声 (54)

 生誕祭は勿論、主の誕生日を祝う行事である。
バートナー製菓店をはじめとした国内の少ない菓子屋は年に数えるほどしかない掻き入れ時に猫の手も借りたい状態になるし、資源国家として成り立つようになってからちらほらと現れ始めた輸入雑貨店はこの時期軒並みチキンの発注をする。
12月24日までに街中は前夜を祝う慶賀品の買い物客でごった返し、生誕祭前夜となる24日は家族や親しい者たちとケーキを囲むのは今も昔も変わりなく、前夜の残滓を引きずったままカテナ通りに面する教会に集まるのはアルテモンド国民の昔からの習慣で、集まった国民は今年一年の無事と来年の無病息災を祈るのだ。
極貧の海洋資源国であったころからのこの国民行事は資源立国となった今もなお脈々と受け継がれており、そして祈りに際し神に何かを献上するのもまた今と昔で変わりない。
が、献上するほど立派な何かなどアルテモンドが立国してこの方あった試しなどなく、そう長くもない年月を費やして行きついたのは神を賛美する歌であり、そして民を代表して歌うのは文字通り国民代表たる国王や王妃の仕事であり、したがってタカネは12月24日に家族で静かに前夜を祝うなどという慶賀行事を生まれてこの方一度もやったことがない。
何せ王族一門の12月24日と言ったら過去に執務官が文字通り禿上がったほど忙しいのだ。昔々の海洋資源国であったころから親交のある近隣国からは祝賀の来賓も来るし、王妃拉致未遂事件で半鎖国状態になったアルテモンドにはこれを機会に目指せ国交正常化とばかりに聞いた事のないような国名のお偉方が来たりする。
が、そう言う連中に限ってセレン目当てなのは見え見えであり、タカネの両親や国交担当の外交員たちは煌びやかな衣装を身に纏い、愛想笑いとスケジュールの過密さを盾に袖の下を防護する。
華やかな外交の舞台とはいずれも例外なく権謀術数が渦巻く熾烈な戦争の舞台であり、そうなれば王族とはいえたかだか10の子供に出番などあるはずもなく、しかし強圧の会合が終われば母親はすぐに生誕祭の準備に取り掛かってしまい、結果タカネは12月24日から25日にかけて文字通り「いてもいなくてもいい」存在になるのだった。
 それが、今までの9年間のタカネの生誕祭だった。
 が、今日からは全く違う。
 タカネが10歳でデビューするのは何もタカネだからという事ではなく、アルテモンド王族に生まれた子供たちは常に10歳で国民の前で神に献上する歌を歌ってデビューを果たす。
このデビューとはもちろん未だ脈々と受け継がれる社交界へのそれを指すが、もうひとつには「国民の代表として歌う」という性格から御前会議への参加を許可されるという意味合いを持つ。
御前会議と言うのは要するにアルテモンド版の国会の事であり、無事に生誕祭の献上歌を歌いあげたその日には国の規模に相応な議員の数は市民会議員8人と貴族会議員7人の合わせて15人からなる議連の末席にタカネの席が出来上がるという仕組みだ。タカネが学校の授業を真面目に受けられないくらいに国家知識が豊富なのは全てデビューに向けた英才教育の賜物である。
 そして、国の代表として歌うと言うからには、歌の教育もまた結構なものなのだった。
「―――ええ、発声は十分でしょう。では譜面を捲って、48ページの練習曲Z。昨日の積み残しはロングトーンでしたが、練習はされましたか?」
 オスピナ先生は元々どこか遠い国のオペラ主席だったらしい。
らしい、と言うのは先生が自分でそう言った事がないからで、しかし確かにタカネと初めて面通しした際のタンホイザーは腹の中に拡声器でも仕込んでいるのではないかと思ったほどだった。
母親の影響か歌が嫌いではなかったからオスピナ先生に師事した後のタカネの歌唱力はメキメキと向上し、今のタカネは来るべき2週間後のデビューに向けてアメイジング・グレイスの練習に励む毎日である。
「はい。帰宅後に練習もしましたし、お母様のお墨付きもいただきました」
「重畳です。では、キーはC#から」
 タカネは一つ頷くと、オスピナ先生の弾くピアノの音を全力で脳味噌にインプットし、僅かな誤差も許されない正確なピッチを求めて大きく息を吸い込んだ。

 さて、タカネが人でも射殺しそうな目でロングトーンに励んでいるのは音楽堂のホールである。
座席数は全部で300くらい、ホールとしては非常に小型ではあるが人口を考えればこれでも十分に大きく、そして合計4つあるホールの出入り口はこの1カ月というもの常にその3か所が強固な鍵でロックされている。
蝋燭の頼りない光でともされるドアの取っ手はロープと南京錠でぐるぐるに固定されており、唯一締められていないドアの前ではエイフラムが直立不動で立っている。
 最も、これは国の王女が練習をしているためだけの措置ではない。
雪の深いアルテモンドにあってはドアの外が白い壁だったなどと言う事は割と笑い話ではなく、事実奥側のドア付近にはしばらく誰も近寄っていない事が丸わかりの量の埃が積もっていたりする。
管理を委託している教会の面々はそれほどずぼらな連中ではないが、用途もなく開いたところで雪と氷がなだれ込むドアの前など掃除したところでどうなるのかと思っているのかもしれない。
まして生誕祭は政府と教会の一大イベントであり、そんな使わないところを掃除するのであれば本堂の飾りつけの一つも手伝ってほしいというのが教会側の本音なのだろう。
最も、生誕祭当日は多数の国民が音楽堂を埋め尽くすのは間違いなく、掃除すらまともにできない教会と思われるのは向こうだって良い顔はしないはずで、いずれ哀れな丁稚が埃取りと雑巾を両手に持って現れるのかもしれない。
直立不動のエイフラムが難しい顔をしているのは恐らくそんな哀れな丁稚が練習中に現れたときにどうするかを考えているからで、街中で狙撃手と2キロのC4を警戒するエイフラムであれば修道士の服くらい簡単に引ん剥きそうではあった。
 だから、その来訪者にいの一番に気がついたのはエイフラムだった。
タカネの視界の中でエイフラムは直立気をつけの姿勢を静かに解き、左わき下のホルスターに納められたP228のグリップを握り、背を向けたまま唯一開閉できるドアの取っ手に手を掛けて、Fの音を出し切った貴音の肺が空になったそのときに、視線が通るだけ扉を開けた。

 目があった、と思った。
 クソ親父である。養育院から帰ったらすぐに厨房を手伝えと言われていたから厨房に入ったのだが、親父はあろうことか「薪が足りない」と言ってきた。
オーブンに突っ込むための薪は本格的な冬前に蓄えられるだけ蓄えておいたはずなのに、今までの味では飽きられてしまうから常に新しい味を開拓しなければならないとか何とかほざいた親父は試作ケーキにうつつを抜かして備蓄用の薪にまで手を着けていた。
アルテモンドの3方を占める山はもちろん丸禿というわけではなく、厳しい気候に適応したのかそれともまだ鉱山に手をつける前の林業者たちが植えたのか針葉樹が生えており、秋前に折れたり枯れたりした薪をかき集めて地下の倉庫に突っ込むのはもちろん子供の仕事であって、エレンが姉といっしょに集めた薪の数は相当な量のはずだった。
悪いけどパーナムさんところ行って薪の融通してきてくれるか、と言うのが養育院から帰ってきたエレンに伝えられたミッションであり、パーナムの親父は事情を知ると笑いながらエレンが持てるギリギリの量の薪をそのまま渡してきた。
背中に薪を背負ったエレンはまさに勤労を絵にかいたような様であり、これで本でも読んでいようものなら二宮金次郎であるが、エレンと金次郎が決定的に異なるのはエレンは金次郎ほど勉強が好きではなかった点であり、そしてエレンは親の意見に反発する第2次反抗期の入り口にさしかかる歳であった。
 お使いだけして家に戻るのは癪だったし、パーナムの店はカテナ通りに面していて、そう言えばお姫は今音楽堂にいるはずだと思ったのだ。
 途中に出会った何人かの軍人に笑いながら挨拶してやってきた音楽堂への廊下には案の状お姫の同い年とは思えないほど声量と張りを両立した歌声が漏れ聞こえていたし、これくらいの役得がなければやっていられなかった、という思いは確かにあったのだと思う。
 で、目があった。
 外に比べれば幾らか暗い音楽堂の中の光に照らされていたのは白と薄緑の軍服であり、この色の迷彩柄を着ているのはいつも養育院の廊下につっ立っている第何とか廟の連中で、僅かに開いた扉の隙間から見える軍人のその眼は実に鋭く、驚きすぎると声すら出ないんだとエレンは思う。
「あれ、君は、」
 そして、向こうは向こうでこちらに気付いたらしかった。
体一つ滑り込ませられるくらいまで扉が開き、器用に現れたのはいつも廊下で罰ゲームをしている歳の若い軍人だった。
「君は確か姫様のご学友の。何がご用ですか?」
 あれ、と思う。ついさっきの目は随分と物騒だったくせに、こうして廊下に出てきた軍人の目は優しい眼差しをしていた。
「あ、あたし、お使いで近くまで来てたから、その、お姫の、」
 そして、その軍人はエレンの言いたいであろうことを十分に察してくれた。
「…まだ声出しの練習が始まったばかりです。生誕祭までは後2週間ですし、お楽しみは後に取っておいた方がよろしいのでは?」
 十分に察したうえで、軍人はエレンの行動に釘を刺したのだった。
エレンはお姫の歌でも聞いてから帰ろうかなと言おうとしたのであり、そして目の前の軍人はそれをやんわりとではあるが如実に阻止しようとしている。
ダチの練習を見ようとして何が悪いのか、というエレンの視線をはっきりと感じたのか、軍人は困ったように頭を掻いて、
「今、姫様の行動圏は全てA級の監視対象下です。申し訳ありませんが部外者を姫様に近づけさせるわけにはいきません。お引き取り願えますか」
「…あたし部外者じゃないもん。お姫の友達だもん」
「…。まったく、」
 他の連中は何をしているのか―――という呟きが頭の上から聞こえた。
他の連中と言うのは教会の中と廊下への入り口に立っていた軍人の事だろうか。
「兵隊さんなら他にも一杯いたよ。挨拶したら通してくれた。ねえ、中入っちゃだめ?」
 軍人の顔にどっと疲労の色が浮かんだ。
全くあの人たちはどうしてこう、と怨念のような呟きを上げる軍人の顔を見上げると、彼の顔には疲れたような諦めたような表情が浮かんでいる。
「お引き取り願うわけにはいきませんか」
「絶対ヤダ」
「どうしても?」
「うん」
 何せこちとら背中に背負えるだけの薪を持たされているのだ。
言っちゃあ何だが背負っている薪のふとい奴なら思い切り投げれば結構な凶器になるのではないかと思うほど重いのだ。
このまま素直に戻ったらバカみたいだと思う。何か役得がなければ梃子でも動きたくない。
「どうでしょう、ここは私の顔に免じて」
「いーや」
 なんだか面白くなってきた。
エレンは舌を出して徹底抗戦の構えを見せ、軍人はほとほと困り果てたかのように薄暗い天井を仰ぐ。
天井には音楽堂のような天窓はしつらえられておらず、明かりと言ったら大人の背より高いところに照らしてある蝋燭くらいだ。
そう言えば、だからさっきあんなに視線が怖く感じたのかな、とエレンは思う。こうして目の前で困ったを連発する年若い軍人はこのやり取りだけでも随分と糞真面目な奴だと分かる。糞真面目を抜けばそれなりに優しそうな雰囲気であり、さっきのような鋭い視線など逆立ちしても出て来ないような気がする。

 さっきのは一体、何だったのだろう。
 
 と、ここでようやく、部屋の奥で鳴っていたピアノの音が止まった。
軍人はしまったとでも言いたそうな顔をして後ろを振り返り、戸越しに軍人がおどいた様子が目に入る。
どうやら軍人の予想よりもピアノの周りにいた奴は軍人に近づいていたらしい。
「何をしているのです、エイフラム」
 そして、軍人の背中の陰で見えない室内からクラスメイトの声が聞こえてきた。
エレンはにやりと笑い、軍人を困らせるような元気な声を出した。
「やっほーお姫、遊びに来たよ」
「あ、こら!」
 エレンはお姫が来たことで先ほどよりも角度を大きく開いた扉をくぐり、素早くお姫の後ろに回る。お姫が驚いたような顔をするが無視する。
実のところエレンが音楽堂の中に入るのは去年の生誕祭以来だ。去年は壁のいたるところに蝋燭が立ち並ぶ程度の光源だったから部屋の仔細は分からなかったが、こうして天窓からの光が差し込む音楽堂はなるほど確かに荘厳な作りと言えた。
「! エレン、どうしたのですかその荷物」
「お使いの帰り。重くて疲れちゃったから休憩がてらお姫の練習見に来たの。そしたらこの人に捕まってさ」
 お姫の視線が背後に回った。
タカネはなるほどと得心したように頷き、奥のピアノの前でこちらを見やっている人物に視線を投げる。
誰だアイツ―――少なくともエレンはこの時までオスピナ先生の存在を知ってはいなかった。ひょっとしたら宮仕えの人なのかもしれないなと思っていたら奥の何者かは一つだけ頷き、お姫はすぐににっこりと笑った。
「そう言う事でしたら、少し休憩されていって下さい。飲み物も食べ物もありませんが、座席だけはたくさんありますから」
「姫様、」
 そこで、確かエイフラムと言った軍人がすかさず口を挟もうとした。お姫は溜息にも似た息を吐き、
「エイフラム、あなたは私の友人すら信用なりませんか?」

 エイフラムにしてみれば譲歩に譲歩を重ねた結果なのだと思うが、鶴の一声でようやくエレンはお姫の練習見学を許された。
が、エイフラムが最後の最後まで譲らなかった一線がお姫の練習の邪魔をしないようにという事と自分から5メートル以上離れないようにという事で、現在お姫はピアノの前に戻ってロングトーン練習を再開し、エレンはエイフラムと並んで最後尾座席に座っている。
お姫が練習しているのはエレンたちが座っている座席よりも一段高くなった場所で、ひな壇の上にあるピアノの周りは天窓の作りが工夫してあるのか座席よりも幾分か明るくなっている。
まさか電気照明ではないだろうとエレンは思う、発電機が納入されたのは教科書によればもうだいぶ前の話だが、そのほとんどは採掘場に回されており、未だ一般市井の照明器具といえば暖炉の明かりと蝋燭だ。
 天窓から差し込む光の中で、お姫は練習をしている。
その声はどこまでも伸びやかで、同じ年だとは思えないくらい芯が太く響いている。
年に一度も歌の披露宴があるアルテモンドは音楽教育に随分力を入れており、エレンも未だに聖歌隊を続けてはいるが、聖歌隊員のエレンの目にもタカネの声はどこか次元が違うように思える。
「お姫、凄いね。どうしてあんなに声出るんだろ」
 が、そこは10歳のガキであり、エレンがタカネの声を黙って聞いていられたのは最初の5分くらいで、大して期待もせずに隣の軍人に声をかけると驚いたことに隣から返答が得られた。
「…姫様はもう1カ月も前から毎日練習していますから。最初のころはそれは残念でしたが、これなら生誕祭には間に合いそうです」
 そもそも返答を貰えるとは思っていなかったし、てっきりお姫の忠犬だと思っていたから、そんな感想を聞けるとは思っていなかった。
「ひどいってどのくらい?」
「声は小さかったですし、空気が混じっていなかったから張りもなく、喉だけで歌おうとしていたのか随分と細くて鋭い声でした。ほら、ちょうど、」
 エイフラムの指さした先で、お姫は高いGのロングトーンにトライしていた。
この距離でここまで声が届くのだからそれだけでも単純に凄いとは思うが、確かにその前までの音よりは細っているような気がする。
聞いていて胸が苦しくなるような声だ。
「普通高音を歌う際は喉を開いてファルセットを使うんです。声量は少し落ちますが張りを維持出来ますし、何よりも鼻を通すことで響きが得られる。姫様はまだ幼い分高音が喉だけで出てしまうから、その分ファルセットへの移行が―――何ですか?」
「凄い。あたし軍人さんってそういう事知らないんだと思ってた」
 エイフラムは少しだけバツの悪そうな顔をした。
 単純に凄いと思う。まだ幼稚舎だったころに軍人だけで構成される軍人合唱団の歌を聞いた事があるが、気合いと根性だけで歌っているような合唱を聞いてエレンは耳を押さえたことがある。以来軍人たちは毎日匍匐前進したりヒンズースクワットをしたり30キロの銃弾と野営セットをかついで夜間行進をしているから絶対歌の技術のぎの字も知らないんだと思っていたのだが、知識層というのは結構どこにでもいるらしい。
「昔、私も聖歌隊にいたんです」
 あれ、とエレンは思った。
 アルテモンドの子供にとって聖歌隊とは割と身近な存在である。年に一度くらいしか音楽堂に入らない菓子屋の娘が聖歌隊員を名乗れるほどだし、国を挙げて音楽教育をしているアルテモンドは子供の聖歌隊への入隊を推奨したりもしている。
冬場の遊びなど歌を歌うくらいしかなかった貧しい時代を経てのモノダネではあるが、しかし年に一度くらいしか音楽堂に入らない子供が聖歌隊員を名乗るくらい程度にしか聖歌隊は活動をしていないともいえる。
実のところ聖歌隊とは名ばかりの名前であって、娯楽のなかった時代に成立した聖歌隊の活動の場はもっぱら教会か養育院の音楽室であり、言ってしまえばそのくらいしか人が十分に集まれる場所がなかったからだが、いつのころからか教会で歌う団体の事を他国になぞらえて聖歌隊と呼びならわすようになったのだ。
これはお姫が生誕祭の日に歌う『神への献上歌』とは性格を異にするものであり、その対象はもっぱら娯楽のない一般市民であって、いわば市民サークルのような性格が強いものだ。
要は聖歌隊とは名ばかりのその団体はどこまで言っても趣味の寄せ集まりであり、エイフラムの言うファルセットなどという高等な音楽技術など教えない。
聖歌隊は性格上歌っていたり聞いていたりして楽しければそれでいいのであり、そこに技術うんぬんを持ちこむのは野暮のすることであるとエレンは子供ながらに思っていたりする。
 つまり、エイフラムの言う『聖歌隊』とは、エレンの所属する聖歌隊とは似ても似つかぬ何者かである。
ひょっとしてコイツかなり高い身分の出身なんじゃないか、そうエレンが思った時、エイフラムはふと表情を緩めた。
「いや、忘れてください。私たちの任―――お仕事は姫様の歌を聴くことです」
 物思いに沈んでいたエレンは、そこでようやくお姫がピアノの旋律に合わせて歌を歌っている事に気がついた。

♪ Amazing grace, how sweet the sound ♪

 最初の部分だけで圧倒された。
 エイフラムとエレンしかいない観客の前で、お姫が歌っている。
その歌は朗々と響き、途切れる事のない声はどこまでも澄んでおり、天窓から差し込む光に照らされた壇上はまるで別世界のような気さえする。

♪ that saved a wretch like me
  I once was lost, but now I’m found
  Was blind, but now I see ♪

 凄い。
 凄い凄い凄い。
 まるでお姫じゃないみたいだ。宿題はやってこないし授業中はいつも外ばっかり見てるけど、やっぱりお姫は凄いんだ。エレンは興奮して両手を握りしめ、お姫の歌を全身を耳にして聞こうと試みる。

♪‘twas grace that taught my heart to fear,
  And grace my fears relieved ♪

 そして、エレンは興奮に導かれるまま横を見て、やっぱりさっきの表情はウソだったんだ、と思った。
エイフラムは静かに舞台を見ている。その眼差しに棘はなく、どこまでも遠くを見るような目つきには軍人らしからぬ穏やかさがあり、それはまるで天の恵みを享受するかのような、何かを成し遂げた事を何者かに感謝するかのような、そんな表情だった。

♪ How precious did that grace appear
  The hour I first believed ♪

 その時、エイフラムの表情が突然一変した。
何事かとエレンが思ったその瞬間にエイフラムは懐をあさり、出てきたのは黄色に明滅する握りこぶし大の箱のような何かだった。
エレンが興味を注がれて見ていると黄色の光は変則的に明滅し、30秒ほど明滅した後にぷっつりと沈黙した。

♪ Through many dangers, toils, and snares,
  I have already come ♪



 やっぱり見間違いではなかったのかもしれない、とエレンは思う。
 光の明滅が収まった後のエイフラムの表情は、扉を開けた時のあの表情に良く似ていた。





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