声 (57)

「―――というのが、姫様の本日のスケジュールです。宮中は生誕祭の準備で少々騒々しいですが、姫様のお部屋前で粗相のないように十分に申しつけておきますので」
 ややこしい話ではあるが、アルテモンド王宮に努める侍女たちには2種類のランクがある。
一つは侍女長を最上位とした侍女全体のランクであり、これは完全なカースト制を敷いている。
もうひとつが仕える人物ごとに発生したランク付けであり、例えばタカネの世話をする侍女集団のバラモンは侍女カーストから見るとクシャトリヤくらいに位置する。
 ややこしいのは親集団に完全なヒエラルキーがあるくせに仕える人物によって子集団のなかのヒエラルキーには柔軟性があるところで、例えば親集団でシュードラレベル―――要するに赴任間もない人材―――の侍女は王族に話をするなどまずやってはいけない事であるが、これが子集団になるとやや様相が変わってくる。
子集団の中でももちろんキープメイドレベルが王族に話しかけるのは好ましくないという風潮もあるにはあるが、仕えている主人から話しかけられるのであればもちろんこの限りではない。
 そして、タカネに向かって今日の予定を伝えてきたのは若頭レベルの侍女だった。
言い方に圧がないのは恐らく彼女がタカネに好感を持っていることの裏返しであり、メイド仲間に伝える「姫様の部屋の前では粗相をしないように」と言うのは「うるさくなったらごめんね」という言い回しが多分に含まれていた。
 要するに、今の宮中はそれほど忙しいのだ。生誕祭を後数日に控え、会場である音楽堂は教会関係者以外の立ち入りが禁止され、主だった会議用のスペースは一つの例外もなく生誕祭前日のパーティに備えて上へ下への大騒ぎである。
タカネの予定を毎日小言のように言い続けていた侍女長が出て来なかったのは恐らく彼女もまた会場設営に引っ張り出されたからだろう。
 しかし残念なことに、伝える人が誰になろうと、伝えられる内容は判を押したように同じ内容だった。
「…出るな、覗くな、手を出すな。そういう事ですね?」
「姫様が監督不行き届きの罪状で哀れなメイドを雪降る路上に放り出したいなら会場においで下さい。私は姫様を信じてますよ」
 そう言われてはぐうの音も出ない。
オスピナ先生はこの事態に備えて部屋でもできる簡単な発声トレーニングを見つくろってくれてはいたが、ピアノもなくピッチパイプもない部屋の中で出来ることなど発声量を落とさないための声量トレーニングくらいだ。
イメージトレーニングも重要なトレーニングの一つではあったが、昨日も一昨日も缶詰で今日も缶詰が確定したという沈んだメンタルではそれも芳しい結果を上げるとは思えなかった。
 エイフラムもここ数日は顔を出してこない。相談したい事もあるのに。
 生誕祭当日、軍人たちは東の襲撃を警戒してごく一部を除いたほとんどが山岳警備に回る。これはもちろん軍人たちは生誕祭当日の献上歌を聞けないことを意味しており、そのため献上歌の担当は例年生誕祭の3日程度前に軍施設に慰問に赴くのが習わしだ。
軍人にとってみれば当日聞けない献上歌を先に聞けるという特権であり、献上歌担当にしてみれば体のいいリハーサルである。
が、もちろん現状の軍部に疎いタカネはどこで慰問をしていいか全く知らない。エイフラムがいればどこに慰問に行ったらいいかを相談したいところだが、あの糞真面目は珍しい事にここ2、3日全く顔を見せない。一体どこに行ったのやら。
「暇を見つけて遊びに来ます。お菓子も持ってきますよ。何がいいですか?」
「…そうですね、もしあれば、ですが、バートナー製菓店のケーキがあればそれを。今年も納入したのですか?」
「あ、さすが姫様お目が高い。でも残念ながら生ものの搬入は前日からです。クッキーくらいならもう届きだしてますから、もしあるようだったら何袋か貰ってきます。だから姫様、今日はお部屋でおくつろぎくださいましね」
 若頭侍女はそう言って、まるで長年の埃がたまった部屋の掃除をするかのごとき決意とやる気に満ちた表情で退室して行った。



 もちろん、そんな顔をされて黙っていられるはずがなかった。
 真面目に練習をしたのは最初の30分くらいで、一日の48分の1を発声して過ごしたあたりで飽きが来た。
昨日も一昨日も部屋で歌しか歌っていないことでフラストレーションが溜っていたのかもしれない。タカネは頭の中で出るな覗くなの禁にストレス発散のためという言い訳を当てがい、発見されたら強制送還間違いなしのサラエボ難民のような手つきで密やかに扉を開けた。
 廊下には誰もいないようだった。

 後で考えれば、これは明らかに不審であった。生誕祭では来賓のもてなしのために宮中が一部解放される。侍女長が取られたのはまさしくこの準備のためで、しかしいかな生誕祭とは言え、もちろん宮中には一般公開対象外の場所も存在する。
それは例えば祖父王のいる病室であったり父母の部屋だったりするわけで、もちろん一般公開対象外の場所にはタカネの部屋も含まれる。そのため、いつもバタバタと走りまわっている侍女たちがこの場にいないのは会場設営の準備に回っているからだという理屈が立つが、一方で会場設営に関係のない人物は通常通りこの廊下を歩いていてもおかしくないはずである。
例えばエイフラムが所属する国軍第3廟の軍人などだ。まして日頃は学校の行き帰りに護衛をつけるほどの念の入れようである。警備対象者が一所にとどまるなどという襲撃者にとっては格好のタイミングに警備警戒をしないほど第3廟の連中はボンクラではなかったはずなのだ。

 が、もちろん、缶詰3日目を迎えたタカネはそれを不審と思うどころかラッキーと捉えた。
連中に見つかれば部屋に強制送還である。人目は少なければ少ないほど望ましい。誰もいないくせに音をたてないように後ろ手に扉を閉め、頭の中に10年暮らした家の地図を思い描く。
来賓会場になり得そうな大きさの部屋をざっくばらんに脳味噌の中でリストにし、発見される可能性が低いルートをシミュレーションする。父が話してくれたエイガの中に敵陣単独潜入なる話があったが、その主人公はまさにこういう心境なのではないだろうか。
ここから最も近い来賓会場候補は廊下を3度ほど曲がった先にある小会議場のはずだ。タカネは息を潜めつつ意気揚々と足音を殺し、矛盾に矛盾を重ねた形容詞がぴったり当てはまる足取りで最初の角までの距離を詰める。ここまでは人影がなかったが、しかし角を一つ曲がったところに人影がないとは限らない。息を殺し足音を殺し気配すらも殺してタカネは一歩を踏み出す、それ抜き足差し脚
 角を曲がったところに、人を見た。
 ほぼ同時に、二人揃って声を上げた。タカネにしてみればまさか角をたった一つ曲がっただけで誰かがいるなどとは思いもしていなかったし、向こうも相当に驚いたような顔でこちらを見ていた。
すわ警備の軍人かと思えばさにあらず、着ているのはどうやらスーツのようだ。白いスーツにネクタイの若い男はファーストインプレッションの時の驚いた表情をすぐに緩め、次に浮かべたのは「ああようやく人に会えた」という表情だった。
「あー、ようやくだ。すまない、少し道を聞きたいんだが…あー大丈夫大丈夫怖くない怖くないだから逃げないでくれ」
 会った事のない顔だった。男は大股歩きのような歩速でこちらに歩み寄り、腰を曲げて顔の前で手刀を切ってみせる。
コイツ日本人かと思う。父は良く何かにつけてこれと同じポーズをしていた。
「…日本の方、ですか?」
「ああ、日本の方。いや助かった、迷っててな。誰かに道聞こうと思っても周り誰もいないしな」
 そりゃそうだ、と思った。この辺りの区画は一般開放予定ではない。
不法侵入もいいところの男にタカネは露骨に不審な視線を投げて、視線の陰でエイフラムの事を思った。エイフラムは一体どこで何をしているのだろうか。
「…この付近は生誕祭でも解放区画ではありません。迷ったのでしたらあちらの角を曲がってまっすぐに進めば一番近い来賓会場に着くはずです」
 正確には一番迷わずに済む来賓会場がそこにある。母がわざわざ娘の部屋にまで押し掛けて散々愚痴と講釈を垂れた原因となった御前会議の会場だ。
が、男はタカネのその言葉に何かを感じ取ったのか、
「君はあれか、この屋敷の者か?」
 何と答えたものか。この不審者が東の関係者という事はまさかないとは思うが、見ず知らずの男に「アルテモンドの第1王女です」と答えたところで何かメリットがある気はしない。
かといって答えに窮して男から不審な目で見られるのも気が引けた。会場からはきっとそれほど遠くもないのだろうし、何かあれば大声を上げるくらいはできるはずだと思う。
「はい」
 それ以上何も話さないタカネにふぅんと相槌を打ち、男はぐるりと周囲を見回した。相変わらず二人以外には誰の影もない廊下を視界に収め、男は笑ったような笑っていないような表情を浮かべ、
「すまないが、会場まで案内してくれないか? 俺一人だとまた迷うだろうし、君もどうせ暇なんだろう?」
 迷うもなにも今まさに迷わない道順を教えたばかりではないか。タカネは思い切り不審な目つきで男を眺める。
顔つきからするに恐らく歳は父と同じかそれより少し下、身なりには気を使う方なのかパリッとしたスーツとスラックス、垢ぬけすぎていて逆にあか抜けないという矛盾をはらんだ白いスーツはどこか胡散臭く、スーツにあつらえたような白い靴にはなぜか水染み一つない。
これは非常に珍しいことだ。今の時期のアルテモンドはどこに行っても雪が積もっているはずで、白い靴ならばそれこそ歩けば染みの一つも目立つはずなのにそれがない。
考えられる理由は二つ、一つは宮中に入ってから靴をはき替えたこと。もう一つは男が車両を使って街中を移動してきたこと。
考えたのは前者だが余り確率は高くないだろうと思う。男は手ぶらだし、アルテモンドには父の言うところの日本式玄関は存在しないため靴を履き替えるという行為に適した場所がない。今の時期を考えれば後者の方がよほど可能性が高い―――目の前の男が(疑わしいが)日本からの来賓であり、来賓である以上送迎の車両くらいは準備してあって、男はそれを使って宮中に入ってきた。警備の軍人がついていないのは妙だが、単なる闖入者と言うよりはそれなりの場所から招かれた客人と考えた方が妥当であろう。
「暇、とは言えませんが。分かりました、ご案内しますのでどうぞこちらへ」
「いや、すまんな。まさかアルテモンドのプリンセスに道案内を頼めるとは思わなかった」



「…どこかでお会いしたことが?」
「いやない。が、君のお父上から君の事は聞いていたからね。母譲りの銀の髪と紫の瞳、非解放区と物怖じしないで言う聡明な態度。それに何よりも、その全身からにじみ出る覇者の風格。これはまさに生誕祭で献上歌を歌う姫君に違いない。だろう?」

 これが、黒井崇男と四条貴音の初めての出会いであった。
 この時の貴音の黒井に対する率直な感想は、『食えない男』であった。

 黒井崇男と名乗ったその男は父の友人なのだという。
流石に小国の小さな王宮と言ったところで廊下の道のりはそれほど短いわけではなく、その道中を黒井はひたすらに話し続けた。
父の来賓に失礼をしてはならないという頭があった最初こそタカネも相槌をうってはいたが、やがて面倒になったタカネも最後の方には「ええ」とか「はい」とか「そうですね」と言う鸚鵡のような返事しかしていない。
黒井がいつか日本でゲイノウ会社なるものを立ち上げるという話には興味をそそられたが、献上歌の出来次第では日本でしーでぃーデビューをしてみないかという話あたりで一気に訳が分からなくなった。しーでぃーとは何者か。
「しかし長い廊下だな。プリンセスはあれか? 毎日ここを歩いて食事したり学校行ったりしてるのか?」
 おまけに黒井はこちらをプリンセスと呼んで一向に改善する兆しがない。むやみやたらに横文字を使いたがる黒井は廊下の調度品にいちいち驚いたり窓の外の景色にいちいち歓声を上げたりこちらの気のない相槌にいちいち過剰に反応したりとやかましい事この上なかった。
この辺りでタカネの黒井に対する印象が『食えない男』から『うるさい男』にシフトする。
「そうですね」
「ふぅん。まああれだな。四条の奴は実家もでかかったしな。アイツの住む家はいつも馬鹿でかいな、大学行ってた頃は6畳一間が自分の屋敷だったくせに」
 四条、というのは父の日本でのファミリーネームだという。アルテモンド王家には神系に連なるという理由でファミリーネームは存在しない。まだ父が『四条』だったころの話には少々気をひかれた。
「父とはいつごろお知り合いに?」
「大学の頃さ。大学については?」
「養育院…ガッコウの、さらに高等な教育を受ける場所だと」
「誰から聞いたそんな話」
「父からです」
 すると黒井は実に不気味な笑みを浮かべ、
「は。プリンセスいい事を教えてやる。君の親父は高木と一緒に映画作りにのめりこんでな、大学の講義時間中は必ずと言っていいほど部室にいたぞ。奴にとって大学なんて勉強するところではなくて映画を作るところだったんだ。それは間違いない。俺が奴にノートを貸したから奴は大学を卒業できたんだ。さあ父の恩人を敬いたまえわはは」
 この辺りでタカネの黒井に対する印象に『めんどくさい男』が加わる。
「父は不真面目な学生だったのですか?」
「ノート屋というのがいてな、講義の内容をメモして清書して売りさばく仕事なんだが―――」
 黒井はそこで唐突に立ち止まり、何事かと振り返ったタカネに向けて実ににんまりとした笑みを浮かべた。
何かといぶかしんだ目をしたタカネに黒井は笑いながら、
「時にプリンセス。外の世界に興味はあるか?」
 いきなり何を。タカネのその思考は如実に顔に現れたらしく、黒井はその不気味な笑みをさらに濃くして、
「今度の生誕祭でデビューをするという話は俺も聞いている。日本で芸能会社を立ち上げるという話はしたな?」
「ええ。先ほど伺いました」
 すると黒井は演技派のように両腕を大きく広げた。どうでもいいがやることなす事の動作が常に大きい男だと思う。
「これからの時代は有益な人材が一国にしがみつくような時代ではない。君がその気なら将来うちの事務所からもデビューするがいい。アルテモンドの文化レベルがどの程度なのかは知らないが、君は将来どこか海外に留学する事は考えているか?」
 話がガンガン流れていく。今度のデビューと黒井の会社でのデビューというのは別物なのだろうか。それが海外への留学とどう関わってくるのだろうか。
「もし日本に留学するのであればプリンセス、君の面倒は俺がみる。在学中のデビューなんかどうだ、なかなかお洒落だろう? アルテモンドも今はインフラがそれほど整っているようには見えないが何、もう5年もすれば多少なりそのあたりは改善されるだろう。プリンセスの歌をCD化する事が出来ればアルテモンド国民も毎日プリンセスの声をステレオから聞けるようになる。どうだ、いい話だろう」
 ステレオは何者か。
「そうするとますます事業化を急がなければな。スタッフはグループ会社から引き抜くとして問題は資本の質か。ふむ悩ましいな。プリンセス、君はどう思う?」
「いいと思います」
「そうかそうだろう。となると資本をどこからかき集めるかだな。高木のように田舎者を一から引っ張り上げるのは少々コスト高が過ぎる、短期の収益性を踏まえるなら―――」
 もちろん、タカネは黒井の話がいいとも悪いとも思っていない。が、どうやら黒井は来るべき自分のゲイノウ会社立ち上げのための青写真を脳裏に思い描いているようだった。
この辺で黒井に対する印象に『気持ち悪い男』が加わり、そして黒井がぶつぶつと呟く中にタカネは聞いたことのある名前を見つけた。
「…高木?」
「ああ高木だ。奴め全く進歩と言う物を知らん。俺は奴とは違うぞ、奴のように悠長な営業など端から眼中にない。そのために方々を回ってモノになる人材に目を付けてだな、奴の甘いやり方に天誅を」
「その、モノになる人材に、私がなる、と?」
 ようやく最初に戻ってきた会話に黒井はにやりと笑う。
「可能性がある、という話だ。四条から君の歌のうまさについては散々聞かされている。親バカフィルターでも掛かっているのかと思っていたが、なるほど確かに先ほどの発声練習は見事だった。このまま磨けば彼女に匹敵するかもしれん」
 一体いつから黒井は立ち入り禁止区域をうろうろしていたのだろうか。考えたくないが第3廟の連中は今一体どこで何をしているのだろう。
タカネの難しい顔を黒井はどう捉えたのか、とりあえず回答を先送りするような事を言った。
「しかし何、まだ先の話ではある。俺もプリンセスのデビューには参列する予定だ。その時の歌の良し悪しで将来の選択肢が増える程度の認識で今はいい。生誕祭の献上歌は俺も楽しみにしている、一つ良い歌を頼む」
「はあ」
 要は遠回しの励ましなのだろうか。タカネは黒井の話に曖昧に頷き、黒井は黒井でぶつぶつと来るべき会社立ち上げに向けた夢想を続けている。
この変質者と父の交際のきっかけをもう少し聞いてみたい気がしたが、それはそれで何か今後に不愉快な結果しかもたらさない気もした。
 不愉快な結果、
「…黒井殿」
「何かなプリンセス」
「ひとつお伺いしても?」
 ここまでの道のりで来賓会場までは後半分と言ったところだ。タカネはわざと歩みを緩め、黒井と並ぶような位置に立つ。
「何かな。立ち上げる会社の規模の話か? 高木が悔しがってハンカチを噛みしめるようなところからスタートする予定だが」
「会社を立ち上げるという事は、黒井殿がその会社の責任者になる、という事ですか?」
 この問いに、黒井は突然何を言い出すのかとも何を当たり前の事をともとれる顔をした。
「予定ではそうだ。立ち上げる会社が株式会社様式であれば、俺が代表に就任する」
「では、黒井殿の決定で路頭に迷う者も出る、という事ですね?」

 幼いころの貴音が尋ねたこの問いは、父や母から聞いた答えの確認でもあった。
そこには少なからず自分の面倒をみると言いきった男の考えを知りたいという思いもあったし、曲がりなりにも父の友人と名乗った男の本心が知りたかったという思いもある。
その時のタカネ自身にとってこの問題は解決済みではあったが、タカネが悩んだ問題に対してこの男がどんな回答をよこすのかが知りたかったのかもしれない。
 要はこの時、タカネは黒井を試そうとしたのだ。

 そして、黒井は何に臆することもなくタカネの問いに答えた。
「そうなる」
 その答えには何の逡巡も戸惑いもなかった。
父も母も悩んだ末に答えてくれた問題に対して、黒井は何を当然の事をと言わんばかりの顔をしている。
これにはタカネも少々面食らった。人の生き死にとは言わずとも明日の飯の種の話のはずなのに、黒井はタカネの問いに全く動じる様子を見せない。やはり人の上に立つ者と言うのは頭のネジが少々飛んでしまっているのだろうか。
「そのために路頭に迷った人が明日をも知れない生活に陥っても?」
「無論だ。使えなければ切る。それ以外にはない」
 今度こそタカネは絶句した。
黒井は考えないのだろうか。切られる側にも生活があるはずで、生活とはとどのつまり飯のタネと寝る場所があるという事で、そのどちらも黒井が握るという事は即ち黒井が間接的にではあるが生殺与奪の権を握るという事で、そこに恐怖は感じないのだろうか。
「黒井殿の判断で、もしその人が不幸な目に遭ったら? 黒井殿はそれをどうお考えになるのですか?」
 黒井はこのタカネの問いにふんと鼻息を一発、
「俺の考えか。だからどうした、だろうな。使えない者には使えないなりの理由がある。猶予を与えて直るのならまだいいが、そうでない者はどうしようもない。俺の会社にはそんな資本はいらない。いいかプリンセス、」
 黒井は教え諭すというには少々恫喝的な言葉を使った。
「みんな仲良くお手手つないでせーのではい、などとは幻想だ。甘ったるいクリームの上に乗っている夢物語のようなものだ。ヘドが出る。使える者は前に出て使えない者は後ろに下がる。後ろに下がったもののケツをけり飛ばすのは上長の仕事ではあるが、それにも限度というものはある。足手纏いを抱えたまま前に進めるほど世の中は良くできていない」
 違う。
 タカネは思った。これは違う。これは父や母が言った『切る』という行為とは全く毛色の異なる発想だ。
父や母はあくまでも大多数の幸福のために止むを得ず小数を切るという、文字通り胃の引っくり返るような決断からその発想をしていた。
黒井の発想は文字通り「邪魔だから置いていく」だ。結論が同じでも、黒井のその言葉には何か強迫観念めいたものがあった。

 そう、前に進まなければ、何も手に入らないとでも言いたそうな、

「世の中にはな、プリンセス。許容できる落ちこぼれと許容できない落ちこぼれとがある。許容できない者は置いていく。特定の技能においての集団が発生すれば、そこには必ず優劣の差がつく。必ずだ。許容できない者を抱え込めるような趣味の集団ならそれもいいだろうが、俺が作るのは利益を追求する集団だ。必ず発生する落ちこぼれがどうなろうと知った事ではないし、それはそいつの能力によるものだ。俺は恨まれるかもしれんが、それはお門違いだろうよ」
 その時、タカネは自分がどんな顔をしているのか全く分からなかった。
黒井の言っている事はある種の事実であろうと思う。勉強のできる奴と出来ない奴、足の速い奴と遅い奴、絵のうまい奴と下手な奴、サッカーの上手い奴と下手な奴。
そこには必ず優劣がある。出来る奴と出来ない奴がいる。そこには程度の差こそあれ必ず優秀な奴と落ちこぼれがいる。選ばれる者と選ばれない者がいる。
考えてもみろ、自分はエレンに宿題を見せてくれと言われた時、快く見せてあげたのか。
 それは絶望的なまでの、真実ではあった。
「…だがな、だからこそ、なんだ」
 そして黒井は、タカネの表情が仏像のように凝り固まった後で、呟くようにそう言った。
「どんな落ちこぼれでも生きてはいる。何も俺もそいつから人生の全てを奪い取ろうというわけではない。どんな奴にも楽しみがあり、娯楽があり、―――」
 そこで、黒井は窓の外に広がる一面の白い雪を見た。タカネもつられて外を見る。
僅かに差した日光は雪で反射して白く輝き、黒井はそこで「くそ」と呟いた。
「認めがたいが、高木の言う事も一応は理があったか」
「…?」
「―――それが歌だ。どんな奴でも一度は聞き、一度は口ずさみ、一度は鳥肌を立たせる。どんな奴でも、選ばれなかった奴でも、全身全霊で歌を聴くときだけは全てを忘れられる。いいか歌うプリンセス、これだけは覚えておいてくれ」

 そして黒井は、窓の外に広がる白も、空に広がる白も、何もかもを見ずに、ただ両目を薄く開き、ここではないどこか遠くを見て、何かを思い出しながらこう言った。

「歌は人を救える。どんな奴でもだ。プリンセス、君はそれを歌え。―――俺に、」

 その時、タカネの中の黒井の印象が『気持ち悪い男』から『よく分からない男』にシフトした。

「俺に、それを見せてくれ」

 明らかな矛盾ではあった。
弱者は滅ぶべしと言いながら、黒井は弱者を救う歌を歌えと言っている。それは明らかに背反の関係のはずだ。黒井自身もそれが分かっているのか、何とも言えない微妙な顔をしていた。
理解したような、納得したような、何かを認めたような、理解したくないような、納得しかねるような、認めたくないと言っているような顔だった。
その表情はまさしく言葉通りの矛盾を内包しており、タカネはふと、黒井崇男という男の本性はこの『わけのわからない矛盾』なのかもしれないと思う。

「…難しい話だったな。まああれだ、生誕祭の日は頑張ってくれ。さっきも言ったが、俺にも生誕祭当日は音楽堂に席がある。四条の娘がどんな歌を歌うのか聞かせてもらうよ」
 黒井は呟くようにそう言い、驚いたタカネが見たときは既に最初の頃の笑ったような笑っていないような顔をしていた。
なんだか良く分からない話だったし言いようのない感想も抱いたが、やはり今の話は黒井流の励ましなのだろうと思う。
「分かりました。ご期待に添えるかは分かりませんが、全力で努めを果たします」
「そうしてくれ。…と、あれは国軍の軍人か?」
 声に前を見ると、見知った糞真面目が小走りに駆け寄ってくるところだった。
話しこんでいるうちに会場設営の喧騒が耳に入る距離まで来ていたようで、曲がり角の向こうからは何やらどたばたとした音が聞こえてくる。軍人は生真面目を若干ゆがめたような顔をしており、それは窓の外から差し込む光で明らかに白色迷彩とは異なる服を着た見知らぬ誰かを警戒しているようでもあった。
 エイフラムだった。
「申し訳ありません姫様、所用にて外しておりました」
 まずは主に向かって一礼すると、エイフラムはすぐにタカネと黒井それぞれの斜め前という絶妙のポジションに位置どった。
黒井が何かをし出した場合にエイフラムの立ち位置ならタカネをかばうも黒井を突き飛ばすも容易であるからであり、そして黒井はエイフラムのその位置取りだけで感心したような声を漏らした。
「なるほど、良く訓練している。アルテモンドの軍人というのはみんなこうなのか?」
「…姫様、こちらの方は?」
 良く分からない人生訓まで語られたが、とどのつまり今の黒井はエイフラムにとって不審人物以外の何物でもない。
エイフラムの視線は厳しいの一言に尽き、黒井は黒井で「おお怖い」と肩をすくめる。
「父の友人だそうです。黒井殿と」
「黒井殿…、貴方が、黒井殿と? 失礼ですが身分証はお持ちですか?」
 タカネの発言を持ってしてなお黒井の身分を疑うエイフラムに黒井は再び肩をすくめ、
「いや、姫様と有意義な会話をしていただけだ。すまないが身分証は携帯していない、俺の身柄証書についてはウィサップ特務軍曹殿に問い合わせてくれ。俺の名前を出してくれれば通じる」

 ウィサップ?
 タカネは首をひねる。ウィサップ特務軍曹といえばエイフラムと一緒に養育院の廊下でエイフラムと一緒に立っていた罰ゲームの片割れだ。
第3廟の任務は要人警護だから要人の入出国や行動予定の把握などは出来ているのだろうが、それにしてもウィサップはエイフラムと一緒に罰ゲームを受ける間柄である。
階層的にもそれほど高いくらいの人物ではなかったはずだが―――

 が、エイフラムはその一言で黒井のポジションについて了解したらしかった。
失礼いたしました、とエイフラムは身をずらし、黒井は悠然と喧噪に向けて歩み始める。
「ではな、プリンセス。良い歌を期待している」
 黒井はそう言うと、肩越しに手を振った。もう振り返りもしない。何が何だか分からないタカネと警戒心をあらわにしたエイフラムを置いて、黒井の背中は喧噪めがけて奥の角を曲がって行った。

「何者なのです、あの方は」
 黒井の背中が完全に見えなくなってから、タカネは小声でエイフラムに問いかける。エイフラムは黙って首を振り、
「…姫様、あれほど申し上げたはずです。護衛もなく外に出歩いてはいけません、と」
「質問に答えなさい、エイフラム。ウィサップ特務軍曹が彼の身元保証人になっているのですか?」
「…」
「エイフラム」
 若干強い口調でタカネが問い詰めると、エイフラムは僅かに目を細めた。
「彼が本当にクロイタカオ殿であれば、彼の身柄の説明には軍規上の制約事項があります。―――姫様に害はありません」
 知っているが説明しない、という事を言っているのだと理解する事に、数瞬の時間を要した。要は害はないから放っておけと言っているのだ。
パーティ会場の設営に本来の役職を全うしない護衛官ども、良く分からない男に守秘義務を盾に何も話そうとしないお付きの軍人。
なんだか自分だけが蚊帳の外に置いて行かれたような気分だった。
「私にも説明できない、と?」
「恐れながら」
 ちょっと怒った。
「姫様、どちらへ?」
「自室に戻ります。護衛の一人も付けずに表に出るのは危険ですから」
 タカネにしては珍しい行動だった。
皮肉たっぷりにエイフラムにそう言い置くとタカネはさっさと黒井と逆方向に歩きだす。背後でエイフラムが慌てたような足音、いい気味だとちょっとだけ思ったが気分は一向に晴れない。
 晴れない気分を追い散らすように、タカネは追撃のような皮肉を放った。
「ああでも、自室に戻っても同じなのかもしれませんね? 頼りになる第3廟の軍人の皆様は皆様揃ってどこかにお出かけの様ですし、私が表に出て黒井殿に会うまで実質、私には護衛官など居なかったのですから」

 言ってはならない一言、であった。

 次の瞬間、エイフラムしかいないはずの背後から、強烈なまでの圧力を感じた。
背後を振り返る、エイフラムが一人で棒立ちしている。怒っているわけではないのだと思う。
エイフラムはいつもの仏頂面を顔に張り付けている。それが却って不気味だった。まるで仮面を張り付けたような、腹の底に何か別の感情を隠しているかのような、そんな表情だった。
「…姫様」
 そしてその声には、隠しようのない落胆と、隠しようのない失望と、隠しようのない怒りが混じっていた。
エイフラムのこんな声を聞くのは初めてのことだった。
「生誕祭前の慰問の件、どちらに行くかお考えですか?」

 生誕祭の当日、軍人はほぼ全員が東への警戒のため山に向かう事になっている。
当然そうなれば軍人は生誕祭の献上歌を聞くことができず、そのためリハーサルを兼ねて軍施設に赴き、献上歌を軍人たちに一足先に披露するのが習わしになっている。

 どこを慰問したらいいかをエイフラムに相談しようと思っていたのだ。

「…いいえ、まだです。何か妙案が?」
「ええ。姫様には是非、慰問していただきたい施設がございます」
 そう言ったエイフラムの表情からは、一切の感情が読み取れなかった。




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