。何かしたんですかい?」





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