声 (55)

「ポケベルみたいなもんか?」
 多分、とエレンは首肯する。
 遠藤とエレンは雪深い道をどうにかこうにか進み、潮の香りというには少々心もとない匂いがするその浜辺でようやく目的地にたどり着いた。
街中は文明のぶの字も消し飛んでいたくせに、ここだけは最近つけたような電燈が立っている。歩いた感じ先ほどよりも足が雪にとられることがないところを見ると、この辺りは雪の下にごく最近アスファルトが敷かれたのだろう。
 海も近いが山も近い場所だった。灯っていない電燈は大した山裾までの大した事のない距離を一直線につなげており、これで電気を通したら夜通しでも山から物資を搬送したりされたりできそうだった。
 雪原に佇むその建物を形容するならば異様の一言に尽きる。恐らくは工場と考えられる建物の横には馬鹿でかいタンクが鎮座しており、タンクの上部と下部にはそれぞれ白い背景にあって銀に光る野太いパイプが工場内に吸い込まれるように設置されている。
パイプはそれ以外にも工場のいたるところから外に飛び出ており、恐らくは外気に触れさせることでダクトの中を通すなにがしかの温度を下げる機構なのだろうと遠藤はアタリを付ける。これがもし工業地帯にあるのであればまだ理解はできるが、遠藤が今いるのは雪原のど真ん中である。滅びた街から歩いて行ける距離にある無人の近代工場は、何か言いようのない圧迫感をもたらすには十分だった。
「あの頃はあんなものあたしたちが持てるようなものじゃなかったしね。軍人さんたちは通信手段として持ってたみたいだけど光がチカチカするだけだもん。多分通信本部みたいなところから一方的に連絡するための機械だったんだと思うけど、あたしにはその光がどういう意味だったのかはその時全然知らなかった」
 言いながらエレンはぐるりとパイプの生えたタンク沿いに歩きだした。
遠藤はエレンの後に追従しながら工場の裏側にぐるりと回る。工場の裏側にはもう一つタンク様の建築物があり、タンクのてっぺんには何かもっこりとした突起が生えていた。
突起のあるタンクのすぐそばには遠藤の伸長を5乗したようなでっかい箱型の何かが置いてあり、ご多分にもれずこれにもダクトが付いている。
「なんだこれ?」
「採掘用のモーター。中に螺旋階段みたいなプロペラが入っててね、中でぐるぐる回ってセレン鉱石を上まで運ぶ仕組みになってる」
「あの電燈は? 山の方に繋がってるみたいだけど」
「さあ。空港でも作るつもりなんじゃない? 冬になったら船も出られないしさここ。あーでも、それ言ったら飛行機も同じか。吹雪いたら飛べないもんね」
 深くは考えないことにしてエレンの方を見やると、エレンは採掘用モーターのボックスの前で何かをごそごそとやっていた。
興味をひかれて近寄って見るとエレンが対峙しているのは何らかの装置のコントロールボックスのようで、「Ein Versuchslauf」と書かれたボタンが薄明るく光っていた。
発電機が動いている様子はないから電源は蓄電池か何かなのだろうか。
「一応ね、エンドーとあたしのここでのお仕事はこのモーターの動作確認も含むから。マイナス20度くらいまでなら壊れないって話だけどさ、一応証拠も取っとかないとお給料出ないから」
 デジカメでバシャバシャと光源を撮影していくエレンをしり目に、遠藤は目の前に鎮座する工場兼採掘場を眺めてみる。
雪原に突如現れるような格好になっているこの工場はその新しさも相まって異様この上ない。古いものが不気味に感じた事は何度かあっても新しいものに不気味さを感じたのは初めてだった。
 エレンは何事もなかったかのように写真を撮りまくっている。どうやらあの良く分からない文言のボタンの光がそのまま採掘場の状態を表すらしい。光っていれば通電の証拠となり、通電しているのであればいつでも工場に火を入れられるという事なのだろうか。
手持ち無沙汰になって見上げた上には野太いダクトが走っており、遠藤はどことなく都心型テーマパークにありがちなウォータースライダーみたいだと思う。
「熱に反応するんだってさ。あたしも良くわかんないけど、セレンってそのもので産出されるんじゃないんだって。大抵は硫化セレンっていう化合物の状態で出てきて、この工場で精製して亜セレン酸ナトリウムとか何とか言う名前のものにするんだって」
 ダクトを見上げてアホ面を晒していた遠藤に向けて、エレンはそう言ってパチリとデジカメのシャッターを切った。遠藤は高校時代物理と科学に中指を立て続けた筋金入りの文系であり、頭に「亜」という文字がつくと途端に閉じられるという便利な耳を持っている。
「へぇ」と興味もなさげに言う遠藤に溜息をつき、エレンはくるりと工場に背を向けた。
「ほら、ここでのお仕事終わり。いい加減寒いしさ、さっさと宿舎に行こう」
「ああ―――」
 そしてエレンについていこうとした遠藤は、視界に隅にそれを捉えた。
 横倒しになったタンクだった。
 設置されてダクトの生えたタンクよりも50センチ以上は雪が積もっているように見える。恐らくはこのタンクにもダクトが設置されていたのであろうが、角度が悪いのか外れているのかそれらしい痕跡は見当たらず、そして何よりも不気味だったのはそのタンクの横っ腹に空いた穴だった。
厚みのあるタンクの壁面は内側から突き破られたかの如き様相を呈しており、積雪にヘタりもしない厚みの断片には雪がこんもりと積もっている。
「なあエレン! ありゃ何だ!?」
 先行していたエレンに声をかけると、エレンはまるで「まだ片付けてなかったんだこんなの」とでも言わんばかりの表情を浮かべ、
「昔のタンクだよ! 横につっ立ってるのと用途は同じ! まだアルテモンドがあったころに使ってたやつ! まだ片付けてないみたいだし、害はないからほっとこう!」
 害はないから放っておこうにはもろ手を挙げて賛成であるが、そもそもあれだけの大きさのタンクを破壊したのは一体何だったのだろう。
遠藤はいささかの気味の悪さを感じつつ、エレンの背中を追いかけて積もった雪に足を取られた。



 実に惜しいところまでエレンは気付いていた。
 確かにあの時エイフラムが持っていたのは軍人に貸与されていた連絡用の無線機である。
王女が街中を歩く際に狙撃手を警戒しなければならなかったほど軍事的に圧迫されていたアルテモンドでは、有事の際に急行できるようにと兵士の半分ほどにこのトンツーが配布されていた。
 まさか当時10歳の、それも暗号教育など受けたこともないエレンに配信されたメッセージの内容が分かるはずもない。
 エレンが惜しかったのは、端末が「光がチカチカするだけ」だが通信手段として使用されていたと認識していたのに、近代に入ってもなおそんなお粗末な端末でしか遠隔地との通信手段を持たない当時のアルテモンド国軍が「トンツーを使って連絡をしてきた」という事実から何かを推測する事ができなかったという点である。
 トンツーが本来の役目を果たすべきなのは有事の連絡、つまり敵性勢力の襲来やそれに類する重要事態の伝達であったはずであり、という事はつまりトンツーが明滅した時点で何らかの危機が発生したという事で、この時本来であればエイフラムは護衛対象と民間人に避難を強制しているはずである。
 しかしエレンの記憶によれば、この時のエイフラムは表情を変化させた以外に特段の行動を起こしていない。
 これは、一体何を意味するか。
 避難を強要するような有事ではなく、しかしトンツーを使ってまで迅速に兵士たちに連絡しなければならなかった事とは、一体なにか。
光の明滅でしか信号を送れないトンツーでは取得できた情報など知れたものだったのだろうが、その時のトンツーを解読するとこんな内容になる。
 重要案件失敗。



 タカネの部屋は優美な調度品に彩られているが、実のところタカネとしてはたかがベッドやたかが机にこんな装飾はいらないだろうと常々思っている。
寝るのであれば父が母と一緒になる前に使っていたというフトンとかいうものでも十分だし、事実小さい頃我儘を言って父と一緒にフトンに入った時の得も言われぬ暖かさは筆舌に尽くしがたいものがあった。
羽毛の寝具は確かに暖かいし不満などあるはずもないが、あの温さは一人で寝ているとどうにも体感できない。
机にだってこんな有機的な装飾はいらないはずで、ただ勉強をするのであれば養育院のあの化粧気のない机で十分に事足りる。
ただもちろん、不必要なまでの装飾は必ずしも用途の障害には当たらない。タカネは机と同じような意匠の施された椅子を引くと、オスピナ先生から課された本日の宿題たる歌詞の丸暗記に果敢に挑む。
養育院を出てからずっと一緒にいたエイフラムはタカネが自室に戻った事で本日のお勤めを終え、今はそう呼ぶには少々狭い王宮の横に備えられた第3廟宿舎に戻っているはずである。すでにとっぷりと日が暮れており、タカネが王宮に戻る少し前から降りだした雪は風のない空に深々と舞っている。
 課題を初めて5秒で飽きた。
 デビューが決まってから「アメイジング・グレイス」の譜面は穴があくほど眺めている。そんなに長い歌詞ではないし意味もそれほど深いとは思わないため、実のところタカネは歌詞など譜面を渡された1週間後にはソラで筆記できるほどに暗記している。
生誕祭に向けて日ごろの静けさがウソのように王宮内に響く足音は新鮮だがうるさいことこの上もなく、先行し切った宿題に対するやる気などかけらも起きず、もう寝てしまおうかと椅子から立ち上がろうかと思った瞬間、それまでも大きかった足音がやたらに接近してくることに気がついた。
 溜息が出た。
「…ネちゃあああああん」
 大体にしてこの王宮内でタカネの事をこう呼ぶ人物など一人しかいない。
父は自分の事をちゃん付けでなど呼ばないし、祖父はここしばらくベッドから立ち上がった事がない。
乳母や侍女たちがちゃん付けで呼ぼうものなら恐らく大婦長あたりに鼓膜が破られるほど怒られるのだろうし、事実姉のようだった侍女が戯れに自分の事をそう呼んだ直後に彼女は無限折檻部屋に入れられたと聞いた。
「タカネちゃああああん」
 声と足音がガンガン近くなっていく。全く、だから誘拐などされるのだと何度言おうと思ったか分からない。タカネの目から見ても子供のような人だった。好奇心に導かれるままあっちにフラフラこっちにフラフラだ。
もっとも、だからこそ自分がしっかりしなければと思えるようになったのかもしれないし、あんなナリでも国の女王としてやっていけるのだから実は結構女王という仕事も楽なのかもしれない。
 そして、その女王様は、タカネの部屋をノックもせずに全開に開け、もう驚くこともないタカネに高速で接近し、あろうことかいきなり頭を胸にうずめるように抱きついてきた。
以前父がモチという郷土料理を食わせてくれたことがあったが、そのモチに頭を埋めたらこんな感じになるのではないだろうか。
「タカネちゃあああああああん」
「…母上、お願いですからそのような大声をあげないでください。十分に聞こえています」
「ごめんねええママ最近忙しくてごめんねええええ昨日も一昨日も会えなかったもんねえええさみしかったよねええママさみしかったよおお」
「…母上、苦しいです。落ち着いてください母上」
「ああんもうタカネちゃんかわいいなあかわいいなあ食べちゃいたいなあママタカネちゃんの事だあい好きだよおおおお」
 タカネの頭をガシガシガシガシと撫でまわす三日ぶりに会う女王―――つまり母は、大分頭のどこかがアレな感じになっていた。
三日ぶり、というのはタカネのデビューに伴って本格的に生誕祭での外交行事に母が駆り出されるようになったからで、それまでのこの時期の母は生誕祭で歌う曲を毎晩のようにタカネに聞かせてくれたものだったが、タカネのデビューが決まったと同時期に祖父が倒れたことで母も本格的な行事に参画することになっていた。
普段から頭のどこかが常に残念な母ではあったが、壊れぶりに磨きがかかるくらいにうわべの笑顔と袖の下をブロックするのは骨が折れる仕事らしい。
が、そのストレスを一方的にぶつけられるのはこちらとしてもいささか面倒ではある。
「母上、いい加減苦しいです。離してください」
「やだ」
「母上、怒りますよ」
「やだ。ちっちゃい時みたいにママって呼んでくれなきゃ離してあげない」
「…母上、」
 タカネだって昔から尊敬語と謙譲語を使い分けていたわけではない。
もっと幼かった時分には年相応の舌足らずな話し方をしていたはずだし、ひょっとしたらセント・ヒューリー通りにいたアリエルよりももっと幼い話し方をしていたかも知れないと思う。
が、それも4歳くらいから始まった家庭教師とのやり取りで徹底的に矯正されたし、まして月に3度程度あった祖父王との謁見で前後不覚の話し方など許されるものではなかった。
母だってまさか来賓とのやり取りでこんな残念な話し方などしないだろうが、だったら子供の前でも尊厳ある母でいてほしいと思う。
「母上」
「ママ。ママよ。リピートアフターミー、マ・マ」
「は・は・う・え。いい加減にして下さい。さもなければ、」
 すると母はようやく自前のモチ二つからタカネの頭を解放し、上質な絨毯の敷き詰められた床によよよと演技派よろしく泣き崩れた。
「ひどい。タカネちゃんは疲れたママを癒してもくれないのね。ママこんなに頑張ってるのに。毎日毎日よその国のやらしいおじさんたちの視線と戦ったりしてるのに。兵隊さんたちの無茶なお願いに悩んでるのに。あぁあ、タカネちゃんも昔はあんなにかわいかったのに。ママの膝の上で笑っていた天使ちゃんは一体どこに行ったの?」
「国に帰ったのではないでしょうか」
 溜息。
 母は確かに綺麗だと思う。タカネにも遺伝した銀の髪は腰を過ぎたあたりまで緩やかなウェーブを描き、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ見てくれはよくもまあこんな体で自分の事を産んだものだとも思う。
2次性徴期にさしかかる年頃のタカネとしては意識するなというのが無理な話ではあるが、しかし髪だけでなく頭の中身についても遺伝してしまっているのならば自分にもいつか子供が出来た暁にこんなにアレな感じになってしまうのであろうか。切に願う、頭の中は父親似であって欲しい。
「それほど大変なのですか、祝賀のお仕事は」
 すると母はすっくと立ち上がり、タカネがちょっと前まで潜り込もうとしていた豪奢なベッドにゆったりと腰を下ろした。
「祝賀のお仕事も大変だけど、もっと大変なのは議会の方ねぇ。ほら、もうすぐ今季も閉会でしょ? 軍部の皆さんが駆け込みの法案成立を狙っててね、阻止するのが大変なのよ」
 祖父王が倒れてからというもの、母は外交のマスコットだけでなくアルテモンド議会の取りまとめも兼務することになった。
外交であれば父も手を出せるものの、生粋のアルテモンド人ではないタカネの父は議会での発言権はないに等しい。ちょっと前までは母は議会の事をタカネに教えてはくれなかったが、もう2週間後に控えたデビューに向けて議会の内容を積極的に話してくれるようになっていた。
「軍部の皆さんの駆け込み?」
「あれ、教えてなかったっけ。それにしてもタカネちゃんたら、ママの呟きから議会の様子を知ろうなんて何て勤勉な子! さすがママとパパの子、もうだあい好き!」
 迫りくるモチをスウェーでかわすと、母は慣性の法則に従って腹をしたたかに机のヘリにぶつけた。げふぅっ、と言って腹を押さえる母を見るだに、本当に人間という物は一面では測れないのだなあと思う。
と同時に悶絶するようなスピードで抱きつかれた日には骨のどこかが大変なことになったかもしれないと思うと、素直に母上大丈夫ですかとは言えないタカネなのだった。
「…ひどい、タカネちゃん、ママの愛情を受け入れてはくれないのね…」
 ちらりと、エイフラムの影が頭をよぎった。
「愛情も日々の平穏あってのものです。それで、軍部の皆さんの駆け込みというのは一体何なのですか?」
 タカネは母がスプリングよろしく飛び出したベッドに座り、母は母でタカネが今まで座っていた椅子に腰かける。腹を押さえているのは未だに腹部が痛いからなのだろうが自業自得だ。タカネは同情の余地なく母に疑問を投げつける。
「…大丈夫大丈夫産みの苦しみより痛くない産みの苦しみに比べたらこんなのへっちゃら…」
「母上。仰っていただけないのであればもう休みたいのですが」
「ひどいっ!! ママがこんなに痛がってるのにタカネちゃんはちっとも心配してくれないのね!?」
 何を言っているのか―――という目を向けると、母はこれ以上痛みを引っ張っても娘の同情を得られないと悟ったのか、いきなり核心を言った。

「セレンの取引について、輸出対象国を広げたいっていう申し出よ。彼らが出そうとしてるのは、物資貿易の自由化についての法案なの」

 てっきり軍部という名前が出てきていたから軍事費を増やしてほしいなどのミリタリー色を想像していたから、母の言う事がすぐに軍部には結びつかなかった。
「…? それを、なぜ軍部が?」
「何でだと思う?」
 そう言うと、母は今までの頭のねじがアレな状態とは若干毛色の違う笑みを浮かべた。
嫌みのないくせにニヤニヤしているという器用な表情は母がタカネに考えさせたいときに浮かべる顔で、家庭教師の宿題に窮しているときに何度も見た顔でもある。
 現状を整理しよう。
 アルテモンドは現在半鎖国の状態である。国交を開いているのは僅かに父の出身国のみで、現在の主な輸出品と言ったら海産物とレアメタルである。
現在アルテモンドがセレンを輸出しているのは日本のみであり、軍部の要求というのはこれを他国にも広げたいという事なのだろう。
なるほど、セレンはこの辺りではアルテモンド以外に採掘できるところはほとんどなく、国営採掘場でのみ採掘されるセレンの取引を自由化すればアルテモンドの国庫には大分外貨がたまる事だろうし、外貨がたまるというのは要するに儲けが出るという事で、儲けが出るのであれば国が潤うのは自然の理である。
「…輸出を自由化すれば、近隣国からセレン取引ができるようになります」
「そうねぇ」
 まとめた考えを定着させるために口に出すと、母は正解とも不正解ともとれる相槌を打った。
 国が潤う。母としてもそこに異論はないはずである。が、母ははっきりと「阻止するのが大変だ」と言っている。という事は、軍部の提案の真意というのはこの先にあるはずである。
 そこだ。
 良く分からないのは、貿易の自由化、取引相手の拡大という話にライフルと匍匐前進の連中が出てくることだ。
国庫の蓄えとライフルの紐付けが良く分からない。パイが大きくなるから取り分が多くなるという話なのだろうか。
「国庫が潤うと、国防費に回せる金額も大きくなります」
「タカネちゃんの答えは、それ?」
 母の顔を見ると、母は本当にうれしそうにニヤニヤしていた。こういう顔をしているときは大抵タカネの答えは外れだ。タカネはさらに考えることにする。
 切り口を変えてみよう。
 アルテモンド国軍は第1廟からエイフラムが所属する第3廟までで構成されている。それぞれの役目として、第1廟は国境警備、第2廟は軍事警邏、そして第3廟が要人警護である。
このうち最も数が少ないのは軍事警邏を受け持つ第2廟であり、次に第3廟、そしてアルテモンド国軍が最も人員と資源を割いているのが第1廟である。
第1廟の主な配置場所は東との国境であり、彼らの最大かつ主要な任務は東の進軍阻止である。その性格上最も損耗の具合が激しいのもまた第1廟であり、アルテモンド議会に参加する市民議員の中には第1廟出身の将校が2人いる。
軍部にかかわる話なのだから恐らく彼らが発案したのだろうが、それにしても国防を主な任務とする第1廟が貿易国拡大というのは一体どういう意図なのだろう。
 5分唸って答えがまとまらなかった。降参の意味で母を見ると、母は「しょうがないわねぇ」と言いつつもうれしそうに、こんな解説をしてくれた。
「今、どうして第1廟の兵隊さんが一番多いか、タカネちゃんは知ってる?」
「? 東からの侵攻を防ぐためです」
「そうね。じゃあ、どうして東はアルテモンドに向かって進軍しようとするのかな?」
「…? それは、」
「ヒントはね、今と昔では東の進軍の意味は大きく違っているってこと。昔はね、ママがタカネちゃんくらいの歳だった時は、単純に国土面積を増やすことが目的だったみたい。そりゃあアルテモンドはちっちゃい国だけど、漁港だってないよりはいいし切れる木は多い方がいいわよね。それに、当時は東は西側とケンカしてたから、ないよりはあったほうがいいものなんてたくさんあったの」
 当時タカネは知らなかったが、母の言う『当時』、東側にはアルテモンドを早期に併呑して前線基地を構築しようという計画があったらしい。
3方を山に、残りを海に囲まれたアルテモンドは攻めにくく守りやすい天然の要塞であり、西との戦闘に向けた兵士の補給基地としては非常に恵まれた立地である。
それゆえに当時の国防は熾烈を極めたという話もちらほらと聞く話であって、大した国力もない昔のアルテモンドは日夜食うか食われるかの毎日を送っていたらしい。
「昔と今の違いは何と言ってもセレン鉱脈が発見されたこと。今はもう東と西のケンカは終わった事になってるし、東にしてみればこんな小さな国を無理して攻め落とす必要なんてホントは無くなるはずだった。でも、この辺りで全く取れないセレンがアルテモンドで採掘されたことで、未だに侵攻は無くならないの」
 皮肉なものだ、とタカネは思う。
アルテモンドが極貧から脱却できたのはセレンの発掘によるところが大きい。人々が昔よりも豊かな暮らしを享受できる理由が、同時に未だに続く東の侵攻を招く理由でもあった。
「つまりね、とっても簡単に言っちゃうと、東はアルテモンドのセレンが欲しいの。でも、ママが誘拐されそうになった時にお爺ちゃんたちがごにょごにょしてくれたお陰で、東は大々的にアルテモンドに侵攻することができなくなった」
 ごにょごにょ、の部分は散々学習してきた。東の王女略取計画は寸でのところで当時のアルテモンド国軍第2廟によって阻止された。これが直接の契機となって要人警護を主な任務とする第3廟が成立したのだが、口先三寸で激流のような国際情勢を生き抜いてきた当時のアルテモンド外交省はこれを元に東とある密約を交わす。
 曰く、アルテモンド側は東のこの工作を世界に秘匿する。見返りとして、東は今後の軍事進攻を中止する。
 これは完全にアルテモンドの外交上の勝利であって、東にも大国としてのメンツがあるのか、それ以降の大規模な軍事進攻は現在に至るまで発生していない。それが、アルテモンド内でセレンが発見されたことで徐々に再開されつつある、らしい。現在では国境をまたいで小競り合いのような応酬が続いていると聞かされており、第1廟への配属は年を追うごとに増加の一歩を辿っている。
「…つまり、東が欲しているアルテモンドを、貿易という手段で東に渡す、と」
「簡単に言うとそういう事ね。軍部にしてみれば、向こうが要求しているセレンを渡すことで、国境周辺の小競り合いを回避できるかも知れないってこと」
 凄く真っ当な意見のような気がする。
貿易という形を取るのであれば先ほどの考察のように国庫は潤うのだし、国境周辺の小競り合いがなくなるのであれば第1廟の苦労も大幅に減るのだろう。
いい事ばかりのような気もするが、しかしそれにしては、母は先ほど明確に『阻止する』と言っている。
 なぜか。
「タカネちゃんはどう思う? 軍部の皆さんの意見は、アルテモンドの国家方針としてありだと思う?」
「…あり、だと思います。貿易ならば儲けが出ますし、何よりもそうすることで傷病者が減るならそれに越したことはないのではないかと」
「そうだね。そう思うよね」
 母は娘の主体的な意見に目を細め、「でもママは反対」とはっきりと言った。
「なぜですか?」
「そうねぇ、簡単に言っちゃうと、ママがあんまり東の事を信用してないから…かなぁ」
 何だそれは―――と思う。母の言い分は国策に一人者視点でNOを唱えるものだ。どういう事かとさらに視線で問うと、母は教え諭すような口調でこう言った。
「例えばね、セレンを東に輸出し始めたとするよ。これで確かに国境の小競り合いは減るかもね。セレンの販売窓口が増えることで儲けも出るかもしれない。いい事もたくさんあるんだと思う」
「はい」
「でも、これって前提事項が幾つかあるよね。アルテモンド側の前提事項としては、セレンがいつまでも採掘できていること。東の前提事項としては、ずっとアルテモンド側のセレンを買い続ける事」
 母はゆっくりと話している。これは母が考え事をしながら話すときの癖で、普段は頭のねじがぶっ飛んでいるくせにこういう話し方をするときはどこかで一本筋の通った理論を展開するのが常だ。日頃からこうあってほしいと娘としては切に願う。
「前の方の条件はこの際棚に上げるけど、問題は後の方の条件。相手はね、アルテモンドの軍人さんたちよりもはるかに多い人数の軍人さんがいるの。その気になればアルテモンドなんて一日くらいで制圧出来ちゃうくらいの人たちなの。今そういう状況になってないのはお爺ちゃんたちのごにょごにょと『セレン産出国』っていうアルテモンドの肩書がそれなりに世間に知られてるからだけど―――じゃあ、ここでアルテモンドが東に向けてセレンの輸出を開始したとするよ」
 シミュレーションが開始される。登場人物はアルテモンドと東。行きかう物資はセレン。
最初はタカネや母が思った通り、セレンの着々とした輸出により国庫への外貨注入がおこり、同時に国境での兵士の損耗も減っていく。
「もちろん、アルテモンドとしてもただでセレンをあげるわけにはいかないから、炭鉱夫さんたちのお給料と儲けを含ませて売るわよね。最初のうちはそれでいい。でも、例えばある日東からこんな風に言われるとするよ。『これじゃ高いからもっと安く売ってくれ』って」
「買わなければいいのでは?」
「最初から買わなくていいものならわざわざ鉄砲を使って小競り合いなんか起こさないよ。まあでも確かに、タカネちゃんの言う通り、その時のアルテモンドは『そんなこと言うなら買わなきゃいいじゃない』って言って突っぱねるよねきっと。ママもそうする。でもやっぱりお客さんの言う事だし、向こうにはアルテモンドの遥か上を行く軍事力がある。どうしてもアルテモンド側の譲歩も必要になってくる。徐々に徐々にセレンの売価は減っていく。最初は100の儲けがあった商品が、いずれ95、80…っていう風に下がっていく。炭鉱夫さんたちへのお給料の支払いや採掘場の稼働費もあるからいずれはこれ以上下げられない一線に至る。でも、東からの値下げ要求は止まらない」
 母は笑みを浮かべたまま恐ろしい事を言っていた。
セレンは極貧国だったアルテモンドの生活水準をようやく押し上げた起爆剤だ。しかし、母の言い分がその通り現実になるのなら、起爆剤の価値はやがて薄れ、最終的には大した価値も持たない物体に成り下がると言っている。タカネ自身が経験しているわけではないからその時の状況は分からないが、母の言う事が事実なのであればアルテモンドは再び極貧国に戻ってしまう。
 しかも、まだ続きがあるという。
「何年後になるのか分からないよ。5年後かもしれないし、10年後かもしれないし、ひょっとしたらタカネちゃんが生きている間はそんなことにならないかもしれない。でもいずれはきっとそうなる。その時、きっとアルテモンドはこう言うよね。『これ以上は値下げできない、こっちも一杯一杯だ』って。その時、東の人たちはどう思うかな。欲しいと思っていたものを奪えって思わない保証はあるのかな」
 それはおそらく、母だからこそ言えた事だろう。国土という『欲しいもの』を奪うために一度身柄を奪われかかった母だから持てる危惧だと思う。
 しかし、軍部側の言い分もまた最もな話ではある。母は下手をしたら100年スパンの話をしているが、軍部の要求は明日銃で撃たれるかも知れない同胞を減らすための進言だ。母の言う通り貿易対象を拡大しないとすれば、恐らくはしばらくの間現状はずっと維持される。第1廟の兵士たちは小競り合いの末に損耗を余儀なくされる―――それがどの程度の頻度で起きているのかは良く分かっていないが。
「では、どうするのです? このまま第1廟の兵士たちがいたずらに怪我をしていくのをただ静観していると?」
 タカネの至極まっとうな問いに母はようやく笑みを崩した。まさしく核心を突かれたような表情を浮かべた母はどうしようか考えているような顔をして、
「そこが痛いところなのよねー。長期を見据えて短期をないがしろにするわけにもいかないし。そのあたりの話こそしたいんだけど、今季じゃ難しいかなぁ」
 珍しかった。いつも頭の中はお花畑なのだと思っていたからこんな風に悩むことなどないのだと思っていたが、母にもどうやら頭の痛い問題と言うのはあるらしい。
さりとてタカネにも解決のための糸口など見えるはずもなく、やがて母はぽつりと現実的な一言を口にした。
「まあ、今季はとりあえず軍部に回す医療費の増大と防衛費の割り増しを約束して溜飲を下げてもらうしかないかなぁ。今日明日にも解決策が出来るものじゃないし、決めるにしてももうちょっと時間が欲しいなぁ」
 そして、恐らくタカネは、その時軍部と同じような思考をした。
「今日明日にも撃たれるかも知れないのに、その原因は今日明日中には取り除けないのですね」
「―――タカネちゃん」
 だから、次の瞬間、タカネは自分の母親ではなく、アルテモンド女王と対面することになった。
「最終的にはね、アルテモンド議会の決定事項はアルテモンド王の承認のもとに決定になるの。これは皆が考えたことは最終的には王様の責任で実行されるってこと。だから王様は偉いんだし、だから王様は何を決めるにしてもじっと考えなきゃいけない。仮に今日王様が決めたことで明日撃たれちゃうかもしれない軍人さんを1人救えるかもしれない。でもそのせいで10年後に100人の市民が倒れちゃったら? 100年後にアルテモンドって国がなくなっちゃったら? その時、タカネちゃんだったらどうやって責任を取る? 『あの時は間違ってました、ごめんなさい』って謝っても帰ってこない人はどうやったって帰ってこない。それでも、タカネちゃんは明日死んじゃうかもしれない1人のために、将来の100人を死なせちゃう判断を今日明日中にする?」
 頭がお花畑だと思っていたのに。
 ネジがアレな感じの人だと思っていたのに。
 そこにいるのは紛れもなく頭には現実の重みを乗せ、ネジはぎっちりと締まった、アルテモンド国民全てに対する責任を行使する女王だった。
「…あのね、タカネちゃん。いい機会だから、これだけは覚えていて?」
 背筋に電流が走った。
「王様はね、偉ければ偉いだけ責任があるの。自分の判断で誰かを殺しちゃうかもしれないの。だから、王様はずっと考える存在じゃなきゃいけない。考えて考えて考えて、自分がこれだと思ったことに対しては最大限の責任を果たさなきゃならない。そして王様は、たとえ誰かと一緒に考えた末に言ったことだとしても、その責任はとらなきゃいけない。王様は―――ううん、あのね、タカネちゃん、」

―――この時の言葉を、四条貴音は未だに覚えている。

「何かを決める人は、その責任の所在において、ずっと、ずぅっと、孤独なの」

 そして母は、度肝を抜かれて目を丸くしたタカネに向かい、一気にネジを数本緩めて頭の中に花を咲かせた。
「だからママとしてはそんな緊張の中にあってタカネちゃんには天使であって欲しいの。もータカネちゃんってばママの癒し! さあ昔のようにママの胸の中にカムヒア!!」
 なるほど。
 母はタカネの母である前に、アルテモンドの女王なのだろう。胸の内に途方もないほどの難題を抱え、それでも誰に相談できるわけでもなく、全て母の名において人の生死を決めるような決定を腹に抱えるのだろう。ネジを飛ばすような余裕もなく、頭にお花を植えるような余裕もなく、100年後のために明日死んでくれと非情に言わなければならない母は、やはり途方もなく強いのだろう。
 タカネはそんな女王に胸中で途方もない尊敬と畏怖を抱きつつ、いつまでたっても胸の中にカムヒアしない娘に業を煮やして特攻を掛けた母の下あごに向かい、それはそれは綺麗な掌底を叩き込んだのだった。



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