声 (51)

 貴音だって思う。961の社長室への道のりは常軌を逸しすぎている。
 もちろん貴音だって何にも勝るセキュリティへの試みが隔絶だということくらい知っている。
危険なものはなるべく近づけないようにしようという発想は分からなくもないし、その為に相手にいらない苦労を強いるという意味の理解はしている。
それにしても社長室くらいなら来客だって来ようものを、何故に黒井社長はわざわざエレベータを3回も乗り継がなければならないような構造にしてしまったのだろうか。
 春香と別れた時は空を緋色に染め上げていた太陽は徐々にビル群の彼方に埋没しつつあり、貴音は一人カーゴの中で暮れゆく夕暮れを眺めている。
夕暮れはあまりどころか大嫌いでさっさと月が出ればいいのに、とこの時間いつも思う貴音ではあるが、今日に限っては不快な橙がそれほど不快には感じられない。
陽光を乱反射するガラスは鏡のように貴音の顔を映し出しており、そこに映る自分の顔は、白状する、とても民草には見せられないような表情を浮かべていた。
 この国で、初めて友達が出来た。
 うれしかった。四条の家で浴びるほど読んだ文庫本には「小躍りするほど」という表現があったが、今の自分がまさにそうなのではないかと思う。
現金なものだ、天海春香は打ち倒すべき敵であり路上の石ころにも等しい卑賤な存在だったはずなのに、友でありライバルになった瞬間に途方もなく強大で誇らしい存在になった。
あの店は大江だって連れて行ったこともないし他の社員連中は同期のアイドルなどはもっての他だが、コーヒーとケーキを素直に旨いと言った春香をあそこに連れて行ったのはやはり正解だったと思う。
自分の聖域を誰かに見せることがどれほど危険なのか分かっている癖に、だ。
 エレベータが音もなく地上から遠ざかっていく。貴音の思考もどんどん現実から遠のいていく。
 春香の趣味は菓子作りだという。自分は食い専門だから菓子作りなど門外だし今までまともに調理場に立ったことなどなかったが、営業の合間にでも菓子作りを教えてもらうなどどうだろうか。
そう思えば悔やまれる、春香の連絡先の一つでも聞いておけばよかった。さらに悔やまれる、自分は携帯電話なるものも持っていない。
ちょうどいい、今から社長室に行くのだし携帯電話を持つことについて黒井殿に相談してみようか。
携帯電話の費用がいくらかかるかは知らないが黒井殿からはそれなりの額を貰っているし、いきなり困窮することはあるまい。
そう思うとなんだか楽しくなってきた。まずい、顔が緩みっぱなしだ。王たるもの常に毅然としていなければ。

 中継ぎのエレベータを降り、インターホンの前に着く。と同時に、貴音の中でこんな考えが渦巻く。
 果たして、黒井崇男なる男は自分が765のアイドルである天海春香と懇意にすることにいい顔をするだろうか。
恐らくはしないだろうと思う、あの男は損得でしか動かない男である。
その明確な判断基準は信用するが貴音にとってはそれ以上でもそれ以下でもなく、そしてIU決勝を間近に控えた今になって自分がライバルと仲良くすることにあの男が良い顔をするわけがない。
携帯電話なるものを持つにしてももっと遠回しに相談しなくては。
春香と連絡が取りたいから携帯電話を持ちたいなどと言って黒井が首を縦に振る可能性は恐らくないし、ならば何かもっと他に手を考えなければ。
例えばそう、大江に連絡を取るためなどはどうだろうか。その為には大江とも口裏を合わせなければならない…のは少々鬱だが仕方がない。
何せ自分の目的のために「四条貴音」という器を利用しようとしている男だ、こちらのモチベーション管理も奴の業務のうちだろう。
 考えがまとまる。貴音の指がインターホンに伸びる。

「どうしたんだいマイプリンセス。何か嬉しいことでもあったのかい?」
 一発目で黒井にそう言われた。
貴音は何でもありませんと即座に応じるが、内心で行儀悪くも舌打ちをする。
やはり表情を殺し損ねていたのだろうか。やはりもう少し間をおいてからくればよかったと思うが後の祭りであり、貴音は小さい咳払いをして表面だけは真面目な顔をつくろい、
「遅れて申し訳ありません。まっすぐこちらに向かったつもりではいましたが、少々時間がかかってしまいました」
「いや、いい。私が思っていたよりも少々早いくらいだよ。しかし謝辞から入るのはプリンセスとして少々どうかな」
「王は常に威風堂々たるべし。しかし、私が思ったよりもお目見えに時間がかかってしまったのは事実です」
「なら結構。まあ掛けてくれ。なに、プリンセスにとっても悪い話じゃない」
 黒井が指差した先には趣味を疑う真っ赤なソファが鎮座しており、壁と言った方が語弊のなさそうな窓から照らす夕日の赤よりも赤いその色は人として少々どうかと思う。
座ってみると本革のきしみの音が聞こえる。相変わらず身の回りを豪奢にすることに余念のない男だと思う。
「それで、お話というのは」
 単刀直入な貴音の切り出しに、黒井はまあ待てとばかりに手のひらを向け、
「その前に、まずはこの間のことを祝おうじゃないか。IU決勝進出おめでとう、マイプリンセス」
「…」
 珍しい、よりもまず先に貴音の胸中に到来したのは不審の二文字だった。
黒井は今まで貴音がIU予選をどんな成績で勝ち抜いても、わざわざ社長室まで呼びつけて祝うなどという行為はしたことがない。
貴音自身も1次予選や2次予選など勝ち抜いて当然だと思っていたが、天海春香が化けてからは貴音の安定的1位の座も怪しくなることも多々あった。
まして決勝進出を賭けて戦ったIU5次予選は相手が相手とは言え2位通過だ。素直に礼は言いかねた。
「…相手が相手とはいえ、5次予選は2位という結果に甘んじました。黒井殿から祝福を受ける立場にはないと考えます」
「ふぅん? 『天海春香』は強敵かい?」
 間髪いれずに答える、
「はい。ダンスや魅せ方のみならず、彼女の歌は何よりも素晴らしい。黒井殿は彼女の歌をお聞きになったことが?」
「自社に日本最高のシンガーがいるんだ。他に手を出す理由はないね」
「…そうですか」
 貴音の感じるところ、黒井の本性は徹底した人間不信である。
エレベータを3つ設置したのも11階以上は要職しか入れないようになっているのも、セキュリティ以上に恐らくは黒井のその心根に根差したものだと思う。
黒井がどんな半生を送ってきたかは知らないし知りたくもないが、そんな黒井がここまで露骨に貴音の事を褒めるのは少々気味が悪かった。
「決勝では5次予選のような醜態は晒しません。必ずや頂に立ち、961の名を汚すような事は」
「…マイプリンセス」
 早口に言いきろうとした貴音を黒井はオーバーにも程がある動作で止め、何を当たり前のことをと言わんばかりの口調で、

「おおマイプリンセス。私はそれについては何も心配していないよ。何も。それに、君がIUに出場する本当の目的についても、だ」

 本当の目的、という黒井の言葉に貴音はピクリと眉を動かす。
「IUは今や日本中で注目の的だ。出場者の名前なんてそこらの子供だって知っている。君を慕う数多の同胞たちにももう、君がIUの決勝に出場する事を知らない者などいないだろう。君の目的はすでに果たされている、違うかい?」
 夕日に光る黒井の顔は実に楽しそうに見えた。貴音の脳裏に不穏ともとれる感情が湧きあがる。
「…そう信じます」
「抜かりはない。私の知りうる限り、君の同胞には封書で連絡を取っている。後は君が未だ健在であることを世に知らしめればいい。そして最後のピースを埋める日は近付いている」
 黒井の言う最後のピースとは、間違いなく自分の目的そのものだと思う。
「…帰国の目途がついた、そう仰っているのですか?」
「そもそも私が君をアイドルにしたのは、君の目的が私の目的に合致したからだ。君はもはや無くなったあの国を復興させたい。そして私は、君の国と末長いお付き合いがしたい。その為に君が不自由することはないように取り計らったつもりだし、そして君は見事日本での目的を達成せしめた」
 黒井の表情は本当に明るい。まるで勝ちを確信したような表情。
「これ以上、ここに留まる理由があるかい?」
 春香が羨ましい。貴音は心の底から思う。
 あんなふうに、自分の想いを素直に歌に乗せることが出来たなら。
 あんなふうに、自分の気持ちを声に込めることが出来たなら。
 あんなふうに、誰かを信じることが出来たのなら。
 それが、許されたのなら。
「…いつ頃、出国の予定なのですか」
 そして黒井は貴音のその問いに、実に明るい口調でこう言った。
「我々としても今まで君の活躍にのみ頼っていたわけじゃない。こちらはこちらで何人かの特派員を送ってね、アルテモンドの採掘プラントがどの程度で修復できるかを探っていた。さすがにプラントの損傷はそれほど大きくなくてね―――まあ、目的が目的だったからプラントへの攻撃を最小限に抑えたというのは分からない話でもない」
 要するに、黒井は予想より早く領内の黒井の目的の場所の準備が整ったと言っているのだ。
貴音としても意外ではあった。961のアイドルとして活動を始める際に黒井が貴音に言ったのは「1年に内に結果を出すこと」であり、貴音も黒井もまさか僅か1年で準備が整うなどとは露ほども思っていなかったのだ。
黒井にしてみれば「1年間活動してみて身にならないようであればそれ以上の活動など無意味」だったのだろうし、貴音にしてみても「1年以上続けたところで目的を果たせるかどうかは分からない」ところは確かにあった。
「勿論君たちの居住地域の修復も進んでいる。旧市街地はさすがに焼け野原でね、あそこを修復するのは容易ではないということでちょっとだけ住居区域は海側に移動したが、生活に支障はないはずだ」
「いつ、なのですか」
 その時、ビルの谷間に隠れていた陽光が僅かに顔を出した。
夕日は何の容赦もなく全面ガラス張りの壁を貫通し、高価で趣味の悪い961の社長室を抉るように照らしだし、突然の陽の光に視界を焼かれた貴音の眼に、陽にあぶられた黒井の顔は真っ赤に映った。

「IU決勝の前日だ」

「…決勝は、辞退しろ、と?」
「誤解しないでほしい、マイプリンセス。君の目的はあくまでも旧アルテモンドの民衆に『四条貴音はまだ存命である』と伝えることで、私の目的は君を故国へと帰すことだ。『四条貴音』の目的はIUを制覇することではない―――違わないね?」
 違わない。
 確かに、四条貴音が『四条貴音』になった当初の目的はまさしく黒井の言うとおり『四条貴音は存命である』事を、最後の日に散り散りになった同輩たちに伝える事だった。
「もう、四条貴音という名前は全国に知れ渡っている。君の目的は果たされている。IUなどに固執する必要はないはずだ。違うかい?」
「……」
 王とは常に孤独に身を置き、正しき判断によって民草を導くものである。
 王とは常に毅然とし、その判断の一切の責をその身に負うものである。
 そこに私情は許されない。介在することなどあってはならない。『四条貴音』の判断には、四条貴音の気持ちなど考慮されてはならない。
 なぜならば、四条貴音は、王様だから。
 アルテモンドの王家の血を引く、最後の一人だから。
「…少しだけ、判断のためにお時間をいただけませんか」
 今までにない小さな声の貴音に、黒井はまるで容赦のない怪訝な表情で、
「なぜ? 君のゴールが目の前にあるんだ、迷うことなどないだろう。君は祖国に帰る、われわれは君を含めたアルテモンドの民衆の帰国の手助けをする。何も躊躇うことなどないはずだ」
 その通り。
躊躇うことなど何もない。今すぐに黒井に礼の一つでも言って大江に今の話を伝えて、決して多くない荷物をまとめれば済む話だ。
今までファンレターを送ってきてくれた同輩たち一人一人に帰国の旨を手紙でしたためてしまえば済む話だ。何も悩む事などないはずだ。
 ないはずなのに、

 なぜ、今、天海春香の後ろ姿がちらつくのだろう。

「お願いします」

 なぜ、今、天海春香の歌が聞こえてくるのだろう。

「…まあ、急な話ではあった。少々驚いているのも無理はない。今この場で判断してもらわなくてもいい、決まったら教えてくれ」
 黒井に礼を言い、緋色の室内を見回して腰を浮かせ、やはり趣味の悪い調度品に囲まれた社長室の扉をくぐる前に、貴音は黒井のこんな声を聞いた。
「だが、君にとっては願ってもない話のはずだ。色よい返事を期待しているよ、マイプリンセス」



 夕陽はビル群の彼方にその巨体を鎮めつつあり、東の空には夜の群青とともに白い月が姿を現しつつあった。
ヘリポートのでっかいHの文字には目もくれず、貴音は手すりにもたれて方々のオフィスビルから漏れる蛍光灯の光を何をするでもなく眺めている。
もう3月だというのに未だに昼より夜の方が長く、貴音の大嫌いな時間は早々に過ぎ去ろうとしていた。
 黒井の言っていることには何一つ間違いはない。
四条貴音が未だに生きていることはIUも終盤を迎える今、アルテモンドの国民で知らない者は恐らくいないだろうし、これで自分がアルテモンドに帰ると伝えれば民草もついて来てくれるかもしれない。
そうなればアルテモンドは復興に向けた第一歩を歩むことが出来るのだし、貴音の目的とはまさにそれなのだ。
 それなのに、あの場で承服することができなかった。
 思えば不思議なものだ、誰も頼れないし誰も頼らないし、誰もが自分の目的のために何かをしているのだという事にはとっくに気付いていたはずなのに、脳裏に浮かぶのはこの一年間での思い出だけだった。過程などに依存はないはずなのに。
 貴音は考える。一体いつから、自分の歌は目的を達成するための手段になってしまったのか。
アルテモンドが焼け落ちてから何の役にも立たない王族の威厳と幼少より鍛えた喉だけを持ってこの国に身を寄せ、四条の図書蔵のような書斎で無為に過ごした時は片手の指では収まらず、故国で過ごしたよりも長い時を日本で過ごしたあの日に黒井に話を持ちかけられ、その時にはもうすでに『歌』は手段であって目的ではなくなった。
幼いころは歌うことが好きだったはずなのに。自分が歌うことで誰かが喜んでくれた、それだけが歌を歌う理由だったはずなのに。
―――いや、
 もうすでに、あの頃から歌は目的のための手段でしかなかったのだろう。
貴音は思う。父や母が喜んでくれるから、聞いた人が喜んでくれるから歌うのはすでに手段でしかない。
そして春香の歌もまたそうなのだろうと思う。春香が路上の石ころでしかなかった頃は『みんなを元気にしたい』と歌っていたのだ。
中身がダイヤモンドにも匹敵するとんでもない存在だと気付いた時には『プロデューサーを支えたい』と歌っていた。
 今にして思えば同族嫌悪だったのかもしれないと思う。
貴音もまた、最初は失意のもとにこの国で暮らす同輩たちを元気づけたいと歌っていたのだから。
それがいつの間にか誰かの目的に取り込まれ、自分の歌はすでに自分だけのものではなくなってしまっていた。
 春香が羨ましい。
 何物にも縛られず、自由に歌う彼女が本当に羨ましかった。
「―――貴音?」
 声に振り向くと、今一番会いたくない男がそこにいた。
大江は貴音の姿を見つけたことで安堵したのか、遠目にもはっきりと分かるため息をついてでっかいHの真ん中を横切り、貴音に並ぶようにフェンスに体を預ける。
「何だお前ここにいたのかよ。探したぜ、トレーニングルームにもいないし休憩室にもいないし。便所の前で張ってたら警備員は来やがるしよ、おまけに社長には変なことも言われるし」
「…そんなに、探されていたのですか?」
「まあな。今後の営業先のプランも詰めなきゃ―――ってそうだよ貴音、お前社長になんか言ったのか? いきなり今後の営業について話半分でやれ見たいなこと言われたんだけどさ、お前なんか知らねえ?」
 ちょっとだけ落胆した後、思い切り安心した。
 やはり大江は大江だ。自分の事を『四条貴音』という器としか見ていない。
その方が気が楽だった。今更情だの何だのと言われたところで何をどうしていいかも分からない。
「…黒井殿は、何と?」
「それがさ、『今後四条貴音の営業にはそれほど力点を置かず、後続の営業に指針となるような業務を実施すべき』みたいな事言われてさ。訳分かんねぇな、もうすぐIUの決勝だっつうのに四条貴音を売り込まないでどうすんだって」
 考えてみれば、大江は『アイドルマスター』になるために961に移籍したのだった。
そう考えればざまあ見ろである。『四条貴音』はIU決勝を待たずに本国へと帰還するのだ、もう決勝も何もない。
「詮無い事でしょう。『四条貴音』の活動は、IU決勝を待たずに終えるのですから」
 貴音のその言葉は、大江の理解の範疇を超えていたようだった。
「…何?」
「『四条貴音』の活動による目的は果たされたということです。これ以上の営業活動は無意味です。IU決勝まで勝ち上がることで、私の目的は果たされた」
 大江は訳が分からないという顔をしている。
それはそうだろうと思う。大江の目的は『四条貴音』をIUで優勝させることでアイドルマスターになることであり、その道具たる自分が「これ以上は活動しない」などと言った日には大江の目的は果たされないままに終わる。
そう思うと若干気分が晴れた、自分を利用して何かをしようとしていた奴の頭を押さえることが出来たのだ。
「―――私は、IU決勝を辞退いたします。大江様には感謝いたします、お陰様でここまで昇り詰めることが出来た」
 大江の顔を見ながら、貴音は本当に少しだけ足を開いた。一発貰うくらいは覚悟していた。
「大江様の目的にお力添え出来なかったことは事実です。申し訳ございません」
「―――俺の、目的?」
 貴音は顔をゆがめる。日が完全に地平線に落ちる。
「大江様が、アイドルマスターになることです。私を―――『四条貴音』をIUで優勝させることで、貴方様がプロデューサーの最高峰に昇り詰めることです」
 貴音は足を踏ん張る。これならばたとえどこに一発入ったとしてもよろめくような無様は晒さないと思う。
 そして大江は、喚き散らすでも残念がるでも、まして貴音に手を上げるような事もせず、すっかり夜の帳が落ちた961本社の屋上ビルのフェンスの横で、貴音に向かってこう言った。
「そっか」
 それは残念そうでも、悔しそうでも、怒ってもない声だった。
一瞬だけ驚く貴音に向かい、大江は何の感慨もないかのような表情を浮かべるだけだった。
「…あのさ、貴音。俺は別に構わない」
「何がです?」
「お前がアイドル辞めるの」
 貴音は瞠目する。
そんなはずはない。大江はアイドルマスターになるためだけに765を捨て961に来たはずなのだ。
古巣を裏切り敵地に単身乗り込んできたこの男が、目的を目の前に断念をするはずがない。
誰もが己の目的のために何かをしているはずで、大江にしてみればアイドルマスターになるために四条貴音をここまで上げたはずなのだ。
 それは、簡単に投げだせるようなものなのだろうか。
「お前にはアイドルを通じて何かしたいことがあったんだろ? で、それは達成されたんだろ? なら、これ以上やらないっていうのは分からない話じゃない。俺が分からないのは、」
 そこで、大江は貴音の眼を見た。
「お前が、アイドルを通じて何をしようとしてたかって事だ」
 何をいまさら、
「前にも申し上げました。黒井殿の恩義に報いるため、私を慕ってくれる者たちのため」

「今度生まれるガキに、無くなっちまった自分のルーツを教えるため、か?」

「………」
 あの手紙の内容だった。貴音は驚いて目を丸くする。
大江は大江でそんな貴音の表情にしてやったりな笑顔を浮かべ、
「悪い。お前が読んでおかしくなった手紙な、知り合いに頼んで訳してもらった。あー、信頼できる奴だ、公言は絶対しない」
 あの手紙が来たのはもう大分前の事だったと思うが、大江はその事をずっと覚えていたのだろうか。
驚いた表情を崩せない貴音に大江はもう一度「悪い」と言い、
「何があったんだ」
 その問いかけは、8年もの前に起きたあの悲劇のことを聞いているのだと、貴音ははっきりと知覚した。
「お前が言いたくないならいい。俺もそれ以上は聞かない。でも、お前を1年近く見てきて、お前が単にアイドルやりたくてアイドルになったとは俺も思えなかった。何か理由がある、そう思って聞けなくて、ずるずるここまで来ちまった」
 真ん丸い月が、ビルの谷間から優しく屋上を照らしていた。
「これが最後だって言うんなら、貴音、最後に俺に教えてくれ」
 そして大江は、アイドルの『四条貴音』ではない、四条貴音という少女に問いかける。

「お前は、何のためにアイドルになったんだ?」

 貴音は目を閉じる。
ゆっくりと息を吐き、大江に背を向けるようにフェンス沿いを歩き、やがて大股で3歩ほどの距離を置いて、貴音はゆっくりと大江に向き直った。
「―――長い、長い話になります」
「ああ」
「…私が、アルテモンド王家第13代皇女であった頃の話です」
「ああ」

 そうして、貴音は8年前のあの夜に心を飛ばす。
 あの日の最後に見た月も確か満月だった、貴音はそう思う。




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